第27話 逆提訴

 早苗たちは知財高裁、十四階の会議室にいた。

 裁判官を挟むようにして、左に、副島、早苗、四宮が着席していた。右側には布藤ひとりが座っていた。早苗はすでに準備書面を提出しており、そこで木邑と二田水の関係、誤記などから二田水が発明を持ち出した可能性が高いこと、二田水が木邑の殺害を企てた疑いで逮捕され拘留中であることを述べたていた。布藤の方からは、以下のことが主張されていた。木邑と二田水に面識はあったが、二田水が発明を持ち出したというのは憶測にすぎないこと。木邑の死亡と本件との因果関係を示す証拠はないこと。誤記や差し替えミスが他の出願と一致していたといえ、それは偶々そうなったに過ぎないこと。

 裁判官の対応は極めて淡泊たんぱくなものであった。すでに心証を固めていることは明らかであった。特に質問はなく、布藤の方に、本件訴訟を取り下げる意思がないかを確認した。数十枚にもおよぶ判決の作成に着手して、取り下げられたらかなわないからだ。日酸レジストの勝訴は明らかのように思えた。判決はほどなく出された。


『主文

1 特許庁が無効審判むこうしんぱん事件第2008・96052号事件についてした審決しんけつを取り消す。

2 訴訟費用は被告の負担とする。』


 日酸レジストの勝訴である。

 高橋弁護士の解説によると、判断の規範自体は特許庁が審決でしたものと同じだそうである。あの、①、②、で解説のあった話しだ。日酸レジストの側に説得する責任があって、その信ぴょう性に応じて、布藤の側が反論する必要があるということである。日酸レジスト側が、『確信』を得られなければ敗ける、というあれだ。そして、今回は、その説得力があったという訳だ。木邑の死亡の事実は大きな要因ではあるが、それだけなら、また証拠不十分で敗けてしまっていただろう。木邑の死にまつわる事実、二田水との人間関係や殺人の可能性、その背後にある布藤を加えた計画的な犯行の側面を早苗が緻密ちみつに調査し、そのほかに追試を交をまじえた技術論や明細書の誤記などの主張を一つ一つ積み上げたことが、裁判官の心に響き心証を固めるに至ったのであろう。早苗と、それに瀬奈人の粘り勝ちといっていいだろう。

* * *

 二田水は仮釈放されていた。捜査一課の所管のため瀬奈人にも詳しいことはわからないが、『傷害致死』ということで立件することになりそうだという。しかし、彼らは『殺人』での立件を目指していた。争点は殺意である。木邑アラムナイの代表者が、彼が死ぬ直前に、木邑から二田水に変更されている。この事実から、未必みひつの故意、つまり死んでも構わないと二田水が考えていた、計画的な犯行であることを立証しようというのである。いずれにせよ、裁判の結論が出るまではまだ相当時間がかかる。

* * *

 早苗は布藤の行為がどうしても許せなかった。弁理士として、どうしても。

 副島の了承も得て、弁理士会の倫理委員会に提訴した。弁理士としての品位に欠ける行為を取り締まる委員会である。よくある事案としては、お金に関するトラブルがある。費用の概算を伝えずに受任する。仕事が終わった後に百万円を超える金額が請求される。個人発明家などはその額に驚いて訴えるという訳だ。そんな件が多い。冒認出願については初めてであろう。しかし、その結論はあっけなく降りた。不受理である。審理に値しないというのである。布藤が後ろで動いたのは明らかであった。布藤は弁理士会でも顔が利く。それで、倫理委員会にも手を回したのであろう。早苗は不受理の通知をみながら唇を噛んだ。

* * *

 副島はそれでは済まさなかった。

 布藤を逆に訴えるように早苗と三枝に指示を出したのである。信用毀損しんようきそん訴訟である。不正競争防止法ふせいきょうそうぼうしほうだ。布藤は、弁理士として、日酸レジストの取引先に警告書を送り付けた。一方、その根拠となった特許権は冒認により無効になった。早苗たちがつぶしたからだ。その結果、瑕疵かしのある権利に基づいて、日酸レジストの信用が害されたという趣旨である。平たく言えば、迷惑料ということである。

 早苗たちは早速、四宮にコンタクトした。訴訟を提起してほしいことを伝えた。しかし、日酸レジストはこの訴えに難色なんしょくを示した。争いがある時点で企業イメージの低下につながるというのである。アメリカでは全くそんなことはなく、むしろ、各企業は、訴訟を起こすことで毅然きぜnとした態度を示そうとする。日本ではまだまだ裁判に対するイメージは消極的なのだ。しかし、副島はあきらめなかった。日酸レジストの上層部の人間を説得したようだ。このような行為は許してはならない。ここで芽を摘んでおくことが肝心である。第二・第三の布藤や二田水のような者が出現することを防ぐことこそが産業界全体、ひいては日酸レジストにとって大事なことであると力説したらしい。

* * *

 こちらの訴訟も日酸レジストが勝訴した。損害賠償金を支払うよう裁判所は布藤に命じた。その額は八百万円である。布藤にとっては、さほどの額ではないのかもしれない。しかし、判決が出たことに意味がある。この訴訟の記録は、彼の名前とともに一生ついて回るのである。

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