第18話 準備書面

 日酸レジストの本社は大手町にある。有名ブランドの基幹店きかんてんが立ち並ぶ通りに面している。街路樹の葉は少し黄色くなりはじめていた。カフェは通りにまで机といすを出し、昼休みを過ぎているというのに、若い女性たちが優雅にお茶を楽しんでいる。リゾート地かと錯覚しそうになる。目的のビルは九階建てで、歴史を感じさせる造形を施した外装は、通りを落ち着いた雰囲気にしている。その二階は会議専用のフロアとなっている。受付カウンターの向こうには、モデルのように美しい女性が二人立っていた。三枝さえぐさが断りもなく、先に受付に進んでいった。

「教栄特許綜合事務所のものです。知的財産部の四宮様との面談で参りました」

「少々お待ちください」といって受付嬢は内線を取った。三枝は意味もなく満足そうである。

 会議室に通されると、日酸レジストの四宮と香西こうざいが座っていた。二人は半分だけ腰を浮かし、副島たち三人に軽くお辞儀をした。四宮しのみやのとなりには、スポーツ刈りでよく日焼けした男性が座っていた。年齢は四十台前半といったところだろうか。半袖のワイシャツの上のボタンをはずして、扇子を扇いでいる。ビル全体が空調管理されており丁度よい温度に保たれているのに、彼の周辺だけ真夏のように映った。副島ら三人は彼と名刺交換を終えた。名刺には、『先端技術開発本部 感光材料開発部 フェロー 間義久あいだよしひさ』 と記載されていた。

 弁護士の高橋がまだなので、副島は自社ビルの歴史などを四宮に質問して時間をつないだ。その歴史は明治にまでさかのぼるそうだ。日酸レジストは四越よつこし財閥の系列である。その財閥が発起ほっきされたころに建てられたそうである。どおりで、洋風の神殿のような装飾が施されているわけである。それに改装を重ねていまの状態になっているという。エレベーターの数が足りておらず、毎朝渋滞することなどを訊かされた。早苗にはそんな愚痴さえも、なにか羨ましく感じた。

 十五分ほど遅れて、高橋が現れた。高橋の事務所は八重洲にある。交通機関の乱れで遅れることなどありえない。宮本武蔵よろしく、遅れてくるのも策略なのだろうかと勘繰りたくなる。

 四宮と香西はすみやかに起立して深く礼をした。先ほどの軽いお辞儀とは大違いだ。

 四宮が立ち上がって説明を始めた。これまでの経緯と争点を整理したものをひとおり確認していった。そこで高橋が口を開いた。

「訴状は期日内に規定どおり知財高裁に提出しております。受理されています」

「先方からも答弁書が届いております。先方は弁護士は立てておりません。布藤弁理士が単独で代理を継続されるようです」

 答弁書とは訴状に対する反論の書面だ。これもまた形式的なものでよく、争う意思を表明するだけの内容である。無効審判の審決取消訴訟、つまり今回の訴訟であるが、これは弁理士が単独で代理することができる。先方はそれを選択したのである。というか鼻からそのつもりなのであろう。彼らの策略なのだから弁護士をわざわざ雇う必要などない。

「第一回の口頭弁論は、すでに私が出席して完了しております。訴状、答弁書の書誌的なことを確認しました。また、今後のスケジュールについても確認しています。まあ、形式的なことです」高橋が説明した。さらにつづける。

「審決取消訴訟は通常、書面審理を中心にして進みます。ですから裁判所での込み入った尋問や証言というものは通常ありません。次の準備書面で何を述べるかが当面、我々の課題です」高橋が調子よく説明を進める。「ここまでよろしいでしょうか」準備書面とは、裁判でやりとりする書面である。口頭弁論のための準備のための書面という意味だが、実際はこれが主張内容を述べる主たる書面となる。

 四宮が質問する。「先生、今回は証人を読んで尋問することになるんですよね」

「そうですね。ですから、通常とは異なる特別な進め方を求めることになります」

「適切な機会を得るためにも、証人の証言の必要性を今回の準備書面できっちり述べることが必要です。誰を証人として呼ぶのか。なぜ、それが必要なのか」

「裁判所は、いま、スピード審理を重視します。この手の訴訟は一年かけずに終わろうとします。やや雑だという批判もありますが、企業活動のスピードに対応することを優先しています。ですから、面倒な手続きを求める場合、裁判官はあまり面白く思いません」高橋はさらにつづける。

「そこのところを、しっかりと主張しなければ、不利な進行になってしまいます。最悪証人の出頭を否定されかねません」

「そうですか。それでは、なおさら、それは高橋先生にお任せするということでよろしいでしょうか」四宮が問う。

「ええ。それで結構です。ただ、真の発明者、あいださんのお話を本日しっかりといただきたいと思うんです」高橋が間の方を見ていった。

 間はめんどくさそうに、はいはいといって、二、三度首を縦に振った。確かに面倒に違いない。自分が発明したとはいえ、特許出願するわけではない。出願するならば、会社から発明報奨金もでる。自分の名前も世に残るわけだから、やる気もでる。今回は、間にとってなんの得もない。なのに、裁判所にまで行って、尋問されるというのだ。嫌々来ているのが体全体からただよってくる。

 高橋はあらかじめ準備していた書面をとりだして、間に手渡した。一部しかなかったので、四宮が急いで人数分コピーしてきた。箇条書きにされたその内容にそって、手際よく質問していった。間がEUV露光技術に詳しいこと。そのレジストの開発に長年たずさわってきたこと。開発したレジストのサンプルを、都度、三つみつば電子工業に送り、感光性能について試験を依頼していたこと。リズムよく問答がすすんだので、間の態度はすこし軟化した。しかし、そのそれぞれについて、いちいち証拠書面が必要であるというと露骨に嫌な顔をした。間のPHSが鳴ると、そそくさと会議室を出ていった。会議室には、ばつの悪い沈黙が立ち込めた。間が戻ってくると、四宮たち知財部員が最大限面倒なことを負担するので、協力するということで話が着いた。

* * *

 次に、本件の特許権者、盗人とでもいうべきだろう、木邑耕四郎きむらこうしろうの証人尋問請求に話が及んだ。これについては、高橋にアイデアはなく、副島の方に目をやった。早苗が、いいですか、と言って話をはじめた。木邑が元・日酸レジストの社員、正しくはその前身の珪酸鉱料けいさんこうりょうの社員であったこと、その後の経歴について説明した。高橋は少なからず驚いた様子であった。どう調べたのか、という顔で早苗を見ていた。早苗は情報源は明かせないことを述べた。副島には本当のことを言っている。瀬奈人が情報源だと。そこで、早苗は四宮に提案した。珪酸鉱料時代の木邑の資料は社内に残っているのではないかということである。その調査を依頼したのである。了解を得た。日酸レジストを退社した後の経歴については、高橋が尋問することで同意した。

 高橋がこんなものかな、という態度で軽く伸びをしたとき、早苗が口を開いた。

「間さん、ひとつ質問してもよろしいでしょうか」間は明らかに怪訝けげんな表情をした。

「あの、この木邑氏の特許明細書ですけど、この実施例に記載のレジストで、本当にEUV露光に効果があると思われますか」間は、興味なさそうに、明細書を斜めに見下ろした。

「この、『実施例1』だけでいいです。読んでもらえませんか」間はいやいや所定のページをひらいて、該当する記載を指でなぞった。そこには、多数の化合物の名称が記載されている。その名称だけでは、早苗には化合物の形が思い浮かばなかった。間は、ふん、といって口を開いた。

「これ、前のやつですよ。エキシマレーザーのやつ」

「どういう意味ですか」早苗が訊く。四宮たちも、身を乗り出した。

「だから、古いレジストの配合ですよ。今のじゃない」

「このレジストにEUVを当てて、ここに書いているような効果は出ると思いますか」

「うーん、断言はしたくはない。やったことがないから。ただ、たぶん、うまくいかないと思う」

「試験してもらえませんか」早苗ができるだけ気分を害しないように、体をこごめていう。

「やりたくないなあ。何の役にもたたないし。試験部の枠を取るのも楽じゃないんだよ。簡単に言うなよ」間が顔をしかめていう。

 すると四宮が口を開いた。「わかりました。こちらで手配します。その試験であれば、間さんの手をわずらわせなくても、我々で手配できますので」

「それで、聞きたいんですが。最新のEUV露光に対応するレジストには、どんな化合物が入っているのですか。この処方では、EUVに共鳴する分子がないと思われます」

 間が驚いたように早苗をみた。分かるのか、という目で早苗の目を凝視ぎょうしした。

「ふん。言っていいのかな。社外秘だから。どこにも出していない」

 四宮がお願いします。事務所の方は大丈夫ですから、という。

「そうですか。じゃあ……。分子じゃないんですよ。ペンダント。ペンダントが必要なんです」間がいう。少し前向きな態度に変わっている。

「ペンダントというのは、高分子化合物の鎖にくっついた置換基のことをいうんです」早苗が高橋のために補足した。「高分子化合物がネックレスの鎖のようなものであるのは、いいですよね。そこに、所定の機能をもった飾りをつけるんです。まさにペンダントですね。ただし、通常一つではなく、一定の間隔でたくさんつけるんです。それによって、高分子化合物に所望の機能を付与するんです」

 高橋は天井をみながら、ペンダントを思い浮かべてみた。ルビーでもぶら下がっているのであろうか。それもたくさん。

 間はおもむろに席を立ち、ホワイトボードの前に立った。マーカーのキャップを開けて、化学構造を書き始めた。六角形と五角形を組み合わせ形である。そこに、NとかOとかの文字が入っている。

「これです。これがEUVに応答するんです。正確にはEUVに応答する分子と協働作用きょうどうさようするのですが、そこでは複数の分子が逐次ちくじに関与するんです。難しいので、ここでは……」間はキャップを閉めて、無造作にマーカーをボードの下の受け皿に放り投げた。

「これを準備書面に書けませんか」早苗は四宮をみた。四宮は間をみた。間が口をひらく。「無理でしょう。少なくとも私の裁量では判断できませんよ」

 すると高橋が、咳ばらいをして説明した。

「公開せずに、裁判所に提出することができます。そういう制度があるんです。最近、特許法が改正されて、できたんです」早苗も聞いたことがある。

「『インカメラ手続』と言います。カメラ(camera)とは米国で裁判官室のことをいうんです。ですから、非公開で裁判官室で審理することをそう呼ぶんです」さすが米国弁護士でもある高橋はこのあたりも詳しい。

「裁判官と双方の代理人だけでその内容を確認します。それに、判決文や、裁判所の閲覧用の記録も、すべて黒塗りにすることができます。誰にもばれることはありません」その手続きを利用することで、全員、同意した。

* * *

「それと、もう一つ」早苗がさらに続けた。皆、疲れを感じながらも、早苗の言葉に耳を傾けた。もう、彼女のいうことを軽視できなくなっている。

「少し申し上げにくいんですが」

「この技術を持ち出した人がいると思うんです。こんな先端技術、布藤弁理士だけで書けるわけがありません。偽発明者の木邑氏にもむりです。だれか、日レジさんの方から漏えいされたと考えるのが妥当かと……」四宮と香西が顔を見合わせた。

「あの。大変恐縮ですが、当方で特許公報を調べさせていただきました。この明細書に類似する技術を開示した御社のものです。一件、一件、文書の一致点を見ていきました。そうしましたところ、弊所で担当したものもいくつかありました。全部ではないのですが。そのリストがこれです」早苗は人数分用意していたA4の用紙を全員に配った。

「これらの出願に共通することを調べたんです。弊所が担当したものにおいてですが、すべて、元御社の知財部員である『二田水巧にたみずたくみ』さんが担当されているんです」

「彼は、いま、『インフォパテント』という会社を運営しています」

 早苗は、パッド端末のディスプレイを指で滑らして机の真ん中に置いた。全員がそれをのぞき込んだ。そこには二田水の全身写真が写っていた。顔は前を向き、体はすこし斜めにして、腕を組んでいる。その横に、大きく、見栄えのするレタリングで『インフォパテント』のロゴがある。その下には、『知財に関する様々な問題を解決します。ご相談ください。』と記載されていた。さらに、電話番号と、メールアドレスが続く。

「二田水さん。まさか」香西が漏らした。彼は香西の指導社員だった。

 ここで高橋が口を開いた「うん。それで二田水氏、彼が技術を持ち出したとして、彼がどうこの件に関与したと証明するの。このリストだけでは難しいと思うんだけど……」

「そこはですね、私共も考慮しました。それで、このリストにある明細書の記載をさらに細かく、ひとつずつ確認したんです」早苗が答えた。

「それで、気付いた点が二点ほどあります。一点目は要約書です。本件の要約書は間違えたものが挿し込まれています」

 全員がファイルを開き特許明細書を勢いよくめくった。最終ページの要約書に目をやると、そこには、確かに本件とは関係のないものがあった。

「それとですね、炭素数に関する記載なんですど……、間違えているんです。ベンゼン環なのに、『2以上』と規定されています。正しくは、六員環ですから『6以上』です。その段落の部分の記載なんですけど、リストにある八件の出願ですべて段落ごとそっくりそのまま同じ間違いをしているんです。弊所の担当案件だけではありません」

 たしかに、該当する段落の記載はすべてコピー・アンド・ペーストで作成されたようで、一字一句同じ記載であった。

「これらが、二田水さんの担当のものだったのか、御社の方で確認いただけますでしょうか。弊所、以外の件も含まれていますので」

 四宮と香西がうなずいた。

「いかがですか、高橋さん」早苗が高橋をみて問う。

「そうですね。間接証拠にはなると思います。決定打にはなりませんが、全体の事実を総合して二田水氏が布藤弁理士と結託して明細書をねつ造したこをと推認させることにはなろうかと思います」

 簡単にいうものだ。これだけ調べるのにどれだけ残業したことか。

 二田水の件を主張することにより、日酸レジストの情報管理のずさんさを露呈ろていさせかねない。イメージダウンにもなる。二田水に関する事実も、『インカメラ手続』とすることとなった。書面もすべて黒塗りにする。

 日酸レジストの本社を出て、副島たちは高橋とともに東京駅に向かって歩いた。高橋が嘆息たんそくしながら副島にいった。

「いやあ、勉強になりました。さすが弁理士さんだ。技術と法律。その両方に精通していなければ、あれはできない。良いものを拝見しました」そういって、早苗の方に笑顔をみせた。

 早苗の心臓はまだどきどきと鼓動を打っていた。

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