魔術師 オノガネタケヒト
@nanome
第0話 その男、魔術師 前編
「魔術では正しい手順を踏めば望ましい結果を得られる」
──リチャード・キャヴェンディッシュ
雲行きが怪しくなってきたのを見て
「どうした、酔ったか?」
運転席の
「いやぁ、洗濯物干しっぱなしで」
「今日は降水確率〇パーセントだと聞いてたが」
「でも見てくださいよあの雲。敵意むき出しの色してますよ」
後藤は何も言わずカーナビの画面をズームした。
「タクシーだって。私が交通課にいればしょっぴいてますけどね」
笹間の悪態は続くが、後藤は意に介さず運転を続ける。彼らが乗るスカイラインは市の中心部を抜けて郊外にさしかかっていた。サイドミラーに映る黒雲を笹間がチラチラ確認していると、後藤が呆れたように
「心配なら寮母さんに電話したらどうだ」
とぼやいた。
車内にはBGMもなくカーナビが淡々と次の進路を告げるのみである。沈黙に飽きた笹間が徐に携帯電話を取り出すと、液晶の左上で圏外とアンテナ一本が交互に点滅している。笹間はため息をつきながら電話を戻した。景色には寂寥感が漂っており、いつの間にか対向車も後続車もいない。
「そろそろ、説明しておくかな」
後藤が空いた左手で笹間に資料を出すよう指示した。クリアファイルに綴じられた紙束の表紙には『N町易学者殺害事件』と題字が書かれている。
「話は大方聞いているだろうが、この事件が本日付けで本庁の捜一(捜査一課)からウチまで回されてきた。お前は初めてだから知らんだろうが、ウチにくる事件の大半は外部の専門家に協力を要請する必要があってな」
「専門家?」
笹間が横に垂らした髪を弄りながら首を傾げる。
「あー、まず聞いておくが」
後藤が気まずそうに口を濁す。
「お前、魔術って信じるか?」
事件の概要はこうだった。
ゴールデンウィークを目前とした四月二十八日午前九時、N町の単身者用アパート「サンコーポ丸貝」二〇四号室にて自称易学者の男性の死体が見つかった。発見した隣人の証言によれば、
「最近異臭がひどかったため大家さんと一緒に抗議に行ったんです。でも返事が全くなかったので帰ろうとしたところ、部屋の鍵が開いていたので中を覗いたら……」
といった具合である。
妙だったのは死体の状態だった。死因は失血死、そして死後数日経っていたとだけ聞けばよくある話だが、まず変わっていたのは発見当時の姿勢である。両足が横向きに組まれた状態で、上半身がその上に投げ出された形になっている。胡座をかいたまま土下座しているような姿勢である。掌は左右ともに上向きにされていた。
次に変わっていたのは傷だった。上向きにされた掌には考古学でしか見かけないような文様が鋭利な刃物で刻み込まれ、両手首は深く切り裂かれておりほぼ皮と一部の神経のみで腕と繋がっている。体を起こしてみると、胸から腹にかけて古代文字のような記号の羅列がこれまた鋭利な刃物で彫られていた。性器はハンマーのような物で潰されている。
そしてそれ以上に変わっていたのは死体を中心にして床に広がる『陣』だった。撒き散らされた血液の下には正円の中に描かれたヘキサグラムと無数の文字、更にそこから線で結ばれた六つの円が全て黒血で描かれていた。まるでファンタジー世界における魔法陣のように──。
「まぁ変死扱いで片付けても良かったんだが、色々総合して殺人事件かもしれないってことで捜一に回された」
「尋常じゃないことは伝わりました」
笹間は凄惨な死体写真を捲りながら苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、更に数枚捲るとある文章に目が止まった。
「あれ? でも解剖の結果だと、この傷は全部ガイシャが自分で付けたことになってますよ」
「そう、それで
次の書類には、魔法陣の血液は全て鶏の血だという見解が書かれており、死体から多量のモルヒネが検出されたことも同様に書かれていた。恐らく作業中の激痛を抑えるためのものだろう。口にも裂傷が残っていた。易学者は自分の体に文字を彫り終えた後、仕上げとしてまず左手首を切り、更に残った右手首を切るために口に刃物を咥えた。その時についた傷らしい。警察官になって数年、死体にも慣れてきた自覚があった笹間だが、この時ばかりは久しぶりに吐き気を催した。
「つまり完全に自殺ってことですかね」
「そうだ。モルヒネや鶏に関しては係長たちが裏を取りに行っている。俺たちは魔法陣についての話を専門家に聞きに行く」
「で、こんな山道を」
周囲の景色は緑一色に染まっていた。曲がりくねった林道とトンネルを繰り返し、カーナビの口数もかなり減っている。
「その専門家って大学の先生とかですか?」
笹間は何気なく質問したつもりだったが、後藤の顔色は外の曇天よりも暗くなった。
「……絶対信じないと思うが」
「え?」
後藤の呟きは小さすぎて笹間の耳には届いていない。
「魔術師なんだ」
「え?」
今度は耳に入る音量ではあったが、彼女の常識に届く前にその言葉は煙のように消えた。
◇◇◇
数え切れないほどのトンネルを抜けるとちょっとした広場に出た。一面に生い茂る雑草の中でわずかに残る砂利道に車は停められた。離れた場所から見ても分かるが、その家は古い日本家屋に欧米建築の煙突をくっつけたような奇妙な建物だった。敷地はそこそこ広く、家から少し離れた場所にビニールハウスや井戸が散見される。境界線と思われる柵には「斧銀」と汚い字で書かれた表札が釘で打ちつけられていた。
「おの、ぎん?」
「オノガネと読むそうだ」
笹間が車から降りた瞬間、ぽつりと水滴が笹間の眼鏡に当たった。
「降ってきたじゃないですか!」
「悪いがG県の天気予報は見てないんだ」
「G県って、ここそんなとこだったんですか!? 二つくらい県跨いでるじゃないですか!」
「……カーナビの表示くらい見たらどうだ」
悪態の応酬を繰り広げながら後藤が引き戸をノックする。すると程なくして引き戸はひとりでにゆっくりと開いていった。
「ま、魔術……」
目を丸くする笹間に後藤がドアをよく見るよう視線で促す。引き戸の内側には手作りと思われる木材のカラクリとロープが取り付けられており、更にロープは等間隔で置かれた滑車を経由しながら家の奥に続いていた。
「面倒くさがりなやつなんだ」
後藤は慣れた足取りで奥へと進んで行った。
(この仕掛けの方が手間じゃないのか?)
そんなことを考えながら笹間も後に続く。
「あの、さっきのは冗談ですよね。考古学の専門家とかそういう人なんですよね」
滑車を無理矢理指で回しながら笹間が尋ねた。後藤はやれやれといった表情で後頭部を掻いて、
「かもしれんな。もっとも、俺たちの聞いたことがないような考古学の方だろうが」
などと歯切れの悪い答えしか返さなかった。
ロープに沿って廊下を数回曲がると、家主がいると思われる部屋に辿り着いた。このドアの先に魔術師と呼ばれる人間がいる。後藤は悪態こそつけど仕事においてつまらない冗談を引っ張るようなタイプではない。それを知っているからこそ笹間は息をのんだ。
開け放たれたドアの向こうで最初に目に付いたのは、所狭しと部屋中に置かれた観葉植物だった。どういう仕組みかわからないが、シダ植物やサボテンと思われる多肉植物、高山植物から食虫植物まで大小の様々な植物が十畳ほどの室内で完璧なまでに共存していた。
部屋の奥に置かれているデスクに目を遣ると、下の方で何か黒っぽい塊のようなものがモゾモゾと動いている。笹間がそれを人影だと理解するまで数秒を要した。
「だ、誰だか知んないけどさ、ちょっと後ろにボールペン落ちたから取って」
唐突な人影の要請に二人は顔を見合わせたが、やがて後藤がデスクの右に回り腕を伸ばす。しばらく物音が続き、収まったかと思うと人影と後藤は同時に立ち上がった。
「いやー、助かった……って後藤じゃん。何しに来たのお前」
「急な訪問ですまないな、斧銀。魔術絡みの事件が起きた。本庁からの協力要請だ」
「嫌だよ」
市民の義務をあっさりと放棄して斧銀と呼ばれた人影は肘つき椅子にどっかと座る。若い男性のようだ、と笹間は判断した。風貌はボサボサ頭の無精髭、服も市街地ではあまり見かけないような黒づくめ、どうも正体が掴みにくい人物ではあるが。
やがて斧銀の方も入り口で棒立ちになっている笹間と目が合った。
「あっ! 後藤テメーまた新人連れて来たのか! 色々面倒だから止めろっつったのにまた性懲りも無く」
「係長の方針なんだ。いつ起こるかわからんような事件だから早めに耐性つけるべきだとな。それに、最低限の説明はしている」
「嘘つくんじゃねーよ! どう考えてもこいつ『私何しに来たんですか』って顔してるぞ! お前恥かくの嫌だからってまた当たり障りのない部分しか言ってないんだろこのドアホ」
出会って二分で怒鳴り出した『魔術師』に笹間がポカンとしていると、後藤が「早く自己紹介を」と指でサインを出した。
「あ、はっ、初めまして。緊急異常事件対策係所属、笹間吉乃です。巡査です」
自己紹介をしながら斧銀の顔をじっと見る。うねった黒の前髪から覗く水色の瞳が気になった。
「じゃあおねーさん、早速聞くけどあんた、『魔術』って見たことあるか?」
声のトーンが先ほどよりは幾分か落ち着いていた。少し安堵するも笹間は言葉に詰まる。
「多分、ないかと……」
「はい残念外れ。よっぽどの箱入り娘でもない限り後藤さんの指導ミスです。おい後藤、何も説明できてねーじゃねーかコラ」
再び先ほどのようになるかと思いきや、後藤は「もう知らん」とでも言いたげにそっぽを向いて、棚のハエトリグサと遊んでいる。斧銀は深くため息をつくと笹間にデスクの側まで来るよう手招きした。
「ちょうど喉乾いてたしいいや」
サラサラとデスクにボールペンで陣を描く。数十秒ほどで書き終えると陣の中央にロックグラスを置いた。笹間がその光景をよくわからないまま見つめていた次の瞬間だった。グラスの底からまるで湧き上がるように黒い液体が現れ、あっという間にグラスの半分ほどを満たしてしまった。
人生初の奇跡体験を目の当たりにして口をパクパクさせる笹間を横目に斧銀はその液体をグイと飲み干した。
「何だそれは」
いつの間にか見に来ていた後藤が尋ねる。
「自家製コーラ。最近のマイブーム」
「えっ、今、今のって……」
「水道水、幾つかの植物のエキス、それに砂糖と空気中の二酸化炭素。それらを精製してこの中で混ぜ合わせただけ……あーそっか、見えない
「見えない方?」
笹間が鸚鵡返しに訊いた。
「それらがマナ化して運ばれてる様子だよ。君の上司の後藤さんなら見えてるはずよん」
彼の言葉に後藤も頷く。
「ああ、大体そことそこと……あとはその辺から来てたな」
「えっ! ええっ、後藤さん見えるんですか!?」
後藤は一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、斧銀はあっさり
「でべそかそうでないかの違いみたいなもんだ。見えるやつは珍しくないし、一生見えないやつもいるだろうが見えないからって困るもんじゃない」
と補足した。
「霊感みたいなもんですかね」
と笹間もよくわかっていないが納得した。
「そうそう。で今のコーラ、難しいことじゃないんだが成立させるには最低限の原則がある」
「原則?」
「どんな魔法陣もそれを構成するのは『対象』と『時間』と『方向』だ。方向は場所と言い換えてもいいな。最初に魔術を行使したい『対象』を選ぶ。この場合はさっき言った【コーラの材料】だな。次に『時間』を指定する。俺はさっきの陣に【十秒後】と指定した。そして最後に『方向』。コーラの材料が向かう先を【グラスの中】に指定する。ここまで書き終えれば完了だ。【十秒後】に【グラスの中】へ【コーラの材料】が送られる。勿論材料は勝手に混ざるわけじゃない。だから魔術にも種類がある。今回俺が使ったのは文字通り【コーラ精製の魔術】だ。オリジナルだから名前は決めてないがな。要は選んだ対象が指定した時間と方向でコーラに精製される魔術だ。ここまでの説明でわからないとこはあるか?」
「全部です」
「よーしわかった、お前もう帰れ」
斧銀はもう相手する気はないと言わんばかりに肩を竦める。すると笹間は勝手に自分のボールペンでデスクに陣を書き出した。少し歪な魔法陣ができあがったが、何も起きる気配がない。
「あれ? 同じように書いたのに」
「怖いもの知らずかお前は」
斧銀がボールペンを取り上げる。
「でもちゃんと対象も時間も場所も書きましたよ」
「現代日本語とアラビア数字で書く魔法陣が正確であってたまるか。陣の位置関係も逆だ。多分近しい文字に誤変換されてどっか飛んでったな」
「そんなものでも陣として成立するのか」
二人の背後から覗き込んでいた後藤が尋ねる。斧銀は指でボールペンを回しながら舌打ちした。
「前から散々言ってるだろ『すべての魔術は成立する』って。魔法陣書けばもうそれだけで魔術は発動するんだよ。ただ術者が条件を正確に指定できるかどうかは別だ。かつて素人が恋愛成就で書いた陣があった。『明日◯◯君とデートできますように』みたいなやつだ。だが指定も術も全部出鱈目だったからな。結局成立したのは『二年後自分の村が隕石で滅ぶ』だったよ」
それを聞いた笹間は慌ててさっきの陣をスーツの袖で消す。
「無駄だ無駄。一度書いた陣はもう成立完了だ。後は何が起きるか楽しみに待つだけだな」
「ひどい!」
「ひどいのはどっちだよ勝手に人の机汚しやがって」
二人の間に火花が飛ぶが、後藤がクリアファイルでそれを遮った。
「雑談は終わりだ。斧銀、悪いが今回は現場まで出てもらうからな」
「はぁ!? んなことして俺に何のメリットがあるんじゃボケ」
「笹間の教育も兼ねてだ。今メリットはなくとも後から矢野係長が直々にここまで出向くというデメリットはお前も嫌だろう?」
矢野、という名前を聞いて斧銀はしばらく面食らったように口を歪めていたが、やがて
「へいへい。権力のお犬さまには勝てませんよぉ」
と、不服そうな顔で頬杖をついた。
◇◇◇
後藤から資料を受け取ると斧銀はパラパラと流し読みを始めた。やがて死体の写真に行き当たると顔色一つ変えず体に刻まれた文字や床の魔法陣を指でなぞっていく。数分かけて読み終えると「なるほどな」とだけ呟いた。
「本物か?」
後藤が神妙な面持ちで尋ねる。
「本物も本物、時間も方向もしっかり指定済みだ。対象は自分自身の肉体で魔術の種類は……何かしらの召喚術だな。写ってない部分があるから情報が足りねぇ」
「現場はまだ保存している。必要なら先に連れて行くが」
その時笹間の携帯に着信が入った。部屋に二人を残していそいそと廊下に出る。斧銀はそれに目もくれず、右手で絡まった髪の毛を解している。
「足りないのは死体の情報だ。恐らくまだどっかに文字が彫られてるぞ」
「ならば安置所に急いで連絡を」
「早目にやっとけよ。方向は地図がないと判らんが時間は……」
と斧銀が言いかけた瞬間、大きな足音とともに笹間が慌てて部屋に戻ってきた。
「大変です後藤さん! ガイシャが!」
「部屋を揺らすな! 棚から鉢が落ちたらどうすんだ!」
唾を撒き散らし眉間に皺を寄せる斧銀を腕で制し、後藤は努めて冷静な声で「何があった」と訊いた。
「所轄署からの連絡で……霊安室から被害者の遺体が突然消えたそうです」
笹間の報告を聞き、二人の顔色が変わる。後藤は何も言わず斧銀の方を向いた。
「……いや、多分まだ大丈夫だ。消えたってことは自分の肉体をマナ化して脱走したんだろう。魔法陣で指定していた時間は今日の今頃だ。予め転生まで計算に入れてたな」
「転生? というのは?」
次々と飛び出す専門用語に笹間が説明を求める。
「続きは車の中でやるぞ。これから現場に向かう」
後藤は忙しない足取りで部屋を出る。斧銀も「よっこらせ」と中年男性のように立ち上がると、笹間に背中を押されながら気怠げに部屋を出た。
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