第22話 シンガポール

 瀬奈人は、捜査第二課の特別捜査係りの係長、菅井興希すがいこうき以下、十二名とともにシンガポール空港に降り立った。空港を出ると南国独特のむわっとする生暖かい空気がまとわりついた。おもわず上着をとった。それを肘にかけ、トランクを引き、タクシー乗り場へと向かった。

 シンガポールには、石油などの資源はない。特に秀でた農産品もない。一方、公用語を英語とし、海に面した立地もあり交易の拠点としては適していた。このような利点を生かし、外国企業を積極的に誘致して国力を高める施策を進めている。外国資本をテコにした、高付加価値の製造業、情報通信、バイオテクノロジーなどの産業育成に力を注いでいる。アジアにおける技術開発の拠点(ハブ)になろうとしているのである。具体的には、シンガポールに進出してくる先進企業に対し、価値ある産業の創造をもたらす場合には法人税の減免が受けられる。知的財産についても様々な施策が講じられている。たとえば、シンガポールで開発された技術について、外国企業にライセンスした場合、その特許料に対する税金を軽減する措置が取られている。中でも、医薬の研究については世界的に注目を集めており、バイオポリスと呼ばれている。アメリカ、イギリス、スイス、ドイツ、日本等の大手製薬メーカーがすでに進出しており、数千万ドルから数億ドルという規模で投資が行われている。

 一方、研究を進める優秀な人材が不足しているのが最大の課題である。箱モノはできたが、ヒトが足りないのである。熊谷くまがき助教にもその白羽の矢があたった。当地のドイツ法人からのオファーを受けたのである。彼自身もこの地に身を置くことで、新たな可能性にかけた。

* * *

 不正競争防止法ふせいきょうそうぼうしほうは平成十七年(2005年)に改正された。

 産業スパイを防止する法制度が強化されたのである。大きな改正点は二点ある。一点目は、技術の外国への取り締まりを可能にした。アジアをはじめとした、日本の技術の外国への流出に歯止めをかけたい経済産業省が立法したのである。二点目が、退職者の取り締まりである。研究機関や企業に在籍していた研究者が、そこを退職し、新たな機関で研究を再開する。そのときに、前職の機関の技術が持ち出されてしまう。これを取り締まることとなった。ただし、これにはデリケートな問題を含んでいる。

 憲法上の要請、職業選択の自由との関係だ。退職者の再就職を、その者が持っている知識や技量を根拠に制限するならば、その者の再就職を困難なものにしてしまう。悪くすれば、不当な待遇を受けても、そこから逃れられないということになりかねない。さらに微妙な問題は、研究者の知識の活用が不正と言えるか否かの線引きである。研究者の努力に焦点をあてるなら、それによって得たものの活用は正当といえよう。前職の企業の貢献に焦点をあてるなら、これをライバル企業に安易に持ち出されることは防ぎたい。この問題に白黒をつけるために、法は、在職時に漏洩の請託を受け、又は申し出たのであるかを要件として、処罰することとしたのである。平たくいえば、転職前に技術をもちだす『不正な根回し』をしたか否かである。

* * *

 瀬奈人たちは熊谷助教の研究室を訪れていた。もちろん本人には知らせずに、当地の担当刑事を従え、その令状とともに踏み込んだのだ。ものものしい状況に職員はいずれもとまどっていた。しかしながら、特に抵抗することもなく、彼らは捜査員の指示に従っていった。捜査は特に難航することもなく、淡々と進んでいった。熊谷助教にも接触し、必要な資料の提出や供述をもとめたが、素直に応じていた。

 瀬奈人たちは、免疫応答阻害剤めんえきおうとうそがいざい、つまりあの抗がん剤について、熊谷助教がここに着任する前に何らかのやり取りがなされていないかを捜査していた。すなわち、『不正な根回し』があったかどうかだ。

 捜査は三日間におよんだ。瀬奈人たちにの顔にも疲れがにじんでいた。パソコンに保存された膨大なデータの解析を含め、詳細な捜査は相当の期間を要するものと思われた。しかし、瀬奈人たち、捜査員の感触は『白』である。つまり、不正な根回しに該当するような文書やメールなどは見つかっていないのである。不毛とも思われる捜査をつづけていたとき、瀬奈人は菅井係長から呼び出された。熊谷助教を出頭させよ、というのだ。それに瀬奈人も同行せよというのである。しかし、その出頭先が不可解であった。シンガポール警察ではなく、市の中心部にあるホテルのスイート・ルームなのである。

* * *

 翌朝、タクシーで熊谷助教を自宅に迎えにいき、指定のホテルに連行した。ホテルはガラス張りで、下から見上げると黒光りする要塞のように見えた。十五階建ての棟が横に三棟ならんび、それぞれが、緑をたたえた回廊でつながれていた。宇宙船を思わせ前衛的な意匠と、優しい緑とが見事に調和していた。指定された最上階の部屋は、スイートではなく、プレミアム・ルームと呼ばれていた。部屋に入ると、ホテルの一室とは思えない豪華な間取りが広がっていた。手前の部屋には、左右に二脚、奥に三脚、合計七脚のソファーが置かれている。ソファーはひじ掛けが木製で、細かい柄のあるベージュを基調とした落ち着いた色合いの布が張られている。その中央には、ひじ掛けと同じ材質の木製のテーブルが置かれている。天井には小さなシャンデリアを思わせるライトがあり、部屋を淡い光で照らしていた。その左奥には、扉のない入口があり、その奥にベッドルームがあることが想像された。奥は一面のガラス窓になっていると思われる。しかしそのガラスは見ることができない。ベージュ色のカーテンが硬く閉じられていた。

* * *

 三脚のソファーの真ん中には恰幅のよい男がスーツの前をあけて座っていた。テレビでしばしば見かける顔だ。河本翔馬こうもとしょうま 厚生労働大臣である。河本の隣には、捜査第二課の課長 伊丹いたみ警視正が座っていた。菅井係長は、いかにも居心地が悪そうに、右側の列のソファーに浅く腰をおろしていた。ソファーの後ろには、濃い色のスーツをかっちりと着た男が三人ほど立っていた。おそらく、議員秘書と、厚労省の役人だろう。驚きを隠せない瀬奈人をしり目に、河本が大きな腹をもちあげて席を立ち、テーブル越しに右手を差し出してきた。太い芋虫のような指を動かして、熊谷助教に握手を求めた。熊谷助教は、落胆とも失望ともとれる生気を失った目で大臣の胸元あたりを見ていた。

「先生にはいろいろとお手間を取らせている。もう少しスマートにやるように指示をしているんだがね。恐縮するよ」河本がソファーにどかっと尻を下ろし話し始めた。河本がうながして、熊谷助教は右側のソファーに座った。瀬奈人はその斜め後ろに起立しておくことにした。

「時間をとらせてもよくないので、さっそく本題にはいるがね、先生の開発された免疫応答阻害剤」

 河本は振り返って、その名前でいいんだよな、といった顔で後ろの男の一人を見た。男がうなずく。

「あれは、実にすばらしい。私には詳しいことまでは分からんがね、人類が目下かかえた最大の難病である癌。そこから人類を救う可能性を大いに秘めている。それがいかに貴重なことか、それくらいはわしにも分かる。実にすばらしい」河本はこの薬剤の価値をおそらく正確には把握していないのだろう。すごい技術だ、それだけを入れ知恵されているのにすぎないと思われた。

 胸のポケットから葉巻を出して、同じくとりだしたライターで火をつけた。すぱすぱと二口、三口吸って吐いた。

「ここで法律の議論をする気は毛頭ないがね、特許もこまったもんだよね。必要な制度なんだろうけど、副作用が出始めている」

「なんでも、かんでも、特許だ特許だといって独占したがる。それでなにが起きているか。誰が困っているか。それは先生、あなたが一番よく知っているよな。試験器具から、試験方法まで特許にしてしまう。使いたいのにつかえない。ひいては、細胞からウイルス、タンパク質から、DNAまで独占されちまっている。『アンチコモンズの悲劇』っていうのかな」

* * *

 『の悲劇』とは、『の悲劇』の語に端を発している。

 『コモンズの悲劇』とは、共有のものが乱獲されることによって枯渇してしまうことをいう。希少動物の乱獲などがこれにあたる。これになぞらえて、経済学では、自由取引をゆるすことで不当な廉売れんばいがおこり、市場が崩壊してしまうことをいう。自由化の弊害というわけだ。これに対し、『アンチコモンズの悲劇』とは、その逆である。財産が細まかく分かれて独占されることで、社会にとって有用な資源の活用が妨げられることを指す。つまり、細かい特許がたくさん出現することで、自由な社会活動、この場合研究活動が妨げられているというわけだ。これも後ろにいる役人の入れ知恵だろう。

「我々はだね、島根にバイオに関する技術や権利、人材を集中させることを計画している。『バイオバレー』の構築だよ。それは、産官学、民間企業も、お役所も、学術団体も超えて、必要なな技術の単位で垣根なく組織化する。特許権やその許諾もそこにまとめて、研究者が、自由に研究できるように措置する。ここシンガポールをしのぐ、バイオや医療に関するアジアの技術拠点、いや世界的な拠点にする構想なんだよ」そういえば河本は島根選出の議員である。票集めの意図が透けて見えた。

* * *

 河本はいうべきことをいい終えたという感じで、葉巻をもう一口、吸って吐いた。

「ここからは役人のお仕着せではなく、わしの意見だがね」

「日本の企業は小さすぎるんだよ。独占禁止だとか、財閥化の弊害だのといってね。小粒の企業が兄弟喧嘩をしている。世界最大の製薬メーカー、シュナイザーが年間にいくら売り上げてるか知っているかね」

「五兆円だよ、五兆円。日本の製薬メーカーが全部集まって、やっとその一社に追いつくかどうかなんだよ。分かるかね。個別にやってて勝てるわけがない。これが日本の現状なんだよ」

「我々は一つにまとまらなければならない。いやしくも、人類の将来を左右する医薬を創造しようっていうんだ。しかも一番にね、一番。二番じゃだめなんだよ。特許てもんは」

 熊谷助教は微動だにせず黙っていた。訊いているのか、いないのか、定かではない。

「君の技術はね、そのフラッグシップなんだよ。まさに旗艦技術だ。これを我が国は国力を上げて推し進めていきたい」

 河本は一息ついて葉巻をもみ消した。

「あまり、うまくないだよな。その権利がさ、あっちにも、こっちにもあるってのは。それも外国企業の手に渡る。分かるよな。とりわけ日本人同士で足を引っ張り合うのは避けたいんだよ」

「いや、もちろん分かる。分かるよ、君の言い分は」といって、河本は右手をあげ熊谷の発言を遮った。熊谷は特になにもいおうとはしていなかった。「君の方が優秀なんだと思うんだよ。あんなロートル教授に比べたら」名児耶なごや教授のことだろう。本人には逆の言い方をしているに違いない。

「そこでだ、私のためでもない、役人のためでもない、もちろん教授のためでもない。もっと言えば、国のためでもない。次の代、その次の代をになう人類のために、きみの技術を使わせてくれないか。一度、身を引いてくれることで」

 河本はすぐにつづけた。「もちろん悪いようにはしない。バイオバレーには君にも参加してほしいと思っている。もちろんあの教授とは違う部屋を用意するよ。教授待遇になるよう、私から取り計らう。約束しよう。どうかね。君にも悪い話じゃない。私の顔を立ててくれんかね」

 熊谷助教は長い講釈が終わったことを悟った。だが、すぐには答えなかった。その視線は河本の方に向けられているものの、焦点は合っていなかった。しばらく沈黙が続いた。

 熊谷助教は意を決したのか、下を向いてふっと微笑んだ。

「分かりました。私の方の出願を取り下げればいいんですね」

「いいのかね」

「ええ、結構です」

 河本はうんうんといって何度か深く頷いた。

「ただ、ひとつ条件があります」

「何だね」河本は身構えて質問した。

「IT技術がやってみたい。特に通信関係の技術に興味がある。ご助力いただけないでしょうか」熊谷助教はすがすがしい声でいった。

 河本は一瞬目を丸くすると、後ろの男たちを見た。男たちは互いに目を合わせて、ぼそぼそと密談した。すると、一人の男が河本に耳打ちした。

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