第6話
結局私は仲間の弟子達に、悪魔の言ったことを伝えた。
悪魔の言葉を聞き終えた弟子達の目は暗く、歪みに歪んでいた。そして弟子達は互いに顔を見合わせ、そのか黒い輝きをさらに深めていった。
誰かがぽつりとこぼす。
「悪魔を殺そう」
応える声はなかった。が、全員の双眸と表情が、それを肯定していた。
私は訊いた。
「師には、なんと言う?」
「そのままだ。悪魔は我々を殺そうとした。だから殺した」
弟子のひとりが応え、皆が頷く。私はそれ以上なにも問いかけることが出来なかった。
その後の詳しいことは、私にも分からない。
夜の更けた時間に、悪魔が塒にしている物置小屋を弟子達が息を殺して押しかけたこと。
彼らの手に家畜を捌く為の道具があったこと。
―――それから少しして、邸を満たしていたあの魔性の気配が不意に途絶えたこと。
弟子達が物置小屋から何かを運び出していること。
それを邸の外へ運んでいったこと。
私が知っているのは、それだけだった。
悪魔の死体を見つけたのは街の近くに住む牧童で、荒野にぽつんと転がっている塊を発見した。
最初はそれが人間だと思わなかったらしい。近づいて何かの肉塊だと分かったが、獣の死骸だろうと思ったそうだ。
かろうじて形の残っていた部位から、その死骸が人間のものだとようやく悟り、街に知らせに来たという。
死体の損壊は激しかった。
頭を潰され、喉を裂かれ、胸を切り開かれ、腹を抉られ、手足はもがれ、指という指は寸断された上で胴体に押し固められ、臓物の類は取り除かれ、もぎ取られた四肢が内臓のあった場所に纏めて押し込まれていた。
もはやただの肉塊だった。
獣の仕業ではない。明らかに人間が人間を肉塊にしたのだ。
それをなぜ悪魔の娘だと分かったのか。
無惨な死体が発見されたという話が街に広がった時、
「それは私の召使いの娘だ」
と言った人物がいたからだ。
無論、我らの師である。
痩せ細った体のどこにそんな力が残っていたのか、師は私の肩を借りて皆の前に姿を現した。
師は言った。
「弔わせて欲しい。私の手で」
私は悲しかった。これほど師と触れ合っているというのに、師のプシュケリアが感じられない。
私がいくら師にプシュケリアを注いでも、師のプシュケリアは応えてくれない。プシュケリアが衰弱しきっているのだ。
師のそんな体で葬儀など出来るわけがなかった。しかし止めても師は無理矢理執り行うだろう。
だから私は師に言った。
「先生、お願いです。どうか私に手伝わせて下さい」
悪魔の死体は街の共同墓地に葬った。師と私、数名の僧侶見習い達で。
弟子達はひとりも手伝わなかった。
小さな墓標が出来て、寺の御僧が全ての儀式を終えた後、師はその場に残った。私も側にいた。
「…私は無力だ」
師がぽつりと呟く。
「あの娘の飢えも苦しみも、癒すことは出来なかった」
私は首を横に振る。
「あの娘は死ぬ気でした。あの娘が自分で死を選んだのです。自分を殺させるよう、我々をけしかけたのです」
私は師にあの夜のことを話した。師は沈痛な面立ちで聞き、
「彼女は私との契約を守った。この街に来て、あの娘は私しか食べていない」
「先生、分かっているはずです。あの娘は死ぬしかありませんでした」
師はやはり、首を横に振って返す。
「彼女のプシュケリア私に助けを求めていた」
「あの娘は一言も助けを請うてはいませんでした」
「そうだろう。契約を願ったのは私なのだから。私はプシュケリアを救う為にこの力を授かった。だというのに…」
私は悲しかった。
悪魔が死んで悲しいのではない。
師のことが分からない。
師の見ているものが見えない。師は、私の見ているものを見てくれない。
師は、私を見てくれない。
「先生。プシュケリアとはなんですか? あの娘は、結局なんだったのですか?」
師は応えた。
「アロトロバ、伝えるのだ。プシュケリアとは、この世界の全てに充ちるもの」
師は言われる。
「天地万物にプシュケリアは宿る。人の目に見えぬものにもプシュケリアは宿る。砂の重さの中にもプシュケリアは宿る。鉄が錆になる力の中にもプシュケリアは宿る。音の中にも、光の中にも」
「先生には、プシュケリアが見えるのですね? 私達には見えないものが、あなたには見えているのですね?」
「そうだ」
「では、あの娘にも、見えていたのですか?」
「そうだ」
「あなたがたは…」
私は震える声で問うた。
「あなたがたは、なんなのですか?」
「見えぬものを視て、聞こえぬものを聴く、ただの人間だ」
師は応えられた。
「我々はこの世界を統べる真の理法に、僅かばかり身を近く寄せる者。それ故に、天上の偉大なる方の御業を、プシュケリアを通して世にあまねく教え広める者」
師は言った。
「我らはプシュケリアの徒である」
私はその言葉に、頷くことは出来なかった。
「先生は、あの娘を弟子と思っていたのですか?」
「違う。師弟ではない。私の術を彼女は理解出来ず、私も彼女の術を真似することなど出来なかった」
「では、あなた方の関係はなんなのですか?」
師はすぐに言葉を返さなかった。
ただ、じっと小さな墓標を眺めていた。名前以外、何も刻まれていない簡素な石塊。
その石にもプシュケリアはあった。しかし無生物のプシュケリアは弱すぎて、人間が感じ取ることは出来ない。
だが今の師は、その石の微弱なプシュケリアこそ、悪魔のプシュケリアの残滓だとでも言うように向き合っていた。
否、もしかしたら私が感じ取れないだけで、師は石のプシュケリアさえ感じ取れるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、師の感じ取っている世界は、我々とは大いに異なるのではなかろうか。
師は、我々とは違う。
「……私は、彼女を仲間と呼びたかった」
「先生」
私は居ても立ってもいられず、叫ぶように呼びかけた。「先生」
「私達は仲間ではないのですか。あなたの弟子達は、あなたの教えに耳を傾け、あなたの教えを守る、同じプシュケリアの徒です」
「アロトロバ…」
「私達は日々、あなたのようになるよう心掛けてきました。たとえあなたのプシュケリアには遠く及ばずとも、あなたのように、と思い願って修行していました。だというのに、あなたは」
喉が震え、体が震え、魂が震える。
プシュケリアが泣く。
「あなたは、あなたを慕う者達に距離を取り、あなたを喰い殺す者に心を開く。私達はどうすれば良いのですか」
言葉をいくら重ねても、胸の内で逆巻くプシュケリアを表現しきれない。
そんな私のプシュケリアを、師は感じ取れるのだろうか。
感じ取って欲しいと、私は願う。
「先生、教えて下さい。どうすれば、あなたの心に近づけるのか。先生」
風が流れる。無人の墓地に、乾いた風が。間もなく昼になろうというのに寺院の裏手に広がる共同墓地はいたって静かで、賑やかしに浸った街の喧騒が遠い。
そんな人為の空隙で、師がぽつりと呟く。
「―――私のようになりたいか、アロトロバ」
師は、やはり私に背を向けたまま言った。私はその言葉に頷く。師には見えないだろうが、私は構わなかった。おそらく師も構わなかっただろう。
師は私に言う。
「私のようになりたければ、アロトロバ、しばし待つのだ。お前の兄弟子からの便りが届くまで」
何のことかと尋ねそうになる私を制しながら、師は立ち上がる。その重みを感じない師の動きに、私は恐れを憶えた。
師は重ねて言った。
「さすれば、天より定められたプシュケリアを超えるプシュケリアを、お前は得ることが出来るだろう」
「いったい、なんのことですか?」
「待て。そうすれば、お前の願いは叶う」
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