夢見の乙女
黒い小舟に飛び乗ったアーウィンが、舟を調べてくれている。
「船頭の息子がいてくれてよかったよ」
感心しているターニャの言ったとおり、黒い小舟の船尾には
舟の上にあったであろう光石ランプのひとつを、
「この舟、なんとか動かせそうだよ。僕ら、みんな乗っても大丈夫なつくりだし」
みんなが舟に乗り込むのを見守ってから、アーウィンは
ゆっくりと、艫の持ち手を握りしめて舟を漕ぎ始める。
乗船客となったわたしたちは、両舷に備え付けてあったベンチに三人ずつ分かれておとなしく座っている。左舷の船首の方からアンバー、ヴァン、それからローワン。右舷の船首の方からターニャ、わたし、それからライラだ。舳先と、船底に置かれた五つのランプをあわせても、地下水路の闇はすぐそこまで迫ってきている。
船頭の息子の顔がいつになく真剣なのは、これが誰かを乗せて漕ぐのが初めてだからだろう。
船頭のダグラスは、水竜族で一番信心深い。だからというわけではないだろうし、水竜族は昔から身内に厳しいと言われていることもあってか、ダグラスはアーウィンにとって優しい父親ではなかった。
アーウィンが幼い頃から星の名前を教えてきたことも知っているし、操舵の技も厳しく教えてきた。星辰の湖で過ごす間、ダグラスの厳しさに目を覆いたくなったのも一度や二度ではない。
歳が近いからとよく遊んだ生意気な弟分。この旅の仲間たちの中で一番よく知っているのは、アーウィンだ。
その彼が、初めて船頭として船を漕いでいる。
ダグラスは、決して褒めたりしないだろう。
この間まで生意気な弟分だったアーウィンが、急に大人びて見える。いや、急ではないかもしれない。この旅が始まってから、わたしが認めようとしなかっただけだ。
「どうしましたの? 大きなため息をついて」
「む? ううん、何でもないの。ちょっと疲れが出てきちゃって……」
心配してくれたライラに、嘘をついたわけではない。実際、もう動けないというくらい疲れている。
ヘイオー、ヘイオー
船を漕げ、ヘイオー
あの星のもとへ、今宵も船を漕ぐ
ヘイオー、ヘイオー……
アーウィンが口ずさむ歌にも、かつての楽しげな響きはない。
そういえば、ダグラスはアーウィンが旅に出ることを、快く思っていなかったようだった。父を怒らせてまで、彼が旅に出たい理由があったのだろうか。
そういえば、他のみんなはどうなのだろうか。今さらだけど、わたしのためだけにあてのない旅に出ようなど、思わないはずだ。
それぞれ、理由があるはずだ。
知りたい。
ガクンと上体が倒れかけて、ハッとした。いつの間にか、居眠りしかけていたようだ。
両手で目をこすると、チリンチリンと腕輪が鳴る。
「ごめん。なんか、急に眠たくなっちゃって……っ!」
舟に乗っていたはずの仲間たちはどこにもいなかった。船を漕いでいたアーウィンすらも。
「みんな、どこ! どこに……むっ」
言いようのない恐怖にかられて、船頭のいない舟で立ち上がろうとしてバランスを崩した。
落ちる。――と、確信した。背中から暗い地下水路に落ちる、と。
「呆れたな。夢を見ていることすら、気がつかないとは」
誰もいなかった舟の上から伸ばされた手が、わたしの手を掴んだ。
片手でわたしを引き上げた手の先には、黒の長衣。偉そうな声は、聞き覚えがある。わたしを元のベンチに座らせると、すぐに手を離した黒衣の青年は、
「……ユリ、ウス?」
「まずは、礼くらい言うべきだがな」
不機嫌そうに目を釣り上げたユリウスは、左舷のベンチに腰を下ろす。
「あ、ありがとう」
「それで?」
「む?」
それで、というのはどういうことだろうか。
背後の船べりに両腕を広げた尊大な態度のユリウスは、呆れたようにわたしを見下してくる。
ああ、そういうことか――。
「どうも、ありがとうございました」
「二度も言わんでよい」
「むっ」
言葉使いがなっていないとか、そういうことかと思ったのだが、そうではなかったらしい。
ユリウスはげんなりしたように肩を落とす。
まがりなりにも竜王が、そんな態度でいいものだろうか。
「わたしは竜王だったのは、千年も前だ。死んだ後まで、堅苦しい振る舞いなど、ごめんだな。……それから、心を読んだわけではないぞ。顔に書いてあるだけだ」
「むぅ。……それより、またわたしを閉じこめてどうしようというの?」
竜王の屋敷の中庭の時のように。
「小娘、本当に気がついていないのか?」
ユリウスは憐れむようなため息をついて、居住まいを正す。少し居住まいを正しただけで、かつての竜王の姿を垣間見せた。
「これは、小娘の夢だ。閉じこめられたのは、わたしの方だ」
「わたしの、夢?」
「……小娘が夢見の乙女だと知っていれば、他にやりたかもあっただろうに」
今のは独り言だったようだけど、夢見の乙女とは何のことだろうか。聞いたこともない言葉だ。
「本当にわかりやすいな。……たまにいるのだ。夢を見ることで過去も現在も未来すらも、知ることができる女が」
「それが、わたしだというの?」
「多くの夢見の乙女が、自覚のないまま生涯を終える。だが、心当たりがないとは言わせんぞ」
「むぅ」
心当たりなら、ある。
黒いウロコを手にしたあの日から、何度も見続けた夢。
姿なき名無しの正体を見破ることができたのも、夢がきっかけだった。
「わたしが夢見の乙女だから、あなたを夢の中に招いてしまったってこと?」
「そうだ。それから、わたしが与えた腕輪が夢見の力を増幅させてしまったせいでもある」
チリンチリンと腕輪が音を立てる。やはり、竜王の証だったのだろうか。しかし、ユリウスはすぐに否定した。
「来るべき時のために、わたしが造った腕輪だ。魂だけでなく、力もとどめておけるようにとな」
そう言いながら、わたしの腕輪を指し示した左の手首には、別の黄金の腕輪があった。篭手のように手首にピッタリとはまっている幅広の腕輪と、一回り大きく幅の狭い外側の腕輪。どちらにも、はっきりと直線的な幾何学文様が彫られているのが、頼りない光石ランプの灯りでもよくわかる。
どうやら彼が造った腕輪が、わたしの夢見の力を増幅させてしまったことは、想定外のようだ。
これがわたしの夢だというのなら、彼を恐れることはないかもしれない。
「ユリウスは、やっぱり自殺したの?」
舟が止まった。
ユリウスの涼しげな整った顔から、一切の表情が消えている。
「今さら、そんなわかりきったことを……」
口元を歪めてユリウスは笑う。彼自身が歪んですら見えた。
「そうだとも、わたしは自ら命を絶った。楽園で憩うことを拒んだ。だが、本当に知りたいのは、そんなことではあるまい。いいとも、教えてやろう。わたしが、同族の命を奪ったのだよ」
「どうして、どうして、そんなひどいことをっ」
予想はしていた。ユリウスが嘆きの夜を引き起こしたのではないかと。
それでも同族の命を奪ったことを、こうも簡単に認められるなんて、理解できない。
「どうして? どうしてだと? どうしてっ、クククッ、ハハハッハハハッ、ハハハッ……」
面白くてしかたないと、ユリウスは腹を抱えて笑いだした。
舟が激しく揺れだした。とっさに、船べりにしがみつかなくては、また放り出されてしまっていただろう。見えるものすべてがグルグルと歪んでいく。
「ハハハッ、ハッ、小娘にはわかるまいよ。名誉も、地位も、自ら命も、同族の命すらも捨てた愚かな竜王のことなどっ」
目を閉じても、ユリウスの狂ったような笑い声がグルグルと頭の中を渦巻いていく。
「小娘、これは警告だ。大切なものを失いたくなければ、痛みを知るがいい! クククッハハハッハハハッ…………」
胸元を探って、黒いウロコの小袋を握りしめる。とっさの行動ではあったけど、正解だったようだ。
ユリウスの笑い声も遠のき、船の揺れも収まっていった。
「……ィオ、フィオ、起きろ! フィオ」
「むぅ」
ターニャの声と肩をつかんだ手のおかげで、やっと目を開けることができた。
今度こそ、夢じゃないことを願いながら。
両隣には、ターニャとライラ。反対側には、ユリウスではなく、ヴァンと左右にローワンとアンバー。船尾には舟を漕ぐアーウィンがいた。みんなを心配させてしまったようだ。
「大丈夫ですの? 途中から、ひどくうなされてましたけど」
「ちょっと嫌な夢を見ただけだから、大丈夫。ライラも、みんなも、心配してくれてありがとう」
夢というものは、夢を見ている間は、それが夢だと多くの人が気がつかない。
力が増幅されたからと、コントロールできるわけがなかった。
今しばらく、小袋を握りしめて気持ちを落ち着かせる必要がある。
安堵の表情を浮かべた船頭の息子のアーウィンが、前を見るようにうながした。
「もうすぐ、出口だよ」
「むっ」
他のみんなは知っていたようで、うなされていたわたしだけが、食い入るように舳先の向こうを見つめる。
暗い地下水路の先に、確かにうっすら明るくなっている出口が見える。
どこに通じているのだろうか。
何が待ち構えているのだろうか。
慎重に漕ぎ進めていくアーウィンだけでなく、みんなの顔も緊張のせいで強張っていく。
「……っ! 嘘だろう。くっそ、みんな掴まって!」
アーウィンが鋭い声を上げると同時に、舟が大きく揺れた。
船べりにしがみついて、目を閉じる。
夢の中のようにグルグルと渦巻くような揺れではなく、何処かに押し流されるような揺れ方だ。――そんなことを、みんなの悲鳴を耳にしながら、頭の片隅で考えていた。
もしかしたら、このための警告でもあったのかもしれない。
「むぅ」
揺れが落ち着いて、ゆっくりと目を開けると、信じられない光景が目の前に広がっていた。
頭上に広がっているのは、満天の星。シャール月もムスル月も、まだ夜空に昇っていない。
懐かしい磯臭い香りに、濡れた手を舐めれば、しょっぱい海水の味が口の中に広がる。
どうやら、夢ではないらしい。
わたしは、目の前に広がる懐かしい光景を受け入れようと、胸いっぱい潮風を吸い込んだ。
「ここ、どこだよ」
いち早く舟の激しい揺れから回復したヴァンが、あたりを見渡して困惑している。
おそらく、彼の問いに答えられるのは、わたししかいないだろう。
「ここ、リュックベンの港よ」
沖に停泊している大型船の黒い影。
岬の灯台。
眠ることのない波止場の酒場の灯り。
黒く浮かび上がる緩やかな丘には、オレンジ畑が広がっているはず。
間違いない。
わたしの故郷、最南端の港町リュックベン市だ。
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