第七章 揺れ動く世界

再び、城塞へ

 混乱の時代をもたらしたのは、我ら竜族だ。

 暴君イサーク帝の野望を打ち砕いた今、我ら四竜族は混乱の償いを約束する。


 竜王と世界竜族なきこの世界で、今一度、平穏で豊かな時代をともに築いていこう。


『約定の書』より




 ――


 ベルン平原の北で、北の皇帝ルカと竜の森を代表してファビアンが同盟を結んだ翌朝早く、予定通りセルトヴァ城塞に戻ることになった。


 ルカから託されたファビアンの星見盤は、肩から下げた鞄の中にある。麻の丈夫な鞄をくれたナターシャは、夜明けとともに星辰の湖にドゥールの背に乗って戻っていった。


 ルカの天幕で目を覚ました彼が、ルカと言い争う声を聞いた人は少なくない。

 しかも、人前に姿を現したルカの左頬がうっすら赤くなっていた。もしかしたら、口だけではすまなかったかもしれない。誰も、皇帝と世界竜族の生き残りに尋ねる勇気がなかったせいで、何とも言えない空気の中、朝食を取ることになった。


 一度に複数人を遠い場所に運んでくれた星見盤を、ファビアンは使うことができない。ファビアンとアンバーはその翼で帰ることができるけど、わたしとニコラスには無理だ。

 朝食の後、ルカは馬を与えてくれた。北の帝国で、馬を贈られることがどういうことか、わからないわけがなかった。それも、皇帝からとなれば、最上級の贈り物だ。

 けれども、ファビアンは皇帝からの贈り物に激怒した。

 二頭では足りないと、激怒したのだ。

 どうやら、彼はニコラス一人にわたしをまかせたくなかったらしい。だから、自分の馬もよこせとルカに詰め寄ったのだ。


 その結果、わたしは今、たたくましい芦毛の牝馬の上で、ファビアンの背中にしがみついている。


 ルカにはめられたような気がする。

 彼にしてみれば、顔を殴られた腹いせということもあったのだろう。けれども、腹いせよりも嫌がるファビアンに無理やりわたしをくっつけさせたかっただけかもしれない。

 ベルン平原を発ってから、ファビアンはずっと不機嫌そうに黙っている。

 ニコラスは、わたしたちから距離をあけてついてきている。


 そういえばと、昨日のあの小高い丘を登りきったあたりで、ファビアンはようやく口を開いた。


「そういえば、名無しはまだ沈黙しているのか?」


「……うん」


 わたしは一体何を期待していたんだろうか。落胆して初めて、期待していたのだと気がついた。

 この千年もの間、彼は花嫁を諦めていたのだ。今さら、他の竜たちのように、優しく受け入れてくれるなんて、期待してはいけない。まだ出会って数日だけども、充分すぎるほど、理解しているはずではないか。それなのに、わたしはまだ彼に恋人らしい甘い何かを期待している。

 腰に回した手に力がこもらないようにするのに、苦労した。


「……名無しのこと、そんなに気になる?」


 なんでそんなことを尋ねてしまったのか、よくわからない。ただ、ファビアンとの会話を終わらせたくなかった。


「……まぁな。気に入らないやつだが、やつの助言がなかったら今の俺はいない」


「名無しって、世界竜、なんだよね?」


 名無しが、実の父のユリウスだということを彼が知らない。

 凍てつく北の空気に、彼のため息が加わった。


「そうでなかったら、おま……フィオたちは、大河で溺れ死んでただろうよ」


「むぅ」


 そんな言い方しなくてもいいじゃないか。不満は素直に口からこぼれ出る。

 手綱を握る彼は、もう一度ため息をついて続ける。


「というか、他に考えられんだろう。俺はあいつのことをほとんど知らない。奴は、自分のことを語ろうとしない。いつもムカつく態度でわざとらしくはぐらかす。おま……フィオだって知っているだろう」


「そう、だったね」


 たしかに、そうだった。正体を見破らなかったら、ユリウスはあのままふざけた口調で接していただろう。やっぱり、ファビアンは名無しが自分の父親だと気がついていないのだ。

 わたしまで、大きなため息をついてしまった。


「ねぇ……」


「なんだ?」


「お前でいいわよ、もう」


「……悪いな」


 まったく気にならないかといったら、嘘になる。けれども、ファビアンにそう呼ばれるのは、少しずつ嫌じゃなくなってきた。


「そういえば、出発する前、アンバーの質問の答えって、なんなの?」


「ああ、あれか……知らずにすめば、それにこしたことはない」


「むぅ! ぜんぜん答えになってないじゃない」


 馬に乗っていなければ、ファビアンの背中を思いっきり蹴り飛ばしてやるところだった。


『皇帝陛下、僕はどうしても理解できない。なぜ、人間のあなたが、我々竜のために戦ってくれるんですか? はっきり言って、そこまでする必要性はない。僕は一晩考えたけど、あなたがしようとしていることは、人間たちにとって不幸を招くだけです。だから、聞かせてください。なぜ、我々竜のために、人間と戦ってくれるんですか?』


 出発する前、アンバーはルカにそう尋ねた。

 もっともな質問だった。おそらく、アンバーだけではなかったのだろう。わたしだって、なぜという疑問はあった。いくら、彼がファビアンをよく知っているとしても、なぜ聖王国とことを構えるのか。そもそも、真理派の敵は竜たちだ。北の帝国ではない。人間ではない。


 ルカは、すぐには答えなかった。しばらく考えるような素振りをしたあと、呆れたように鼻を鳴らした。


『知の地竜ともあろう者が、こうも簡単に考えることを放棄するとはな』


 ムスッとするアンバーに、ルカはよく考えればわかると続けた。


『混乱の時代、人間の敵は人間だった。同じこと……いや、それ以上の救いのない厄災は、必ず阻止しなければならない。そういうことだ、知の地竜の若者よ』


 ルカなりのヒントだったのだろうけど、わたしはますますわからなくなった。

 人間の敵が人間だなんて、理解できない。


 そもそも、人間同士が争ったのは、暴君イサーク帝が大陸統一を掲げたからではないのか。


「あいつだって、思い出したくないことだってあるだろうよ。お前は、飢えて死ぬ人間を、知っているのか? 道行けば、埋葬されることもない死体が腐臭を撒き散らしているのを、知っているのか? たった一片のパンを奪い合う痩せた人間たちを、知っているのか? 混乱の時代では、それが当たり前の光景だった。そんな世界を知りたいのか?」


「……想像もできない」


「だ、ろうな」


 混乱の時代を知る老竜ライオスですら、その時代について語ることを避けていた。なんとなく、悲惨な時代だったのだとわかっていたけれども、たった一片のパンを奪い合うなんて、わたしには想像もできない。


「でも、知りたい」


「馬鹿なのか?」


「むっ」


「いっ……つねるな」


 腰回りをつねるのは、効果的みたいだ。本当は、蹴り飛ばしてやりたい。でも、少しはスッキリした。と、同時に、気がついた。


「あ、もしかして、竜たちがいなかったら、小麦とか収穫できないってこと?」


「……まぁ、そういうことだ。それだけじゃないがな」


 故郷の春の大祭を思い出していた。海上安全と豊漁のための祭りに、水竜を招くのには、ちゃんと意味があったのだ。

 わたしたち人間が飢えることもなく、暮らしているのは、見えない力を操ることができる竜たちがいるからこそだ。

 街や村に、竜たちが契約するのは、そもそも混乱の時代を納めるために人間と竜たちが交わした約束だ。


 ならば、それ以前はどうだったのか。

 うまく、想像できない。


 丘を下ってファビアンは、馬を止めた。


「ニール、近道だ。ついてこい」


 ニコラスを振り返って、ファビアンは左に広がる茂みに馬を向ける。


「おい、そっちは北だ」


「だから、近道だと言ったろ、ニール」


 今日始めて、ファビアンが声を上げて笑った。


「名もなき始まりの竜王は、だてに世界竜を名乗ったわけではないぞ」


 彼の金色の瞳には、世界の隙間が見えるのだと言う。

 隙間ではない場所で無理やり空間をこじ開けるよりも、楽なのだと言う。


「とにかく、ついてこい。遅れるなよ」


「むぅ」


 急に馬を走らせるから、思わず力いっぱいしがみついて目を閉じてしまった。

 背後から、ニコラスが焦る声が聞こえてくる。それから、すぐに感嘆の声が続いた。


「まじか……」


 速度が落ちてようやく目を開けると、信じられない光景が広がっていた。


 さすがに、ファビアンも予想していなかったのだろう。彼が息を呑むのを、わたしはしっかりと肌で感じた。


「これ、セルトヴァ城塞、よね?」


「ああ」


 ファビアンの返事は、どこか上の空だった。


 セルトヴァ城塞は、もう廃墟ではなかった。

 廃墟だったはずのセルトヴァ城塞に集まった地竜たちが、一晩で城郭部の城壁を修復して、今も都市部の修復をしていた。


「……張り切りすぎだろ」


 げんなりしたファビアンには申し訳ないけれども、地竜たちが張り切るのもしかたのないことだ。


 なにしろ、世界竜のファビアンが帰るのだから。

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