第5話




 あれほど豊潤だった師のプシュケリアが日々弱まっていくのを、誰も止められなかった。


 そんな体でも、師はプシュケリアの治療をやめなかったからだ。


 師は変わらず来る者を癒した。貧しい子供も、老いた者も、難病にかかった者も、言葉の通じない異邦人も。


 あの悪魔も。


 もはや召使い達への施しはなされなかった。日が暮れる前には門を閉め、弟子達が師を強引に寝床へ連れて行くようになった。


 それでも師の衰弱は止まらない。弱った師のプシュケリアは、触れていなくても悪魔の魔力に抗えず吸い取られていく。


 悪魔を拾った廃屋の中で、私のプシュケリアが屈服したように。



「先生、あの娘を街の外に追放して下さい」



 こうなった以上、私を含んだ弟子達は悪魔を放逐するよう師に進言しないわけにはいかなかった。



「先生、お願いです。あの娘が先生のプシュケリアを奪っているのです」


「あの娘が来てから、何もかもがおかしくなりました」


「死んでは元も子もないと仰ったじゃありませんか、先生」



 先生、先生、と弟子達は口々に懇願する。


 だが師は首を横に振った。



「私が生きる代わりに、あの娘が死ぬ。それでも良いのか」



 弟子達は憤った。



「先生はご自分の価値を分かっておられない。なぜ先生が、あの娘のために死ななければならないのですか?」


「私はいつか死ぬ。いつかプシュケリアが尽きる。それが今になっているだけなのだ」


「そんなことはない! あの娘さえいなければ…!」


「そうです! 師よ、あなたはあんな害悪の娘のために、もっと多くの善良な人々を見捨てるのですか!」


「先生、師よ、どちらが世のためかお考え下さい!」



 しかし師はやはり、首を横に振る。



「今、私はあの娘をここで養うことで、あの娘に奪われそうなプシュケリアを救っている。あの娘を放逐すれば、またどこかで誰かが襲われるだろう」



 師は細くなった体でも、変わらず岩のように頑として応えた。


 弟子の中で嗚咽に崩れる者が出た。彼は嘆き、願う。



「先生、どうかお願いです。せめてプシュケリアの治療は制限させて下さい。先生の治療が必要な者のみにしてください」


「その裁量は誰が行う?」


「我ら弟子達が」


「ならば弟子達よ。私の門を叩いた瀕死の者を、お前達はどう裁く?」


「門の中に迎え入れます」


「その者が殺人者だとしたら?」


「門の外に追い出します」


「なぜだ?」


「罪人です。警吏に引き渡すべきです」


「引き渡す前に死ぬぞ」


「何が言いたいのですか。重罪人を癒せと仰るのですか」


「そうだ」



 師ははっきり言った。弟子達は絶句するしかなかった。


 唖然とする弟子達に、師がはっきり告げる。



「プシュケリアの徒が、プシュケリアの困窮を見捨ててはならない。プシュケリアに善悪も功罪もないのだから」


「…だからなのですか?」



 弟子達のひとりが、震える声で問いかける。



「だから、あの汚らわしい娘を、あなたは救おうというのですか?」


「そうだ」


「師よ、あなたは狂われたのか!」



 弟子達は叫ぶ。


 しかし、師は険しい顔を横に振るだけだった。



「弟子達よ。お前達の見るものが、私には見えない。私の見るものが、お前達には見えない」



 師は静かに言われた。



「私はプシュケリアを見ている。プシュケリアの困窮の喘ぎを聞いている。そして、それはあの娘も同じなのだ」



 その声はどこまでも静かに、しかし悲しさを隠しきれない響きをしていた。









 私はそれ以上そこにいることができず、中庭に飛び出してしまった。



 夜の中庭は、誰もいない。ひたすらに静かだった。街は師の衰弱で活気を失っていた。誰もが師のことを思い遣っているのに、師はそれを聞き入れてくれない。


 悪魔のせいで。



「お前達の師匠は不幸だ。私に取り憑かれた」



 その声に、私は振り返る。


 誰もいないと思われた中庭の隅に、あの娘が佇んでいた。夜と闇こそが友とでも言うように、灯りのない縁側に腰掛けている。



「お前達は不幸だ。この私に取り憑かれた」



 魔物が笑う。嘲りではない、嘘のような優しい微笑。


 私はその混じりけのない笑みに、怒りを覚えた。拳が震える。



「…お前など、家畜の餌か、畑の肥やしにでもなれば良い」



 悪魔に近づく。


 恐れなどどこにもなかった。恐怖よりも憎悪が優った。悪魔は動かず、逃げず、私をじっと見詰めた。



「お前は生き続けるより、死ぬ方が良い」


「私もそう思う」


「なら何故今すぐ死なない!」



 私は激情のまま、悪魔の胸ぐらを掴み、引きずりあげる。その体は驚くほど軽かった。


 師のプシュケリアを根こそぎ吸い上げているというのに、それでさえこの悪魔の腹には溜まらない。どこまでも貪り続ける。


 汚らしい悪魔。



「お前は知ってるはずだ」



 だが悪魔は微笑をゆるやかにやめ、憐れむ目を私に向けた。


 悪意のない眼差しをたたえた小さな顔が、私にだけ聞こえる声で言う。



「先生が、あの日、私に身を捧げたことを。あの先生は、あそこで本当に死んでも構わなかったことを。お前だけは知っているはずだ」



 私は思わず息を呑む。


 悪魔が私の腕を強く掴んだ。全身の力が一気に失われる。悪魔を掴み続けることが出来ず、手を離し、その場に倒れ込む。



 地面に横たわった私に、悪魔がそっとしゃがみこむ。



「他の弟子達に伝えろ、アロトロバ」



 悪魔は私の耳元で囁く。



 その表情には、もう何も浮かんでいなかった。表情を形成する感情が悪魔にないのか、その感情を表現する表情が存在しないのか。



 そんな不思議な無表情で、悪魔が告げる。


 しかしその声は、私が初めて耳にする、血の通った人間らしい声だった。



「私は、先生が死ぬまでここにいる。先生を食い終えたら、またどこかに流れていく」



 必死、決意、強さと弱さを織り交ぜた声。


 まるで年端もいかない少女のようだった。見た目通りの。



「先生の代わりに私に食われる者を差し出せ。そうすれば私はそいつを食べて、この街を去る」


「何を、言っている…?」


「先生と他の誰か。命の選択を、弟子達に迫らせろ。私が選択を迫っていると弟子達に伝えろ」




 そして悪魔は、ふっと表情を和らげる。


 小さく笑んだ。



 あどけない、温かく優しいうららかな面立ち。


 深山を流れる泉川のように涼やかな眼差し。



 私は思わず全てを忘れ、その表情に魅入ってしまった。



 まるで何も悪いことなど起きていないような、幻想的なまでに、悪魔の姿は美しかった。



「お前は伝えるだけでいい。あとは、全部うまくいく」



 それだけ言うと、動けない私を尻目に、悪魔は闇の中に去っていった。



 私は闇の中でひとり、残される。


 流されていた感情が蘇り、噴き上がる。しかしそれは何故か怒りではなく、悲しみだった。ひたすらに悲しかった。



 プシュケリアが欲しい。弱々しくなった私のプシュケリアを助けてくれる、誰かのプシュケリアが。



 他人のプシュケリアが。


 師のプシュケリアが。



 プシュケリアを、手に入れなくてはならない。



 師のためにも。私のためにも。













 翌日の朝。



 街の外の荒れ野で。











 悪魔の死体が見つかった。












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