第三章 告白 六
六
もう二度と響子と響子と会うことがなければ、響子のことを忘れ去ることが出来れば、最初から狗井響子なんて人間がいなかったと思えるなら、そうすれば俺は、この場を生き延びることが出来る。響子は俺を殺さない。
「そんなことが……」
出来るわけがない。少なくとも、こんな状況でもなければそう躊躇いなく断言できる、……はずだった。有効な代替案が提示できないような、こんな状況じゃなければ。少なくとも、響子の提案は間違いなく却下だ。だからって響子に殺されていい訳じゃない。響子の、人狼の戦闘能力は、十分すぎるほどに目の当たりにしている。今の響子を力業でねじ伏せて、無理矢理説得するなんてまず不可能だ。現実問題として、人狼という存在が驚異だってことに変わりはない。そのことは朧と、響子本人が言ったことじゃないか。
……畜生、結局は堂々巡りだ。
響子のことを無かったことになんて出来ない。もちろん殺されたくなんて無い。でも、状況を打開する手段がない。
いつかは凶悪な化け物となってしまう獣化能力者との、人狼との共存を可能にする策なんて、今の俺に思いつく訳がない。
俺には、朧のような豊富な知識があるわけじゃない。月城さんや響子のような超常の存在でもない。所詮は無知で無力な、平凡な男子高校生だ。俺には何の力もない。この状況を覆すような力なんて、有るはずがない。
「……いや、まさか!?」
ふと、俺の脳裏にある一つの考えが浮かんだ。
まさか。
……十分にあり得る。この状況を覆す回答が。もし『そう』ならば、全ての前提条件がひっくり返る。響子と、これからも、これまで通りにいられる可能性が、『二つ』の条件によってのみ可能となる。文字通り命懸けになるけど、だけど俺の心は即座に決まった。
俺は響子を信じる。
ならば賭けるに値する。もしこのまま何一つ確かめないままでいたら、一生後悔する事になるし、何よりこれまで以上に状況が悪化するはずだ。
「響子、俺にはそんなことは出来ない。お前を無かったことにするなんて事が、出来るはずがない」
「明、状況がわかってるの? どうしてそんなことが」
響子は俺の答えに対して心底呆れたような顔をしながら、やはり呆れたような声で応じた。人狼の姿、人狼の声でありながら、そうと分かるぐらいに呆れていた。でも俺は、そんな様子など意にも介さないかのように、響子の言葉を途中で遮った。
「好きだから」
自分でも驚いた。
この言葉を、こんな簡単に口に出来るなって。
だけど今は、迷ったり恥じらったりしている場合じゃない。
この最悪の状況を打破できるなら俺は手段を問わない。
今の俺に出来ることがあるなら何だってやってやる。
もうこれ以上、取り返しの付かない後悔なんてしたくない!
「……は? 明、いきなり何を言って」
「大切な友達だから、それ以上の理由が必要か?」
……いや、『好きだから』の後で『大切な友人だから』はさすがに逃げすぎか? でもノリと勢いで愛の告白とか、そんな風に取られぬのも釈然としないし、それにこれらの言葉そのものが嘘だとか、そういうわけでもないし……。
「何馬鹿なことを言ってるの!? あんたの目の前にいるのは、身も心も醜い、ただの化け物なのよ!?」
俺が頭の中でかなり場違いなことを考えている中、響子が叫んだ。悲痛な声で。何もかもを諦めたような声で。
「……だからどうした」
俺はそれを切り捨てる。
響子の問いを、そのたった一言で。当事者にしか分からないような痛みや苦しみ、そんな物を欠片も気にかけないような、ある種の残酷な返答だ。そんなことは俺も分かっている。でも、今はそれが必要なんだ。
「響子は響子だ。例え何があっても、どんな姿になったとしても、その本質は変わらないさ。その証拠に、今のお前のリアクションは全て俺の予想通りだ。それは今のお前の心が今までの響子と何一つ変わってないことの何よりの証じゃないか。誰よりもお前のことを知ってる俺が言うんだから間違いない。お前が今までと何一つ変わってない以上、お前のことを忘れなきゃいけない理由はないってわけだ」
響子はうつむいたまま静かに俺の言葉を聞いていた。
そして、少しの沈黙の後口を開いた。
「……どうして明は、……私のことを、嫌いになってくれないのっ!?」
そうか、それが答えか。この状況はそのためか。わざわざ俺をこの場に呼び出したのはそういうことだったのか。
でも、だとすればそれは大失敗だ。俺は今から全ての思惑をぶち壊してみせる。
この『賭け』は、俺の勝ちだ!
俺は勝利の確信と精一杯の強がりを込めて、過剰なぐらい芝居がかった声で告げた。
「もし、お前が狗井響子じゃないと言うなら、心を持たない化け物なら、今この場で、俺のことを殺してみせろっ!」
夜の屋上につかの間の静寂が訪れた。
直後、響子が吼えた。
俺は本能的な恐怖によって、一歩後退した。響子の、人狼の眼光が、殺意の色を放つ。上体を反らし、腕を振りかぶり、拳を固める。隆起する筋肉、逆立つ白銀の体毛、そして何よりも、まがまがしく渦巻く野性的で暴力的な原初の殺意。その姿は、最早人間ではない。狗井響子の面影など微塵にも感じられない、正真正銘の化け物だ。
俺と響子の間合いはおよそ五メートル。
響子が地面を蹴った。
ダンッ、という音と共に、白銀の巨体が弾丸のように加速する。たった一歩で間合いは詰まり、二歩目の踏み込みと同時に反らした上体が、振りかぶった巨椀が、一撃必殺の拳打を放つ。回避する隙は与えられなかった。防御態勢をとる余裕なんて無い。
……まあそもそも、元々、避けたり防御したりするつもりなんて微塵もないが。
狙い寸分違わず、人狼の拳は俺の心臓へと向けて打ち込まれた。
確かな衝撃が伝わる。
拳打は、間違いなく俺に命中した。俺の眼前に立っているのは、間違いなく人外の化け物だ。人を超えた力を持つ、闇に生きる存在だ。
「……だとしても、狗井響子であることに変わりなんて無い。そうだろ?」
俺は呻く。
意外と痛かったけど、その程度だ。旧地下鉄で屍喰鬼へと繰り出した拳からは、想像もできないほどに弱々しい一撃だった。
「制御、出来てるじゃないか。力も、心も」
避けるつもりなんて無かった。
そんな必要はないと信じていた。確証なんて無かったけど、だけど、響子のことを信じるのに、躊躇いなんて無かった。
心が響子のままなら、力は制御できる。そのことを、誰よりも響子自身に、もっともわかりやすい方法で知らせる必要があった。響子には全力の、殺意を込めた拳を、人を殺さないように押さえ込むことが出来る。
「あ、明、私は……」
あれほどまでに感じられた殺意はすでに消え失せていた。力なく崩れ落ちる響子の巨体を、俺はどうにか抱き留める。
「大丈夫だ」
強く言い聞かせる。響子に、そして、俺自身に。
「お前は心を失ったりしない。それはお前が、そうなると思いこんでるだけだ。そんな物は不安と恐怖が作り出した幻想だ」
響子の言葉には、そもそも根拠がなかった。だから、いずれ心を失ってしまうというのは、現状からの推測とただの思いこみにすぎない。その可能性には、賭けるだけの価値が十分にあった。
結果として、少なくとも今の響子は自分の能力を制御できる状態にある事が証明できた。
そのことは、ある一つの可能性を提示する。
朧の言葉だ。
あの男は嘘を付いている。俺に対して、意図的に偽りの情報を教えている、という可能性だ。
まあ冷静に考えれば、彼の言葉を鵜呑みにしてしまう方がおかしいのだけど、俺が置かれていた状況は、彼の言葉以外に頼るべき物がなかった。
「明……」
「響子、俺は……お前の味方だ」
揺らいでいた俺の心は、固い決意によって定まる。
「俺は響子のことを信じる。例えこの先にどんな運命が待っていても、俺が、俺だけは味方でい続ける」
響子の全身から白銀の体毛がバラバラとはがれ落ち、巨体が徐々に縮んでいく。頭髪は黒へと戻り、両眼からは殺意の色が消えていく。そして数分と経たない内に凶悪な人狼は、ただの少女へと、狗井響子へと姿を変えた。
「ごめん、……ありがとう、明」
響子は涙を流れるに任せ、嗚咽と共にそう言った。
俺はただ、強く響子のことを抱きしめる。人間だとか獣化能力者だとか、そういうことは兎も角として、『狗井響子』は今、確かにこの場所にいる。
「明……」
少し経って落ち着いたのか、再び響子が言葉を発した。
「……目をつぶって、それから手を離して」
「響子?」
「ええっと、まあ、うん、とりあえず服を着たいんだ」
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