1999年8月25日 『記憶』

 あの対面から5日が経った。

便りが無いのは良い便りとよく言うが

5日も連絡が無いと流石に不安になる。

いつもの日課も惰性でこなし

覇気のない午前中が終わろうとしていた。

そろそろお昼という事もあり

台所にいき、ご飯茶碗に

手を伸ばしたその時、

胸ポケットの携帯が鳴った。

完全に油断していたせいで

寿命が2年ほど縮んだ。

着信は意外にも花音君だった。


「もしもし」


「もしもし

 花音です。

今、大丈夫ですか?」


「えぇ大丈夫ですよ。

 てっきり優里阿さんからくるとばかり

思っていたので、ちょっと意外でした」


「すいません。

 あれから何も進展はないのですが

恵梨守から今連絡が入って

今日の午後、兄に逢いに行きたいと・・・

理由は特に無いとの事でしたが

母が居るとは言え一人ではまだ

抵抗があるようで・・・」


「それでも

 前向きな良い兆候ではないでしょうか」


「えぇ普通に考えればごく自然で

喜ばしいことなんでしょうが

電話口の声がそういうテンションでは

無かったのでちょっと気になって。

できれば山田さんにも

来ていただければと思いまして」


「恵梨守さんさえよろしければ

 私は全然構いませんよ」


「その恵梨守が

 山田さんに来て欲しいと・・・」


「そうでしたか

 なら急いで準備して向かいましょう」


「あっ

 ゆっくりで結構ですよ。

恵梨守も私用を済ませてから

向かうとのことでしたし、

ボクも今から準備するので、

お昼の1時に病院の入り口で

いかがですか?」


「わかりました

 では、私もそのころに」


「無理言ってすいません。

 では、後ほど・・・」


「えぇ

 後ほど・・・」


ちょうど、食欲も無かったため

お昼は抜くことにし、

代わりにコーヒーを淹れ

読みかけの本の続きを読みながら

時間を潰すことにした。

得てして、こういう時のお約束だが、

これまた良い所に差し掛かったところで

仕掛けておいたアラームに

現実世界へと引き戻された。

若干、後ろ髪を引かれつつも準備をし、

帰ってからのお楽しみと家を後にした。

いつものように10分前に

約束の場所に着くと、

やはりと言うべきか

既に二人の姿があった。


「山田さん、ごめんなさいっ

 急に振り回してしまって」

「ほんと、すいません」


「なになに

 まだ目は回っとらんよ」


こんな老人の渾身の返しに

二人とも笑みを零してくれた。

恵梨守さんも、思っていたより

全然明るく元気そうで一安心した。

花音君もいつも通りの好青年ぶりだった。


「優里阿さんはもう病室ですかな?」


「いえ、母は午後も診察があるとのことで

 これるのは夕方になると・・・」


「そうでしたか。

 恵梨守さんはそれでも

大丈夫ですかな?」


「はいっ

 山田さんが居てくれれば

百人力ですっ」


「ボクじゃ物足りないようだなっ」


「そんなことないよっ

 でもお兄ちゃんだって

そのほうが心強いでしょ~」


「まぁねっ」


何とも、老人を喜ばせるツボを

心得た2人だ。

私も、いつの間にか孫のような

親近感を覚えていた。

病室に着くと花音君がノックして

声を掛けた。


「花音だけど・・・入って平気?」


「やぁ花音

 勿論、大歓迎だよ」


「恵梨守も山田さんも一緒なんだけど」


「おいおい

 今更、遠慮はよしてくれよ。

皆、大歓迎だよ。

さぁ入って」


「おじゃまします」

「おじゃましま~すっ」

「失礼するよ」


「おいおい

 言った傍から他人行儀だなぁ

まぁ無理もないけどね。

適当に座って。

コーヒーと紅茶と・・・

あっお茶もある。

皆、どれがいい?」


「私がしますっ」


「キミらはお客さんだよ」


「それでも

 私がしたいの・・・」


「じゃ~お言葉に甘えますか」


「さっ皆、何が良い?

 私は紅茶っ」


「ボクも紅茶がいいな」


「私も紅茶で」


「この流れでコーヒーって言いにくいな。

 って冗談。

ボクも紅茶で」


「皆、気を遣ってない?」


「妹に気は遣わないよ」


「私は紅茶派なんですよ」


「ボクはどっちもいける派だからっ」


「じゃ~

 とびっきりの紅茶を淹れるねっ」


「それは楽しみですな」


普通に心温まる日常が繰り広げられている。

そんな3人の兄妹を見ていると

少しでも早くこの子らに

平穏な日常が訪れることを願ってやまない。

程なくして、淹れ立ての薫りが

室内に立ち込めた。


「おぉ~

 いい匂い」


「でしょ~」


「火傷するなよ~」


「もう子供じゃありませんっ」


「ははっ」


すかさず、花音君が運ぶのを手伝った。


「とりあえず乾杯しようっ」


「何に?」


「このかけがえの無い時間に・・・」


そう言った詩音君の表情は

どこか物寂しげだった。


「か~んぱいっ」


この空気を一変させたのは

恵梨守さんだった。

本当は、この中で一番不安だろうに。

戻らない記憶もしかり、

男性恐怖症もしかり、

彼女が自分と向き合おうとしてるのが

小刻みに震えるティーカップから

痛いほど伝わってきた。

もちろん兄の2人もそれに気付いていた。


「乾杯っ

 前途ある若者の未来にっ」


このいかにも古臭い言葉が

私の精一杯だったが、

皆、心から付き合ってくれた。

その後1時間以上、

紅茶と会話を楽しんでいた。

過去の互いの昔話ではなく、

最近の日常の何げない話で

盛り上がっている中、

一瞬の沈黙を見計らって

機会を作ったのは詩音君だった。


「で、今日はどうしたんだい?」


いきなりの核心に、私は勿論、花音君も

意識が恵梨守さんに向いたようだった。

ただ、視線を向けるような真似は

互いにしなかった。

暫くの沈黙が、まだその時ではないことを

物語っていた。


「まぁ焦ることはないか。

 出来る時でいい。

少しずつ、一歩ずつ・・・

出来る事をして行こう。

ボクらには同じ血が流れているんだから

この絆が切れることは無いよ。

もう二度とね・・・」


「そうだね・・・」

「うん・・・」


恵梨守さんが頬を拭ったのを

2人の兄は優しく見守っていた。

そんな空気の中、

部屋をノックする音が聞こえた。


「母さんだな。

 どうぞ~」


詩音君が促すと、彼の言った通り

優里阿さんが入ってきた。


「貴方達・・・」


一瞬、驚きの表情を見せたが

すぐさま優しい微笑で迎えてくれた。


「お母さんだけ仲間はずれかしらっ」


「ははっ」


だれも、肯定も否定もしなかったが

その真意はちゃんと伝わっている風だった。


「ん~紅茶のいい薫り。

 私ももらおうかしら」


そう言って紅茶を淹れに行こうとした

優里阿さんを座らせ、恵梨守さんが

淹れて優里阿さんへと手渡した。


「はいっ」


「ありがとう」


その流れのまま、

さっきまでの話を優里阿さんに

皆で言い聞かせることで、

私達4人にはデジャブな時間が流れた。


「そうね

 焦る必要はないわ。

時間が解決してくれることもある。

そして何より、

私達にはより大切な未来がある。

過去が私達に必要なら

きっと、明らかになる日が来る。

私達はそれまで、前を向いて

生きていきましょう」


「カウンセリングみたい」


「あらやだっほんとねっ」


今日は皆、過去の記憶に

必要以上に囚われず向き合う準備と

未来への希望を見出せたような

『必要な時間』を過ごせたのではなかろうか。

私にはそう思えてならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る