第25話 家族
早苗と大野、それに瀬奈人は、大東亜油脂の本社にいた。そのビルは、横浜、みなとみらいの海沿いにあった。二十八階の応接室。そこからは、横浜の海が一望できる。早苗は思わず小走りにして窓際に進み、幾何学的な造形の博物館やその横に停泊し出港することはない帆船を見下ろした。さらに、港から海と空との境界線にまで視線を大きく振って、富士山まで一望できるその大パノラマに思わず「うわーっ」とという軽薄な声を上げてしまった。対照的に、大野は早々と着席して手元のファイルを見つめて俯いていた。
* * *
審査官面接のあと、新橋の駅に向かう道中で、早苗は大野から一つの相談をうけていた。転職についてである。もちろん、それに早苗がアドバイスできるはずもない。転職を判断する上で、発明の価値を教えてほしいという。金額だ。
大野が手数料を払うというので、副島も仕事として受けることを了承した。ただし、トラブルにはするなよ、とくぎを刺された。一社員である大野に加担して、大東亜油脂という会社と
その計算は個別の事情によるので、一概にいうのは難しい。当初は
発明品の売り上げに超過利益を掛ける。超過利益の意味は、独占によって生じる利益である。算定根拠は一概には言いにくいが、実務では、純利益と粗利のあいだくらいになるようだ。純利益とは売り上げからすべての費用を差し引いた利益。一般に世の中で言ういう『利益』とは通常これをいう。粗利とは売り上げから原材料費を引いた利益である。大きな額になる。極めておおざっぱに缶ジュースの例でいうなら、これを百円で売るとする。ジュースの中身と缶の値段が二十円とすれば、粗利は八十円となる。そこから、工場や営業所の設備費、工員や営業マンの給与、広告宣伝費などが六十円とする。そうすると、八十円から六十円を引いた、二十円が純利益となる。知財訴訟の場合、この種の製品での超過利益は、ざっくり言えば四十%くらいになるようだ。
そこに実施料率を掛ける。いわゆる特許のライセンス料だ。三%くらいが平均的だ。そこに発明者の貢献度を掛ける。例えば発明者が二人いれば二分の一。五十%が貢献度となる。
まだある。そこに、さらに寄与率を掛けるのである。寄与率は製品に対し、その特許がどの程度寄与しているかである。例えばハンドルの特許があったとする。自動車の値段が二百万円とする。二百万円、すべての価値をハンドルの特許の価値の基礎としたのでは行き過ぎである。それはうなずけるだろう。しかし、実際にそれが何パーセントかというと、きわめて難しい。というより
早苗は過去の判決を分析した。
今回の件では、大野の取り分は、売り上げの0.1%とみた。当たらずとも遠からずといったところであろう。売り上げの予測が難しいが、大野によると、ペットボトルの出荷本数は年間、数百億本と言われている。少なめに三十億本とみておく。これは大野も合意だ。その十%が彼が開発した生分解性プラスチックに置き換わるとする。つまり三億本。特許の存続期間は二十年で、登録までに五年かかったとする。すると十五年がのこる。三億本掛ける十五年だから四十五億本。一本の価格が十円として、四百五十億円。四百五十億円の0.1%だから、四千五百万円。本件の発明者は三人いるから、その三分の一。彼の取り分は、千五百万円となる。
もちろん、ペットボトル以外の商品もあるだろう。増加要因である。一方、普及までに数年から十年くらいかかるかもしれない。減額要因である。なんとも言えないが、過去の裁判例からみても、数百万円から一億円の範囲で落ち着く判決が多い。それほど不当ではないであろう。考えうる増減要因や、それらの計算シミュレーション、最近の判決の傾向を添えて、早苗は大野に伝えていた。
* * *
大野は早苗に、もう一つ検討を依頼していた。大東亜油脂を大きくした発明であるダイシングテープの基本特許の件である。この技術は、
* * *
応接室には源田が入ってきた。
重厚なドアを開け、金縁の絵画の横をすぎた。全員、勢いよく起立した。テーブルはガラス製の板が金属製の足で支えられたものである。それが二つ縦に並んでいる。それを挟むように四脚ずつ二列、合計八脚の重厚な黒革のソファーがあつらえてある。絵画のある側の列の真ん中に笹川が座った。笹川の対面には大野、その両側に早苗と瀬奈人が腰をかけた。早苗は初対面である。名刺を丁寧に差し出した。笹川の方は名刺を出すことはなかった。瀬奈人は笹川に面識があった。先日会ったばかりだ。
「大野君だったね。説明を聞こうか」
その前に、と言って、瀬奈人が話を遮った。
「君は警視庁の刑事さんだったかな。何だ」
「ええ。先日捜査依頼のありました、ダイシングテープの件。港で発見された侵害品です」
「ああ、偽物の件か」
「はい、あの件は早苗……、いえ土井先生に特許にしていただきまして。無事、差し止めました」
「そうかね。それは良かった」
「それと……、源田さんの件なんですが」
笹川の顔が険しくなった。
「生分解性プラスチックの技術を中国の永旺塑料公司に漏えいした疑いの件です」
笹川は黙ってうなずいた。
「大変恐縮なんですが、警視庁としましては起訴を見合わせることとなりました。少なくとも現時点では証拠不十分ということです。
本当のところは事件が一企業の問題で小さく、警視庁が動くには物足りないということである。それは伏せておいた。笹川はまだ黙っていた。
「御社から正式に告訴があれば、話は別ですが。いかがでしょうか」
笹川は担当部門に検討させると言って、それ以上はこの件に関心を示さなった。
* * *
ようやく大野の番だ。
「先日メールでお送りしたのですが……、あの……、お誘いをお受けすべきか……」
大野は早くも泣きそうな顔になっていた。早苗にまでその緊張が伝わってきそうである。相手は大企業の社長である。しかも会社を辞めようかという話題である。緊張して当然であろう。
「彼から誘われたんです。言わないようにいわれたんですが」蚊の鳴くような声だ。笹川に聞こえたのだろうか。
「さっきも出たが、
「そうです」大野は俯いていた。
「君はどう考えているんだ」
「私……ですか」
「私は……源田さんの背中をこれまで追いかけてきました。研究で。研究者として源田さんを尊敬しています」
「それに……、この会社で身に余る研究環境を与えていただいことにも、ほんとにもう、すごく感謝しています」
「なら、問題ないだろう。先方の条件か」
「違います」大野は素早く顔を上げて、言葉をかぶせるように即答した。
「もしそうなら……もしそうなら、笹川さんにはお話ししません」大東亜では役職で呼ぶこと禁止している。社内の風通しを良くするためだ。社長も例外ではない。笹川は黙って腕組みをして訊いていた。「お聞きしたいんです」
「笹川さん。教えてください。なぜあの基本特許を源田さんから取り上げたんですか」基本特許とは、大東亜油脂で最初のダイシングテープの特許のことだ。笹川と源田が発明者の、あの件である。
「源田がそういったのか」笹川が憮然としていう。
「はっきりとは、そうは、言ってません。ただ、その趣旨のことは……。というより、会社の皆が……、そういってます。社長は技術を軽視していて、技術者を、その……食い物にするって」大野はようやく勇気を振り絞っていいきった。震える声で。確かにかなり失礼な発言だ。もはや大野の顔は泣いているようにさえ見えた。
笹川は黙っていた。一分以上、沈黙がつづいた。
「あの発明はな、あのとき、俺たちの夢だったんだよ」
「今とは時代が違う。想像ができないだろうな」
「当時はな、おやじが経営をみていた。コンニャク糊や松脂なんかを売っていた。それは知ってるよな」大野は小さくうなずいた。
「おやじはな、研究なんて必要ないっていうんだよ。道楽だって。お前は糊の売り先を探せっていう。海外進出をふくめてな」
「それは間違いではないと思う。ある意味でな」笹川は少し身を乗り出した。
「俺の専攻はな、石油化学なんだよ。知ってたか」
「この会社じゃ役に立たんか」
大野はかぶりを振った。
「それでな、これから技術は変わる。様々なものが石油製品に変わっていく。天然糊や松脂を売ってるだけじゃ早晩限界を迎える。そう確信していたんだよ」
「おやじとは全く話が合わなかった」
「源田には、社長、当時のだよ……、から隠れるようにして研究をつづけてもらった。今みたいに研究部門なんてない。製造部門の人間として。品質管理なんかの名目でだ」
「金がなかった」
「とにかく金がなかったんだよ。もちろん稟議を通して表立って資金を確保もした。でもな、自分の金をつぎこんだ。はんぱな額じゃない。俺のポケットマネーなんてとっくに底をついていた。最期には母に資産を手放してもらった。彼女の実家の山を売ってもらった。おやじに隠れてな」
「当時の本社は群馬にあった。そこではますいので、この横浜でやってたんだ。研究を。こそこそと」
「横浜には外国の技術や製品がたくさん入ってくる。外国人も多い。ここにチャンスがある。そう睨んだんだ」
「あたったよ。すぐに、アメリカのアイテックスから注文が入った。そのあたりは君もしっているよな」大野は小さくうなずいた。息遣いも穏やかになり、泣き顔ではなくなっていた。
「確かに、あれは源田の技術だよ。あいつが開発したと言っていい。否定はしない」
「俺はそれに報いたつもりでいたよ。勝手にな」
「人事はむずかしいよ。いまだに慣れない」そういって笹川は眼鏡をはずし、指で両目を揉んだ。
「あいつは、あのとおりの男だ。人の上に立つのが得意ではない。非情になれないっていうのかな」
「うちにフェローっていう人事制度があるだろ。独立の研究員」大野が軽くうなずいた。
「源田のために作ったんだよ。信じないかもしらんが。あいつが働きやすいように」
* * *
「なぜ、会社はあの特許をつぶしたんですか。しかも自らの手で」大野が訊いた。今度はしっかりと笹川の目を見ている。
笹川が早苗をみた。早苗はびくっとした。彼は年齢とは異なり若者のような鋭い眼光をもっていた。「土井さん……だな。弁理士」名刺の名前を確かめた。
「君は発明はだれのものだと思う」
早苗は不意をつかれたが、即答できた。それが専門だからだ。「企業で生まれた発明の場合、
早苗の説明のとおりである。これまでは、発明が生まれると、それが企業活動の一環でも、その発明は発明者のものとなっていた。法は発明者というものを尊重しているのである。それを会社が買い取るという形をとっていた。しかし、それではなにかと会社が動きにくい。複数の会社や研究所がからんだ発明などでは、書類の手配だけで、さんざん手間を取られる。今日の企業活動に適合しなくなってきたのである。そのような背景から、早苗が言うように、企業でできた発明は、企業に帰属するように、法律が改正されたのである。
笹川はふん、といってそんな法律上のことは訊いていないという顔をした。
「大野君はどう思う」笹川は大野をみた。
「土井先生がいうとおりかと……」
笹川は二人を交互にみて言葉をつづけた。
「わが社も様々な局面を乗り越えてきた。いい時も、悪い時も。企業は堅調でありつづけることはできない。それでも、今日まで乗り切ってきた。社員全員でだ」
「その間には残念ながら人も切った。認める。そうせざるを得なかった。工場ごと整理したこともある。彼らには家族がいたはずだ。その子たちのことを思って、すまない、すまない……、心の中で何度もそう繰り返した。何度も、何度も」
* * *
「なあ、大野君。なら、会社はだれのものだと思う」
笹川が訊いた。大野は法的には株主のものかなどと思ったが、黙っていた。というより答えきれなかった。
「もちろんアイデアというものは貴重なものだ。創造力。それこそが、製造業の原動力にちがいない」
「それでも、そのアイデアを製品にするまでには、大勢の社員の力が必要だ。みなが考えを共有して、具体化する手段を検討する。問題点を洗い出し、試験をして分析する。何度もそれらを繰り返す。具体化してからだって苦難は続く。工場では製品が安定して造れるようにしのぎを削る。徹夜で試作にあたる。新たな製造設備の開発が必要にもなることもある。アイデアに至るまでだって、そのプロセスは多難だよ。営業は身体を張って客先との関係を築く。走り回わって、クレームを聞いて、頭を下げて、はじめて客のニーズをつかむことができる。そんなチームワークの所産なんだよ。発明は」笹川はすこし唇を震わせながら、強く、一気にいい切った。
「会社はな、家族なんだよ」
「少なくとも、あの時代はそうだった」
「みんなが
「古臭い言い方かもしれないが、それが事実なんだ」
「あのまま、源田が争えば、それなりの金は手にできたのかもしれない。でもな、間違いなく、やつは居場所を失っただろう。この会社で。私が切るわけじゃない。周りの者が、
笹川は胸のポケットに手を差し込んで探る仕草をした。先日、禁煙したことを思い出して、そのまま手を引き出した。
「今なら、発明の価値評価の仕方も進んでいる。それなりの納め方があるのだろう。当時の日本にはまだそんな基礎はなかった。すまないが、あれしかなかった」
笹川は少しうなだれて、つづけた。
「源田はもう定年だ。うちはまだ再雇用制度がない。彼だけを特別扱いするわけにはいかないんんだ。分かってほしい。仕事はつまらんかもしれないが、坂口ビニルに居れば働ける。元気ならいつまででも。あそこの坂口はすばらしい男だ。安心して任せられる」
* * *
「源田の借金ついては……、知っているのか」笹川は顔を上げて大野をみた。
「いえ、それは聞いてませんが。……」大野が小さな声でこたえた。
「坂口ビニルから、千万円単位の金を借りたいと行ってきたらしい。もちろん俺が断わらせたがね。どうせ、財テクにでも失敗したのだろう」
「大野君、君の息子さんのこと……それも、案じている」大野の長男は発達障害だ。確か、大野の課長には飲み会の席で話したことがあったように思う。笹川はそれを……。
笹川が早苗をみた。
「社長なんてな、こんなもんなんだよ。社員が働くのに最適な環境を必死で整える。優秀な技術者となればなおさらだ。家族と同然。心配で仕方がないんだ」
「プライバシー違反とでもいうのかな……。先生は」
笹川はゆっくりと息を吸って吐くと、大野と土井、瀬奈人を順にみた。
「君たちは若いな。これからの時代を創る人材だ」
「わが社は、来年、利益の二十%を開発費に充てる予定だ。この分野の企業としては破格といっていい。社運をかけている。高分子樹脂を基礎とした様々な研究開発に取り組んでいく。特許はな、たしかに莫大な利益をもたらしてくれる。企業は肥える。それは事実だ。それでも、それだけじゃだめだ。そこで終わってしまう。それを次の技術を生み出すために投資する。それこそが肝心なんだと思う」
「技術が生まれる。そこに利益が生まれる。それをもとに次の技術を生み出して積み上げていく。そうして企業が伸び、産業が発展していく。これが広く社会に定着していくことで文明になる。特許はそのサイクルを実現する。法律の詳細は知らなくても、その可能性を一番に理解しなければならないのは、技術者でも、知財部員でもない。我々経営者だ」
「そうだろ、土井先生」
文明とまでいわれると早苗の身の丈を超えるが、笹川のいうとおりだと思う。はいと答えた。
笹川はそれまでの厳しい顔をくずし、笑みをうかべ、まるで孫に語り掛けるように話す。スマートフォンを取り出した。
「俺が学生だったころにな、家に、電話が引かれたんだよ。群馬だったからな、だいぶ遅かった。よく覚えているよ。黒くて、指で回すダイヤルがついたやつだよ。君らは見たことがないだろ」
「それが、いまでは、これだよ」
「みんなのポケットに入いる。しかも、カラーで画像が映る。電話だけじゃなくて、メールを送り、ネットで世界中の出来事を知ることができる」
「この内部の半導体を作るのにうちの樹脂が使われている」
「この画面の手で触って反応するフィルム。そこにも、うちの樹脂製品が使われている」
「君たちは、つぎになにを創る。次の世代にどんな樹脂が必要だと思う」
笹川は、席を立って窓の外をみた。雲一つなく、太陽が照り付ける光の筋が映る横浜の海に視線を向けた。
「俺はな、『
「日本は二度の原子力被害を受けた。広島に福島。これ以上、原子力に頼っていてはいけない。火力にも限界がある。太陽電池はまだまだ伸びると思う。いや、伸ばさなければならない」
「今、使用されているシリコン製の太陽電池はセラミックスだ。曲がらないし重い。使いにくい」
「有機半導体の太陽電池も既にあるが、ルテニウムや白金、パラジウム、イリジウムなどを使う高価なものだ。汎用性がない」
「俺はな、うちの樹脂の技術を応用して、安価で手軽な太陽電池の発電能をもつ塗料を創りたいんだよ。高分子の光半導体だよ。それを車に塗れば、それはそのまま動力源になる。ビルや住宅の外装に利用すれば、町中が発電所になるんだよ」
「できると思うかね、大野君」
「……簡単ではありません」大野の眼差しはすでに今までの弱々しいものではなかった。自信に満ちた技術者の目できっぱりと断言した。
「電池にするには、陽極と陰極が必要です。それを、イオンまたは電子が伝導するセパレータ膜で隔てなければなりません。電気を取り出す電極だって必要です」
「たとえそんな塗料ができたとしても、陽極を塗って、セパレータ膜を塗る。その上に陰極を塗らなければなりません。それが日光に曝されて、風雨に耐える。そんな……『無茶苦茶』です」
笹川は目を細めてうっすらと笑みを浮かべてしばらく大野を見た。
「それでも、それでもな、このスマートホンはここにある。四十年前、当時の技術者は言っただろうな、『そんな無茶苦茶な』と……」
笹川はひじ掛けに手をつきながらゆっくりとソファーに腰を下ろした。背もたれにどさっと背中をうずめて、やや広めに足を開いた。そして一つ嘆息をつく。その目は、年月を経て刻まれた深いしわに覆われている。それなのに、その瞳だけはまるで少年のもののように澄んで見えた。
「なあに、もうできてるじゃないか。今、君が言ったとおりに創ればいい」
大野はさらに反論しようとしたが、言葉を発しないでおいた。
「大野君。残念だが我々はもうすぐ現場を去る。私も源田も……」
「君のような若い頭脳は日本の財産だ」
「君が何を選択し、どのように生きるかは君の自由だ。私はそれを尊重する。ただ、これだけは覚えておいてくれ。人が、創造をしてそれをモノにできる時間は、そんなに長くない。過ぎてみると分かるもんだよ」
* * *
早苗たちは大野とは、大東亜油脂の本社で分かれた。
せっかくなので、早苗は瀬奈人と
海浜丸の向こうには、観覧車と半円形のホテルが見える。二人は海浜丸を横目に長い桟橋を歩いた。両側に海がひろがる。潮の香を楽しみながらしばらく歩くと、トンネルのような穴のあいた四角いビルが近づいてくる。そのトンネルを抜けた。二人には目的の場所があった。赤レンガ倉庫。平日だし、まだ日が高いのでカップルは少ないが、親子連れや老人がゆっくりと散歩していた。二人は何を見るでもなく、倉庫のなかの雑貨屋をながめて歩いた。外にでると屋台があったので、ジェラートを買って、そばの階段に腰を下ろした。瀬奈人は早苗が座る場所にぎこちなくハンカチを敷いた。早苗は微笑んでありがとうといって座った。
タイミングをみて、瀬奈人は少し緊張しながら話をきりだした。
「よかったね。なんとなくうまくいきそうで。大野君」声が上ずっていないか気になった。
「うん。そうね。笹川社長は夢がある方みたいだし。技術も大事にしている。その分、働く方はたいへんだと思うけどね」早苗はちょっと舌を出しておどけた。
「それとね、ひとつ、大事な話があるんだけ」
「なに」と言って、早苗は瀬奈人の方に視線をむけた。
「うん」
「早苗さん……」瀬奈人は早苗の方に腰をうかして身体ごと向けて、彼女の目を見返した。
「俺と、人生を歩いてくれないか。まっすぐと。いっしょに」瀬奈人は、つとめて、きっぱりと男らしく断言した。
早苗の胸はどくんと跳ねた。さすがの早苗にもプロポーズだとはっきり分かった。うっかり、「はい」と言いそうになったが、こらえた。「考えるわ」と言ってその場は終わることにした。
* * *
早苗は赤レンガ倉庫の横を過ぎて、来た道を帰りながら、ひとつのことをぼんやりと考えていた。副島に言われた人事のことだ。瀬奈人の申し出に即答できなかったのは、それがあったからだ。
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