第三章 告白 二
二
今日は珍しいことに、月城さんと一緒に登校したこと以外には、これといって特筆すべきことが起こらなかった。驚くほど普通の、いつも通りの時間が過ぎていった。ここ数日は立て続けに色々とあったので、何となく拍子抜けしてしまう。
授業を終え、部活動が終わり、さあ帰宅となった。響子は急ぎの用事があるとかでそうそうに帰ってしまったので、何ら問題ではない筈だ。一礼しつつ先輩達に挨拶ををした俺は道場を後にした。
先輩達は特に用事があるわけでもないのか、ダベりながら残っていた。響子が休憩時間に質問しか人狼に関する噂がキッカケになったのか、上森先輩を中心としてオカルトやら都市伝説やらの話題で盛り上がっていた。
……しかし。
「何の用ですか? 月城さん」
道場を出てすぐのところで月城さんが手招きしていた。周囲に人がいない以上、それが俺に対するものと考えて間違いないだろう。
「ついてきて、賀上君」
そう言うと月城さんは階段を昇り始めた。俺も黙ってその後をついて行く。
彼女に案内された場所は、校舎の最上階にある教室だった。進路資料室として使われている場所で、他の教室とは違い、鍵をかけずに常に解放されている。
「月城さん、一体何を?」
「ここなら誰にも邪魔されない。私と賀上君で二人っきりになれるわ」
その台詞はとても魅力的だ。特に、恋愛の『れ』の字も経験したことのないような男子高校生に対しては、非常に危険な誤解をさせてしまうだろう。ただし、相手の正体を知らない場合に限るが。
自分の味方であるとはいえ、そのことを当人の口から聞いたわけではない。なので、実のとこと、俺は別に月城さんのことを心の底から信用していたというわけじゃない。むしろ、今のこの状況に限って言うなら、俺は月城さんのことを警戒していた。
そんな俺の心を知っているのかどうかはわからないが、月城さんは窓際に立ち、外を指さしながら言った。
「見て、窓の外、あいつ等の姿が見えるでしょ」
俺は月城さんの隣に立つと、彼女の指さす方へと視線を送った。
「まさか、屍喰鬼!? どうして学校にあいつ等が」
校舎の裏。
普段は生徒が出入りしない場所で、人の視線が向かいづらい場所だ。そこに、俺が駅や旧地下鉄で遭遇したのと同じ様な、あのおぞましくも忌々しい、人に有らざる異形の化け物、屍喰鬼と呼ばれる存在がいた。
「あなたか私を追ってきた、あるいは偶然姿を現したか。でも、今はそんなことなんてどうでもいいの。あいつ等がどうしてこの場所にいるかなんて」
俺の方へと月城さんが視線を合わせ言葉を発した次の瞬間、俺は、金縛りにでもあったかのように動けなくなった。月城さんは俺の方へと近づいてきた。そして、月城さんの白く細い指が俺のワイシャツのボタンに触れ、上から一つずつ外し始めた。
抵抗は、出来なかった。
月城さんの唐突な行動の意図を計り知ることは出来ず、俺は言葉を発することも出来ないで、ただ為されるままに、無防備に立ち尽くしていた。
「あなたが私たちに協力してくれるなら、私はあなたを守る」
吐息が掛かるほどの距離まで近づき、そして囁くような声でそう告げた。その一言一言が脳へと媚薬のように染み込み、俺の思考を弱らせていく。
「私は今からアイツ等を倒しに行く。そのために、あなたの力を貸して」
「俺は一体、何をすればいいんですか」
俺が絞り出すようにして言葉を発したその直後だ。無防備に晒された俺の首筋を、月城さんの舌が舐めた。
ゾワリ。
首筋から全身へと痺れるような感覚が広がっていく。
「そのまま、じっとしていて。すぐに終わるから」
次の瞬間、何かが皮膚を貫くような感触があった。痛覚はほとんどないが、貫かれた場所から何かが吸い出されているということがわかった。
貫かれたのは首筋。貫いたのは歯。月城さんの鋭い歯が俺の首筋を貫き、そこから血を吸っていたのだ。
「月城……さん……」
吸われているのは、本当に血だけなのだろうか。まるで魂そのものを吸い取られているかのような、そんな錯覚すらも覚える。いや、錯覚じゃないのかもしれない。吸血鬼が持つとされている強靱な生命力や不死性、それが吸血という行為によって相手の魂を吸い取っているのだとすれば、確かに納得がいくかもしれない。
「……っぁあ……」
全身が弛緩し崩れ落ちそうになる。その直後、月城さんが俺の背中へと腕を回し抱き留めた。細い両宇腕が、自立する事すらままならない俺の全体重を支える。
吸血。
自分の中の何もかもが流れ出していくようなそれは、今までに感じたことのない様な、未知にして至上の快感だった。華奢な腕に抱かれ、冷たく、しかし柔らかな肌と、脈打つ胸の鼓動、そして吸血の、そんな未知の感覚の中に溺れ、意識がぼやけていく。教室の壁にもたれ掛かり崩れ落ちる俺が最後に目にしたものは、黒い髪が白銀へと変化し、赤く輝く眼へと変化した月城瞳の、夕焼けのオレンジを浴びた姿だった。
×××
「……っ!」
意識が戻ってきた。
まだぼやけている視線が教室の時計を捉えた。気絶していたのは三十分間ぐらいのようだ。少しだけ頭がくらくらする。気絶の理由は多分貧血と考えるのが妥当だろう。それ以外の超自然的な説明が出来ないわけではないかもしれないが、とりあえず貧血によるものだとしておく。
ともかく、いよいよもって彼女が吸血鬼だということが、揺るがない事実となった。首筋に穿たれた二つの穴はもう塞がっているけど、僅かに残った痕が月城さんに血を吸われたという事実を思い出させる。俺が月城さんとの目を見た直後に動くこと合できなくなったのも、今思い起こしてみると吸血鬼としての能力の一つだと考えることが出来る。視線を合わせた人間を意のままに操る、いわゆる『魔眼』の様な力は、吸血鬼が持つとされる能力の中では比較的ポピュラーなものだ。
「さて、どうしたものか」
周囲に人の気配は感じられない。俺をここへと案内した張本人である月城さんも、すでにこの場にいない。彼女は屍喰鬼を倒しに行くと言っていたので、今まさに学校の近くで屍喰鬼と壮絶な戦いを繰り広げているか、あるいは脅威を排除し俺のことを放置したまま下校したか、そのどっちかだろう。
直感的にだけど、俺は後者のように思えた。だとすれば、俺もこのまま帰るのが一番妥当な判断なのかもしれない。そんなわけで、俺は無人の教室を後にした。
そういえば、吸血鬼に血を吸われると、吸われた人間も吸血鬼になるなんて話をよく聞く。そう考えると猛烈に嫌な予感がするが、幸いなことに、今のところ体には特に違和感がない。多分大丈夫だとは思うが、後で一応月城さん本人か、あるいはあの朧という男に訊いてみるとしよう。
当然だが来た時よりもずいぶんと暗くなっている。最終下校の時間を過ぎると色々と面倒だ。もし仮に、例えば月城さんが屍喰鬼まだ倒していなくて、奴等と命がけの戦いをしている最中だったとしても、やはりここは早々に退散するのが得策だ。俺が行ったところで、何か役に立てる訳でもないし。
物音が聞こえた。
何かが争うような、追われ、追いかけるような、攻撃し、反撃するような、そんな音が、僅かだが聞こえた。
「中庭の方か」
行ったところで何が出来るわけでもないし、足手まといになるのは明白だ。そもそも危険なところへと自分から首を突っ込むのが、どうしようもなく愚かなことだというのは、俺も十分に理解している。
それでも俺は、自分の好奇心を抑えることが出来なかった。彼女が、人に有らざる存在が、月城瞳がどんな戦いをするのか、それを見たいと思ってしまった。
なるべく物音を立てないように、しかし急ぎ足で、俺は音の聞こえた方を目指す。
何かがものすごい速度で走っている。獣のようなうなり声、空を切る刃物の音。俺は中庭へと出て、物陰から音のする方を覗いた。
「あれか!?」
俺の視界へと飛び込んできたのは、白銀の髪と紅い眼をした月城瞳と、それに対峙する異形の化け物だった。
「まさか、あの時の」
月城さんと戦っていたのは屍喰鬼ではなかった。
獰猛な肉食獣、特に、狼によく似た外見的特徴を持った白き獣人。俺が旧地下鉄で遭遇し、その後朧が提示した倒すべき凶悪な敵。人狼の名で呼ばれる邪悪な怪物だった。
どうやら二人とも、俺のことには気がついていないみたいだ。
人狼が仕掛けた。鋭い鉤爪を備えた、太く毛むくじゃらの腕が月城さんへと振り下ろされる。
回避。
振り下ろされた豪腕が空を切る。直後、月城の手に握られた得物が夕日の光を浴びてきらめいた。刃物、それも、刃渡り三十センチはあろうかという大振りなナイフだ。その刃が、人狼の空振った腕へと向けて素早く振り下ろされる。
太刀筋は見えなかった。俺が知覚することが出来たのは、ヒュンッ、という音と、その直後に飛び散った鮮血だけだった。
白い体毛が赤く染まる。
低い唸り声を上げ、切られた腕を押さえながら、人狼がうずくまった。流れる血の量から、かなりの深手だったことが簡単に想像できる。
月城はナイフを構え、ゆっくりと人狼へ歩み寄った。俺には、月城がこの後何をしようとしているのか即座に理解した。しかし、繰り広げられるであろう凄惨な光景を鮮明に予見しながらも、俺は不思議と目を離すことが出来なかった。
月城さんがナイフを振り上げた。無機質で鋭利な刃が無慈悲に煌めく。
次の瞬間、人狼が動いた。低い体勢のまま大地を蹴り、月城さんとの間合いを一気に詰め、そのまま体当たりを敢行した。
不意をつかれた月城がよろめく。人狼はその隙を逃さず、一直線に駆け抜けることで逃走した。一瞬、人狼が俺の隣を走り抜けた瞬間、俺の目はその姿を鮮明に捉えた。月城さんも即座に体勢を立て直し人狼を追う。
俺はただ一人その場に残され、呆然と立ち尽くしていた。
「人狼、アイツの正体……」
朧から渡された写真は、少女が人狼へと変化する瞬間を捉えたものだった。俺は今、その鮮明な姿を間近で見て、そして実感として理解した。異常なまでに発達した筋肉、全身を覆う体毛、凶悪な相貌。それでいて全体的にどこか女性的な印象。それはすでに知っていたことで、それを実物によって確認できたというだけのことだ。
だけど、その表情や髪型、あるいは僅かな仕草に俺は強烈な既視感を覚えていた。誰か、俺の身近な人物が、実は人狼なんじゃないかという疑念が頭の中を駆け抜け広がっていった。
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