第三章 告白 四


「それは、本当かね?」

 そう聞き返した朧の声には、驚愕と、そして僅かな喜び含まれているように感じた。人狼が純粋に敵でしかない彼にとっては当然のことかもしれない。

 でも、たとえそのことを知っていたとしても、俺は苛立ちを押さえることが出来なかった。だからこそ、なるべく感情を押し殺しながら慎重に言葉を選ぶ。

「彼女のことはよく知っています。俺が、見間違えるはずありません」

「そうか。しかし、よりにもよって君の知り合いだったとは……」

「すみません、俺、嘘を付いてました。本当は、最初あの写真を見たときから、気が付いていたんです。あの化け物の、人狼の正体に。でも、確信がもてなかった。だから認めたくなかったんです。響子の、その正体が化け物だなんてことを」

「そうか」

 朧は、小さくそう呟いた。

 彼の表情はサングラス越しでよくわからない。だけど、例えどれほど超常的な知識をこの男が有していたとしても、人間であることに変わりはない。人並みの感情を、他者を思いやるような心を持っているはずだ。

 朧なら、この状況を好転させる何かを知っているんじゃないか?

 俺はただひたすら祈るようにして、朧の口から希望が紡がれるのを待った。

「君には、ずいぶんとつらい決断を強いることになってしまった。私たちは、君の友人を殺さなければならない」

 朧が口にしたのは、あまりにも冷徹な言葉だった。

 ……嘘だ。

 ……そんなはずない。

 何か、何か方法があるはずだ。

 この現実を好転させるための何かが。

 朧はそれを知っているはずだ。

 その可能性に賭けて俺は朧に真実を告げたんだ。

「どうしても、そうしなきゃだめなんですか? 現に今日だって響子は普通に生活していた。ちゃんと事情を話して分かり合うことだって――」

「不可能だ」

 朧はそう断言した。

 それは死刑宣告に等しい言葉だった。

「確かに今は平気かもしれない。だが、いずれ彼女の理性は凶暴な本能へと飲まれてしまう。そうなってしまえば、人であり続けることは出来ない」

 無意識のうちに拳を握っていた。そのことに気が付いたのは、朧へと向けて半ば反射的に一歩踏み込んだその直後だった。

「それで君の気が済むのならそうすればいい。だが、私を殴ったところで状況は何一つとして動かない。現実は何も変わらないぞ」

「……わかって、います。そんなことは」

 頭では理解していた。でも、感情では納得することが出来なかった。

「君にとっても、無論彼女にとっても、これが理不尽な状況であるということは百も承知だ。だがわかってくれ。これは、全ての人類のために必要なことなのだ。彼女が人殺しになることを君も、そして彼女自身も望んでいないはずだ。そうだろ?」

 どうすればいいかなんて分かっている。

 どうすることが一番いいのかなんて。でも、頭では理解していても、心が、感情が理解を拒んでいた。未だ、割り切ることが出来ずにいた。

「少し、時間をください。少しだけでいいんです。俺に、覚悟を決められるだけの時間を」

「このことは、瞳に話したのかね?」

「いいえ、まだ言ってません」

 彼女なら、月城瞳なら、あの吸血鬼なら、いったいどんな感情を抱くのだろうか。友人を殺さなきゃいけないと言う状況に対して、いったい何を思うのだろうか。もしかしたら、何も思わないのかもしれない。躊躇いや同情もなく、命を奪うかもしれない。心のどこかでそう感じていたからこそ、俺は響子のことを月城さんへと伝えずにいたんだろう。

「なるほど。だが、あまり猶予を与えることはできんな。その間に被害が出ることも考えられる」

「わかっています」


×××


「では、なるべく早めに決断してくれ」

 そう言葉を残して朧は去っていった。

「……畜生!」

 ゴンッ、という鈍い音が響く。こんなことをして何がどうなるわけでもない。強いて言うなら俺も右手が痛くなるという、ただそれだけのことだ。そんなことは十分にわかっているけど、例えそうだったとしても、行き場のなくなった衝動を抑えられるほどに、俺は大人じゃなかった。

 拳に血が滲む。壁には傷一つ付いちゃいない。

「畜生っ!」

 ただ虚しく叫び声だけが、薄暗い路地にこだまする。

 認めたく無かった。覚悟なんて出来るはずがなかった。響子のことを諦めるなんてことが、あいつが死ぬなんてことが、あっていいはずがない。わがままだってことぐらいわかっている。こんなのは所詮、ただの逃避にすぎない。

 ……言うべきじゃなかった。

 そんな今更の後悔が、俺の全身を駆け抜けていく。

 どうせなら、最初から響子本人にこの状況を伝えるべきだった。そうすれば、もっとましな解決策を見いだすことが出来たのかもしれない。

 なのに俺はそうしなかった。朧なら、あれだけの知識を持った者なら、何かの解決策を知っていると、祈るようにして願っていた。

 その結果として俺に突きつけられた現実は、残酷な真実だけだった。

「俺が、俺のせいで、響子は……」

 朧は恐らく月城さんへと、響子を殺すように命じるだろう。

 朧にとっても、月城さんにとっても、響子はただの標的にすぎない。

 いかに腐れ縁とはいえ、十年近くの間肩を並べて歩き続けてきた俺とは、決定的かつ致命的に『狗井響子』という存在に対する考え方が違う。

 そんな現実に俺が気づくのは、あまりにも遅すぎるこのタイミングだった。

 俺が廃工場で月城さんを目撃した、あの瞬間から、全ての運命の歯車が狂いだしたのかもしれない。極論かもしれないが、俺があの場所を訪れなければ、響子は死なすにすんだかもしれないのだから。それは、俺の軽率な行動と好奇心が響子を殺すということだ。そんなことは認めたくなかった。

 でも、今の俺に何が出来る? 俺は目の前で二度人狼の、響子の、あの馬鹿げた戦闘能力を、どうしようもない凶暴性を目の当たりにしている。あれが野に放たれ、その力を人間に対して向ければどんな悲劇が起こるのか、そんなことはあえて想像するまでもない。俺には、何か特別な力があるわけでもない。知識もない。経験もない。ただの一高校生にすぎない俺に出来ることなんて、あまりにも少なすぎた。

 

×××


 金曜日の朝、登校する俺の背後から誰かが声をかけてきた。

「あら、今日は一人なの?」

 声の主は月城さんだった。いつもなら俺の隣にいる人物、狗井響子は、朝の待ち合わせ場所に現れなかった。なので、今日は一人だった。

「残念ね、いろいろと話したいことがあったのに」

「月城さん……」

「どうしたの? 顔色が悪いわよ?」

「いえ……、やっぱり何でもありません」

 俺は、月城さんが響子の正体に気が付いていないと考えていた。でも、本当にそうなのか? わかった上で意図的に知らない振りをしているだけ何じゃないだろうか。あまりにも的確すぎる発言も、そうであるならば説明が付く。でも、そんなことをしていったいどんな意味があるんだ?

 まあ、今更そんなこと考えても仕方がない。どうであれ、響子が人外の化け物で、それを殺そうとしているという現状が変わる訳じゃない。

「もう少し気を楽にして。私はあなたの味方よ」

 味方。

 俺の味方。

 朧。

 月城瞳。

 吸血鬼。

「ああ、わかってる」

「大丈夫。あんな化け物に、あなたを殺させはしないわ」

 化け物。

 敵。

 俺の敵。

 俺を殺そうとする者。

 屍喰鬼。

 獣化能力者。

 ……狗井響子。

 月城さんは顔を近づけ、囁くような声で耳打ちした。

「次は絶対に逃がさない。確実にしとめる。だから安心して。あなたの敵は、あなたの命を脅かす存在は、全部私が排除してあげる。だから恐れないで。大丈夫、相手は人間じゃないんだから、あなたは何も悪くないわ」

 

×××


 この日、響子は学校へと来なかった。朧の言葉を正しいと証明するかのように。学校に来なかった理由は、今までに起こった出来事と朧の話を総合すれば嫌でも想像できる。俺が響子の正体に気付いていたということを、同時に、響子自身も気が付く。そんなことは少し考えればわかる当たり前のことだった。自分の正体を気付かれまいとすれば、行動を共にすることの多い人間を警戒するのは当然のことだ。

 自分の正体が人とは相容れない凶悪な化け物で、その殺戮本能を押さえることが不可能だと知ったら、いったいどんな行動をするか。それは三種類に分けることが出来るはずだ。すなわち、人間社会そのものから距離を置き隠者となって孤独に生き続けるか、自暴自棄のまま凶悪なる逸脱者となって人間に牙を向くか、絶望に打ちひしがれ、そのまま自らの命を絶つか、これらのどれかでしかあり得ない。

 俺は部活動を終え、帰路に就こうとした。その直後だった。

「メール? 送り主は……響子!?」

 あまりにも的確なタイミング、いや、送り主が響子なら意図的にこのタイミングに送ったと考える方が自然かもしれない。そして、メールにはこう書かれていた。

『今日二十二時三十分、マンションの屋上で待ってる』

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