自分の壁

「……少しは分かったかしら、あなたのことを心の底から追いかけてくれる人が」


 優しく諭すような、穏やかな口調だった。

 僕はひざをつき、うつむいたまま何も言えなかった。鏡は、二人で必死に、夜の山道を登り続けるあいつらの姿を映し続ける。


 あいつら、何で僕に婚約を黙ってたんだとか。友達のふりして、僕を馬鹿にしながらセックスで盛り上がったんじゃないだろうかとか。


 そういう僕の考えがくそにも等しい間違いだということは、認めざるを得ない。


 悲しいことに、僕だって馬鹿じゃないから。


 だからって、僕がどの面を下げて、あいつらに会えるっていうんだろう。


 公務員試験の講座が大変だと漏らす光也くんに、しれっと合格を伝えるつもりで、僕は一人で必死になってた。過去のテストも、単位も、優秀な成績も、そうやって勝ち取ってきた。


 他の奴が懸命なところを、涼しい顔で、するりと抜けでるのが僕のキャラだったんだ。

 あいつらの前でもそう振る舞った。だってあいつら僕より下だから。


 新歓で見た光也くんは、一人じゃ誰にも話しかけられない、自分の気持ちもびしっと言えないような奴だし。環さんだって、僕たちが声をかけなければ、ぶらぶらして変なナンパに引っかかって、食われて傷つくだけの、そのへんの女の子だったはずだろう。


 お前らとは、違うんだ。

 それが僕の誇りなんだ。抱えていたから、生きられた。


 死のうとした所なんて、あいつらに見つかったらどうなる。


 もうあいつらは、僕の苦しみを知ってる。試験に落ちて、不安と恐怖で泣き叫びながら、履歴書を叩き付け、受験票を引き裂いてのたうち回ったことまで知ってる。


 このまま、生きることを選べばどうなる。

 あいつらに見つかったら、眼前で必死に守ってきた、僕が崩壊する。


 それだけ、それだけは――。


 歯が砕けそうだと思ったが、口は勝手に噛み締め続ける。

 出そうと思ってもいないのに、うめき声がもれてきた。ほぼ無意識に地面を握った手が、ぶるぶると震えている。


 暗くてよく分からないが、血を流しているのかも知れない。


 僕の気持ちを見て取ったのか、少女がふわりと傍に降り立つ。

 煩悶を解きほぐすように、白い手がそっと包み込んでくる。


「生きることは、ときに苦しみを背負うことよ。完璧に見えるどんな人でも、隠れた傷を持っていることがある」


 分かったような物言いに、僕の怒りが出口を見つけた。


「僕にはそんなものないッ! あったってない! 見られてたまるか! 見たやつなんて生かしておけるか! 僕を知ってる奴なんていちゃいけない! 知ってる奴が、知ってる奴が僕なんか心配するはずが……」


 殴れるのなら、殴っている。こいつが死神じゃなく、見かけ通りの小さな少女なら、きっと絞め殺してるだろう。


 自分でも恐ろしくなるような声を出しているというのに。


 言いよどんでしまったのは、鏡を見てしまったからだ。


 二人が立ち止まっている。いや、正確には、うずくまってしまった環さんを、光也くんが必死に立ち上がらせようとしている。


 闇の中に、こうこうと浮かぶ金色の髪。ふせった顔は見えないが、小さな女の子みたいに嗚咽の交じった蚊の鳴くような声が聞こえる。


「こわいよ、みつ。また、私、見つけるんじゃないの。お父さんのときみたいに、わたしのせいじゃないのかなあ」


 僕は馬鹿じゃない。環の言っていることから、事情が想像できる。自殺というただそれだけのことに、環がどれだけの痛みを抱えているか。

 光也くんがしゃがみこみ、環の細い肩を抱いた。うっすらと涙も浮かんでいる。


「違うよ。違う。環は間違ってない。おれだって怖いけど、間に合うかも知れないだろ、いや、居ないかも知れない、まだ何も分からない。確かめないと」


「分かるもん! 私のせいだよぉ……わたしが、大学とか言ったから、お父さん、いっぱい、いっぱい無理して、私が、みつを、みつに、好きだって言って、だからあいつ、あいつ傷ついて。いつも、あたしのせいで、みんなみんなだめになるんだ。あたしがみんなをだめにするんだよ」


「環……!」


 取り巻く闇は、二人を覆いつくすかのようだ。


 光也くんは環さんを抱く細い腕に、必死に力を込めている。文化部ばかりでやってきて、ろくな運動してないって言ってたのに。僕と同じで、不良の一人ものせないような腕なのに。


 とても、力強く見える。

 ただただ、環さんを守ろうとしている。


 僕は何も知らなかった。たかが僕が死ぬだけのことが、環さんを、二人をここまで傷つけるなんて。


 力が抜けていく。これ以上何が言えるだろう。

 二人は、僕のことを思っていない。二人が、二人の心を守るために、僕が死なないようにしている。


 でも、それの何が悪いって言うんだ。まっすぐ、僕にぶつかってるだけだ。

そう、今まで通り。


「……くっそぉ、死ねないだろうが、くそ」


 言葉にならない。豪雨のような涙があふれる。泥土に塗れた手で、いくらぬぐっても止まらない。僕はどんな顔になっているんだろう。


 あるいは、本当に僕が追い込まれていたら、あの二人の態度は引き金を引いたのかも知れない。こんなに二人を苦しめた、もう生きていられないって。


 でもこの涙は、違うんだ。


 本当の僕は生きる気まんまん。情けない悲しみを見られたくなかった。死なんて、そのための手段だった。それも自分で気づけなかった。


 怖かった。深く、あいつらと触れ合うのが。僕をあいつらに知られるのが。


「もういいよ、僕は、僕、謝るよ、あいつらに……なんて言っていいか、分からないけど、これからは」


 涙と鼻水にまみれているであろう僕に。少女がにこりと微笑んだ。

 すると、その姿が急に現実に戻ったかのように思えた。


 抽象的な言い方だけれど。その少女のどくろと蝶の着物も、星の光でも閉じ込めたかのような真白い肌も、神秘的で美しい端正な顔立ちも、全てが僕の前に改めて現れたかのようだった。


 少女が僕の前で膝をつく。着物の袖が迫ってくる。さらりとした細い感触が、僕を包み込んでいく。長い黒髪が少しだけ頬をくすぐり、甘い、石鹸みたいな匂いの中に閉じ込められた。


「良かった。偉いわ、あなた。辛かったでしょう、今までのあなたを壊すことは」


 ぽん、ぽんと軽く背中を叩かれ。蕩かすような声が、僕の心を引きずり出していく。


「うぁ、あ、ああ……あああああっ!」


 わずかな膨らみと、着物の感触の中に。僕は自分の感情を吐いた。

 華奢な死神の胴体を抱き、赤ん坊みたいに思いっきり泣く。


 泣き叫びながら、もう一度生まれたような気がした。


 また、生きていくような気がした。

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