第一章 遭遇 三


 俺の一日は何事もなく進んで行った。

 中学から高校に上がる時は、何かそれだけで未知の世界へと飛び込んでいくような気分だった。だけど、実際に高校生になってみれば大したことがなくて拍子抜けした。

 そして何の因果か、小学生のころからの知り合い、響子のことだが、そいつと、今でも同じ学校の同じクラスにいて、毎朝のように一緒に学校へと来ているわけだ。腐れ縁と言ってしまえばそれまでだし、腐ってる縁なんだからそれ以上のことはないだろう。

 先日の金曜日に俺は未知の世界の目撃者になってる。だけど意外すぎるほどに平和で平凡で平穏な時間は続いている。

 ……いや、冷静に考えてみよう。未知の世界なんて言い方は飛躍しすぎじゃないのか? あの少女が人間じゃないというのは俺の主観的な問題で確固とした確信や証拠があるわけじゃない。俺が廃工場の中へと踏み込んだ後に彼女が姿を消したことに対しても、錯覚や思いこみで説明が付けられるかもしれない。響子の噂話だって信憑性は皆無だ。そもそも、吸血鬼の噂とあの少女を結び付けたのは、俺の単なる思い付きだ。

 ……これが、いわゆる都市伝説というやつの生まれる原因か。

 現実がこうであってほしいと願った人々が、自身の体験した出来事に、飛躍した妄想を重ね合わせて、その二つを関連付けながら、さもそれが現実であるかのようにして語ることによって生まれているんだろう。

 そんなことはともかく、今は既に放課後。俺は部活動の為に道場へと向かっていた。

 俺が所属しているのは合気道部。ついでに響子も同じく合気道部だ。相談したわけではないにも関わらず、何故か偶然にも同じ部活に入った。恐るべし腐れ縁。

 体育館の隣にある道場へと辿り着くと、特に何も考えずに扉を開ける。軽く一礼すると、ぼーっとしながら道場の真ん中あたりまで歩き、なんとなく不意に視線を上げた。

 俺の視線の先に響子がいた。そのこと自体は別にどうでもいい。いや、どうでもいいような状況じゃないんだが、少なくとも響子がいたということ自体は驚くようなことじゃない。問題だったのは、今の響子の格好だった。合気道は道着と袴を着てやる。うちの部活では男女ともに初段と同時に袴が穿けるようになるので、俺や響子なんかは単純に道着だけだ。

 ちなみに女子は道着の下に体操着を着ている。ともかく、部活を始める前には道着に着替えるという工程が生じるわけだ。

 ……で。

 今の響子がどんな格好をしていたのかというと、短パンとブラジャーだけの格好で、体操着に手を伸ばしているという、まさに『着替え途中』と言った感じの姿だった。

「ぁ……」

 それが、俺と響子のどちらが発した声なのかは分からない。あるいは二人同時だったのかもしれない。この瞬間、俺の思考はほとんど停止していた。ある意味では朝、響子から吸血鬼の噂を聞いた時以上と言ってもいい衝撃だ。ショートに切られた髪と程よく引き締まりすらりと伸びた肢体が、健康的な美しさを強調する。白い無地に小さな飾りリボンのついたシンプルなブラジャーは、なんとなくだが、彼女の性格をわかりやすく表しているような気がした。そして、それに包まれた確かなふくらみは、狗井響子が確かに女性であることを否応にも意識させ、しかし、全身にまだどこか幼さを残す身体は、少女と女の狭間に彼女がいるということを気付かせる。そんな響子の姿を見つめたまま、俺は完全に静止した。

 この状況にどう対応したらいいのか分からず、動くことも声を発することもできずにいる俺に対して、響子はゆっくりと視線を上げた。そして、静かに呟いた。

「……何だ、明だったのか」

 特に恥じ入る様子もなく、照れるという風でもなく、まるでそれがどうでもいいことのように、そう言ってのけた。

「何だってなんだよっ!」

 ちなみに、更衣室は道場のすぐ近くにある。……が、実は合気道部の男子は誰一人として更衣室を使っていないし、女子もほとんど使っていない。みんな道場で着替えている。理由は単純に面倒だから。俺達男子はともかくとして、女子的にそれはありなんだろうか。ちなみに、大体全員が集まってから着替え始め、着替える時は、女子は道場の隅の方に集まって着替えており、その間俺たちはそちらの方に視線を向けないという、暗黙のルールが出来上がっていた。まあつまり、どういうことかというと、今のこの状況は、『道場で響子が着替えている』という、それ自体はおかしくないが、その着替えを目撃してしまったことは完全なる不可抗力で、言うなれば響子の不注意であり、俺自身に非はないということを理解してほしいということだ。

「いや、明なら別にいいかなって」

「……」

 なんだろう、この感じは。女子の着替え現場に遭遇する。俺のこの状況は、生涯における幸運を使い尽くしたところでたどり着けないような幸運の境地にいるものだと、ほんの数秒前までは思っていた。これは、それは俺の認識が間違っていたのだろうか。この状況は俺が思っているほどに特別な状況ではないということなのだろうか。それとも、人前で下着姿を晒すという行為は、実は女子高校生の価値観からすると、意に介するようなものではないということなのだろうか。……いや、そんなはずはない。少なくとも俺はそう信じている。

「どしたの?」

「いや、何でもない」

 どうでもいいが、いや、どうでもよくないが、着替えを中断してその格好のまま俺と会話するのはやめてもらえませんでしょうか。目のやり場に困る上に、極めて精神衛生上よろしくないのです。そんなことを考えていると、どうやらその思いが通じたのか響子が再び体操着へと手を伸ばした。前かがみの、前屈の姿勢を彼女がとった瞬間、俺は思わず息をのんだ。

「何、明。そんなにじろじろと。今私が『きゃーっ』とか叫べば、明のこれからの人生に、とても不名誉な傷を負わせることが出来るんだぞ」

 とても嫌な脅しだったけど、響子のその口ぶりからは、それが冗談だということが読み取れたし、何より、今の俺の関心は、響子の下着姿にはなかった。

「その背中の傷、どうしたのかなって」

 響子の、背中の、首筋から腰のあたりにかけて、いくつもの大きな傷が出来ていた。擦り傷や切り傷など、特に切り傷は、まるで肉食獣にでも襲われたかのような鋭さと荒々しさがあった。今までは気が付かなかったが、しかしよく見ると傷は全身に及んでいる。幸いそれらの傷はほとんど治りかけていたし、痕が残りそうな様子もない。そのことは他人事ながら安心せざるを得なかった。

「ん、ああ、これのことか。これはね、休みの日に自転車に乗ってて、その時盛大にこけた」

 体操着を着ながら響子はそう応じた。

「大丈夫なのか?」

「へーきだって。もう血は止まってるし、それに、昔から傷は治りやすいみたいだし」

「そういう問題なのか?」

 響子のそんな受け応えから察すると、あまり大したことじゃないんだろう。あるいは、あまり詮索してほしくない、ということなんだろうか。流石に、それはうがった見かたか。

「そういう問題なの。ま、まさか明」

「なんだ?」

「もう一回見せて、とか言って、本当は私の裸を見るのが目的なんだな、このヘンタイめ!」

「そんなつもりはさらさらねーよ!」

「明、そこまでバッサリ言われると、女としてのプライドが少し傷つくんだぞ。まるで私に全く魅力がないみたいじゃないか」

「お前の第一声『何だ、明だったのか』よりは遥かにマシだ。あれは、俺の男としてのプライドを傷つけるものだ」

 本当に傷つけられたんだぞ。俺のことを異性として見ていないというその感覚は、まあ俺と響子の腐れ縁的人間関係上、ある意味では仕方のないことではあると思う。それに、そういった響子の感覚が俺に対する信頼、すなわち、ああいう状況で俺が理性的に居られる人間だと信用されているということは、俺のことをある意味好意的にとらえてくれているわけだから、うれしくないというわけじゃない。さらには、そんな響子の感覚に対する副産物として、素晴らしいラッキーに遭遇したわけだから、俺も不満がある筈がない。まあ、後者に関しては、響子の信頼を裏切っているような気がしないでもないが、仕方ないじゃないか、男子なんだから!

 俺のそんな思考などお構いなしに、響子は高らかに言い放つ。

「だって、明がいくら傷つこうと、私の知ったことじゃないからね」

「酷いことを言うじゃないか」

「いつものことでしょ」

 そりゃ、いつものように言われてるけどさ。だから、なれたというか何というか、昔からこんな感じなので、最早罵倒だとは認識しなくなっている自分がいた。腐れ縁って恐ろしい。俺と響子がそんなバカなやり取りをしているとほかの部員たちが道場に入ってきた。

 二年生の上森久遠かみもり くおん先輩だ。

「何々、どうしたんだ? 明が響子ちゃんにセクハラをしたって?」

 にやにやしながらそう言ってきた上森先輩に対して、俺と響子が即座に応じた。

「違います!」

「その通りですよ!」

 俺達の相反する主張が、道場の中に響き渡った。

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