第4話




 師が悪魔に取り憑かれた娘を祓い清めた。


 街はこの話題で溢れかえった。


 弟子達のもとに無事に帰った師は、ぼろの頭巾を取り払った娘を連れて告げた。



「今からこの娘は私に仕える者となった」



 こうして娘の姿をした悪魔は、師の邸の召使いになった。


 師の勇名はさらに高まり、街の長老や僧侶達も師を讃えた。

 弟子達は喜びと誇りに顔を輝かせる。

 街の人間達は師が清めた悪魔の娘を見ようと押しかけた。


 師はそれらの興奮に流されず、常と変わらぬ悠然とした表情で過ごしていた。



 私だけが、良質な昂揚や不動の平常心を抱けなかった。



 悪魔は体を洗われ、新しい服を与えられた。


 ひどく痩せ細った体だったが、陽の下で見れば小さな顔は繊細に整っている。


 幼さから来る丸みは少なく、切れ長の瞳には薄氷のような危うい魅力があった。

 加減を僅かに間違えただけで台無しになりそうな、完璧な目や口の配置。



 その悪魔は美しかった。



「家族はどうしたのだ?」



 と長老が師を労いながら、悪魔に尋ねたことがある。きちんと刺繍のされた頭巾と上衣を纏った娘は、



「みんな流行病で村ごと死にました。残った者も野盗に遭って散り散りに。その後のことは、よく覚えていません」



 気付けばそちらの先生に助けて頂いた次第です、と恭しく応えた。


 長老を始めとした街の住民たちは同情し、当分は師のもとに身を寄せることを許した。

 婚姻できる齢になれば、誰かを紹介することも約束した。



 実際、悪魔はよく働いた。


 飯の煮炊きは勿論、掃除、洗濯、病人達への応対、家畜の世話…。


 それらを愛想が良いとは言えないが、黙々とこなしていた。



 ただ、同じ召使いとして働く女達は彼女のことを不気味に思っているのか、事務的な遣り取り以外は出来るだけ悪魔の娘に近付かないようにしていた。



 どうしてなのかを私は訊いてみた。


 曰く、



「あの子の隣で寝ると、次の日必ず体の調子が悪くなる」


「あの子は食事をほとんど摂らない。少しの水とパンくずしか食べていない」


「先生があの子を連れて出かけると、家の中の雰囲気が急に明るくなる。逆にあの子が戻ってくると空気が淀む」


「あの子が来て以来、猫や鳥が家に全く寄りつかなくなった」



 等々。


 彼女らは私が抱く感覚と同じものを、あの娘から感じているのだ。


 そうして、召使いの女達は何か理由を付けて少しずつ辞めていった。





 召使いの数が減ったので、悪魔の働く姿をさらによく見かけるようになった。

 負担が大きくなったのか、疲れに肩を落としていた。


 そんな彼女を見かねて、弟子の何人かがプシュケリアの施術をしたことがある。


 悪魔が来る前から、弟子達は召使い達にプシュケリアを分け与えていた。

 女が男にみだりに触れられるのは好ましからざることだったが、師は召使い達を慮ってそれを許していた。


 私はその行為について普段は特に言及しないのだが、悪魔に触ろうとする弟子達を見て「やめろ」と警告した。が、聞き入れられなかった。



 その弟子達は例外なく、癒すどころか触れた途端に手を引っ込めてしまう。



 熱しすぎた湯瓶に触れて反射的に手を離すように。



「仕方ない。先生は別格だ」



 と悪魔が困惑する弟子達に笑う。


 弟子達は師のプシュケリアの偉大さを改めて実感するが、それ以上に悪魔の娘に対し、言い知れぬ恐れを抱いていった。




「きみはあの娘に触れたことがあるか? アロトロバ?」



 寝床で弟子のひとりに訊かれたことがある。私は首を横に振った。



「ない。きみは、触ったのか」


「昼間、水汲みに難儀していたのを手伝ってやった。疲れているようだったから、先生とまではいかないが少しはましだろうと思って…」


「プシュケリアを与えようとしたのか」


「ああ。だが触った瞬間、今まで感じたことのないものが指先に走った。なんと言えばいいのか、手を通して私の中の全部が吸い取られるような…」


「きみのプシュケリアが喰われそうになったんだ」


「恐怖したよ。いつの間にか自分が狼の口に手を突っ込んでいると知ったような、気持ちの悪い恐怖だよ」



 私も同感だった。


 私はこのことを、私をプシュケリアの門弟に誘った例の友人に手紙で知らせた。



 友人は師のもとを離れ、プシュケリアの霊薬を研究していた。


 プシュケリアを薬のように煎じて調合することができれば、我々のような修行をすることなく多くの人々のプシュケリアを助けることができる。

 師は彼の考えに大いに賛同し、知人の薬師や錬金術師に紹介状を書いて送り出した。



 彼はその研究を熱心に取り組み、いくつかの物質を組み合わせると、本来は微弱な非生命のプシュケリアが増幅することを発見したらしい。


 この発見がどのように役立つのかは分からないが、師の邸で起きていることを考えれば、何であろうと頼るべきだった。



 悪魔がどれだけ疲労しているように見えても、もはや弟子の誰一人として、悪魔を癒そうとしたり、助けようとはしなかった。


 師を除いて。






「先生よ、なぜお前はこんなことをしている?」



 師が町外れの歩けぬ病人の家から帰る途中、悪魔がそう尋ねた。


 師の邸に来られない者にも、師は自ら足を運んでプシュケリアの施しを与えていた。

 たいてい供に私を連れるのだが、悪魔を拾ってからはこの娘も連れていくようになった。



「プシュケリアとか呼んでるものを他の奴に与えている姿しか、私は見ていない。他人に何かすること以外、お前がすることはないのか?」


「ない」



 師を冒涜する悪魔の言葉に、しかし師は俄然と応える。



「これが私に与えられた使命だと、私は思ったからだ」


「誰に与えられたって?」


「我々を生み出す大いなる原理を創りし方」



 師は悪魔の問答に応える。悪魔は邸の外に出ると、このようにして師を惑わせる多くの言葉を吐いた。

 私はそれを傍らで聞いて腸が煮えくりそうになるのだが、師はどこまでも真摯に言葉を返す。



「私やお前にこの力を与えたのは、そいつか? 原理か?」


「それは分からない」


「ならどうしてそれを使命だと思う? 使命だと言われていないものが使命なら、私が人間を吸い取ることも使命なのか?」


「それも私には分からない。なぜこの世には、健やかな者と病める者、幸いなるものと不幸なる者がいるのか、と同じだ」



 大通りを歩くと、通りかかる多くの者が師に手を振ったり、頭を下げたりした。師に癒された者、家族や友人を癒された者、師を尊敬する者。


 師はその者たちに穏やかな表情で応え、悪魔は恭しく師の後ろを歩く。まるで一介の忠実な下僕であるかのように。


 傍から見れば平和な我らだが、悪魔は言葉の端々に憎悪を滲ませ、師に問い詰めるのだ。



「全てその原理の仕業だというなら、この世を作った誰かの思し召しだと思わないか?」


「それは井戸を探さず、雨が降るのを待つようなものだ。行えることを行わず、全てをあの方のせいにしてはいけない」


「それはお前が敬われる術をたまたま持ってたから言えることだ。お前は尊ばれ、私は殺される」


「違う」



「どう違う。私は殺す為に生まれたのか? 殺される為に生まれたのか?」


「違うのだ、娘よ」



 師は言われた



「私に会う為に、生き長らえてきたのだ」



 師は振り返る。


 そして悪魔の手を取り、まっすぐに顔を見詰めて言った。



「お前はもう、殺すことも殺されることもない。少なくとも、私の生きている間は」



 だから、と師は言い重ねる。



「だから娘よ。私の生きている間は、私の側を離れるな」








 召使いがさらに減り、邸の中の生活に深刻な支障が出始めた。



「召使い達の仕事をお前達もしなさい。これも修行だ」



 師は弟子達にそう指示した。実際新しく召使いを雇ってもすぐ辞めてしまうので、弟子達で分担するしかなかった。



 男の弟子達と女の召使い達が混ざって生活する光景は珍しく、意外にもうまく遣り繰りできた。


 というのも、何か手を抜くと悪魔の娘が手伝いに来てしまうからだ。



 男も女も、悪魔に近付きたくなかった。手伝わせて一緒にいるくらいなら、自分だけでやりこなした方が良い。それが邸の者たちの共通意識だった。



 そんな次第だったので、召使いのはずの悪魔は、仕事を任されることがなくなった。

 食事の席にも姿を現さず、寝床もいつの間にかがらくたを詰め込んだ埃臭い物置小屋に移っていた。



 誰も悪魔の相手をせず、皆で悪魔を遠ざけた。


 師を除いて。



 師は一日の終わりにプシュケリアの施しを召し使い全員にする。


 これは弟子達がするのとは訳が違い、誰も咎める者などいなかった。そもそも訪れる病人を男女で分けはしないのだから当然だった。


 そうした召使い達への施術を、師はあの悪魔の娘にも行った。それも特段時間を掛けて、大量のプシュケリアを与えていた。






 病人達と同じように中庭で召使いにプシュケリアの術を掛けるだが、悪魔がやってくるのは全員が去ってからだ。

 弟子や召使い達は寝屋に戻り、師がひとり中庭に残った頃、悪魔は闇夜の中から姿を現す。


 私は師が心配になり、物陰からそれをよく見ていた。



「野獣でも飼ってるつもりか? 先生よ」



 縁側に腰掛け、師の手を背中で受け止めながら悪魔が笑う。



「結局はこうなる。どこに居着こうと、誰に拾われようと」


「お前の本意ではない」


「私の心の意がどうであろうと、だからなんだと言うんだ?」



 悪魔は笑い続ける。



「私は人間を食べるしかなくて、だから人間は私を遠ざけるしかない。これのどこに心を挟む余地がある?」


「生まれたときからそうなのか」


「別に赤子の頃からこうだったわけじゃない。最初は普通に、他の連中と同じものを同じ量だけ食べてたさ。だが、どんどんただの食い物は腹に入らなくなっていった」


「お前のプシュケリアが弱っていたのだ」


「だからなんだ。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。その頃に先生がいたらどうにかなったかもしれないし、先生でもどうしようもなかったかもしれない。今となってはどうでもいい」



 悪魔は師から離れ、中庭を歩く。



「先生は、私をどこかに放り出すべきだ」


「なぜだ?」


「私に使うその力を別の奴に使えば、もっとたくさんの意義を実らせられる」


「そしてお前は生きるために他の人間からプシュケリアを吸い取る。私はその者にプシュケリアを与えて癒す。ならば私からプシュケリアを吸うこともさして変わらない」



 師の言葉に、悪魔は首を横に振った。



「今はまだ、人間ひとりを死に至らしめるほど吸わなくていい。そこまでは要らない。だから先生でも治せる。今は、な」


「これからはどうなる?」


「言っただろう? 歳を重ねるごとに、必要な量がどんどん強くなるんだ。ある年齢で止まるかもしれないが、今はそんな気配がない」



 悪魔は言った。



「先生でさえ食い尽くすかもしれない。普通の人間なら、どれだけ殺して回ればいいのか分からない」



 師は悪魔を見詰めている。悪魔は小さな背中を向け、顔を師に見せなかった。


 悪魔が背中で告げる。「私は人間じゃない」



「餓え続けながら喰い殺し、喰い殺し続けながら飢えていく、ただの獣だ」


「獣とは語り合えない」



 師は応えた。



「語りかけることは出来ても、語り返すことはない。それゆえお前は獣ではない」



 途端、悪魔が振り返る。火花のような妖しい眼差しで、微笑みを向ける。



「なら、先生が獣かもしれないな」


「なるほど」



 師が笑う。



「なるほど、確かに」



 楽しげに。心からおかしそうに、師は笑った。



 師は悪魔とだけ談笑する。


 私はその笑声が途方もなく不安だった。師の笑い声を耳にすると、いつも怖くなってその場から逃げ出すのだ。



 悪魔といるときの師は、私達の知る師ではない。



 それは悪魔と初めて出会ったときから、私だけは知っていた。



 師は悪魔に打ち勝ってなどいない。悪魔に取り憑かれている。私はおかしくなりそうだった。



 なにもかもがおかしくなっていった。









 プシュケリアの霊薬を研究していた友人から、試作の薬品が出来たという知らせが届いた。


 弱っていた家畜をその薬でたちまち癒すことができたという。



 私は大急ぎで、その薬の作り方を送るよう頼んだ。まだ実験回数が足らず検証も不完全だというが、もはやそれを問うている場合ではなかった。



 師が、悪魔に抗えなくなっていたのだ。







 悪魔に分け与えているプシュケリアの量は、私の想像を超えていた。



 私の知る限り、師があれだけ長い時間ひとりの患者に触れ続けるということはかつて無かった。


 師の邸まで来られない重病人でさえ、師はもっと短い時間で相手のプシュケリアを正常にさせてきた。


 たとえその者のプシュケリア自体が弱っていても、師の与えられたプシュケリアが代わりに患者の生命をしばらくは支えてくれる。それだけの力が師にはあった。



 だというのに、悪魔は一度の施術で誰よりも多くのプシュケリアを注がれていた。しかもそれを毎日である。



 これにより、師が一日に消費するプシュケリアの量は、今までとは比較にならないほど増加してしまった。



 師の顔色や体調が日に日に悪くなっていく。



 師の負担を減らす為、それほど深刻でない患者は弟子達が担当した。師に弟子達が総出でプシュケリアを分け与えるという、それまであり得なかったことまでした。師のために長老達が様々な妙薬を仕入れてきてくれた。


 それでも焼け石に水だった。










 師が、倒れた。




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