第28話 ドイツ

 ミュンヘンにある日本でも有名な歴史のある特許事務所である。早苗はその事務所にデスクを与えられていた。欧州特許庁はミュンヘンにある。条約に加盟するヨーロッパ全土の特許出願を、このミュンヘンの欧州特許庁、一局に出願することができるのである。ヨーロッパの統一特許庁というわけだ。少し大げさにいうなら、特許において人類が初めて試みた画期的かっきてきな挑戦といってもいいだろう。国々が国境を越えて一つの目的にむけて一つになろうというのだ。

 特許は極めて戦略的な国策をはらんだ制度である。化学製品が得意な国、半導体製造に強い国、農産物が豊富な国、ソフトウエア開発を進める国、技術力に立ち遅れている国、それらの国々の様々な思惑と利益が交錯する。例えば医薬をとってみよう。医薬開発が得意な国は、この保護を当然厚くしたい。特許のハードルを過度に上げたくはないし、存続期間も長くしたい。ドイツや米国、日本が挙げられる。これらの国は実際に医薬特許の存続期間を延長する制度をもつ。一方、医薬技術の乏しい国は逆だ。倫理りんりだの、慈善じぜんだのという言葉を前面に押し出し、医薬流通の自由化を唱える。実際にインドでは医薬の特許を取りにくくするために、あの手この手で行く手をはばんでいる。欧州だって例外ではない。その国ごとに利害は異なる。国民性の観点からしても、イギリスとドイツ、ドイツとフランスが犬猿けんえんの仲であることは周知のことだ。そんな国々が一つにまとまろうというのだ。

 現在、特許は各国、各地域で申請して許可を得ている。ユーザーにしてみれば煩雑きわまりない状況である。世界の統一特許が企図されているが、欧州特許庁はその試金石というわけだ。早苗はそれをいま肌で感じている。

* * *

 日酸レジストの件は早苗の心に深く刺さっていた。もちろん、弁理士として一回り成長させてくれた。一方で、相手当事者とはいえ人が死んでいる。それも殺人の疑いもあるわけだ。それを察した副島の配慮であった。研修を兼ねた駐在という名目である。収入は大幅に減少した。事務所の業務については、早苗の抜けた穴を埋める、力強い後任がいる。源田である。この点は、全く心配がない。

 ドイツでの生活は刺激的で充実していた。早苗の業務は、主に、日本からの出願を扱うものである。ミュンヘンにある欧州特許庁に出願し、中間処理を行う。現地の代理人に同行して、欧州特許庁にもしばしば足を運んだ。

 デスクの上には、二枚の茶色がかったフィルムと、紫外線ランプ、数個のサングラスが載せられていた。微粒子を付したダイシングテープの件である。ドイツでもやはり特許化に難航なんこうしていた。日本で大野がやった、あのデモンストレーションを、今度は早苗がドイツの審査官の前で演じようというのだ。うまくいけばいいのだが。それでも早苗には勝算があった。彼女にドイツ語はできない。でも、技術は万国共通だ。この国の審査官もきっと技術を肌で感じてくれる。

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 中世のただずまいが残る街、ドイツ、ハイデルベルク。緩やかに流れるネッカー川のほとりにたたずむ街並みは、日頃の喧騒けんそうを忘れさせてくれる。まるで箱庭のなかに居るようだ。河畔かはんのほとりのレストランのテラスで二人は昼食をとった。春の日差しがゆるやかに注ぎ、風は新緑の香りをはこんでくる。

 瀬奈人はレバークーゼンに出張に来ていた。抗がん剤、免疫応答阻害剤めんえきおうとうそがいざいの事件で渦中かちゅうの製薬会社がある土地だ。事実関係の事後調査と情報整理のために来た。熊谷助教が発明を不正に持ち出したのでないことは明らかではあった。それでも、それを裏付ける資料をここでもしっかりと収集しておくのが目的である。が、白状すれば、早苗のいるドイツに何とか出張を作ったのである。

 ここハイデルベルクは瀬奈人のいるレバークーゼンから約百キロメートル。早苗が住むミュンヘンからも約百キロメートルだ。中間地点で落ち合ったという訳だ。

 早苗は、いつものスーツ姿ではなく、デニム地のワンピースを選んだ。ノースリーブで胸元が大きく空いている。そこからインナーの白いTシャツが少し覗いている。丈はくるぶしまであり、おおきなプリーツがゆれている。足元は素足にブラウンレザーの厚底サンダルをはいていた。脚の指には水色と緑の間の色のペディキュアをしてきた。

 瀬奈人の方は、薄いグリーンのポロシャツのえりをたたている。胸元には人気ブランドのおおきなロゴ。足元は茶色のローファー。カーキ色のコットンパンツは短めで、歩くと、丈の短いソックスが見え隠れする。

 二人の前に食事が運ばれてきた。スープは『ツヴィーベル・ズッペ』。ドイツで代表的なスープ。早苗はこのスープが気に入っている。知識のない瀬奈人はそれに従った。瀬奈人は『ヴルスト』を注文した。要するにソーセージだ。付け合わせはポテトのフライ。定番中の定番。もちろんおいしいのだが、早苗はもうそれに飽きていた。『ラムチョップ』があったので、それを注文した。仔羊の背肉。牛肉でいうならリブロースにあたる。骨付きで肉は柔らかい。骨の周りの旨みは格別だ。パンは、『ブレートヒェン』を頼んだ。小麦で作った丸くて小さなパン。飲み物は、瀬奈人は当然ビール。ドイツで最も楽しみにしていたものの一つである。早苗はコーヒーにした。バームクーヘンを楽しみたいからである。ドイツのバームクーヘンは日本にはない美味しさがある。その地方、その店によって、すこしずつ風味や甘み、食感が異なる。こちらの方ははどれだけ食べても食べ飽きない。

* * *

「こっちに来ているのは、免疫応答阻害剤の件でしょ。抗がん剤。新聞でも大きく取り上げられてるから」瀬奈人がビールに口をつけるのを見て、早苗が訊いた。

「熊谷助教の方が先に発明して、先に特許出願してたって噂よね。本当なの?」早苗が興味津々といった目を向けて瀬奈人を覗き見た。瀬奈人は何も答えなかった。親しい仲とはいえ、さすがにこの質問には答えてはならない。

「日本人同士で争うのを避けたかったんでしょうね。教授に道を譲った形ね。収まるところに、収まったって感じかな」瀬奈人は黙ってドイツビールをもう一口呑んだ。

「それにしても、熊谷助教が、電機会社の大手、TONYに入いるなんてね。しかも、バイオテクノロジーの研究はやめて、通信技術をやるらしいじゃない。驚きよね。でも、ああいう優秀な人は何やっても成果を出すんでしょうね」

 瀬奈人は何も言わなかったがすべて図星だった。

 日本のマスコミはどこまで優秀なんだと感心する。瀬奈人はバイオテクノロジーに詳しい化学捜査官に訊いてみたのだが、バイオテクノロジーとIT技術とは結構共通点があるらしい。バイオテクノロジーというと、生物学、つまり生き物を解剖したり、顕微鏡で観察したりするものという印象が強いが、実はそうでもない。DNAやタンパク質、その物性や機能に関する膨大なデータベースを駆使して、その解を求めていく。ビッグデータを活用した情報処理の粋というわけである。数学的センスが問われるのだ。IT技術では、いままさにクラウド技術を中心とした、ビッグデータの処理に注目が集まっている。熊谷助教はまだ若い。ここでもまた彼は大きな成果を上げるのだろうと、瀬奈人も想像していた。

* * *

 石畳の道の両側には、つたが垂れるレンガの壁が続いている。二人はその細い坂道を登って行く。お互いの手のぬくもりを感じながら、ゆっくりと一歩ずつ。古代のヨーロッパに吸い込まれていくように。レンガの壁を抜けると、鮮やかなライトグリーンの芝生が眼前に広がる。その向こうに、森の木々と、それに調和したハイデルベルク城が姿をあらわす。

 二人は城へと進んでいく。その輪郭は徐々に大きくなり、全貌が露わになってくる。すると、そのレンガ造りの建屋は、もはや人が住むことのできないものであることが分かる。青い空から、崩れかけた丸い塔が二人を見下ろしている。その壁には、四角い穴がいくつもあけられているが、戸も窓も嵌められていない。

 林の向こうにも城がある。遠目にはホテルのように映る。パイプオルガンの音がかすかに風にのって聞こえてくる。それは、城址しろあとのいくつもの壁に反響し、四方にこだまする。瀬奈人が一段高くなった壁の上に少し跳ねるようにして上った。右手を差し出して、早苗の手を取り、ゆっくりと引き上げる。ワンピースの裾をすこし引き上げながら、早苗もその壁に上ってみる。壁に座り足を投げ出す。城址がある丘の稜線には木々がしげり深緑をなす。その遙か先にはハイデルベルクの街並みが広がる。空の青と流れる雲の白。深い緑の河畔には、敷き詰められた赤い屋根が広がる。

 早苗は、その街並みを見下ろしながら瀬奈人に伝えた。日本に一時帰国する際に、一緒に父に会ってほしいことを。

 瀬奈人は前を見たまま少しぎこちなく右手を早苗の肩に回した。早苗はそれに気が付かないように、前を向いたまま丘に吹く風を感じていた。瀬奈人は早苗の耳元の髪をやさしくかき上げる。早苗は彼の方をむき、顎をすこしあげて、そっと目を閉じた。

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