第三章 告白 五


 二十二時。

 俺は適当な理由を付けて家を出た。

 目指すは響子の住むマンションの屋上だ。

 そういえば、あそこにいくのはいったい何年ぶりだろうか。昔は、響子や他の友人たちと、よく遊び場にしていたような気がする。やんちゃなことをして怒られたことは一度や二度じゃなかった。

 最上階までエレベーターに乗り、そこから階段を昇って屋上へと向かう。一歩踏み出すごとに、まるで別の世界へとむかっているかのような、奇妙な感覚に襲われる。

 響子の正体が、人狼と呼ばれる超常の怪物だってことは確かだ。そして、響子がそのことを今まで隠そうとしてきたということは、彼女自身がそれを『よくないこと』としてとらえているということだ。ならば、俺にその正体を知られた響子は、次にいったいどんな行動をとるだろうか。

 口封じ?

 真っ先に思いつくが、それはナンセンスだ。俺を脅すか、あるいは殺すかして秘密の漏洩を防ごうというのなら、こんな回りくどい方法を採る必要はないはずだ。ならば、秘密を共有する自分の仲間へと引き入れるということも考えられる。だけど、朧から聞いた人狼の特性から考えてそれはあり得ない。

 いずれは理性を持たない殺戮と、暴力の化身へと姿を変える人狼だ。人間の協力者を求めるなんてことがあるだろうか。あり得ない。そして、響子自身がそのことを知らないはずがない。じゃなきゃ、人を避ける必要なんてないのだから。

 だからわからない。俺のことを呼んだ響子の真意が。先が読めないからこそ不安なのだ。

 階段を最上段まで上がり、目の前には屋上の扉がある。鍵はかかっていないみたいだ。蛍光塗料の光を放つ腕時計の針が、十時三十分を指し示す。

 確かに何もわからない。でも、この一歩を踏み出した瞬間に答えがでる。俺の思いはただ一つ、響子を信じたい、ただそれだけだ。

 腕に力を込め、屋上の扉を開いた。


×××


 ギィ、という音と共に、重い鉄製の扉が開いた。月の淡い光が照らし出すマンションの屋上にいたのは、制服姿の一人の少女だった。

「来てくれたんだ、明」

「響子、お前は……」

「正直に言うとさ、来ないかもしれないって思ってたんだ。まあ、それならそれで諦めがついてよかったんだけど、でも、そういうところで律儀なのはやっぱり明のいいところだと思うんだ。今、それがハッキリとわかったよ」

「答えてくれ響子。お前は、いったい何者なんだ? いったい何を隠している?」

「明は、それをもうわかっているんじゃない?」

「それは……」

 確かにわかっている。

 でも、まだ響子本人からは何も聞いていない。確かな証拠ななんて、今に至るまで何一つとして存在しない。

「冗談だよ。明はそれを確かめるために、今日ここへと来たんでしょ? いいよ、答えてあげる」

 そう言いながら響子は、自分のブラウスのボタンを外し始めた。

「き、響子、いったい何を――」

 ブラウスをはだけ、スカートのホックへと手をかける。今の響子の表情には、躊躇いも恥じらいもなかった。

「何しているんだっ!?」

 パサリという音と共にスカートが地面へと落ちた。

 次いで、はだけていたブラウスを無造作に脱ぎ捨てる。飾り気のない白い上下の下着は、何となく響子らしいような気がした。そういえば、数日前にも同じような感想を抱いた気がする。あれは、道場で響子が着替えているところを、うっかり目撃したときか。そのときの記憶が唐突に、鮮明にフラッシュバックし、今の響子の姿へと重なる。そして、ある相違点を見つけだした。

 あの時見えていた傷は消え、また新たな傷が出来ている。

「……明、私はもう、明の知っている狗井響子じゃない」

 響子が下着に指をかける。ブラジャーを外し、ショーツを脱ぎ……。

「……っ」

 俺の目の前には、裸身の響子が立っていた。雲一つない夜、月と星と街の灯りが、幻想的な陰影を作り出す。

 やや筋肉質な引き締まった四肢が、呼吸にあわせて上下する確かな膨らみを帯びた胸が、隠されるべき下腹部が、その、響子の全てが俺の眼前にさらされていた。だが響子はそんなことなど意にも介さないかのように、どこか冷めたような目をしていた。

 次の瞬間、俺はある種の動物的衝動に駆られた。

「……ぁあ……」

 無意識のうちに、半歩後退する。その時、俺の心へと本能的に沸き上がったのは、劣情ではなく恐怖だった。それも、極めて原始的な、根源的ともいえる恐怖。ついこの間感じたのと同じような、そう、あの廃工場で月城さんを初めて目撃したときと同じような、あの感覚と同じだ。

 無意識の間に足が震え出す。今、俺の前に立っているのは、たった一人の、この上なく無防備な少女にすぎないというのに。

「明、これが、私の答えだよ」

 そう告げた響子は大きく息を吸い込んだ。

 そして、足を広げ仁王立ち、両手を広げ、天を仰ぎ、目を見開き、口を開け――。

「――――――――ッ!!」 

 狗井響子が天へと吼えた。

 悲鳴にも似たその声は、徐々に猛々しい獣の雄叫びへと変わっていく。

 それと同時に筋肉が隆起し、闘争に特化した肉体へと変化していった。

 アスリートや格闘家のそれとも異なる、極めて野性的で、どこまでも暴力的な筋肉。

 そんな全身が銀の体毛に覆われていく。いや、それは最早体毛というよりは、天然の鎧を身に纏っていると言った方がいいのかもしれない。

 眼光は凶悪な猛獣のものに、牙や爪は刃物のように鋭利なものへと、相貌は邪悪で凶暴な存在であることを表すかのような醜悪なものに、人の理性を捨てた存在であることを体言するかのような姿へと、細部に至るまでが変化していく。

 銀の毛に覆われた尾と、狼を連想させるような尖った耳は、それだけで彼女を人間ではないと断じてしまうことの出来る特徴だ。

 あの写真で見た通りだ。

 あるいは旧地下鉄で、あるいは学校の中庭で見たのと同じ姿。

 身長一六〇センチ足らずの少女は、今や二メートル超えの巨体を誇る獣人へと変化していた。

「これが……お前の……」

 俺はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。

 目の前に立つ人狼、狗井響子が、月光を反射して輝く白銀の体毛を震わせながら低いうなり声をあげる。彼女が全身に纏う殺意は、まるでビリビリと空気を振動させているかのようだった。

 これほどまでに決定的な方法で見せつけられれば、反論の余地なんて万に一つもない。狗井響子は紛れもなく人外の化け物、獣化能力者、『人狼』だ。

 響子が、その鋭い牙を備えた口を開き、低くしゃがれた声で言った。

「そうだよ。これが私。これが全て。狗井響子という名を与えられた、人に有らざる化け物の、何一つ包み隠さない正体なんだよっ!」

 狗井響子としての面影は顔の僅かな特徴や口調、仕草などから辛うじて読みとれるだけだ。外見や、放たれる気配は俺が今まで知る響子とはまるで違う。 

「いったい、いつから……」

「生まれた時からだよ。でも、気が付いたのは最近になってから」

 最初の頃は隠し通せていたんだろう。だけど、それがだんだん無理になってきて、俺の目にも少しづつボロが映るようになってきた。そして、朧たちがこの街に来て人狼のことを探るようになったことで、それはさらに加速した。

 そう考えれば、響子の奇妙な言動にも全て説明が付いた。

「この姿になるとね、体の奥から衝動が沸き上がってくるんだ。戦って、引き裂いて、噛み砕いて、何もかもを壊したい。この力の全てを、暴力のためだけに解放したい。そんな風に思えてくるんだ」

 旧地下鉄で初めて見た、学校でも目撃した人狼としての響子の戦う姿は、確かに暴力の化身と呼ぶのが相応しかった。

「最初はさ、すごい怖かったよ。こんな姿に変わっちゃう自分が。おかしいって思った。こんな風に考える私が。でも、だんだんわかっていったんだ。いろんな都市伝説から民間伝承まで、私の調べられる範囲で見つけることが出来た情報を統合していくと、私みたいな例外、普通の人間とは異なる闇の中に生きる存在は、確かに存在するってことがわかったんだ。怪談の中で語られるような化け物が実在するっていう証拠を見つけるのは、その当事者からしてみればそこまで難しくはなかったよ」

 今目の前に立つ響子という獣化能力者。あるいは、月城さんという吸血鬼。旧地下鉄で遭遇した屍喰鬼。空想の存在にすぎないと思っていたそれらが、確かな現実だということを俺は知っている。

 日本には昔から異人や妖怪にまつわる伝承が多く存在する。隠れ里、神隠し、山人伝説、イヌガミ筋、鬼や河童のミイラ、天狗の詫び証文、絵巻物に描かれた百鬼夜行……。

 数多とあるそれらの中に、たった一握りの真実がある可能性は、他でもない響子自身が証明している。彼女が、そんな伝承の末裔だったとしても不思議じゃない。

「今までは地下鉄の化け物相手に正義も味方ごっこをやって、このやり場のない闘争心をどうにか解消してきたけど、でも、いつまでそんなことをして誤魔化せるかわからないからね。次の瞬間には、もう二度と人間の姿に戻れなくなって、心を失っちゃうかもしれない。あの地下鉄の化け物たちの同類になってもおかしくはないんだよ」

 響子もまた、彼奴等と同じような存在だ。彼女が異形の化け物だってことは、もっとも確かで、この上なくわかりやすい形で提示されている。

「だから、ごめんね明。もうこれ以上、私に関わらないで。後は月城さんとも、もうこれっきりにした方がいいと思う。これは、私一人の問題だから」

「響子、それは……」

 違う。

 そう言いたかった。それはお前一人だけの問題じゃないと。俺もまた、この状況の当事者だと。

 だけど、俺は言葉を発することが出来なかった。

 一瞬だけ、ためらってしまった。俺の目の前に立つ人狼が、狗井響子であるという現実に。俺の知っている響子の姿とは違うその異形に、俺は怖じ気付いてしまったのだ。

「出来れば私のことは、もう忘れちゃってほしいかな。狗井響子なんて人間は最初からこの世にいなかったって、そんな風に考えてくれたら、私はとっても嬉しい。そうすれば……」

 俺の目の前に立つ人狼、狗井響子は、一度目を閉じてうつむいた後、その獰猛な眼光で俺のことを見据える。そして聞く者の心を恐怖で震わせるようなしゃがれ声で告げた。

「……そうすれば、今この場で明のことを殺さないで済むから」

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