第0話 その男、魔術師 中編

 島田夢一しまだ ゆめかずがその本と出会ったのは「人としての」彼が死亡する二週間前のことだった。両親が期待を込めてつけた名に恥じず、彼は幼少期から描いた夢を追い求める傾向があった。他の子どもと同じように、将来の夢はと聞かれれば漠然としたイメージで「野球選手」と答え、リトルリーグにも入っていた。

 他の子どもと違う点を挙げるとすれば、高校三年生になってもその性格が変わらなかったことだろう。周囲が受験勉強や就職活動に勤しむ中、新聞の一面だけ読んでは「ITバブルで一旗上げてやる」というようなことをクラスメイトに語っていた。

 惜しむらくは、夢のために行動を起こすことができても才能と運がついてこなかったことだ。島田は高校を卒業してすぐに親から無心した金で株式会社を設立した。だが肝心の事業は当時流行っていたコミュニティサービスの何番煎じかわからないものの上、目新しい機能や大した求心力を持ち合わせているわけでもなかったため、わずか二年で会社は倒産へと追い込まれた。

 残された借金の精算に従事してから六年、各地を転々としながら職を変えていた島田は近所のショッピングモールで占い師をやっていた。まだ会社を始めて間もない頃に付き合いで行った夜の店やセミナー等、俗に言う「胡散臭い場所」で身につけた技術である。当たるも八卦当たらぬも八卦とは言うが、数年で密度の高い人生を経験した彼の的中率はそこそこに高く、齢三十を前にして速くも天職に巡り会えたと島田も考え始めていた。

 出張の仕事もぽつぽつと受けるようになり、ゆくゆくは「N町の兄」というような二つ名を持つなどと妄想し始めた矢先のことである。ピーク時の混雑が終わり、島田も一服するため離席中の札を置こうとした時にある客が彼の元を訪れた。マスクとサングラスで顔を隠し、灰色の帽子とコートを身に着けている。やむをえず作り笑顔で接客を始めたが、客は料金説明の途中で島田にこう言った。

「いや、占いはいいんだ。ところであんた結構売れてるんだってな」

 失礼な奴だなと島田は思った。冷やかしなら帰ってもらおうと口を開きかけたところ、その客は彼に妙なことを訊いた。

「それで聞くが、魔術は使えるのか?」

「魔術?」

 思わず聞き返してしまい「しまった」と思う。オカルトな質問に対し占い師がこんな回答をしてしまってはインチキだと思われてもおかしくない。自分が使うのは占星術だ、魔術ではない。言い訳を素早く脳内で組み立てていると続けざまに客は言った。

「いいよいいよ。使えないんだろ。なぁに、期待してたわけじゃない。今日は『お届け物』を渡しにきただけだ」

 島田の目の前に一冊の古びた本がポンと置かれた。タイトルはおおよそ彼が見たことの無い言語で書かれている。

「こ、これでどうしろと」

「伝言によれば『試験勉強』だそうだ」

「はぁ?」

 ここまでくると冷やかしでもタチが悪い。と言うよりも最早この客が正気かどうかも疑わしい。

「『頑張って勉強すればさ、今の暮らしとか馬鹿馬鹿しくなっちゃうから』」

 ザラザラした鱗のような声が鼓膜を叩く。現れた時から感じていたがこの客の声はどうも変だった。ボイスチェンジャーのような物を使っているのか。訝しげに思った彼は客の顔をさりげなく覗き込む。無意識に「ひっ」という声が出た。

 仮面だ。人間のふりをした仮面がマスクとサングラスを着けていた。仮面の中は何だ。サングラスの隙間から見えるのは更にもう一枚の仮面。合わせ鏡を見ているように、仮面の奥には仮面が無限に続いている。

「『魔術はほら、色々と便利だからさ。今からでも遅くないから覚えてみてもいいんじゃねえの』……ここまでが伝言だ」

 幾層もの仮面の奥にチラリと何かが見えた。

 目を凝らすとそれは骨と蛇だった。骨に巻き付いた蛇がいる。

 いつの間にか島田は吸い込まれるように仮面の奥を覗き込んでいた。さりげなさや遠慮といった最低限の身だしなみすら忘れ、息がかかるほど近く、サングラスに手をかけて隙間の中へ視線を這わせる。無限の仮面の奥に住まう蛇の、更にそのまなこの奥では人影が無邪気に手招きをしていた。ハロー、とどこか遠くから聞こえた気がした。


 瞬きの後、数秒して島田は自分が机に突っ伏していたことに気がついた。

「大丈夫ですか?」

 透き通った声が頭上から聞こえた。恐る恐る顔を上げると、ショッピングモールの職員と見られる女性が心配そうにこちらを見ている。

「島田さんが気絶してるってお客様からご連絡がありましたので……」

「連絡? 誰が?」

 女性職員が後ろに視線を遣る。派手に着飾った中年女性が退屈そうな目でこちらを見ていた。先ほどの仮面はもう影も形もない。島田は口内に溜まった唾を飲み込むと、平静を装って自分の仕事へと戻った。

 彼が自分の鞄に入れられた「お届け物」に気付くのはその日の夜、帰宅した直後である。


               ◇◇◇


「え、すいません。さっきのとこもう一度お願いします」

「どぅぅわぁぁかぁぁらぁぁ、参拝も魔術だっつってんだろうがぁぁぁ! いいか、もう言わんからな。魔術には陣が必要なパターンとそうじゃないやつがあるんだよ。さっき俺んちで見せたり今回お前らが持ってきたのは陣が必要なやつ。で、参ったり拝んだりするやつは陣がなくてもできるやつ。魔術ってのは元々人間がマナを使うために開発されたもんなんだよ。幽世かくりよの物質であるマナをどうにかして現世うつしよに持ってこようとして色々な方法が開発された。ここまではわかるな?」

「何となくは」

 行きの道とは違って現在の車内はとても騒がしいことになっていた。発端は車内で「笹間を即戦力にしてほしい」と後藤が依頼したことによる。当然斧銀は一度は断ったわけだが、報酬にホットサンドメーカーが加えられたことにより急遽車内での臨時講義が始まったのであった。

「でもなんで家電好きなんですか? 魔術師なのに」 

「楽だからに決まってんだろうが。エネルギーも色々あるが特に熱は難しいんだよ、何もないとこから発生させなきゃいけないから。水や草のように既に在る物を持ってくるのとは訳が違う。電気は楽だぞ。金払えば終わり」

 正論のような気もするが、どうも腑に落ちない。笹間がそんなことを考えていると、斧銀が更に畳み掛ける。

「で、マナをどうにかして現世まで持ってくることはできるようになった。ところが持ってくる状況がどうも不安定になるという新しい問題が発生した。マナが現世に来れば存在を与えられて実体になる。ただその存在を与える作業自体がひどくシビアでな。魔術が成立しててもそよ風が吹いたら結果は一年と百キロずれるなんてよくあることだ。当時は時間や場所を指定するなんて誰もやってなかったからな。それを解消するために作られたのが魔法陣という技術、今の魔術師なら誰でも知ってるやつだ。一方で昔の魔術が形を変えて残った文化もある。それが万国共通『神頼み』だ」

「ああ! つまり、魔法陣はマナに言うことを聞かせる魔術、参拝はマナに問題をどうにかしてもらおうってお願いする魔術なわけですね」

 斧銀は渋い顔をしながらも数度縦に頷いた。

「まぁ今はその認識でいいや。神ってのはマナとはまた別の、めんどくさいやつなんだが……。とにかくそれが俺んちでお前に訊いた『魔術を見たことがあるか』という質問だ。結果はともかくとして、人生で一回くらいは参拝したことあるだろ?」

「それは確かに」

 周囲の景色は再び市街地に戻り、行き交う車も増えてきた。信号にさしかかる度に後藤がハンドルを人差し指で叩く。

「もう時間がなさそうだな。次は実践編だ」

 斧銀は笹間からメモ用紙を一束借りると一枚取ってボールペンで陣を書き始めた。走り書きではあったが完成した魔法陣を彼女に見せるとそれを徐に車の窓に貼り付ける。瞬間、鋭い音がして窓ガラスが破片となって吹き飛んだ。

「おい! 何やってる!」

 たまらず後藤が怒鳴る。

「後で直しとくから勘弁しろ」

 斧銀は冷静にそう言い放つと、もう一枚陣を書いて笹間に渡した。

「いいか、いざとなったらこの中心に三角形を書け。そうすりゃこいつは三秒で発動する。銃も効かねぇと思ったら迷わず使えよ」

「いきなりそんな物騒なこと言われても……」

 笹間は仕方なしに紙を内ポケットに仕舞う。

「どんなやつかは知らねぇがマナ化してるのは今だけだ。何かしら活動するためなら必ず実体に戻る。先回りしてそいつの目的を暴くのが得策だな」

 斧銀がそう言うと、ミラー越しに後藤も頷いた。

「同感だな。俺は一旦現場のアパートで降りる。笹間は斧銀を連れて遺体安置所へ向かってくれ」

「了解しました」


 サンコーポ丸貝の前で後藤を降ろし、遺体安置所へと車を走らせる。割れた窓から初夏の気配を感じさせる風が流れ込んできた。

「窓は直すとか言ってましたけど、そういうこともできちゃうもんなんですか?」

「まぁな」

 斧銀はそう答えるとボールペンで窓の四隅に小さな陣をそれぞれ書いた。特殊なインクなのか、ガラスにもくっきりと書けるようだ。数秒後、パキパキという音とともにガラスは隙間なく埋まり、あっという間に窓が完成した。

「ありがたいですけど、その陣はどうするんですか」

 自分の汚れた袖をひらひらさせて笹間が詰る。

「あぁん? 直してやったのにまだ口答えすんのかこの下っ端は」

 後藤がいなくなったせいか、小汚いチンピラと化した魔術師はだらけきった姿勢で運転席のヘッドレストに足を乗せる。無駄に足が長いなこいつはと笹間は心の中で悪態を吐くと、わざと次の赤信号で急ブレーキを引いたりした。シートベルトをしていない人間は面白い方向に飛ぶ。彼女は新しい発見を胸に留め、アクセルを入れた。すると今度は青筋立てた斧銀が助手席にメモ用紙を落とす。何かと思って横を見た瞬間、助手席は軽い爆発を起こした。

「こンの!」

 巻き上がるクッション材を払いのけながら頭に血が上った笹間が発砲する。斧銀は思わず身を屈めるが後部座席はどこも無事のままだった。意地の悪い笑みがバックミラーに映った。放たれたのは空砲である。


               ◇◇◇


「お待ちしており……何があったんですか!?」

 出迎えてくれた警察署員の第一声である。紛争に巻き込まれたのかと思うほどのダメージを受けているスカイライン、そして前線から生還してきたばかりにしか見えない男女が、飢えた土佐犬のような顔で署の玄関前で立っていた。

「お前後半から実弾使ってただろ」

「そっちが先にフロントガラス溶かしたからでしょ」

 命からがら生還してきた割には険悪な絆しか生まれていない。怯えたチワワのような顔をした男性署員は二人の顔を交互に見比べながら現在の状況に対する最善の対応を探している。

「あの、病院はここを右に曲がって」

「警察です!緊急異常事件対策係キンジョウ!!」

 親切な署員に笹間が強引に胸ポケットに付いたバッジを突きつけた。

「は、はい……では現場の方に」

 すっかり萎縮しきった署員の後に続き警察署内に入る。あちこちからざわついた視線が刺さるが二人ともまるで気にしていないようだった。しかし地下の霊安室の前に到着すると、突如斧銀の目の色が変わった。

火蛇竜サラマンダー……!」

「え?」

 振り返った署員を押しのけて勢いよく扉を開く。

「ちょっと!」

 咎めようと声をかけた瞬間、笹間は目を疑った。

視界いっぱいに広がるは赤、紅、赫。

本来ならば死者を悼む静寂に包まれているはずの霊安室で今、爛々とした業火が暴れ回っている。

「火事だ! 消火器!」

 声を上げると同時に署員は駆け出したが、それが彼の遺言となった。業火はまるで意思を持っているかのように火の触手を伸ばして彼を丸呑みにした。身動き一つさせることなく火中で獲物を素早く炭化させると、触手は更に二つに割れて蛇の鎌首のごとく笹間と斧銀にそれぞれ狙いをつける。

「消火器ならぬ消化器ってか」

 斧銀がそう嘯くもからは汗が垂れている。熱さか、それとも焦りか。火災報知器が鳴り響くが応援どころか人一人来る気配はない。

「火事はまず避難が絶対って言うけど様子すら見に来ないのは薄情じゃないかしら」

「結界が張られてるのかもな。要は俺たち二人とも嵌められたわけだ」

 自分たちが調査することまで見越されてたならば、逃げてどうにかなるものじゃない。そう感じた笹間は反射的に銃に手を伸ばしたが、

「火薬は駄目だ! 銃ごと喰われるぞ!」

 と斧銀に止められた。熱の勢いで蛍光灯が奥から順々に割れていく。二人はじりじりと後退するが、触手も一定の距離を保ったまま近づいてくる。絶体絶命。そんな言葉が笹間の脳裏を過った時だった。

「あれやるぞ、あれ」

「は?」

「車の中で色々教えたろ。あれの続きだよ」

 斧銀の顔にはまだ余裕が残っていた。

「陣は書けない、武器も使えない……そんな状況にも使えるやり方があるって話だ」

 そう言うと彼は静かに息を吸い、低い声で何かを喋り出した。何かの作戦かと思い笹間も耳を傾けたがどうも違うようである。ラテン語とヒンドゥー語と般若心経、全てをごた混ぜにしたような言葉が舌を噛みそうな勢いで唱えられている。心なしか触手の動きも若干鈍くなったようだ。

 更に一瞬の隙をついて懐からボールペンを取り出し、キャップを指で弾いてそのまま空中でサインのようなものを書く。インクはしばらく宙を漂っていたが、やがて光の粒となって消えた。

「さて、後は運賦天賦だ」

「え、何か陣を書いたんじゃ──」

火蛇竜こいつは生半可な術じゃ消えねーよ。今やったのは一発逆転伝統芸能万国共通『神頼み』ってやつだ」

 刹那、触手たちが二人を目がけて襲いかかる。が、それらは突如現れた水柱にいとも容易く叩き潰された。

「うぇっ!?」

 笹間が素っ頓狂な声を上げる。

 舞い上がった水蒸気が一時的に視界を覆うが、触手の反撃が来る気配はない。警戒を解かないよう前進を開始する。

「何よ今のは」

「さっきも言っただろ、神頼みだよ。『現代版』ではあるがな。古い文化だとは言ったが、それでも無理矢理体系化した変態集団もいるってこった。おかげで方向と時間をちゃんと神様やつらの言葉で伝えりゃ力を借りることぐらいはできる。マナと違うのは意志があることで、こいつが厄介なんだよな。一応俺に『借り』があるやつを選んだが、機嫌次第ではここで御陀仏になってる可能性もあった」

 神様が借りを作るって一体何をしてきたんだこいつは。疑念を抱かざるを得ないが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。

「本体はまだご健在のようで」

 斧銀の言葉通り、靄の向こうに広がる業火は既に霊安室を飲み込み他のフロアに侵攻しかねない勢いだった。目を凝らすと中心部だけが心臓のように鼓動している。

「どうすんのよこれ。さっき程度の水じゃ文字通り焼け石に水よ」

「馬鹿野郎、俺を誰だと思ってやがる」

 胡散臭いチンピラ。家電大好き芸人。いくつかのろくでもない単語が笹間の胸中を巡る。

 業火は再び触手を生み出した。一本が二本、二本が四本……やがてそれは十本、いや二十本まで増加していた。その全てが砲台のように笹間を狙っている。

 退がるか、いや間に合わない。右、左、上、どれを選んでも最悪の事態が想像できる。触手の一本が動き、反射的に腕で体を守った瞬間だった。

 笹間の背後から矢のような鋭さで何枚ものメモ用紙が飛ぶ。それらの中から現れるのはあらゆる種類の水流である。泡、泥、酸、高圧水流から海水まで全てがあらん限りの力で火蛇竜を蹂躙する。先ほどとは比べ物にならないほどの水蒸気が巻上ったが、奥からはやがて金属音のような断末魔が響き、火の気配は完全に消えた。

「ちゃんと時間さえありゃこれくらい雑作もねーんだよ。わかったか馬鹿」

「だったら最初から用意しとけ馬鹿」

 水浸しになった廊下で取っ組み合いが始まる。結界が解除されたのか、騒ぎに気付いた署員たちがようやく階上から姿を見せた。

「な、何が起こったんですか!」

「どうしてこんなことに!」

 動揺する署員たちの前に笹間は仁王立ちになって自分のバッジを振りかざした。

緊急異常事件対策係キンジョウです! 現場確認のためここから奥には入らないで!」

 部署名を聞いたせいか、署員たちは水を打ったように大人しくなり、苦々しい顔をしながらぞろぞろと引き上げていった。

「はぁーん、お前らも偉くなったもんだねぇ」

 殴られた右頬を擦りながら斧銀が呟く。

「私だってここまで効果あるとは思わなかったわよ。研修のとき『とりあえずこう言っておけば大丈夫だ』って言われただけで」

「……まぁのことだから悪いことしてんだろーな」

「え? 今何か言った?」

 斧銀はそれには答えず、水蒸気が収まった霊安室に向かう。笹間も怪訝な顔をしながら後を追った。水面に映る非常灯が二つの足音に合わせて妖しく揺らめいていた。

 



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