チヨコ

筒井えふ

チヨコ

「細胞の中で、エネルギー生成をするのは?」

「ミトコンドリア?」


 正解、とチヨコが答えた。素っ気ない。心がちくっとしてメグミが俯くと、チヨコはからかうように笑った。


「ご褒美」


 チヨコが板チョコを一片、メグミに差し出す。

 あ、怒ってなかった。メグミはほっとして、自分の子供っぽい感情を恥じた。受け取って口に放り込んだ瞬間、チョコレートはすぐにとろけた。暑さで大分柔らかくなっていたようだ。ほろ苦い甘さが口中に広がる。

 メグミの隣で参考書を眺めていたチップが「ずるい!」と声を上げた。



 高校3年生の7月頭。模試試験も迫り、メグミたちは塾に缶詰だった。

 メグミとチップは中学時の同級生。チヨコは半年前、入塾の時期が同じで仲良くなった。

「いい大学」に合格し「いい会社」に入りなさい。親や先生に刷り込まれ、講義の合間の休み時間も、参考書が手放せない。空き教室で一つの机を囲み、各々お菓子で糖分補給をしつつ勉強を続けるのが常だ。



 メグミはチヨコの顔を盗み見た。顔にかかった、流れるような黒い髪の隙間から、長い睫毛と、ぼうっとした目が見える。


 メグミはどきり、とした。

 チヨコは、綺麗だ。整った目鼻立ちだけじゃなくて、こうやって時々儚げな表情をするからだろう。普段はっきり物をいい、堂々と振る舞う彼女とは、別人のようだ。

 まるでさっきのチョコレートみたい。メグミは思った。今にも溶けそうな危うい存在。メグミは見惚れてため息をついた。


「疲れた?」


 チップがメグミの顔を覗き込む。日焼けした顔。チップは先月部活を引退したばかりだ。椅子の上で体育座りをして、ポテトチップスをつまんでいる。


「気楽にやろうよ」


 チヨコが板チョコの端をかじった。


「受験とか、ゲームみたいなもんだからさ」


 ゲーム? メグミは首を傾げた。チヨコの言うことは、抽象的で、時々わからないことがある。

 ゲームどころか、人生の重大イベントのような、気が、するのだけれど。メグミが曖昧に笑って返すと、チヨコは少し憐れむような目でメグミを見た。その目で、メグミの胸はまたちくりと痛む。


 チヨは私たちと、少し違う世界が見えているだけ。


 メグミはそう自分に言い聞かせた。むしろそこがチヨコの魅力なのだ。

 いつか、チヨのことを理解りたい。第一志望校合格と同じくらい大切なメグミの目標だった。




「ねー、これ模試に出ると思う?」


 気だるげな口調で、チップが言った。


「人間の細胞の数が実はめっちゃ少なかった、って話」



 チップが机の上に参考書を広げる。章の終わり、コラムのコーナーにその一文はあった。


 ――日本では、ヒトの細胞数は60兆個(ヒト細胞の重量がおおよそ平均1ナノグラムで、成人60キログラムから換算)とされてきた。しかし近年、ヒトの細胞は?37兆個〟という論文が発表された――


「でない。コラムの内容は出たことない」


 板チョコを割りつつ、チヨコははっきりと断定した。むくれるチップを無視して、苛立ったように続ける。


「というか、正直60兆も、37兆も変わらなくない? あなたの細胞、実は思ってたよりも23兆も少なかったの! って言われても… 実感ないっていうか」


 こんな知識何の役に立つのか、とチヨコは腕をくんだ。チップが能天気に明るく続ける。


「でも実際、できてるんだよね細胞で。毎日細胞が死んで、私らが食べ物食べて、そしたら新しい細胞ができて、っていう」


 チップはそこで、はっとした顔をした。指についたのり塩をなめる。


「え、てことは私、細胞のほとんどがポテチで出来てるっぽくない? 今日も朝からずっと食べてるし、やばくない?」

「ええ?」


 メグミは笑った。しかしチップは真剣な様子で、メグミに詰め寄る。


「メグ、他人事じゃないかんね? グミずーっと食べてるし。チヨだってチョコばっか…」


 突拍子もない考えに、メグミはくすくすと笑い続けた。一方チヨコは「下らな」とだけ言って黙り込む。二人の様子に、チップはますますむくれた。盛り上がれば盛り上がる程、机に広がったお菓子は順々になくなっていく。

 その時、チヨコの目の奥で、少しだけ光が揺らめいていたことに、メグミは気が付かなかった。



                ***

 テスト週間が終わったのと同時に、塾でチップを見かけなくなった。

 メグミは携帯電話でメッセージを送ってみたが、返信がない。授業の後、チップと同じ高校に通う塾生に聞いてみると、学校も一週間以上休んでいるようだった。


「皮膚科に通ってるっぽくてー」


 間延びした話し方をする女の子はそう言った。


「顔中にニキビができて? 脂がとまらないんだって。」


 え。メグミは持っていたグミの袋を落としそうになった。

 にきび。脂。


『細胞のほとんどがポテチ』


 チップの声が蘇る。

 …まさか。思いつつ、メグミは胃がもたれているように感じた。今日既に、グミを1袋食べきっている。今持っているのは2袋目だ。

 二の腕を指でつまんでみる。ぷよぷよなのは、いつも通り… のはず。

 メグミが急に黙り込んだので、女の子は怪訝な顔をして去っていった。


 とにかく、チヨに連絡しよう。

 現実味のない思い付きを打ち消して、メグミは携帯電話を取り出した。模試が終わったら三人で打ち上げをしようと話していたのだ。


 チヨコからの返信はすぐだった。


『じゃあ二人で打ち上げしよっか。チップのお見舞いもかねて』


 メグミは目をみはった。チップに悪いと思いつつ、嬉しさで飛び上がる。チヨコと2人で行動するのは初めてだ。


『うん! なんか買ってこ。ポテチ以外で笑』


 メグミはグミをもう一つかじった。

 さっきまでの妙な胃の重さは、どこかへいってしまったようだった。



                  ***

 お見舞い当日は猛暑だった。

 チヨコは白いコットン生地のワンピース姿で現れ、またメグミを見惚れさせた。待ち合わせた駅から、直通のデパートに入る。脂とは縁のないスイーツをお見舞いに買うつもりだ。

 フロアの隅、お店のガラス張りのキッチンで、涼し気なゼリーを作っている。二人は並んでその様子を眺めた。


「チップ、本当に『細胞のほとんどがポテチ』になっちゃったのかな」

「え?」


 チヨコの呟きを、メグミは反射的に聞き返した。一瞬、昨日の胃の重みを思い出す。それを打ち消すようにメグミは大きな声で笑った。いやあ、それはないでしょ。


「チヨも、下らないって言ってたのに」


 しかし、チヨコは歌う様に言った。


「でも、もし本当にそうだったら。自分の食べたもので体ができてるって、すごく、『生きてる確信』が持てそうじゃない?」


 メグミはどきり、とした。これは、いつものどきりとは違う。


 蛍光灯の光が当たって、チヨコの頬はいつもに増して白かった。まるで血の気が引いているよう。対して目は、光がらんらんと揺らめいていた。


 まるで何かに「飢えてる」みたい… 


 メグミは背筋がすうっと冷えるのを感じた。

 白い制服のパティシエが、ゼラチンの中にシトラスを落とし始める。みずみずしいオレンジ色がどっぷりと飲み込まれ、沈んでいく。

 メグミは自分の気持ちも沈んでいくのを感じた。

 深く、深く落ちていく…


                 ***

 結局二人はゼリーを買った。途中、チヨコが「メイクを直したい」と言い出したので、公園の公衆トイレに寄ることにする。

 チヨコはポーチを持って、いそいそとトイレに入ってゆく。メグミは近くのベンチで待つことにした。


 中学生の頃、メグミとチップでよく話し込んだ公園。

 いつも子供で溢れているのに、今日は閑散としていた。申し訳程度の錆びた遊具と、土むき出しの土地が広がっている。

 やけに静かだ。蝉の声もしない。ただ日差しだけがじりじりとメグミの首筋を焼いてゆく。


「遅いな…」

 20分程経って、メグミは呟いた。額から汗が伝って、顔をしかめる。日焼けしちゃう。チヨを急かすのは気が引けたけれど、ゼリーがこの炎天下の中、どうなるかも気になって、メグミは重い腰を上げた。


「チヨー?」

 女子トイレを覗き込んだ瞬間、メグミは息をのんだ。


 蒸した空間の中、チヨコは洗面台の前にいた。左手はどす黒い血で染まっている。床のタイルと、スカートの裾に点々と黒い跡がついている。右手にはカッターナイフ、口元には血をぬぐったような跡があった。


「メグ」


 チヨコが一歩踏み出す。むん、と血の臭いがメグミに迫って、メグミは鼻を押さえた。チヨコは手首の血の滴っている部分を、メグミの顔の前に突き出した。


「吸って」

「は?」

「吸ってみてよ」


 チヨコはうわごとの様に、吸って、と繰り返す。


「チョコレートの味が、するの」


 チヨコがにっこりと笑う。メグミは信じられない気持ちで、その場に立ちすくんだ。


「チップに会う前に試したくて… 

 私たちは、37兆個の細胞で、できてる。細胞は、その人の食べたもので、できてる。だから私の血は、チョコの味がする… 繋がった! 繋がったよ、メグ!」


 チヨコは興奮してまくしたてた。


「ねえ、私ずっと不安だったの、わかる? いい大学、いい会社に行っただけで、幸せになれる時代じゃないのに、大人は馬鹿みたいに急かすばかり… 何が正解なのかわからない。世の中の全てに答えのでる公式ってないのかしら? 

 でも、食べたものから細胞ができて、そこから私の体ができてる実感が持てたら… それだけはもう確実じゃない? 誰も否定できない。メグ、わかる? やっと何かに確信が持てたの!」


 混乱する頭で、メグミは必死に考えていた。体の震えが止まらない。この子、誰だろう。憧れの友達が、知らない女の子になっている。

 チヨ、本当に? メグミは思う。チョコの味がするわけない。本当はわかってるんじゃないの。後戻りできないだけじゃないの。


「ほ、ら」


 チヨコが、メグミの手首を掴んだ。メグミは振り払おうとしたが、震えてうまく力が入らない。後ずさりすると、腰がくだけてその場ににへたり込んだ。

 メグミはゆっくりとチヨコの顔を見上げた。

 チヨコの顔は、恍惚とした表情から一変、悲しみに暮れていた。


「メグ…」


 わかってくれないの? そう言っているように、メグミには見えた。

 メグ、わかってくれないの?



 塾の教室がメグミの目に浮かんだ。

 机を囲んだ3つの椅子。広げられたお菓子。窓から入る光。その光のもっと向こうを見ているような、チヨコのぼうっとした瞳。


 そうだ。彼女はずっと寂しかったんだ。誰にもわかってもらえない不安を抱えて過ごしていたんだ。



「そうだったね」


 メグミは手首をつかんでいるチヨコの腕を優しく引いた。チヨコは倒れたメグミに覆いかぶさるように膝をつく。


「メグ…?」


 チヨコの瞳が不安そうにゆれる。メグミはチヨコの左手首を優しく、自分の顔に引き寄せ、ゆっくりと唇を押し付けた。



 口中に濃厚な甘さが広がった。

 カカオとクリームが混ざりあい、まろやかで柔らかな舌触り。芳醇な香りをもっと楽しもうと吸うと、チヨコが小さく悲鳴をあげた。

 脈打って甘さが出てきて、しっとりと、メグミの唇を潤す―――





わけもなく。


 ひたすらに生臭く、口中鉄の味で覆いつくされた。

 それでもメグミは血を吸うのを止めない。チヨコは痛みに震え、メグミの汗に濡れた首筋に顔を埋めた。


 チヨのこと、わかりたいんだよ。メグミは祈った。


 蒸した空間の中に、二人の息遣いだけが響く。

 時間がゆっくりと過ぎていった。

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チヨコ 筒井えふ @ef_tsutsui

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