第3話




 私が急いで戻ってきたときも、師は変わらず闇の中に佇んでいた。


 息を荒げて飛び込んできた私は、師が時間の中で凍結していたのではないかと思ったが、もちろん違う。止まるどこか、師は前に進んでいた。


 師の持つ燭台が、部屋のさらに奥を照らしている。


 目が闇に慣れてくるにつれ、私も師の見ているものが分かった。蝋燭の淡い火が、部屋の角をうっすらと浮かび上がらしている。


 そこに、ぼろを纏った小さな者がいる。


 頭巾も上衣もぼろぼろに擦り切れていて、もとがどのような服だったのか分からない。薄汚い頭巾を目深に被っているため、人相も分からなかった。

 小さく縮こまっている姿勢のせいで、ただの千切れた布の塊に間違いそうになる。


 だが、確かに人だった。


 人の形をした悪鬼かもしれないが。



「――連れが戻ったぞ。話とやらをしてみせろ」



 布きれがもぞもぞと蠢いて、喋る。それが言葉を作るたびに、私の魂が怯えてしまう。プシュケリアの力を奪ったのは、間違いなくこの声の主だった。



「その前に、お前の顔が見たい」



 師は言った。



「人間を喰うやつが物珍しいか」



 嘲笑が返る。師は首を横に振った。



「お前と話がしたい。出来るなら、顔を合わせて。お前が望まないのなら、無理にとは言わない」



 その声には、聞き間違いかと思われるほどの思い遣りが溢れていた。私は驚く。なぜならその声音は、師のもとに訪れる病人達に師が接するときと全く同じ声だからだ。



「見たいなら、もっと近くに寄ればいい」


「近付いていいのか?」


「さっきの馬鹿みたいになってもいいのならな」



 せせら笑いが闇に波紋を作る。あの冷え冷えとした、風ではない風が私の身を吹き抜けた。プシュケリアが弱まっていく。

 悪魔が本性を現したのだ。体を巡る熱い湯が水にされてしまうような感覚に、私はここが危地なのだと改めて悟った。


 だが師は微塵も怯まなかった。彼はさらに悪魔に近付き、丁寧な仕草で膝を折る。


 師は目線の高さを悪魔に合わせ、ゆっくりと手を差し伸べ、言った。



「私を食べなさい」



 その言葉には、少しの焦りも苦みもなかった。


 何を言われるのか、と私は驚く。師は悪魔の魔術に苦しむ私のためにそのようなことを言われたのか、と私は激しく慌てた。だがその私を、師は片手で制する。



「アロトロバ、お前は証人だ」


「な、なんのです?」


「私のプシュケリアが力及ばず、この者を癒す前に、または癒した後に私が死んでも、この者が殺したのではない。私がうぬぼれただけのことなのだ」



 師はこともなげに言う。しかし私はそうはいかなかった。師のやろうとしていることに、慌てぬ弟子がいるだろうか。



「先生…先生はこの悪魔に、プシュケリアを分け与えようと言うのですか!」


「そうだ」



 師はいつものように穏やかに、しかし揺るがぬ岩のように私に言う。


「この者のプシュケリアは弱っている。他の者のプシュケリアを奪わねばならぬほどに」



 プシュケリアが弱っている者を、弱っていないプシュケリアの者が助ける。


 それがプシュケリア一門の教えだった。


 師の教えだった。


 だが私は「お考え直しください!」と訴えた。



「命を失うほどのプシュケリアを与えてはいけないと、あれほど強く私達に言ったではないですか! 死者を救うために死者を出してはいけないと、先生が教えて下さったのではありませんか!」


「そうだ。私が言った」



 師は振り返らないまま、私に告げる。



「心配はいらない。私のプシュケリアならば、この者のプシュケリアを救ってみせる」


「……矛盾してるな、先生よ」



 堂々と言い放つ師に言葉を突き刺したのは、私ではなく悪魔だった。



「力が足りるなら、どうして弟子にあんな証言を取らせた? 力が足りないなら、どうして弟子にそんな教えをした?」



 私はまた別の意味で驚いてしまう。悪魔の声は魔物然とした闇の声音から、深慮する哲学者のような口調になっていた。


 師は悪魔に対し、真摯に頷いて応える。



「私が愚かであることを弟子に明かしてでも、お前を救うつもりだからだ」



 その応えに、私ははっと気付く。



 もし私を呼び戻さず、師だけが悪魔に挑み、死んでしまった場合、残された弟子達は悪魔が師を殺したと思うだろう。


 それはまだ良い。良くはないが、自ら危地に身を晒した師を嘲笑う者などいない。


 だが私は師から、悪魔が殺したのではないと皆に言うよう命じられている。そうなれば、自らの力量を見誤った愚昧の輩と嘲る者も出るだろう。そうなれば、師の築き上げてきた徳を貶めかねない。



 かまわないのだ、と師は言っている。



 もし私を呼び戻さず、師が悪魔を調伏した場合。師は悪魔などに敗れはしないと確信していたのだ、と弟子達は思う。だが私は師が、もしかしたら死ぬかもしれぬと思っていることを知っている。

 師の教えを師自身が破っているのだ。私から他の弟子達に広がり、ついには糾弾される立場になるかもしれない。


 どちらにせよ、私をこの場に呼び戻す利点など何もなかった。師を窮地に追いやるだけだった。



 かまわないのだ、と師は言っている。



 そんな師に、悪魔は問うた。



「私はお前を殺し、そこの弟子を殺し、街の人間を気が済むまで殺すかもしれないぞ?」


「そうかもしれない」


「仮にお前の命と引き替えにこの街を去ると約束しようと、それは無意味だ。死んだ後のことを、死んだお前が咎めることは出来ない」


「私が死んだ後、お前を咎めるのは私ではない」


「なら誰だ。誰が私を咎める」



 天の神だ、と私は思った。しかし師は違う言葉を口にした。



「お前だ、娘」



 師の手にある光が、ぼろ布の奥を照らし出す。


 頭巾の下、砂塵と土埃にひどく汚された小さな顔。火打ち石から飛び散る火花のような眼光。そして黒々とした長い髪が頭巾からはみ出ている。


 悪魔は確かに、年端もいかない少女の姿をしていた。


 少女の顔をした悪魔が、憎々しく歪んだ表情で師を睨んでいる。



「なんだって?」


「私が死んでも、お前がお前を咎める。そして私が死ぬ前から――私と出会う前から――既にお前はお前を咎めている」



 ごぽり、と空気の濁る音が聞こえた。



 無論実際に音などしていないのだが、部屋の中のあの毒々しい障気りが急激に濃度を高めていく。体がずっしりと重くなり、私はその場で頽れてしまう。プシュケリアが正常な働きを出来ず悲鳴を上げた。


 禍々しさを悪化させていく闇の中、平然と手を差し伸べる師へ魔物が吐き捨てるように言う。



「お前に私の何が何が分かる」


「お前のプシュケリアが分かる」


「なんだ、それは」


「他の者には見えない、お前には見えているものだ」



 師の言葉に、悪魔は口をつぐむ。師は目を伏せ、告げた。私が聞いたこともない、どうしようもなく淋しい声で。



「……そして、それは私も同じなのだ。私だけが、見えるのだ」



 悪魔が目を僅かに見開かせる。


 師は頷いた。悪魔が唇を噛む。言葉以外の何かを交わし合っていた。


 私は力が入らぬまま、声が出せぬまま、叫んだ。



 師よ、なぜそんなことを言われるのか。プシュケリアは人の目には見えないと、私達に教えて下さったではないか。


 師よ、なぜ悪魔には、私達と異なることばかり口にするのですか。


 本当のあなたはどちらなのですか。



「娘よ。もう一度言う」



 悪魔の結界は私の声を師に届かせない。私のプシュケリアでは、この悪夢を切り裂けない。師は私に一瞥もせず、悪魔へ言った。




「私を食べなさい」






 こうして、師は悪魔を拾われた。


 それから、ゆっくりと全てがおかしくなっていった。



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