第2.5話 美章園正知子のグルーミーデイズ#1
私、美章園(びしょうえん)正知子(まちこ)は目立つタイプの人間ではない。
綺麗で、明るくて、頼りになって、誰からも好かれていた、少し歳が離れた姉が亡くなったのは約二年前のことだ。
交通事故だった。
亡くなる一週間前に、姉は一つの鍵をくれた。姉にとってかけがえの無い場所の鍵だと言う。
「正知子が桃陰高校に受かったら行ってみて。きっと気に入ると思うわ」
大好きだった姉はそう笑った。
家から近く、中学校の友達の多くが進んだ高校を受けずにこの高校を選んだのは、その鍵のためだけだった。
親は姉と同じ学校に行きたいのだろうと勘違いしていたけれどもそれは違う。
私は鍵の秘密が知りたかったのだ。
この鍵でひらくことができる扉がどこへ続くのかを知りたかったのだ。
私は姉と違って目立つタイプの人間ではない。
とはいえ友達がいないとか、いじめられているとかいう意味ではない。
それなりに仲が良い友達はいた。
いじめられるほど目立つ存在ではなかった。
目立たないために、消極的にいじめに加担したりもした。
そんな人間にとって、新しい環境の初日はかなり重要だ。
高校生活三年間を平穏無事に過ごすためには、失敗は許されない。
とはいえ影を潜め過ぎ、友達がいない生活を送るのも勘弁だ。
中学時代に仲が良かった友達の多くは別の高校に進学した。見回せば何人か見知った顔もいたが、別のクラスだった。
都合の良いことに入学式がネタを提供してくれた。
校長先生の話によれば、桃陰高校の名の由来は、校門の横に植えられている桃の木によるらしいが、花に詳しくない私は、桜と梅と桃の花の区別がつかなかった。これは話しかけるネタになる。
加えて、なぜか生徒会長の挨拶が口パクだった。体調が悪くて声が出せなかったのか、もしかしてネタなのかは分からないが、分からないということは話のネタになる。
後はどのタイミングでどの子に話しかけるか?
もしくは話の輪に入っていくか?
しかし私の目論見はあっさりと破られた。
相手の様子を窺うとか場の雰囲気を読むとか言う行為を無にする圧倒的な力。
ツインテールの少女は、大きな瞳をくりくりさせながら教室に入るなり「桃の花ってどんなの?」と言い始めた。誰に話しかけるではなく、教室にいる生徒全員に向って訊ねた。
ちょっと痛い娘、と思ってしまった。
しかし「私も分からなかったー」とすぐに同調する者がいれば話は変わってくる。あっという間にツインテールの少女を中心に話の輪ができた。
ファーストインパクトでクラスの中心に収まった少女に出だしからネガティブな印象を持ってしまった私は出遅れてしまった。そして一度出遅れるとどのタイミングで入っていけば良いのか分からなくなってしまい、必死で次のきっかけを待つが、それはなかなか訪れなかった。
やがて諦めて席に戻り、頬杖をついて座りながら盛り上がっている輪を見る。
その中心にいる、私の思惑をものの見事に打ち砕いてくれた少女を妬ましく思う反面、凄いと思うし、羨ましく思う。
なぜ物怖じせずにあんなことが言えるのだろうか?
そしてなんであんなに笑顔を振りまいていられるのだろうか?
私はたまに目つきが悪いといわれる釣り目を隠すように、ショートボブの前髪を指で引っ張った。
自己紹介で、先ほどのツインテールの少女は、弾むような声で有村梓と名乗った。中学校で部活動で演奏していたチューバを続けるのだと意気込みを語っていた。
気圧されたわけではないが、私は名前と出身中学校を告げるにとどまった。
その有村梓が、今、私の前に横たわっている。
姉が言っていた特別な場所は学校の屋上だった。
桃陰高校の校舎は東西に横長い「ロ」の字形をしている。南側の校舎の屋上は生徒も自由に出入りできるようになっているが、そこから北側の校舎の屋上には行けない。
北側の屋上の出口には鍵が掛けられており、外に出ることはできない。
姉がなぜその鍵を持っていたのかは知らない。
母親が保護者説明会に行っている間、時間を潰すために私はその場所へと向った。
屋上へ向かう階段は暗い。周囲に気を配り、誰にも見られていないのを確認しながらゆっくりと階段を上った。
姉が亡くなってから二年。その間、この扉は一度も開かれなかったかもしれない。もしかしたら錆び付いているかもしれない。
私のメランコリックな危惧は簡単に打ち消された。軽い音と共に鍵が開く。もう一度周囲を確認してからゆっくりと扉を開いた。
南側の屋上が開けているのとは異なり、北側の屋上は給水塔やエアコンのダクト、電源系施設が設置されていた。扉から出てすぐの場所は開けているのだが、それらの設備に囲まれているために、ひどく狭く感じられる。
その空間の真ん中で、少女が一人、大の字になって横たわっていた。制服を着ている。見覚えがあるツインテール。
なぜ、有村梓がここにいるのだ?
近づいていくと、有村梓が閉じていた目を開き、少し驚いた顔をする。
「えっと……」
「美章園正美。あなたは有村梓」
先(せん)を取ってやる。
「うん、同じクラスだよね。よろしくね」
ちっとも悔しそうなそぶりを見せないので、逆に負けた気分になる。
「なにをしているの?」
「うんとね……」
有村梓は再び目を閉じた。
「こうやって地面に横たわっていると、止まっているはずなのに動いている気がしない?地球って本当は凄い速さで動いているでしょ。えっと一秒間に……」
「五百メートル」
「そうそう。こうして目を閉じて地面に横たわっていると、自分がそんなスピードで動いている気分にならない?地球と一体になっているって感じがするよ」
ひどく子供じみた考えだと思ったが、ストレートに口に出したりはしない。
「そこは地面じゃなくて、コンクリートよ。しかも校舎の屋上」
「そうだね」
「それに制服が汚れるから横になったりしない」
「やだ」
有村梓は跳ね起きて、慌てて制服をはたき始めた。
「汚して帰ったらママに怒られるよ。ね、大丈夫?」と言いながらも自分でも背中を見ようとするので、ツインテールがブンブンと振られる。
「動かないで」
制してから背中をはたいてあげる。
「これで大丈夫よ」
「ありがとう」
有村梓はそう言うと、ツインテールを結わえていた音符マークのついたゴムを取った。
自由になったセミロングの髪が風に揺れる。
その髪に目を奪われていると、ゴムをぽんと放り投げた。ゴムは緩やかな放物線を描いて、室外機の群れの中に消えていった。
「美章園さん、これから宜しくね」
そう言い残して有村梓は風のように去って行った。
どうしてここにいたのかを聞くことはできなかった。なぜ突然謎の行動を取ったのかも分からなかった。
改めて屋上を見回してみる。狭くて、薄汚れていて、低く響く機械音が耳障りで、全く特別な場所には思えなかった。
出口にまで戻り、もう一度振り返る。やはりつまらない場所だ。
先ほど有村梓が寝ていた場所をじっと見る。
あの場所に横たわれば世界は変わるのだろうか?
そんなはずはない。私はどこにも続かない扉をくぐり、日常に戻った。
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