死神の誘い
どれくらい、そうしていたのだろうか。鏡の中の二人は再び立ち上がり、一歩ずつ山頂へと歩み始めた。
僕もいくらか落ち着いたらしい。少女に抱かれ、見事な着物の帯を、鼻水と涙でべとべとに汚しながら、顔を上げる。
「行かなきゃ、だめかな」
「ええ。もう大丈夫でしょう」
「うん、多分。またひと悶着あるかも知れないけど」
それでいい。それでも、いい。
立ち上がった僕、立ち上がった少女。
もう会う事もないだろうが、こうして救われたことを、本当に思い出せるのだろうか。
ちょっと感慨深い気持ちになって、ぼんやりと美しい顔を見つめていると。
「あーあーくっだらない。汚い芝居だったねー」
女の声がしたと思ったら。
少女と僕の胴体を、鉄の塊が素早く過ぎ去る。
かと思うと、僕は上空に浮かび、二つに分かれて燃え尽きていく少女と、ぼんやりと立ち尽くす僕自身を見つめていた。
なにが起こった、どうなっているんだ。
その答えは、最悪に近い形で、僕の腕にすがるもう一人の死神が教えた。
「やっほー。赤ちゃんプレイお好みだった? でもあんな貧乳よりか、あたしのほうが絶対いいっしょ? ね、ほら、やーらかいよー」
押し付けられる、褐色の乳房。だがそんなもの、全く魅力的に思えない。
「お前、なにをしたんだ! 僕をどうするつもりだ!」
「なによー? あたしはあんたの願いを叶えただけだよー」
「馬鹿な! だったら、だったらなんで」
僕の身体は、鞄から再び縄を引き出して、樫の木の幹をよじ登っていくんだ。
死神に触れられるってことは、今の僕は魂なのかもしれない。あれは僕の身体か。でも僕は、生きたいはずだろう。
「……あのさー、自分がないクズなのは分かったんだけどさー。ちょっと流され過ぎでしょー。勢いで死のうとして、勢いでまた生きるってなんなのー? 死神なめんなよ。ぬか喜びさせんなってこと」
こいつ。
「ついでにあいつもムカつくし、不意討ちしてやったのよ。生身のあんたを抱こうとして、半端に力を落としたから、あたしでも斬れちゃった。へっへーん」
にやにやと唇を歪める黒ギャルの死神。AVと同じ軽い微笑みが、今はたまらなくうっとうしく思える。
お前は今出番じゃないんだ。抜きたいわけでもなんでもない、それより大事なことがあるんだ。
怒りが体を動かした。チューブトップの肩を強くつかむ。
「戻せよッ! 僕は死ぬことなんて望んでないんだ。あの体はお前が動かしてるんだろ。こんなやりかたじゃ、あいつに勝ったことにはならないだろ。それでいいのか」
固いものが側頭部を打つ。奇妙な感覚だが、僕は空中に叩き付けられた。
どろり、とこめかみから血が流れてくる。大鎌の石突。死神は、鍛えられた鉄の棒の後端で、僕を殴ったのだ。
痛みは恐怖を呼び起こす。こいつは死神。魂を自在に扱える死神。近寄ってきた女が僕の頭をつかんだ。怒りに歪んだ顔を寄せ、猿の化け物のような目で、僕をにらみつける。
「っせーな。まだ痛い目に遭いてーのかよ。お前やっぱ馬鹿だな。あたしだって万能じゃねえ。干渉できるのは、魂の抜けかかった半死人だけなんだよ」
「はん、し、人」
半分死んだ人間、生きる気力を失くした人間ということか。
あの二人のさまを見せられて、首に縄をかけたときの僕は、なにも変わっていないというのか。
「きゃははははっ! あんた、なんにも分かってないね」
呆然とする僕を突き放し、死神が哄笑する。
くるくると回りながら大鎌を振るうと、再び青い炎があふれる。
火が僕の魂を取り巻いていく。熱くはないが、光が視界を遮っていく。
「教えてやるよ、お前本当は死にたいんだ! 感情さらしてあのバカに泣きついて、死ねば友達が傷つくことが分かって、それでもまだ死にたいんだ。本当の所は、もう嫌だと思ってるんだろ。だって面倒くせえもんな、本当のお前を知られて生きるの、自殺未遂を背負って生きるの、友達が先に幸せになって、置いていかれて負けた人生を生きるのはさッ!」
機関銃のような言葉の中、僕の目が像を結んでいく。
三十歳くらいであろう僕だ。今と同じ小汚いアパートに一人で暮らしている。
安い給料で、残業の多い会社につとめ、頭の薄くなってきた僕。
月に一度の休日。今と同じように、ポルノを見て、マスをかいてると、いきなり電話がかかってくる。
三男が無事に生まれた、環さんと光也くんの夫婦からだった。
相変わらずの僕は、二人を傷つけたくない一心で、心の底をえぐりながら、受話器で笑顔を作るのだ。
『本当に良かった、今度また会おう』
八年経つ自殺未遂の話題で、ひとしきりいじられた僕は、満足そうな顔で約束を取り付け、電話を切った。
その向こう側。電話を切った光也さんと環に、雰囲気の似た利発そうな女の子が話しかけている。
『ねえ、またあのおじちゃんくるの? お父さんとおなじ年なのに、じぶんのかぞく、いないの?』
環さんと、光也くんの笑顔が鈍る。説明する言葉に歯切れがない。
この子は多分、僕という負けた人間の存在が信じられないのだろう。
それを知ってか知らずか。部屋の僕はやたらにやる気を出し、散らかった布団上を片付けてシャワーを浴び始めた。にやつく顔が異様な気色悪さを帯びている。
友達の幸せを自分の幸せにする、哀れな敗残者の姿だ。
向こうが持て余しているとも知らず。
ああ、そうなんだ。たとえ生き残ったとしても。
負けを背負った僕の存在は、この先きっとあいつらからも疎まれるのだ。
生きたところで、今日のことが、重荷になる日がきっと来る。
「やめろ、やめて、くれ……」
体を取り巻く炎の中で、僕は膝をついたらしい。もう、なにをしているかもわからない。頭の中で、兵士の大群が銅鑼を打ち鳴らしているようだ。割れそうに苦しい。
それでも、死神の声だけは聞こえる。
「おいおいおい、なに言ってるんだよ。これはお前の心なんだぜ。お前が作った、お前が信じる可能性なんだぜ。ここで死ななきゃ、そりゃあいつらは助かるさ。でもここで死ななかったお前は、本当に助かるのかねえ? 負けて生きてて良い事なんて、本当にあるか?」
お守りのように僕を慰めていた少女の感触が、体から失われていく。
代わりに僕を包むのは、毎晩映像で妄想していた、生々しい女の身体。
僕を胸元に抱いた死神が、耳元に唇を寄せる。イヤリングやネックレス、ブレスレットがちゃらちゃらと蠱惑的に鳴った。細い指が僕のあごをそっとつかむと、目を覆っていた炎が消える。妖艶な顔が僕を覗きこむ。
「なあ、あたしは醜いか? 抱く価値もないか? 魂を渡せばいいんだ、好きにしていい。負けも勝ちもねえよ。ただ死んで、おぼれりゃいい。あんたは十分やったよ、ずっとあたしと気持ちよくなってて、いいんだ……」
僕を殴りつけ、血を流させた奴とは思えない。言葉が、甘く染み入るかのようだ。力が抜けていく。
「心配いらない。愛してやるよ、あんたがクズ野郎でもなんでも。だから、魂をくれよ。あんたがいくら、生きてたところで、あたし以上なんてもう居ない、分かるだろう、諦めな」
マスカラで彩られた瞳から逃れられない。唇が迫ってくる。視界の端で、僕の身体がこずえに結んだ縄を、自分の首にかけ終える所だ。今度こそ、完全に死ぬのだろう。
だけどそれと、負けたクズとして生きること、どれほど違いがあるのだろう。
どうせ一生手に入らない、肉欲が満たされるというのなら。潔く負けを選んだ方が――。
甲高い悲鳴が、僕の意識の底に響いた。
青白く煙る視界の端に、環さんと光也くんが居た。
とうとう、山頂に着いてしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます