第三部 改革の港町

第一章 予期せぬ帰郷

夜の再会

 あたしの特別な妹、フィオへ


 今年の冬は風邪引かなかった?

 元気ならいいけど、体を壊さないように気をつけなさいよ。フィオは特別だけど、病気になるんだからね。体は大事なんだからね。

 そうそう、この前、頭巾がかぶれなくなったって手紙くれたよね。お母さんとも相談したんだけど、フィオは頭巾かぶらなくてもいいんじゃないかな。だって、フィオは特別だから。

 一緒に贈ったリボン、絶対にフィオに似合うから。お母さんにお願いして、刺繍してもらったの。『あたしの特別な妹、フィオナ・ガードナー』って。

 あたしも、お母さんみたいにお裁縫上手になれたらいいのに。


 (中略)


 星辰のうみじゃないから、水鏡でフィオの顔が見れなくなっちゃったけど、元気でやってるって信じてるからね。

 フィオは特別なんだから。


 統一歴3453年冬の終月ついつき7日


 しがないパン屋の娘で、フィオを愛する姉 リーナ・ガードナー


『フィオナ・ガードナー書簡集』より




 ――


「ここ、リュックベンの港よ」


 八年ぶりの故郷。

 黒い都で探索を終えたら、確かに帰りたいと考えていた。


「リュックベン? フィオちゃんの故郷だっけ?」


 懐かしさのせいで、ローワンの呻くような声に首を縦に振るのが精一杯だった。


「さすが、世界の中心の塔。何が起きても驚かないつもりだったけど、やっぱり無理だったかぁ」


 心の底から残念がるアンバーに、笑ってしまう。

 笑いながらもう一度ぐるりとあたりを見渡すと、船尾でを握りしめていたはずのアーウィンがどこにもいなかった。舵を取る艫もなかった。


「アーウィン! アーウィン、どこいったのっ?」


「えっ、アーウィン?」


「きゃっ! 急に動かないで」


 慌ててみんな動くから、舟が激しく揺れる。それこそ舟がひっくり返るのではないかと、肝を冷やしたほどに。

 すぐにガシッと何かに固定されたような衝撃が舟を襲い、左舷に傾きすぎた舟が正しい位置に戻される。


「ちょっとぉ、あまり動かないでよ」


「むっ、アーウィン?」


 海中から聞こえた声に続いて、舳先へさきの向こうにアーウィンが顔を出した。青いウロコに覆われた顔を。


「まったく、急に舵がきかなくなったと思ったら、こんなところに放り出されるなんて。僕、海が好きになれる自信ないよ」


 竜の姿に変化へんげしたアーウィンがフンと鼻を鳴らすだけでも、ぐったりした火竜のローワンが海に落ちそうになる。


 夜だし、さっきの衝撃で舳先の光石ランプが割れたりして、暗い海の中でアーウィンがどうやっているのかわからないが、ずっと舟を支えてくれていたようだ。


「ここが、フィオの故郷なの? なら、早くフィオの家に行こうよ。日が昇ったら、僕ら目立つし」


 アーウィンの言ったとおりだ。

 リュックベン市のような、小さな都市国家で四竜族の若者たちが揃って歩いていたら、大騒ぎになるに違いない。

 わたしが世界竜族の生き残りの花嫁であることは、秘密にされている。だから、目立つことは避けたい。


 ふと、波止場の向こうにある桟橋が頭の中に浮かんできた。


「夜になるとひとけがなくなる桟橋があるから、そこまで運んでほしいんだけど……」


「了解。で、悪いんだけど、誰かロープをどこかに縛って、僕にくれないかな?」


 ターニャとアンバーが船底にあった、灰色のロープを舳先のランプを掛けていた鉄輪にしっかりと結びつけてくれた。


「フィオ、どこに向かえばいいか教えて」


「とりあえず。あっちに向かって進んで」


「あっちだね。ロープ、ちょうだい」


 わたしが指差した方を確認すると、アーウィンはターニャから投げよこされたロープをつかんで、海中に沈んだ。

 穏やかとはいえ小波さざなみ立つ海を、強引に小舟は突き進む。

 水辺に弱い火竜のローワンだけでなく、わたし以外の五人の顔が青い。それこそ、暗がりでもわかるくらい。地下水路で船酔いさせなかったアーウィンの舵取りは、やはり船頭の息子にふさわしいものだったに違いない。


 まずは懐かしい我が家に行って、後のことはそれからだ。


「お姉ちゃんたち、どんな顔をするかなぁ」


 突然帰ってきたわたしを、どんな顔で迎えてくれるだろうか。


 八年前、ディランを追いかけて黒いウロコを海に捨てようとした、あの桟橋に再び立っている。

 わたしたちが舟を降りて支えてくれていたアーウィンが手を離した数瞬のうちに、黒い小舟は煙のように消えてしまった。

 船酔いしたみんなは、舟を惜しむ余裕なんてなかっただろうし、むしろホッとしていたかもしれない。さすがに残念がっているだろうなと、人間の姿に変化して桟橋に飛び乗ってきたアーウィンを見やる。


「よかったぁ。これで、父さんに怒られなくてすむよ。艫が流されたなんて知られたらって考えるだけで、ゾッとする」


 などと、船頭の息子としてはどうかと思うほど、安堵の笑みを浮かべていた。


「むぅ」


 みんなの船酔いがひどすぎて、しばらく動けそうにない。


「ねぇ、アーウィンの力でみんなの船酔い、どうにかできないの?」


「無理言わないでよ、フィオ。というか、僕がいなかったら、舟も沈んでたからね」


「むぅ。それもそうね」


 ウロコを捨てようと走った桟橋は、もっと大きくて長かった。

 これが成長するということだろうか。

 今では、同じ桟橋とは思えないほど、ありきたりな桟橋だ。それに、ちょっとボロい。

 こういう感傷にひたれるのも、この港が故郷の一部だからだろう。


 思えば、今まで生きてきた半分以上の歳月を故郷を離れて過ごしてきた。

 よく覚えているものだ。

 目を閉じて磯臭い夜風に吹かれていると、五感をともなって記憶がよみがってくる。


 ふっくらしたお母さんに抱かれた時の、優しい匂い。

 お父さんが作る世界一のパンの、香ばしさ。

 いつもわたしの手を引いてくれたお姉ちゃんの、笑い声――。


 そうそう、ディランの妻ナターシャと出会ったのも、この桟橋だ。


 たったの七年しか過ごしていない故郷。

 それでも、色褪せない思い出がこの港町に詰め込まれている。


「むぅうう」


 気がついたら、顔が緩んでしまっていたのだろう。

 クスリと誰かが笑ったのが、目を閉じていてもよくわかった。


 あわてて目を開けると、みんながわたしを見つめていた。微笑ましいと言わんばかりの穏やかな笑顔で。


「そ、そろそろ、行こうっ」


 そんな、わかってますって目で見ないでほしい。恥ずかしいったらないのだから。



 リュックベン市の波止場は、夜通し賑やかな酒場が立ち並ぶ。

 他にも道はあるかもしれないが、わたしは眠らない波止場を抜ける道しか知らなかった。


 時おり、酒臭い船乗りらしき男たちとすれ違うこともあった。あと、肌の露出が多い、視界に入っただけでドギマギする女性とか。


 彼らの目には、三人の若い少女とうつむきがちな茶髪の少年が足早に移動しているようにしか映らないだろう。


 ターニャが両腰の戦斧を見せつけるように、堂々としているおかげて、絡まれることもないが、視線は嫌というほど感じている。


「本当に、みんないるのかよ」


「いるよ。ターニャ」


 アーウィンはもやの外套で、ローワンも蜃気楼の外套で、人間の目をごまかしている。ヴァンは、近くの屋根の上を人知れず移動している。

 それぞれ竜族の力を使っている。


 しかし、アンバーは人知れず人の中を移動するすべを知らなかった。そもそも、地竜族にはそういった術がないらしい。

 そのことが、アンバーは非常に気に入らないらしい。


「まったく、なんで僕だけ……」


「しかたないですわ。地竜なんだから」


「ライラ、意味がわからないよ」


 あまりブツブツぼやくから、並んで歩いているターニャを見やると、不敵な笑みを浮かべる。


「アンバー、ちょっと黙ろうな」


「ぐっ」


 ターニャが戦斧の柄を軽く叩いただけで、効果てきめんだ。


 足早に波止場を抜けると、広場に出る。

 あれほど堂々としていた市庁舎も、暗いせいだろうか、そこまで立派に見えない。

 しかし、まだ灯りが見える。

 もしかしたら、そこまで夜遅くないのかもしれない。まったく、行きかう人がいないわけでもなかった。


 目抜き通りにある我が家ガードナーベーカリーまで、もうすぐ。

 鼓動が痛いくらい早くなってきたのは、期待からだろうか、不安からだろうか。それとも、両方からだろうか。


 星明りと、白っぽい家々から漏れてくる暖かい灯りを頼りに、夜の目抜き通りを進む。

 目抜き通りとはいえ、リュックベン市程度の街では、夜は人通りはまばらになる。


 あざやかによみがえり続ける記憶を頼りに、夜の目抜き通りを進む。


 もうすぐというところで、向こうから一頭立ての二輪馬車がやってきた。


「むむっ」


 馬車は我が家の前で止まった。もう店は閉めていいる。こんな夜に我が家を馬車で訪れるような人を、わたしは知らない。


 わたしが足を止めると、ライラが怪訝な顔して小首を傾げる。


「どうしたの? もしかして、道に迷いました」


「そうじゃないけど……っ」


 馬車から一人降りてきた。

 頭巾をかぶったその女性ひとは、馬車の誰かと短いやり取りをした後、馬車に手を振って見送る。

 横を抜けていった馬車のことは、もうどうでもよかった。

 まさか、まさか――。


 灯りの消えたガードナーベーカリーのドアに手をかけた彼女も、こちらに気がついたようだ。


「……お姉ちゃん」


 八年ぶりだけど、すぐにわかった。お姉ちゃんだ。オレンジ色の頭巾をかぶった、リーナ・ガードナーだ。

 じんわりと目頭が熱くなる。


 声は届かない距離だったけど、お姉ちゃんもわたしだと気がついたようだ。


 駆け寄ってきたと思ったら、身構える前にガシッと抱きしめられた。


「フィオの馬鹿! 心配したんだからね。ばかぁああああああ」


 なんて、お姉ちゃんらしいんだろう。

 懐かしさを覚える言葉とともに、苦しいくらい抱きしめられる。


「お姉ちゃん、く、苦しいから」


「知らない! 知らない! そんなこと知らない! ずっと、心配してたんだからね。死んじゃってたらどうしようって、生きた心地しなかったんだからね」


 大げさなところも、あいかわらずだ。旅立ちの前日に、水鏡越しにおしゃべりしたばかりではないか。まだ数日しか経っていない。

 それでも、懐かしくて泣けてくる。

 わたしよりも先に、女らしい体になったお姉ちゃんの腕の中でちょっとだけ泣かせてもらった。そのくらい、いいだろう。


「フィオ、フィオ……」


 小声で、姿をくらましているローワンがなにか言っているけど、しらない。

 八年ぶりの再会なのだから、いいだろう。


「それからっ、帰ってくるなら、ちゃんと教えなさいよ。びっくりしたじゃない。幽霊じゃないかって、抱きしめちゃったんだからね」


「お姉ちゃん、大げさだよ」


「大げさ? 大げさじゃないわよ。みんな、そのくらい心配してたんだから」


 そろそろ、耳元で大きな声を出すのはやめてほしい。

 みんなが距離をとりはじめたのが、よくわかる。


「うん。心配させたのは、よくわかったから、落ち着いてよ」


「フィオは、全然わかってない。も行方知れずだったくせに」


「うんうん。そんなこと……む?」


 とは、どういうことだろうか。

 行方知れずとは、どういうことだろうか。

 確かに、四竜族が力を振るうことができない黒い都にいる間は、行方知れずになるだろうけども、というのは、どういいうことだろうか。


「お姉ちゃん、今日は何日だっけ?」


「秋の中月6日に決まっているじゃない! なに言ってるのよ、もぉ」


「お姉ちゃ……」


 仲間たちにも衝撃が走ったのを、肌で感じることができた。


 もしかして、これも夢だろうか。頭がクラクラしてくる。

 混乱してめまいに襲われそうになっているところに、急に涼し気な声が割り込んできた。


「こんな時間に……おや、リーナさんじゃないですか」


「あ、ベンさん、ごめんなさい」


 苦しいくらい力強い抱擁から解放されたわたしが見たのは、ランプを片手に戸口から顔を覗かせた青年らしき人影だった。顔はよくわからないが、リュックベンの男にしては痩せ気味だ。


「いえいえ。外が騒がしいので、ちょっと様子を見に来ただけです。……ところで、そちらのは?」


「あっ、妹のフィオと、それから……」


 お姉ちゃんは、この時初めてわたしの仲間の存在に気がついたらしい。あたふたと焦る姿が、お姉ちゃんらしいと感じてしまう自分が情けない。

 ため息をついて助け舟を出す前に、ベンと呼ばれた青年は大きく首を縦に振って、なにか納得してくれたようだ。


「妹さんでしたか。これはこれは、せっかくの再会の邪魔をしてしまったようですね」


「そうなんです。あ、ベンさんにも、また紹介しますね」


 お姉ちゃんは、急いでわたしたちを家に案内してくれた。


 その時初めて気がついたのだけど、その青年が姿を見せた戸口は、我が家の隣の家ではないか。八年前は、確か空き家だったような気がする。


「フィオ、早く行こう」


「うん」


 お姉ちゃんが強く手を握りしめてくれた。

 懐かしさで、もう一度泣きそうになる。


 そうだ。いつも、お姉ちゃんはわたしの手を引いてくれたんだ。




 ――


 目に見えるわたしたち四人とお姉ちゃんが、灯りの消えたガードナーベーカリーの中に姿を消しても、ベンはまだ戸口に立っていた。

 誰も触れていないのに、ガードナーベーカリーのドアが音を立てて閉じると、暗がりの中でベンは静かに笑った。


「おかえりなさい。可愛い、可愛い、小さな花嫁さん」


 とても嬉しそうに、ベンは笑っていた。

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