第2話



 私の師は豊かなプシュケリアを持っている。湧き出る井戸の水のように、師はそのプシュケリアで人々を癒した。


 プシュケリアはあらゆるものに宿っている。風にも岩にも土にも水にも。


 天の神が万物を創造なされたその聖なる跡だと、我が師は言われた。


 万物の中でも生き物のプシュケリアは格別大きい。それは生き物の魂がプシュケリアで動いているからだ。


 魂だけではない。肉体もプシュケリアによって生命力を維持している。


 強いプシュケリアがあれば強い生命になり、弱ければ様々な病症を引き起こす。


 師は特別プシュケリアが大きかった。プシュケリアを実感し、理解し、それを他人に分け与えるほどに。


 プシュケリアを学ぶことは造物主の御業を学ぶことだと、かつて既に師のもとに弟子入りしていた友人から言われたことがある。


 私は彼の勧めで弟子入りし――その友人は私の弟子入り後にほどなくして別の場所へ修行の旅に出たが――、プシュケリア一門のひとりとなった。



 私は師と共に霊廟裏の空き家前にやってきた。


 以前は何某という商人の住家であったが、住人がいっせいに病死して以来、誰も住んでいない。

 異国の祭具を好んで集め、家の中に異教の祭壇を設けていたという噂もあった。


 二階建てのその家屋は無秩序に蔓草がはびこり、窓という窓が戸板で封印されている。

 壁の煉瓦はぼろぼろに損なわれ、貧弱な門柱が今にも崩れそうなほど罅割れている。


 その陰鬱な廃墟から発散される空気が、今日はさらに荒々しく波打っている。


 廃屋の前には師のもとに駆け込んできた例の若者とその仲間達が数人いた。

 彼らの表情は不安と怯えでひどく青ざめ、浮き足立っているのが分かる。我々に気付くと若者達は慌てて走り寄ってきた。



「先生! 大変です! 仲間が帰ってこないんです!」


「落ち着きなさい。何があった?」



 若者達によると、彼らの仲間のひとりが血気も盛んに悪魔退治と意気込み、空き家の中へ乗り込んでしまったらしい。


 師の伝言を受けた若者が仲間のもとに戻るより前の出来事であり、そして乗り込んだ者はまだ廃屋から戻ってこないという。



「分かった。ではこれから私と弟子が彼を探してくる。また私達が戻らなかったとしても、あなたがたは決して探しに来てはいけない」



 師が若者達に言った。若者達はうろたえ、



「し、しかし先生達に何かあったら…」


「私が戻らずとも、この弟子は戻る。その後のことは彼に訊けばいい」



 師の言われたことに、今度は私がうろたえてしまった。

 どういう意味なのか私も若者達も分かりかねたのだ。


 だが師はそれにかまわず、乱れのない歩みで空き家の中に進んでいった。私は慌ててそれについていく。


 玄関を潜り、しなびれた貧弱な雑草が生い茂る中庭に出た。


 敷地に足を踏み入れると、私は強烈な悪寒を覚えた。


 全身を何かで撫でられたような感覚。澱み濁った空気の中を、目に見えない魔手が泳いでいる。

 師の温かなプシュケリアとは真逆の、暗黒色の生気が漂っていた。



「先生…何かいます」


「ああ」



 師は頷かれた。その視線は、中庭に面した戸口に注がれている。


 屋内に通じる戸口はほとんどが窓と同様に閉め切られていたが、ただひとつだけ、戸板が朽ちて外れかけた入り口があった。



「アロトロバ、来なさい」



 我々はその崩れかけた戸口から、家の中に入っていく。


 家の中は濃密な臭気と陰気に満ちていた。


 入り口からのか細い光では、中はほとんど見渡せない。長年人の手を離れた建物特有の、塵埃と腐敗の臭い。


 それらの悪臭をねじふせて、総毛立つほどの鋭い冷気が暗闇の空間を支配していた。


 その見えない冷気を察知した途端、私の体から力が急に入らなくなっていく。


「…!」


 自分の重みに堪えられず、私は思わず膝をついてしまった。息が上がる。体が必死に活力をこしらえて全身に送り込んでいるというのに、その活力が誰かに奪い取られていた。私の体を動かすための力がどんどん私から逃げていく。ついに膝だけでなく手まで付いて、その場にうずくまってしまった。



「先生!」


「大丈夫。落ち着くのだ」



 師は平常と変わらぬ穏やかさで、私の肩に手を置いた。肩から淡く温かなものがじんわりと流れ込んでくるのが分かった。師のプシュケリアだ。奪われた私の活力の代わりに、師の力が私を動かしてくれる。


 活力の源である私のプシュケリアも、師のプシュケリアの助けを得て活性化していく。私は立ち上がり、全身に力が満ちていくのを感じた。いまや奪われる力よりも多くの力を私のプシュケリアは生み出すことが出来た。


 これが師のプシュケリアの力だった。悪霊の巣窟のようなこの屋敷の中でさえ、師の輝きが褪せることはなかった。



「ありがとうございます、先生」



 私は師に勇気づけられ、自ら進み始める。師は頷き、同じく前へ進んだ。


 そのときだった。



「――そこで止まれ」



 暗闇の中から、声がした。


 私は暗黒が喋ったような温度のないその声音に、体を強張らせる。我々は足を止めた。声が続く。



「そこに転がってる間抜けを連れて、ここからとっとと消え失せろ」



 悪意と敵意、そして若干の疲労を含んだその声が言う。


 師は言葉を返した。



「今から明かりを点ける。かまわないか?」



 しばし沈黙があってから、



「…好きにしろ」



 と見えない相手が応える。


 師は懐から蝋燭と燭台を取り出し、灯をつくる。火種は要らない。師は指先に触れるだけで蝋燭へ火を付けることが出来た。


 師が灯りをかざすと、仄かに家の中の様子が分かってくる。かつては厨だったのか、器や皿、包丁などが壊れたまま散乱していた。


 師はさらに奥を照らす。


 部屋の奥に設けられた竈の前に、ひとりの若者が倒れている。見知った横顔だった。例の乗り込んでいった者に間違いない。



「先生…!」



 私の言葉に師は頷き、



「彼に触れ、彼を癒すことを許して欲しい」



 と言った。



「お前は医者か?」


「そうだ」


「…やるならさっさとやれ」



 師は恐れるものなどないという動きで若者のもとまで歩み寄った。私も師に続く。歩を進めるごとに、あの忌まわしい魔力のような気配が強くなる。まだ蝋燭の火が届かぬ部屋の奥隅に、何かがいるのだ。


 師は若者の傍らで身を屈め、彼の呼吸と脈を確かめた。数拍の間を置いた後、師は私を見て頷く。その表情から、若者にはまだ息があることが分かった。師は横たわる若者に手を置き、先ほど私へ施したのと同じようにプシュケリアを分け与え始めた。


 プシュケリアは目には見えない。ただ感じるだけだ。


 若者の弱々しかった呼吸が徐々にはっきりとし、指先や目蓋が動き始めた。それを見て初めて、彼のプシュケリアの働きを師が蘇らせたのだと分かる。



「アロトロバ、彼を表の者達のところへ運んでやりなさい」



 若者の弱っていたプシュケリアが自らを律することが出来るまで回復すると、師は私に言った。



「安静にさせ、水をよく飲ませるよう伝えなさい」


「はい。しかし、先生は?」


「私はまだ話があるので残る」



 師は悪魔と戦うつもりなのだ。私は悟った。ならば私も残ります、と言おうとすると、



「彼を助けるのだ、アロトロバ。プシュケリアの徒であるならば」



 師は強い言葉で私に言う。その通りだった。プシュケリアが傷ついた者を救うのだと師は常々言っていた。その師を置いてでも。


 なお逡巡する私に、師は珍しく小さく笑った。



「アロトロバ。お前に命じよう。若者を引き渡した後、戻って私の証人になりなさい」



 師の言葉の意味が、やはり分からなかった。しかし師は私に命じられた。使命を与えた。若者を連れ戻し、ここに戻ってくることを。


 私はただちにそれを実行した。若者の屈強な体をどうにか支えて引き上げ、光の差し込む入り口に向かう。光と闇の境目に立ったとき、私は振り返って師を見やった。


 師は私を見ていなかった。じっと、闇の奥をすがめていた。



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