第5話 Active Heart
高校生活最初のゴールデンウィークの前日となれば、緊張する新生活からのしばしの開放に心を緩め、久しぶりの長期休暇を心待ちにしている者も多いだろう。
しかし、先日有村梓と知り合ってしまったばかりの三人、吉本花月、奥多佳美、比与森和は少し落ち着かない気分を抱えていた。
三人は「歌い手になりたいの」という梓に強引に巻き込まれ、彼女に協力することになった。
そして梓の中学時代の友人である野上わこが、巨大動画投稿サイト「ごきげんビデオ」において話題沸騰中のユニット「A Girl in Opera Glasses(通称AgOg)」のボーカルであるリングであることを知った。
そのAgOgの新曲が昨夜、ごきビデで公開されたのだ。注目ユニットの二曲目は一夜にしてネット上の話題をさらっていた。
クラスメイトの中にもごきビデを視聴している者はいるらしく、いくつかのグループで話題になっていた。
梓とわこは歌い手として競い合っているわけではない。
なにより梓はまだ一曲も公開していないのだから、同じ土俵に立ってもいない。
しかし梓が「歌い手になるからね」と宣言した相手がかなり先行しているという事実は、三人に少なからぬ動揺を与えた。
梓が歌い手になる手助けをするだけではなく、目標はそんな高みに置かれているのか、そんなところに辿り着けるのか、という不安である。わこのユニットのメンバーがそれぞれの道で実力を持った有名人であるのに比べると、こちらは高校に入ったばかりの女子高生に過ぎない。曲を作れたり、画を描けたりするだけだ。
そんな素人メンバーを集めて、いつも能天気に見える新しい友人はどこに進もうとしているのか?
そんな不安を持つ三人と異なり、当事者であるはずの梓は単純に友人の二曲目を祝福し、絶賛していた。
凄いね、と褒めちぎっている。
野上わこは梓にとってあくまでも憧れの存在であり、その領域に到達することは目指していないのかもしれない。
三人はそんな想像もするが、確かめられずにいた。
放課後、四人はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。いつもと同じように明るい梓に先導されて学校を出て五分歩くと、梓の従姉である座間聡子が一人で暮らしている家に到着する。
花月はすでに何度か来ていたが、多佳美と和はこの家に来るのも聡子に会うのも始めてである。
多佳美はいつもどおり(とは言っても他の三人が多佳美に会ったのは二日前が初めてだが)悠然と落ち着いているが、和は緊張してそわそわし、少し俯いている。
梓は勝手口の横に着いたドアベルのボタンを押した。
事前にメールで連絡しておいたのだが、いつもどおり反応は無い。むしろ連絡したから反応がないのか?
梓は気にしていない様子で合鍵で鍵を開けて中に入る。家のドアを開けて「こんにちは」と一応声をかけるがやはり反応は無い。
構わず靴を脱いで上がり、どんどんと廊下を進む。突き当たりにある聡子の部屋に着くと、ノックもせずに勢い良くドアを開いた。
「お姉ちゃん!」
部屋の中には予想外の、変わり果てた姿の聡子がいた。
「ええっ―――」
驚いてのけぞった梓は後ろに続いていた花月に激突する。
「うわっ」「ぎゃ」
悲鳴が重なり合う。
「なんなのよ」と部屋の中を覗き込んだ花月も目を丸くする。
「ど、ど、どうしたんですか?」
聡子の髪の毛はキンキラキンに輝いていた。
輝き具合からただ染めたのではなく、しっかりブリーチをしたうえで染めている。ぼさぼさに伸びていた髪は綺麗にカットされてショートボブになっている。
「ニートを止めて不良になったの?」
「金髪で不良って、あんたはいつの時代の女子高生よ!」
聡子は少し照れた表情でつっこんだ。
「でも、男前って感じでかっこいいですよ」
梓と聡子は従姉ではあるが、あまり似ていない。聡子は沖縄出身の父親の顔を受け継いで彫が深い。多少ヤンキーっぽくはあるが良く似合っていた。
「かっこいい……か。ありがとう」
本人もまんざらではない様子で毛先をいじる。
「でもなんで急に金髪にしたの?」
「そもそも髪は切りに行きたかったのよ。いい加減うっとおしかったし」
金髪をぱっと跳ね上げる。
「それに、最近の梓を見ていたら、私も少しは変わらなくちゃ、なにか新しいことをしなくちゃって思ったの。それで金髪にしてみたの」
「そっか」
ニートを続けていた従姉の心変わりは喜ばしいことであるが、心配事もある。
「でも、大学は金髪でも怒られないの?バイトをするにしても限定されそうな気がするけど」
「いやー」
聡子は前向きな言葉から顔を逸らし、気まずそうに、しかしあっさりと答えた。
「……ニートを止める気はないから」
「はぁ?」
何か変わらなくちゃいけないと思い、変わったことはニートを止めることではなく、髪型を変えるだけだとは!
これまでの経緯をあまり知らない多佳美と和も一緒に、全員でつっこんだ。
「私のことより、二人を紹介してよ」
さすがにこの話題を続けるのは気が引けるのか、聡子は梓を促した。
「う、うん……。動画を担当してくれることになった奥多佳美ちゃん。たっかみーって呼んで」
「宜しくお願いします」
「よろしくね」
「画を描いてくれる比与森和ちゃん。委員長って呼んでね」
「よ、宜しくお願いします」
「委員長なの?」
「委員長じゃないけど、そう呼ぶんだってたっかみーが決めたの」
「名前で呼んでもらった方が……」
「委員長です」
言いかけた和の言葉を、多香美が強い口調で打ち消す。
「委員長でお願いします」
「分かった」
女子高生達のいざこざに係わる気のない聡子は力が強そうな方に従う。
自己紹介をしている間にも、花月は散らかった部屋の片付けをテキパキと始めている。
「それで、こっちが世に出すのが恥ずかしいニートで従姉の座間聡子お姉ちゃんです」
「恥ずかしくなんか無い!」
「えーでも。お母さんはいつも親戚にニートがいるなんて恥ずかしいって言ってるよ」
「叔母さんの基準で言わないで!」
聡子は悲痛な声を上げた。
*
「みんなAgOgの動画はもう観たんでしょう?凄いよ、もう五十万ページビューを超えている。やっぱりその道の有名人が集まっているだけあって、一つ一つの完成度が高いよね。特に今回は……」
皆が落ち着いたところで聡子はパソコンの画面を見せながら興奮気味に説明を始めたが、梓がそれを遮った。
「今はわこちゃんのことはいいの」
いつものように笑顔で、でも少しだけ真面目な表情を見せる。
「私達は集まったばかりなの。だから、私達は私達のことをやらなくちゃいけないんだよ」
梓の言葉に、心の中に不安を隠し持っていた三人はほっと息をつく。
「ゴールデンウィーク中には形にしたいよね」と花月が続く。
「まずはあなたが頑張らなくてはいけないのよ。曲ができないと、私達は動けないんだから」
「分かってる。ゴールデンウィーク中に絶対に一曲完成させる!」
多佳美の指摘に花月は拳を作って決意を見せる。
「おー」
景気付けに梓と花月は拳を突き上げた。
「未完成でも良いから、出来たところから送ってくれると助かるわ。動画も考え始めるから」
多佳美もヤル気が出てきたのか注文を出す。
「ある程度イメージが固まったから画もお願いするわ。どんどん平行して作業を進めましょう」
「あのー、画を描くのは良いんだけど、私からも一つお願いが……」
和がオズオズと手を上げる。
曲作りの勢いを殺がれた気分になった他のメンバーの視線を一身に受けて一瞬怯んだが、和は視線を泳がせながらも続けた。
「ゴールデンウィークの終わりに市民ホールで同人誌即売会があるんだけど、一緒に出る予定だった人が出られなくなってしまって……。それで、あの、できれば誰か一緒に行ってもらえると嬉しいんだけど」
「同人誌ってなに?」
オタクの世界に疎い梓が質問する。
「アニメや漫画の本を自分達で作るのよ」
花月がざっくりとした説明をした後にそれでは説明不足かと頭を捻るが、説明を追加する前に梓は自分で了解した。
「分かった!コミケだ!テレビで観たことあるよ。コミケで売る本のことだよね。委員長凄い、コミケに出るんだ!」
勝手に尊敬して目を輝かせる。
「あの、正式にはコミケって言うのは夏と冬に東京でやる大きな即売会のことで、私が出るのは市民ホールでやるサークル数も五百ぐらいの小さなイベントなの」
大きな勘違いをされた和はあたふたと説明する。
「分かった。その日なら空いているから一緒に行くよ!」
和の説明をどこまで理解したのかは分からないが、梓は快く承知した。
「ゴメン、私は曲作りに専念したいからパスする」
花月は顔の前で両手を合わせて謝る。
「同じく私も」多佳美は謝る仕草を見せたりはしない。
「まさか私には期待してないわよね?」と聡子。
「それって二人でも大丈夫なの?よし、それじゃ曲作りは二人に任せて、私達は同人誌を売って売って売りまくろう」
梓は和の手を握って意気込みを見せる。
「あ、あの、そんなに頑張るほど売れないから……」
「何言ってるの!これは前哨戦だよ!私達の行く末を占う試金石だよ!同人誌が売れない、イコール私達の未来は無いぐらいに考えて!」
「そんなに煽らないで~~~」
勝手に盛り上がる梓に、和は涙目で懇願した。
*
同人誌即売会の日は良く晴れていた。
梓と和は待ち合わせてバスに乗り、市民ホールへ向かった。最初は空いていた車内が市民ホールに近づくに連れて大きな荷物を持った人や、携帯ゲーム機を持つ人でいっぱいになってきた。
そして彼等と一緒に市民ホール前でバスを降りると、そこにはすでに長い行列ができていた。
市民ホールは文化財にも指定されている赤レンガの華奢な建物だ。建物に沿って続く並木道は普段なら素敵な散歩道なのだろうが、今は熱気を持った一段が列を成しており、少々異様な雰囲気をかもし出している。
二人は大きな荷物を持った人達と一緒に列の横を歩き、入口に向かう。列に並んでいる人達は一般入場者で、サークル参加する者は準備のために先に入場できるのだと和は説明した。
なお、和は周囲の人達と同様にキャリーバッグを引いており、梓も大き目のトートバッグを持たされている。
「それにしてもいっぱい並んでいるね。この人達がみんな、委員長の本を買いに来たの?」
「そんなわけないじゃない。有名サークルの本は早く行かないと売り切れてしまうから、そういう本が目当ての人は、こうやって早くから並ぶの」
「委員長も早くそうならないとね」
「委員長?」
梓の大きな声に、行列の一角が反応した。
「おい、委員長だ」
「本当だ。あれは間違いなく、正しき委員長」
伝言ゲームのようにそれらの言葉はざわざわと広がっていく。
委員長だ。お下げだ、メガネだ。巨乳だ。委員長だ。お下げだ、メガネだ。巨乳だ。委員長だ。お下げだ、メガネだ。巨乳だ。委員長だ。お下げだ、メガネだ。
「なんだかみんなブヒブヒ言い出したよ」
事情を良く知らない梓が素直な感想を持つ。
「良いから、早く入ろう」
和はオタク達の行列を興味深く見ている梓の手を引き、脚を早めた。
趣のある外観の市民ホールの中は、これまた趣のある木造の内装である。そこに漫画やアニメのキャラクターが描かれたポスターがべたべた貼られている様は、なかなかにカオスな様相であった。
建物の二階にある、学校の体育館ぐらいのスペースには長机とパイプ椅子が整列して幾つも並べられている。
同人誌を机に並べたり、のぼりを立てたりしている人達を物珍しく見ながら、梓は和に続いて歩いていく。
「ここだわ。おはようございます、今日は宜しくお願いします」
両隣のサークルの人に挨拶をする和に合せて、梓は頭を下げる。両方とも女性だったので少しほっとした。一部の区画ではほぼ半裸の女の子の画がいっぱい並べられているのを見たからだ。この辺りはさわやかな男の子の画が描かれた本が多い。
長机の上に置かれたパイプ椅子の上にはカラフルなチラシが山積みになっている。
「印刷屋さんの宣伝よ。悪いけどあそこにゴミ箱があるから捨ててきてくれるかな」
「捨てちゃうの?」
こんな色とりどりの綺麗なチラシを読みもせずに捨ててしまうのはもったいない気がしてしまう。
「うん。印刷所は決めているから」
テキパキと準備を始めた和にそれ以上意見をすることはなく、梓はチラシをまとめるとゴミ箱に向かった。
戻ってくると和は長机の上に敷布を敷き、同人誌を並べていた。梓も本を並べるのを手伝い、小さなポップを立てたり値札をつけたりして、設営は完了した。
二人で並んで座る。
小さいけれどお店の店員になった気分がして、梓はワクワクと心を弾ませた。
「すごいね、お店だね」
思わず声に出してしまった梓に、和は柔らかい笑みを向ける。
「それじゃあそろそろ、見せてもらっても良い?」
梓のワクワクが、目の前に並んでいる本に向けられる。準備を優先して、梓はまだ本の中身を見せてもらっていなかったのだ。
和は一瞬顔を引きつらせたが、すぐに観念してそろそろと一冊を差し出した。
「ど、どうぞ」
期待と羨望に満ちた目で、同人誌の表紙が開かれた。
繰り返すが、梓は漫画やアニメにあまり興味が無い。
和の作った同人誌はアニメ化もされている人気漫画「華の影忍」を基にしているが、梓は読んだことも観たこともない。予備知識が全く無いので、当然出てくるキャラクターは知らないし、その人間関係も分からない。
頭の中にクエスチョンマークを浮かべながらページをめくる。
「やっぱり上手だよね」
序盤はそんなことを口に出したりしていたが、やがて黙り始める。顔が徐々に紅く染まっていく。
一度本から目を離し、辺りをキョロキョロと見回してからページをゆっくりとめくる。
そこに広がっていた光景に思わず顔を背け、しかし目の片隅でこわごわと確認する。
次のページは薄く開き、一波乱が終わっていることに安堵して、ふーと大きく息をついた。
後書きも読んで、そっと本を閉じる。
「和ちゃんて、とてもエッチなんだね」
梓の同人誌、……やおい本初体験は終了した。
和はなにも答えなかった。ただ、メガネがきらんと反射した。
*
「せっかくもらったのに申し訳ないんだけど、ママに見つかったら怒られるから返すね」
本を返しながら、梓はあることに気がついた。
ガタンとパイプ椅子を鳴らしながら立ち上がり、周囲を見回す。
隣のサークルも同じように「華の影忍」のキャラクターが表紙を飾っていた。男性キャラクターが二人。
その隣のサークルも、向かいのサークルも同じだった。複数人描かれていることもあるが、基本的には忍者っぽい装束の男性キャラクターが二人描かれている。
「もしかして、ここに並んでいるのは全部こんなエッチな本なの!」
「全部ってわけじゃないけど大半は……」
和は当たり前だという風に答える。
「じゃあ、あの人もこの人もその人も、みんな和ちゃんと同じようにヘンタイなのね。ここはヘンタイだらけなのね、ヘンタイの巣窟ね。私は今、ヘンタイのバーゲンセールに来ています。ここから無事に帰ることができるのでしょうか?ヘンタイが描いた本をヘンタイが買いに来るのです。まさにヘンタイのループ!ヘンタイメビウス!」
「梓ちゃん、声が大きい」
興奮した梓は、意外と強い力でパイプ椅子に座らされた。
「開場です」
場内アナウンスが刻が来たことを告げた。
サークル参加者達が一斉に拍手を始めたことに驚きながらも一緒に拍手をしていた梓は、階下からの地響きに入り口の方に目を向けた。
先頭の一段が突っ込んでくるところであった。会場になだれ込んできた男達は、そして女達は自分の目的の場所へと猛突進していく。
しかし決して走らない。出来るだけの早足で、無言で、真剣かつ無表情に急ぐ。
「走らないでください。走らないでくださーい」運営スタッフの声が地響きの間に響く。
「すごい」
梓はその異様な光景に圧倒され、ごくりと唾を飲み込む。
「マナー違反だから、やっちゃ駄目だよ」
「うん……。あの勢いで女の子に襲い掛かったら、間違いなくレイプだね」
先ほどのヤオイ本の影響が残っているのか、とんでもないことを言う梓をどうしようかと和が頭を悩ませている間に、長机の前にぬっと影が現れる。
「一部下さい」
そう言った男は息せき切って汗をだらだらと流していた。梓が思わず「ぎゃっ」と悲鳴を上げてしまったので、和は立ち上がって謝ることになった。
「ありがとうございました」
和の本は順調に売れていた。
行列が出来るほどではないが、ひっきりなしにお客さんが訪れる。一人で二部、三部と買う人もいた。
「頑張って下さい」とか「応援しています」、「楽しみにしていました」と挨拶をしていく者もいる。女性がほとんどであったが、たまに男性も混じっていた。
中学生ぐらいの子もいたし、立派な社会人風の女性もいた。それらの人達が次々と和の本を手に取り、買っていく。
「すごいね。立派な漫画家の先生だね」
梓は素直に感心する。
「そんな、先生なんてほどじゃないよ」
と謙遜しながらも、和は嬉しそうな表情を見せる。
開場から二時間程が経過して、ようやく人の波が途絶えてきた。
「一段落したから見てきても良いよ」
「良いの?」
うずうずしていた梓はぱっと顔を輝かせる。
「うん。もうそんなにお客さん来ないだろうし一人で大丈夫」
梓はぴょんと立ち上がって軽く敬礼する。
「それでは、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
梓は長机が並べられた島の間を楽しそうに回遊する。
会場は様々な本で満ち溢れていた。
アニメや漫画の同人誌だけではなく、動物や旅行記、鉄道の本もあった。
売っているのは本だけではなく、アクセサリーや小物を売っているサークルもある。普通の店に置いてあるのとは違う、一風変わったデザインのものが多い。
ついつい目移りがしてあちらこちらをふらふらとしてしまう。
羽根を生やしたクジラのペンダントが気になってじっと見ていると、中に座るお姉さんから「手に取って見ていいですよ」と声を掛けられた。
正直に言えば、どこにでもいそうな地味目のお姉さんだ。アーティストとかデザイナーとかそんな類の人には見えない。
「これはお姉さんが作ったんですか?素敵ですね」
「ありがとうございます。でも、粘土で形を作って焼いているだけよ。そういう粘土が売られているの。そんなに難しいものじゃないわ」
難しくはないというものの、自分の作品に対して愛を持っていることは感じ取れた。
その瞬間、梓は気がついた。
ここにいる人達は、皆物を作っている人なのだ!皆創作者なのだ!
思わず目の前にいるお姉さんを凝視してしまう。
「ど、どうしたの?」
お姉さんをどぎまぎさせてしまう。
「ありがとうございました」
手に取っていたペンダントを戻して、足早にその場を立ち去る。
あの人も、この人も、皆作る人なのだ。
ここは作る人がいっぱいいるところなのだ。
そして私も、この人達の仲間になるのだ。
梓はその時になってようやく、自分は曲を作ろうとしているのだと気が付いて、この突き上げてくるなんだか分からない衝動を叫びたくてしかたがなくなった。
溢れださんばかりの想いを抑え込みながら通路を歩くと、少し毛色の違うスペースがあった。
並んでいるのは本ではなくCDケースだ。
「CDも売っているんだ!」
小走りで駆け寄ると「聞いていって下さい」と声をかけられた。
テーブルの上をよく見ると、CDの他にCDプレイヤーとそこに接続されたヘッドホンが置いてある。
「試聴できるんだ!」
そのシステムは衝撃的だった。
自分で音楽を作って、自分でCDを作って、視聴してもらうなんて!本当にCD屋さんではないか!
先ほどまでの昂揚感に変わり、自分はとんでもなく遠い位置に置き去りにされている気分になった。歌い手になるなんて言っているが、実際になっている人はもういっぱいいるのだ。今、目の前にいる人も歌い手なのだ!
ごきビデを見て分かった気になっていたが、こうして目の前で見せつけられると、自分が何も分かっていなかったことに気づかされる。
「はい是非お願いします。ヘッドホンはアルコールで消毒してありますから」
年上のお兄さんが優しく声をかけてくれる。
梓はおずおずとヘッドホンをかけた。
それからは音楽系サークルを巡る旅が始まった。本当に色んな音がそこにはひしめいていて、時間も忘れて試聴を繰り返した。
何曲聴いたか分からない。聴き過ぎて少し脱力したところで、携帯電話が振動していることに気が付いた。
和からだった。履歴を見ると何度もかけてきていた。ちらっと時計を見ると終了時間間際だった。
「ごめんなさい」
電話に出て開口一番謝るが、和は怒っていなかった。
「梓ちゃん大丈夫?帰ってこないからなにかあったのかと思って心配していたの」
「大丈夫。夢中になっちゃった。すぐに戻るから」
振り返って走り出そうとしたところで何かにぶつかって転んでしまった。
「あいたたたた」
ジンジンするお尻をさする。
「二人とも大丈夫?」
上から降ってきた声は聞き覚えのあるものだった。
「花月ちゃん!それにたっかみーまで」
梓の前で同じようにお尻をさすっているのは多佳美で、その後ろには花月が立っていた。
「二人ともどうしたの」
梓はまだ痛みが残るお尻をさすりながら立ち上がる。
「曲ができたから少しでも早く聞いて欲しくって持って来たの。そうしたらたっかみーがいるのを見つけたの」
「たっかみーは何をしていたの?」
会場にいるならなぜ声をかけてこなかったのか?
「動画の素材作りのために梓を隠し撮りしていたのよ」
多佳美は痛みに顔をしかめながら右手に持ったデジカムを見せた。激突の際もデジカムは死守したようだ。
「おかげで良い表情が撮れたわ」
笑う多佳美の顔は痛みの他に疲れも見えた。きっとここに来る前も動画作りを頑張ってくれていたのだろう。
花月の顔も目の下のクマがひどい。童顔に似つかわしくない疲れ切った顔だ。本当の小学生男子ならとっくの昔に寝てしまっていただろう。
花月も多佳美も作っていたのだ。
ここにいる大勢の人達と同じように、自分の作品を作っていたのだ。
そして自分も……
「いよいよだね」
梓は花月の左腕と自分の右腕を組ませ、逆側の腕を多佳美の右腕と組ませてぐいっと二人を引っ張った。
「いよいよ」
二人も両側から梓を引っ張り返す。
「委員長にはもう会った?」
「まだよ」
「じゃあ行こう」
三人はお互いを引っ張り合いながら急いだ。
走らないように。
でも急いで。
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