第五章 終局

第五章 終局


「月城さんは、お前の企みを知っているのか?」

 既に薬の効果が切れたのか、元の人間の姿に戻った朧に対して俺は質問した。

 それに対し朧は、依然としてどこか余裕のある態度を崩さないまま答えた。

「さあな。だが、知っていようと知っていまいと、あの女にはそんなことなど関係ない。なぜなら月城瞳は私に逆らうことなどないからだ」

「何? どういうことだ」

「言葉の通りの意味さ。月城瞳は私に逆らわない。私はあいつに名前と存在理由を与えた。何も持たない無垢なる吸血鬼に、従うべき主と果たすべき目的を与えた。逆らえるものか。世界に絶望し全てを諦めた者が、今更何のために行動する。あいつには私に逆らうだけの理由がない。私の計画を阻むだけの理由がない。故にあり得ぬのだよ、今の月城瞳は私に忠実な駒にすぎない確かに私は吸血鬼こそが至高の存在でると考えているが、彼女そのものには何の興味もない。私が望むのは全ての人類が、至高の存在である吸血鬼となった世界であり、一個人の感情や考えなど大した問題ではないのだよ。世界を正しく統一する救済者こそが私であり、その為にはあらゆる犠牲が許される。私は吸血鬼という存在、種族、力、それらの全てを心の底から敬愛しているが、その一個体にすぎないアイツ個人が何を思い、何を考えるかなど何の興味も関心も抱かぬのだよ」

 今、ハッキリと分かった。俺は、この男を理解できない。同じ人間であるにも関わらず、その思考には絶望的なまでの隔たりがある。何を言っているのかは分かる。何を考えているのかも分かった。これほどまでに確固たる意志を持った人間を、ただの高校生にすぎない俺が説得できる道理なんてあるはずがない。

「確かに、あんたの言うことの方が正しいのかもしれない。人間なんて下らないもので、吸血鬼による世界の方がよっぽど素晴らしいのかもしれない。そんなことの判断はたかが一高校生にすぎない俺の経験と脳味噌で判断できる事じゃないのかもしれない。でも、これだけは断言できる。今の俺には、自信を持って言い切れることが一つだけある。俺は響子のことを信じられる。人間であるあんたの言葉よりも、人狼である狗井響子の言葉の方が、俺にとっては信じるに値する言葉だ!」

「ますます下らない。友情だの信頼だの、そんなものでどうこうなるほどに種族の壁は低くも薄くもない。まあ、いずれにせよ同じ事だ。月城瞳の手によりあの人狼は葬られ、そして君の命も絶たれる」

 そう言いながら朧は、俺の方へと一歩踏み出した。その無言の威圧感に気圧され、俺は一歩後退する。確かに、人狼よりも吸血鬼の方が優れた存在かもしれない。ただ、それでも俺は響子のことを信じる。アイツは、約束を守るヤツだ。

「誰が葬られただって?」

 唐突に、廃工場に声が響きわたった。その直後、轟音と共に天井をぶち破り、俺の目の前へと白銀の体毛を纏った巨体が着地した。

「響子!」

「約束は果たしたよ、明」

 そう言いながら俺の前に立った響子は、人狼から人間の姿へと戻っている。巨体が縮み、バラバラと体毛が剥がれていく。張り裂けそうなほどになっていたTシャツは、今にも肩からずり落ちそうなほどになり、それに併せて、限界まで伸ばしていたズボンのベルトを器用に縮めていく。僅か数秒の後に、そこには人間の姿へと戻った狗井響子の姿があった。腕には無数の真新しい傷ができており、服も同様にボロボロでいくつもの血痕が付いている。

 ……それでも。

「あんたが朧だっけ? 残念だけど決着は付いたよ。ここに戻ってきたのは私の方だ」

 そう宣言する響子の声はいつもの、あのどこまでも明るく真っ直ぐな響子の声そのものだ。それに対し、珍しく狼狽えたような声で朧が呻く。

「バカな、何故キサマが、キサマごときが」

「何がバカなもんか。あんたには残念だろうけど私の勝ちだよ。あんまり他人を見下して力を過信するのはどうかと思うね。瞳なら今頃ちょっと遠くの自然公園で倒れてるはずだよ。運が良ければ生きてるかもね」

「獣化能力者……人狼……狗井響子。何故阻む、何故邪魔をする。何故人間と手を組む! 相容れぬ愚かなる蛮人が、救われぬ愚人が、何故私の邪魔をするか! この、蛮族ごときが! 私の崇高なる使命を阻む害獣風情が! そんなことがキサマに許されるものか! アレは奇跡の存在なのだ! アレほどの最良の駒が早々容易く存在すると思うなよ! アレは私が救世主となるために不可欠な存在だ! それを獣風情にいいようにされてたまるものか!」

 朧にとっては、吸血鬼の戦闘能力が獣化能力者に勝るというのは、吸血鬼の優位性を証明するための条件の一つだ。吸血鬼は魔法能力者よりも、獣化能力者よりも優れている。だからこそ、吸血鬼こそが至高の存在だ。最強たる吸血鬼を自身の意のままに従え、その力を自身の為だけに使うことができるという、その前提条件があってこそ、朧の野望は実現可能になる。ならば月城さんの敗北とは、その前提条件のすべてを崩壊させる事になる。

「いいだろう……。キサマ等、ここから生きて帰れると思うなよ!」

「どうするつもりなのかな? 切り札の瞳はここにいないし、吸血鬼になる薬だってもう使っちゃったんでしょ? 体を変化させたあと元の姿に戻ると、もう一回変化させるためには時間を待たなくちゃいけない、その条件は私と同じなんじゃないかな?」

「詰めが甘いな、所詮はガキの浅知恵だ。お前には獣化能力が使えないが、私には……、これがある」

 朧はおもむろにコートのポケットからソレを取り出し俺たちに向けると、凶悪な笑みを浮かべた。

 ニューナンブM60、38口径回転式拳銃。

 装弾数五発、有効射程五十メートル。

 高い集弾性能を誇る自衛用拳銃であり、主に警視庁や海上保安庁などに納入されている。もちろん、民間へは市販や輸出は行われていない。

 ……まずいな。

 これはかなりまずい。

 銃火機が誇る射程と威力の絶対的な優位性。こればっかりは素人ではどうにもならない。この距離で五発すべてを避けきる事は不可能だ。そして、この距離で外すようなヤツが拳銃を切り札にするはずもない。

「まずは人狼の女、お前から始末する。楽に殺してやるんだ、ありがたく思え」

 朧が引き金に指をかける。

 俺は、反射的に動いた。この一週間の間に激流のごとく体験した命の危機が刹那の早さで脳内を駆けめぐり、最早反射といってもいいだけの早さで響子の肩へと手をかけた。

「……え、明!?」

 そして強引に後ろへと引きずり倒すと同時に、響子の前へと躍り出た。命懸けで約束を守ってくれた響子に対する恩返し、と言えば少しばかり格好が付くかもしれないけど、その瞬間には何一つとして考えていなかった。

 そして、やがて麻痺した思考が、拳銃の弾って当たったら痛いんだろうな、とか、頭か心臓以外なら死なないかな、とか、弾が貫通しちゃったら意味ないよな、とか、そんなことを考え始めた直後だった。

「撃つな、朧っ!」

 ついさっき響子が破った天井のあたりから、銀の髪をなびかせた少女が降り立った。

「月城さん!?」

「月城瞳、何故ここに!?」

 朧の言葉には、多分いろんな意味の驚愕が含まれていたんだろう。だけど、その内容に思いを巡らせるよりも先に、月城さんは朧へと言った。

「朧、撃ってはダメ。この人は」

「黙れ、お前が、俺を裏切るのか!? 俺に逆らうつもりか!?」

「違う、私は」

 ――パンッ!

 乾いた音が夜の廃工場に響きわたった。月城さんが腕を押さえてうずくまる。朧は、何の躊躇いもなく拳銃を撃ったのだ。そして、何事もなかったかのように、素早く、冷静に再び撃鉄を起こしリボルバーが回転する。

「朧、どうして撃った! 月城さんは」

 本当に撃つとは思わなかった。俺や響子に対してならともかく、月城さんへと、何の警告も無しに発砲するとは思わなかった。だがこの男はソレをあっさりとやってのけた。

「あの人狼にそそのかされたか? 私に対する恩を忘れたか? 逆らうというなら、不本意だが力ずくでも従わせるまでだ。その手段はいくらでもある」

 朧は間違いなく、人を殺す事に躊躇いのないタイプだ。この男は、この男の口から語られた通りの理想を実現するために、決して躊躇わずあらゆる手段を使うつもりだ。朧の構える拳銃が、その銃口が、真っ直ぐと俺のことを捉えた。その直後、再び月城さんが立ち上がる。

 月城さんは声にならない悲鳴と共に、銃弾を撃ち込まれた腕とは反対側の指を、その傷口へと突き刺した。そして銃弾を引き抜き投げ捨てる。思いの外軽い金属音が廃工場に反響する。月城さんの腕からの出血は見る見るうちに止まっていくが、ソレと同時に、白銀の髪が黒髪へと変化していく。時間切れか、それとも体力の低下に世よるものか、月城さんの吸血鬼化が解かれていく。それでもなお、手を広げ俺の前に月城瞳は立った。

「どうして、月城さんがこんな事を……」

「……私が、そうしたいと思ったからよ」

「もういい、逃げて瞳!」

「弾は後四発ある。一人を黙らせ二人を殺すには十分だ」

 朧が拳銃を構え、照準を合わせ、そして引き金に指をかけた。

 そして……。


×××


 ……ガンッ、という鈍い音が廃工場に響きわたった。

「……バカな、誰が」

 朧は拳銃を落とし、そして倒れた。弾丸が放たれることはなかった。

 俺は何も出来なかった。響子も、そして月城さんも、何をすることも出来ずに立ち尽くしていた。俺たちは息をのみ、そして硬直した。何故朧が倒れたのか、その理由はすぐに分かった。だからこそ、まるで金縛りにあったかの様に動けずにいた。

 朧が倒れたとき、その背後から一人の男が現れた。肌は緑色のゴムのようであり、頭髪ははげ上がり、牙と鍵爪は鋭く、双眼に殺意の光を宿し、獣のような体臭を放っている。その右手には赤く血に汚れた鉄パイプが握られていた。

「屍喰鬼……」

 誰とも無く呟いた。

 俺はその屍喰鬼が身に纏っている服に見覚えがあった。それは、最初に朧と出会ったあの日、朧から自殺薬を受け取っていた男の物と同じだった。自殺薬が人間を屍喰鬼に変えるための薬を改良して作られた、人間を吸血鬼へと変える薬の試作品であることは間違いない。そして、それによって得られる効果が、人間社会へと決して帰ることが出来ない状態への変化であるなら、それは死と同じ事なのかもしれない。 ただし、その先に待つものが、死ですらも生ぬるいようなおぞましい結末であることを服用者は知らない。彼らが望んだのは、安楽死というあらゆる苦痛からの解放なのだ。そうした齟齬が生まれることを朧が気づかないはずはない。だからこそ、用心棒としての月城さんが必要であり、拠点を転々とする必要があった。自分に殺意を抱くであろう人外の存在を、朧は自らの手で作り出していたのだ。そしてその因果が、今この場所で収束したのだ。

 獣のような屍喰鬼の体臭が廃工場に充満し、うなり声が静かに反響する。朧を打ち倒した屍喰鬼の背後には、さらに多くの屍喰鬼の大群がいた。旧地下鉄で遭遇したヤツ、駅で人を突き落としたヤツ、そのほかにも見慣れないヤツがたくさん、この場所へと一堂に会していた。

 屍喰鬼が朧のことを担ぎ上げた。まだ生きているのか、それとも死んでいるのかは分からない。身構える俺たちのことを、朧を担ぎ上げた屍喰鬼は一瞥し、無言のまま背を向けると、屍喰鬼の大群を率いてそのまま帰って行った。

「……」

 俺たちは少しの間無言のまま呆然としていた。

「ありがとう、狗井さん、賀上君。それから……、ごめんなさい」

 最初に沈黙を破ったのは月城さんだった。腕の出血は完全に止まり傷一つ残っていない。

「いや、ありがとうはこっちの台詞だ。月城さんが来てくれなければ今頃は……」

 確実に朧は俺のことを撃っていた。そうすればおそらく……。

 俺の背後で響子が立ち上がった。改めて見ると、随分とひどいというか、痛々しいというか、とにかくすごい格好だ。

「ま、色々と言いたいことはあるんだ。だけど、今はとりあえず来てくれてありがとう、ってところだね」

 響子が月城さんをどう説得したのか、いったい何があったのかは後で詳しく聞こうと思った。朧を失った月城さんがこれからどうするのか、また学校に来れるのか、それともどこかへいってしまうのか。あれだけの屍喰鬼がこの街にいるという事実を、いったいどう受け止めればいいのか。人狼とは、獣化能力者とはいったい何なのか。俺たちの前へと堆く積まれた問題は未だ解決の兆しを見せていない。それでも……。

「俺たち、大丈夫だよな」

 月城さんは暗い顔つきでうつむいていた。励ましてあげたいところだけど、いったい何を言えばいいのか分からない。正直不安だった。この状況で不安を感じないヤツなんているもんか。だけど、響子はあの真っ直ぐな笑顔を俺たちに見せてくれた。

「大丈夫だよ。絶対大丈夫。明がいるし、私がいる。月城さんだっている。だから、大丈夫だよ、絶対に」

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