第24話 逮捕
早苗は三枝のデスクにあるマイクロシリンジをみて、すぐにそれだと分かった。瀬奈人が持ち帰ったカプセル薬に着けられた小さな穴。あの穴はこれで開けられたに違いない。マイクロシリンジは注射器と同じ形態ととっているが、それよりも数段小さい。液体の微量分析に用いるものである。分析機にごく微量の試料を導入する際に用いる。針も細く、外径で二百μmである。つまり、0.2ミリメートル。髪の毛の太さが約0.1ミリメートルだから、その細さが分かるであろう。最近では痛くない注射針として細いものもあるが、通常の医療用の注射針が1ミリメートルくらいだから、それがいかに細いかが分かる。日本が誇る職人技術である。
では、何を注入したのか。致死量になるほどの毒薬を入れるのは難しいだろう。ごく微量で致死量に達するふぐ毒、テトロドトキシンなどであれば、数mgもあれば十分であろう。しかし、取り扱いが極めてむずかしい。下手をすれば、自分が死んでしまう。死ななかったとしても、重大な疾患を負うことになりかねない。もとより、瀬奈人はそのカプセルをすでに警視庁の鑑識に回していた。しかし、そうした劇薬は検出されなかったそうである。
早苗は瀬奈人が持ち帰った吸引薬から何かわからないか、調査を進めることにした。心当たりがあったからである。布藤は、教栄特許綜合事務所に来る前に外資系の製薬会社にいた。それと関係はしないだろうか。呼吸器系の医薬の研究をしていたと聞いたことがある。布藤の事務所のホームページをみるとその製薬会社の名前はすぐにわかった。その製薬会社の当時の特許出願をしらみつぶしに当たると、布藤の名前があった。発明の名称は『
早苗にはこれに近い構造に見覚えがあった。
* * *
早苗は瀬奈人とその日の夕食をともにした。この日は節約してファミリーレストランを選んだ。早苗はエビドリアとミネストローネスープ、瀬奈人はヒレカツ定食を注文した。飲み物はドリンクバーにした。
「あの、PTPシートとカプセル薬についていた穴だけど……、注射針をつかった可能性があると思うの。といっても、極細針のマイクロシリンジ。薬品の分析なんかに用いる」
「ああ、鑑識も同じことを言っていたよ」
「そう。それでね、二田水が何を注入したかだけど、酸は考えられないかしら。塩酸なんかの。それなら入手するのは然程難しくないわ」
「塩酸?」
「そう。塩酸」
「なんのために」
「カプセルの中身はもともと『エフェドリン』だと思うの。多少違うにしても、それに近い化合物」
早苗はメモ帳とペンを取り出してその化学構造式を書いた。亀の甲にCやらNやらOがくっついていた。
「そこへ微量の塩酸を加えると、『アンフェタミン』になるわ。化学変化して」
早苗は先ほど書いた図形の横に、それによく似た図形を書いた。
「塩酸は触媒だから、たくさんはいらない。ほんの微量あれば反応は進むわ」
「この末端のイミノ基『C・NH・C』が、アミノ基『C・NH2』になるの。加水分解して」瀬奈人は少しうんざりした。だが二つの化合物が酷似することは分かった。はじっこの形がほんのちょっとちがうだけだ。
「それで、その『アンフェタ……』になるとどうなるの」
「『アンフェタミン』は麻薬なのよ。それも結構強い」
「麻薬?」
「そう」
「でも、鑑識はそんなものは無かったっていってるぜ」
「もう一度調べてほしいのよ。二つの化合物がよく似てることは分かったでしょ。だから区別できていないじゃないかしら。分子量もほとんどおんなじだし。かなり特殊な分析をしないと両者は見分けられないわ。通常の異物分析では分からないと思うのよ」
瀬奈人は言っていることは理解した。しかし、彼が鑑識に説明する自信はなかった。瀬奈人がとりもつことで、早苗が鑑識に直接説明することにした。
「でも、なんで麻薬なんかを使ったのかな」瀬奈人がドリンクバーから帰ってきてつぶやいた。
「うん。それは私にも分からないけど……。
「正常な思考能力を失わせるってことか」
「そう。刑事ドラマなんかでいう責任能力うんぬんというほどでなくても、証言がおぼつかなければ十分だと思うのよ。今回の場合。準備手続きで裁判官に質問されて、
「それが、七十過ぎの老人にはショックで、誤って死んでしまったと……」
早苗はホットコーヒーをかき混ぜながら、うなずいた。彼女にとって日頃耳にすることのない死という言葉は、訊きたくなさそうだった。
* * *
鑑識の再分析の結果は早苗のいうとおりのものであった。カプセルの中身はほとんどアンフェタミンであったのだ。木邑の
瀬奈人は二田水の取り調べに立ち会うことを許された。事案の性質上、彼の知識と調べた内容が必要な局面もあると考えられたからだ。二田水が口を割るるのにさほど時間は要しなかった。カプセル薬に酸を仕込んだことを自供した。しかし、塩酸は入手できなかったので酸性の工業用洗浄剤を使用したらしい。
取り調べが動機に移ったとき、瀬奈人が口を開いた。早苗に訊いていたことがあったからだ。
「
二田水はこくりとうなずいた。
「具体的には、日酸レジストで、あなたが試験員、木邑さんが研究者とうい間柄」
同じように無表情でうなずいた。
「そのときに、あなたは、木邑さんと考案をした。シリカの
二田水が少し驚いて瀬奈人を見たが、また下を向いた。
「その考案について、お二人は訴訟を起こしていますね」
「……」
「その訴訟の結果は敗訴になっていますね。時効ということで」
「……」
「二田水さん。あなたと、木邑さんは、それを根に持っていたんじゃないですか。せっかくの良い考案も、たかが請求する時間がおくれたということで、無に帰した。それを逆恨みしたんです」
二田水は黙っていた。
「同情する余地はあるとは思うんですよ。僕は」
一課の刑事が少し訝しがって、瀬奈人をみた。
「技術を完成するのが早すぎたんですね。不運だった。もう少しあとなら、時代の波に乗って、コピー用のトナーとして大きな利益に直結した。その利益も当然あなたがたに還元されるはずだった」
「あなた方は、いや、あなた方の技術は忘れ去られた。早すぎたがために。違いますか」
しばらく沈黙をつづけたあと、二田水が口を開いた。
「よく調べたもんだ……。そんな昔のこと。礼をいうよ。確かにそれも、あった」
「俺はいい。木邑さんの方はもっと会社に大切にされてよかったんだ。それだけの貢献をした。人となりも申し分ない」
「高度経済成長のさなかにあった、あの頃の企業だよ。心のある人に手を差し伸べようなんて余裕はない。みな、我先にと出世を争っていた。企業は労働者をネジ・クギと同じにみてた。俺も彼も……」
しばらく沈黙がつづいた。
「だがな……、そんなんじゃない。むしろ、その逆だよ」
しばらく沈黙がつづいたが、瀬奈人は彼の次の言葉をまった。
「俺は、日酸レジストで知財マンとして必死に働きつづけた。何年も、何十年もだ。来る日も来る日も、発明を掘り起こして、特許出願を手配する。次々に特許にしていく。特許庁の審査官からは厳しく否定されて、それでも反論する。審判や裁判でも闘って、いくつもの特許を会社にもたらした」
「百件や千件じゃたりないよ。その数は」
「あの事件がきっかけだった。何もかもが嫌になった。
職務発明とは企業の従業員が企業の活動のなかでした発明のことである。
「あれは確かにいい発明だったよ。発明者も優秀な人間だった。彼に個人的な恨みはない」
「その発明は積層基板に用いる絶縁樹脂だよ。刑事さんにも分かるようにいえば、重ねた基板の間に挟む樹脂だよ。その耐熱性と、寸法安定性に優れていた」
「材料自体は大したものではない。昔からあるものだよ。でも、あの用途に適用したことが新しかったんだ。
「特許にするのに、さんざん苦労したよ。布藤さんとね。何度も特許庁に足を運び、審査官を説得した。ようやく特許にした。ヨーロッパにも出張に行った。現地の弁護士は絶対に特許にならないから諦めろといっていてたよ。それを、なんとかねじ込んだんだ。世界中で特許にするのに、どれだけの労力を費やして、どれだけの金を使ったか」
二田水は一息ついた。
* * *
「その発明者は定年退職をまっていたんだよ。会社を訴えるためにね。発明の価値にみあった対価をもらってないというんだ。何百万円もの金をすでに、
「彼は定年の直前に訴訟を提起した。会社を相手にして。その訴訟を俺が担当することになった」
「俺は必至で対応したよ。発明の価値を軽んじてはいけない。発明というものが、企業活動にとっていかに重要なものか。それを証明するために。弁護士とともに、企業のトップを相手に闘った」
「その弁護士が技術音痴でね。というより、技術を分かろうともしないんだよ」
「それで、頭に来た俺がすべての書面を作成することにした。技術に関する資料を事業部にあさりにいく。二十年以上の前の資料だからな。なかなかでてきやしない。必死になって証拠をかき集めて、徹夜で訴訟書面を作成した」
「結果は、俺たちが勝った。というより俺が勝った。一億二千万円」
二田水がふっと笑みを浮かべてつづけた。
「あいつは何の苦労もなくね。サラリーマンでは想像もできない額だよ。一億二千万円をだよ。一人で。息子や孫はさぞ喜んだだろうな」
「俺の方は会社で居場所を失った……。トップを敵に回しちまったんだからな」
ドンと机をたたいて、だからといって人を殺していいことにはならんだろ、と一課の捜査官が怒鳴った。二田水はそっと目をつぶっていった「彼は……、昔みたいに活き活きとマウンドに立っているよ。きっと」目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
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