第13話
北極基地に帰還すると、『レディベスティエ』の口の拘束具が外れる間も惜しんで、俺は無理やり外に這い出した。
ライオンは、上顎に肉を骨から削ぎ落とし、引き千切るのに用いる切歯が六本、獲物に食らい付き、脊髄を切断するために用いる犬歯が二本、そして肉を噛み切るために用いる前臼歯と後臼歯をそれぞれ六本、二本持っており、下顎は門歯六本、犬歯二本、前臼歯四本、後臼歯二本、計三〇本の歯を持っている。
『レディベスティエ』の歯の数とライオンの歯の数は同じで、上顎の犬歯と前臼歯の間には隙間があり、そのわずかな隙間から俺は外に出たのだ。
『レディベスティエ』の唇を押しのけ、口の外に出る。俺と一緒に『ローレンス』が流れ出した。それは『レディベスティエ』の口から漏れ出した、緑色の血のようだった。
戦闘スーツを着たまま、シャワーも浴びず一にも二にもなく俺はドクダメさんのもとに向かって走り出した。
緑色の液体がスーツや髪にまとわり付いてうっとおしい。うっとおしいので肩と髪に付着した『ローレンス』を手で拭った。今度は手に『ローレンス』がまとわり付く。うっとおしい。その当然の結果にいらいらする!
手を振ってまとわり付いた『ローレンス』を走りながら振り払う。通路に緑色の液体が撒き散らされ、壁についた『ローレンス』が、ゆっくりと涙が流れるように流れ落ちた。
「ドクダメさん!」
今一番会いたい人の名前を叫びながら、俺は走り続ける。
「ドクダメさん!」
叫んだのと同時に俺は何かにけつまずき、転んだ。立ち上がろうとするも、足に力が入らない。俺は膝を突いて、座り込んだ。汗が流れ落ちるように緑の液体が俺の体から流れ落ち、水溜りを作った。
もう俺は、走れない。
涙で前が見えなかった。俺の頬を流れているのが涙なのか『ローレンス』なのかの区別も付かない。闇雲に走りすぎて、自分の現在地すらも分からない。
俺は今、何でここにいるんだ?
振り返ると、俺が通った通路には傷ついた獣がつけた血の跡のように『ローレンス』が付着していた。俺が座り込んでいる場所は、血溜りの中だ。
俺は今、何のためにここにいるんだ?
今すぐ抱きしめてもらいたかった。そうしないと、もう俺は消えてしまう。
名前を呼んでもらいたかった。そうしないと、俺が俺でなくなってしまう。
体が、魂が、精神が、冷え切っていた。
寒い。
だから、
「会いたいよ。ドクダメさん……」
「……チヒロ」
そして、銀髪の妖精は俺の目の前に舞い降りた。
その翡翠色の瞳に、俺だけを映してもらいたかった。
彼女の声を聞けただけで、名前を呼んでもらえただけで、俺の流す涙が熱を持った。
でも、それだけでは俺は満足できなかった。
母親に泣きつく子供のような声で、俺はドクダメさんにすがり付く。
「嘘、ですよね? 俺が『レディベスティエ』を操作するために創られた、なんて。ただのパーツだったなんて、嘘ついて俺を戦わせてたなんて。そんなこと、ないですよね?」
俺は、ドクダメさんに嘘を付いてもらいたかった。
ジャクソンとの会話で、ドクダメさんが俺に嘘をついていて、俺を利用するためだけに創ったというのは事実だと、俺も理解している。
それでも、ドクダメさんを信じようとしている俺がいる。
それが、俺は怖かった。
俺のドクダメさんに対する依存度は、はっきりいって異常だ。
一目ぼれしたからか? 確かにドクダメさんは尋常じゃないほど美人だ。
だが、だからといって普通他に可愛い女の子がいれば多少なりとも目移りはするはずだ。でも俺は、高校三年間でたった一度もドクダメさん以外に目移りなんてしたことがない。ドクダメさんが既に結婚していたことを知っても、自分の脳みそをクローン化させて『レディベスティエ』を動かすように提案したぐらいなのだ。普通の人間なら、そんなむちゃくちゃな提案なんてするわけない。いくら愛している人のためとはいえ、そんな自分の身をモルモットのように差し出す真似なんてするわけがない。
『レディベスティエ』に乗るための訓練だって、高校入学直後から俺の精神を蝕んでいたのに、友達に救われたとはいえ結局一回もサボっていない。
俺は無条件に、無制限に、ドクダメさんに尽くそうとしている。
おかしい。何かが、俺の何かがおかしい。
完全に利用されているだけなのに。それなのに、俺はドクダメさんを求めている。
だから俺は、ドクダメさんに嘘を付くことを求めているのだ。
嘘でも違うと言ってもらえれば、俺はまだドクダメさんのために闘うことができる。
ジャクソンとの会話の最中もそうだったが、どうなってるんだよ俺の思考回路は!
俺の懇願を聞いたドクダメさんは、俺から視線をはずした。
ドクダメさんは思案顔をした後、何かに苦しんでいるような表情をした。
だがそれも一瞬で、すぐに無表情となり、ドクダメさんはまた俺に視線を向ける。
『……どうやら、『調整』しすぎたようね』
頭の中に響いてきたのは、ドクダメさんの『通信』だった。その声は明らかに冷め切っており、俺を突き放すためのものだった。
『『調整』……?』
『ええ。チヒロを創った時に、チヒロの脳にワタシに恋するように、ワタシを愛するようにデータを注入したのよ』
その言葉に、俺は反応できない。できるわけが、ない。
『何かあった場合、そっちの方がワタシにとって都合がいいと思ってそのままにして置いたんだけど、あまりにも依存度を上げすぎてしまったわ。失敗作ね』
それでも、俺はドクダメさんに反論する。
ドクダメさんに嘘をついてもらわないと、俺は……。
『でも、ドクダメさん言ってたじゃないか。まったく同じ脳を作ることは出来ないって! だったらいくらデータを注入したとしても、ドクダメさんの求める、ドクダメさんの都合のいい脳になる補償なんてないじゃないですか!』
『それはワタシを好きだという情報を脳のここに記憶させたい、と思った時の話でしょ? 別に今回は、ワタシを好きになるという情報は脳のどこに格納されていてもいいの。ハードディスクにファイルを保存したとしても、ハードディスクのどこにファイルが保存されているかなんていちいち気にしないでしょ? そういうことよ』
『そんな……』
俺の異常なドクダメさんへの依存は、ドクダメさんが俺をそう創ったからなのかよ!
じゃあ、全部嘘?
ドクダメさんに一目ぼれしたのも。
ドクダメさんに抱いた深い愛情も。
ドクダメさんへの独占よくも。
ドクダメさんへの恋心も。
ドクダメさんのために戦わなければならないという使命感も。
全部全部、全部嘘だっていうのか?
俺の『ナカ』には、嘘しか詰まってないっていうのかよ!
俺の全ては、全部偽物なのかよ!
『何をいちいちショックを受けているの? それはさっきジャクソンとの戦闘中にも話したことでしょ? まぁ、あれを戦闘とはいえないでしょうけど』
ドクダメさんは蛆虫を見る目で、俺を見つめている。
『さらにいうと、チヒロの『体』もセンジンを操作できるように地球人とは微妙に違うものとなっているわ。『ローレンス』が肺に入ったとしても呼吸が出来るように肺にエラ呼吸ができるような機能も追加しているの。『レオーネ』人を地球人の大きさにしたら、脳から発せられる脳波と電子信号だけでは長時間センジンの死体を操縦するのは難しそうだったから。操縦支援ツールを作成する必要があったのは分かっていたから、事前に肺をいじっていたの。他には目覚めた直後は見たり聞いたりしたものをすぐに覚えるように脳を調整して、ある程度の知識量、日常生活に支障がない情報が『脳』にたまったところで、その機能をストップするようにしたわ。そうしないと何でもかんでも瞬時に覚えて、地球人として生活するのに支障があるでしょ?』
ドクダメさんから、おぞましい俺の『体』の真実が明かされていく。
じゃあ俺は、俺の体は一体なんなんだ! 俺の『ナカ』も『ソト』も、全部嘘なのかっ!
『あと、いつも高カロリーのものを食べさせていたのは、センジンの死体を操作するためのエネルギーが必要になるからよ。特に飛行行動はエネルギー消費が激しいの。ジャクソンも月面で動かないのはそのためよ』
『あれは、俺を心配してくれてたんじゃないのか……?』
『そんなわけないわ。ただバッテリーが切れてしまったら困るからそう言っていただけよ』
『バッテリー!』
本当に、本当にドクダメさんは、俺のことをただのパーツとしてしか見ていなかったのか!
『そんなこと、言っていいのかよ……』
『あら、どういうことかしら?』
『ジャクソンはドクダメさんと『レディベスティエ』を引き渡せって言ってるんだぞ。ジャクソンに対抗できるのは俺だけだ! 俺の機嫌を取っておかなくていいのかよ! バッテリー呼ばわりされて、さすがに俺が何もしないと思っているのか!』
最低だ。
自分の思ったとおりに行かないから、自分の思った通りにドクダメさんが俺に嘘を付いてくれないから、俺は恫喝という手段に出たのだ。
俺は俺が気持ちいい嘘に浸れるように、ドクダメさんに嘘を付くことを強要しているのだ!
でも、最低でも構わない。俺は今その嘘に浸りたい!
全身を濡らして、溺れ死んでしまいたい!
この期に及んでも、俺はドクダメさんのそばに置いてもらいたいと思っているのだ!
バッテリーでも構わない。
都合のいい男でいい。
捧げたいのだ。全てを。
俺の全てを捧げたい。
この人の傍に置いてもらいたい。
この人と一緒にいれるのなら、俺は俺自身すら騙せる。
なのに。そんな俺の言葉を受けたドクダメさんの反応は、失笑だった。
『ふふふ。チヒロ。アナタには無理よ。アナタは、何もできないわ』
『な、んで。何で……!』
俺の『ナカ』の愛が、恋が、変色して、醜く濁って、憎しみとなっていくのが分かる。
何でドクダメさんは俺を受け入れないんだ。
何で俺の想いに答えてくれないんだ。
お前を守れるのは、俺だけないんだぞ。
俺がいないと、お前は死ぬんだぞ。
なのに、なんで笑ってられるんだよ!
自分の想いが全て憎しみに染まる前に、ある疑問が浮かんだ。
ドクダメさんは、何で急に俺を突き放そうとしているんだ?
俺は失敗作だと、ドクダメさんはそう言った。
でも、まだ俺は『レディベスティエ』に、センジンの遺体に乗れる。センジンの遺体を自分のものにするのがドクダメさんの目的なら、まだ俺には利用価値があるはずだ。
ドクダメさんは俺の求めている嘘を付けばいい。それだけで、俺はドクダメさんの都合のいいように動く。俺を『調整』したというドクダメさんが、そのことに気がつかないはずがない。
俺をドクダメさんが操り人形にしたいのなら、失敗どころか大成功なんじゃないのか? ドクダメさんの求めているのは、別の結果なのか?
それとも、そう思ってしまうこの思考も、ドクダメさんの思惑の通りなのか?
考え込んでいる俺をよそに、ドクダメさんは俺を見下しながらこう言った。
『チヒロは、『地球』のために戦うわ。だって、ワタシとセンジンを引き渡した後に、ジャクソンが地球を滅ぼさないという保証がないもの』
ドクダメさんの言葉に、俺の疑問は吹き飛ぶ。そうだ。明日にはまた、ジャクソンが地球にやってくる。この問題に結論を出さない限り、地球に明日はない。
でも、ジャクソンが約束を守らない、だって?
その言葉に反論しようとして、俺は思い止まった。
そうだ。何で俺はジャクソンが約束を守ってくれるという前提で、話を進めていたんだ?
ジャクソンはドクダメさんと、俺をこんな風にした奴と同じ『レオーネ』人なんだぞ?
確かに、ジャクソンは信用できそうな相手だった。だがそれは、俺が対等な『強さ』を持っていたからじゃないのか?
『レオーネ』人は『ギガク』と『フウリュウ』の差はあるものの、求めているのは己の『強さ』という共通点がある。
俺と今日ジャクソンが対等に話をしてくれていたのは、俺が『レディベスティエ』に、センジンの遺体に乗っていたからじゃないのか?
俺が『レディベスティエ』を降りたら、『強さ』を失くしたら、ジャクソンにとって俺は果たして対等な存在になるのだろうか?
小さき者と、哀れな創られし偽りの存在と言われた俺が、ジャクソンと対等に会話できるのか?
約束を守るに値する存在に、俺はなるのか?
ジャクソンから見れば、地球は『ギガク』の英雄の遺骸を奪ったドクダメさんをかくまっているように見えないか?
そんな地球を、ジャクソンは恨まずにはいられるのだろうか?
ドクダメさんが俺を裏切っていたという不信感がそのまま『レオーネ』人への不信感になり、それがジャクソンの不信感になる。
俺は苦々しい顔をしながら、ドクダメさんに言い返した。
『……だからって、ドクダメさんをジャクソンに引き渡さないということにはならないだろ!』
『ワタシを引き渡されたジャクソンが、おとなしく引き下がるかしら? 遺体になったセンジンを追って、わざわざ地球にきたのに』
『それでも、俺がお前のために戦う理由はもうないだろ!』
苦し紛れの俺の台詞に、ドクダメさんは冷笑と共に、こう言った。
『別にワタシのために戦わなくてもいいのよ、チヒロ。チヒロは今まで生きてきて、出会った素晴らしい御学友のために戦ってくれればいいの』
その言葉に、俺の背筋は瞬時に凍りついた。
そうだ。ドクダメさんが俺を『調整』できるのなら、わざわざ『ギガク』が、ジャクソンがやってくると分かっている三年前に俺を創る理由がない。
センジンを動かすパーツを創って、『調整』して、せいぜい一年ぐらいあればできるだろう。何故なら俺は、生まれた時にドクダメさんから言われた、戦うための戦闘訓練や『ギガク』に関する予備知識の学習なんてほとんどやっていないのだから。
『レディベスティエ』に俺が乗ったのは高校を卒業してからだし、『ギガク』に関する予備知識の学習なんてまったくやっていないのだから。
『まさか……。俺を高校に通わせた理由は、』
『あら、今度は察しがいのね。そうよ。ワタシ以外に、守りたい人を地球に作ってもらうためよ』
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