第17話 サッカー観戦

 地響じひびきのような歓声とともに、選手がピッチへと飛び出してきた。うなり声とも、叫び声とも、判別がつかないような声で、皆、選手の名前を連呼していた。早苗はスタジアムという場所に足を運ぶのはこれが生まれて初めてである。野球場にも行ったことがなかった、早苗の父、隆宏はスポーツに全く関心がなかった。

 瀬奈人は高校までサッカーをしていたそうだ。新潟の高校で、そのチーム自体はあまり強くはなかったらしい。瀬奈人は眉が太く、少し堀の深い目をしていたので、てっきり、沖縄か九州あたりの出身だと思っていたので、意外だった。瀬奈人の父は、新潟で鉄工所に勤めていた。今は、定年退職して、ときおり建設現場に呼ばれ、安全管理の監督をしているそうだ。瀬奈人は三十四歳で早苗の五歳上ということだった。もう少し歳上かと思っていた。瀬奈人には兄がいる。兄はプラントエンジニアで、世界中で石油プラントの設計を手掛けているそうだ。すでに結婚もしており、二人の子供がいる。今は、家族でシアトルに住んでいるそうだ。

 早苗はサッカーのルールはまったく知らない。それでも、ここに座っているだけで、心臓の鼓動が早くなるのを感じずには居られなかった。芝がきれいに刈り込まれたピッチは、手を伸ばせば届きそうな錯覚におちいる。選手も想像していたより、大きく見えた。その鍛えられた身体は、たくましいというより、美しくさえあった。

 早苗たちのシートは、ホームチームで、浦和ブルージェイズ側だ。サポーターが最も熱狂的なことで有名だ。前列の席では、多くのサポーターが大きな旗を振っている。ブーという笛のようなものを拭いている者もいる。ゲームが始まると、歓声は一段と大きくなった。ボールが右から左へ、左から右へと送られていく。それを、ありえない速さで走り、互いにぶつかり合う。その迫力に圧倒された。ビールのせいもあるが、早苗もいつの間にか声を張り上げていた。青のユニホームの選手が、ゴールに迫ると、いけーと言って叫んでいた。ゲームは1対2でブルージェイズが敗けていた。そのまま、試合が終わりそうだったので、早苗たちはスタジアムを後にすることにした。ゲームが終わってからでは出口が混雑するからである。そのとき、コーナーからふわりと上げられた白いボールは、ゴールの前にきれいな弧を描いて宙をまった。まるでスローもションを見ているようだった。そのボールが落下すると予測される位置に向かって、数人の選手が入り乱れて飛び上がった。誰の頭に当たったのかは分からなかったが、ボールは角度を変えて鋭くゴールのネットに突き刺さった。一瞬、スタジアムの動きが止まり音を失った。皆、気を失ったように静止した。ようやく正気を取り戻した観衆は全員立ち上がって、歓喜の声を上げていた。早苗は奇跡の瞬間に立ち会ったかのように、飛び跳ねて喜んだ。早苗はこのチームのサポーターではなかったが、長年応援してきたチームが勝利したかのように喜びが沸き上がってきた。

 結局、早苗たちはスタジアムを去るタイミングを逸してしまい、2対2で試合が終わるまで席にとどまった。

* * *

 二人は浦和を後にして、池袋に向かった。瀬奈人の宿舎は赤羽にあった。この辺りは昔、広大な軍用地だったそうだ。戦後は公有地になり、公務員用の住宅が多い。間取りは、2LDKでユニットバスもあるそうだ。築十年程度らしいが、快適だという。何より家賃が控えめに設定されていることがありがたいと言っていた。公務員の特権であろう。

 早苗はこの日どんな服を着ていけばいいのか、ひどく悩んだ。サッカー観戦など行ったことがないからだ。事前に友人に相談したほどだ。結局、上は薄手のブラウスにした。夏も終わり台風のシーズンに差し掛かっていた。雨が気になった。しかしスタジアムには屋根があり、その点は問題ないと聞いていたので、薄手のものにした。クリームがかった白が基調だが、薄紫、薄い黄色、薄いピンクの小さな花びらがあしらわれたものだ。下は動きやすいガウチョパンツにした。色は朱華はねずというのだろうか。薄く黄色がかった赤である。柔らかな色合いで、早苗のお気に入りである。瀬奈人はTシャツにデニムというラフな格好だった。Tシャツは白の無地で清潔感がある。それに、カーキ色の麻のジャケットを袖をまくって羽織っていた。

* * *

 掘りごたつタイプの座敷の机には、焼き鳥の盛り合わせ、豆腐サラダ、たこわさ、玉子焼きが並べられた。焼き鳥には、手羽先が含まれているものを選んだ。瀬奈人の好物だという。すでにビールはスタジアムで呑んでいたので、酎ハイで乾杯することにした。話題は当然先ほどまで観戦していた試合のはなしだった。瀬奈人は少し興奮ぎみにある選手のことを説明していた。ポジションはミッドフィルダーだという。早苗には、そのポジションがどこかは分からなかった。しかしどの選手かは分かった。7番の背番号を着けていた。小柄な選手だが、なびく黒髪がきれいな若者だった。自分より一周り若いのだろうと思った。彼の動きは他の者と比較にならないくらい俊敏で、くるくるとダンスを踊るように人波を縫ってボールを運んだ。彼がパスを出すと、ウワーっといって周りの客が立ち上がった。彼がチャンスを作る名手であることは明らかだった。彼が日本代表に呼ばれるのは時間の問題だという。まるで、自分が見つけ出した選手のように、自慢げに瀬奈人は語った。

* * *

 ひとしきり話をして、早苗がソフトドリンクに飲み物を変えると、瀬奈人が切り出してきた。

「発明者のことなんだけど、木邑耕四郎きむらこうしろう。調べたんだよ」

 早苗は一瞬なんのことをいっているのか分からなかった。しかし、しばらくして記憶の奥からその名前はあぶりだされた。日酸レジストの件だ。発明を盗んだ発明者。

「なんで……、おかしいよ、私のこと調べてるの?」

「おかしいよ、本当になに?」早苗の表情は明らかに怒っていた。

 瀬奈人はばつが悪そうな顔をして、後頭部を右手でたたいた。白状することにした。

「本当は、言わないでくれといわれていたのだけれど。やっぱり、そうもいかないよな」

 早苗は首をかしげた。

「君のお父さんに頼まれたんだ」

 早苗は目を丸くした。彼の口から自分の父のことが出てくるとは予想もしていなかった。

 瀬奈人は帝明大学の松宮研究室で光学を専攻していたこと、松宮研究室の助教授がそのとき早苗の父、土井隆弘どいたかひろであったこと、その隆宏と先日の松宮教授の退官式で会ったことを早苗に伝えた。

「先日、あの明細書の樹脂はおかしい、ってはなしただろ。EUVイーユーブイに共鳴する物質が入ってないってさ。あれ、君のお父さんなんだ。気付いたの」

「君のお父さんは、君の仕事をすべてフォローしているらしい。時間が許す限り、明細書もすべて目をとおしているらしいよ。あの事件も、審決を読んで詳しく内容を把握していた」

 早苗は、そうなのと答えておいた。でも本当のところは全く信じることができなかった。父、隆宏は自分の仕事になど全く興味がないと思っていた。むしろ、仕事をやめて嫁に行け、そればかりを言われていたからだ。

「ごめん、黙ってて。それで、それも頼まれて調べたんだよ。彼の経歴を。木邑耕四郎の。余計だったかな」瀬奈人は早苗の目を除くようにして、さらに続けた。

「それでね、分かったんだけど、彼もね、日酸レジストの社員だった。といっても、正確には、その前身となった珪酸鉱料けいさんこうりょう株式会社の出身なんだけど」

「珪酸鉱料は、約三十年前、1986年に日本染料インキ株式会社と合併している。合併といっても、事実上の吸収」

「その後、社名を日酸レジストに変更している。これは君もしっているかな」早苗は小さくうなづいた。

「それで、木邑はその吸収合併の際、ポストにあぶれていったようなんだ。当時、四十二歳。珪酸鉱料組はだんだんと組織から追いやられていったんだな。確かに、会社員として、大きな変化には対応しにくい年齢だよな。十年ほどは研究職に残れたようなんだが、そのあとは仕事も回されないようになった。俗にいうリストラにあっている」

「その後、木邑は職を転々としている。珪酸、つまりシリカ。その研究員だったらしいんだけど……、あまり応用が利かない素材だよな。シリカを扱う企業なんてそんなにないからね。それで、地元の徳島に帰って印刷工場に入社している。製造技術者として現場ではたらいていたようだよ。そのあとは、さらに小さな鉄工所、セメントメーカーと移っている。今は、無職で年金暮らしだよ。徳島に住んでいる。現在は七十二歳。独身で身寄みよりもないようだよ」

 早苗は口をあんぐりと開けていた。そこまで調べるのか。警察というのは、そこまでの情報をこんな短時間で調べ上げてしまう。国民は丸裸だ。プライバシーもへったくれもあったものではない。

「ていうことは……」早苗が、グレープフルーツジュースのグラスをおいて上半身をのりだした。

 瀬奈人がうなずいてつづける。「そう。そのとおり。木邑がこのフォトレジストの発明を作れるわけがないってことだよ。少なくとも、EUV露光なんて、言葉もしらないはずだ」

「それは、朗報だわ。次の裁判では、木邑を証人として呼ぶ予定なのよ」

「そこで尋問すればかならずぼろを出すわね」早苗は上品にほくそ笑んだ。

「そうなのか。それは良かった。役にたてたかな」

 瀬奈人はグレープフルーツ酎ハイをごくりと呑んでつづける。

「それでさ、ここからは俺の考えなんだけど、だれか、技術を持ち出した人間がいるじゃないかな。お父さんのいうように難しい技術ならだれか盗んだ真犯人がいるんじゃないかと思うんだよ。もしだよ、もし、仮に、それが分かれば、それは決定的な証拠になるんじゃないかってね」

 刑事らしい発想だ。犯人(ホシ)を挙げろということだ。でも悪くはない。早苗には心当たりがあったからだ。布藤だ。本件は布藤が出願している。そんな発明どろぼうが、まったく知らない人間に出願を依頼するだろうか。布藤とその真犯人が結託けったくしている可能性がある。しかも、日酸レジスト内の技術情報を持ち出せる立場の人間だ。

 瀬奈人に「ありがとう」と伝えた。早苗はまだ確信は持てないが、それとなく自分の進む方向が見えてきたような気がしていた。

* * *

「ところで、瀬奈人さんは父の助教授時代のことは知っているのでしょ」早苗が訊いた。

「ああ。俺は、松宮研究室に配属されていたから、土井研究室の詳しいことまでは知らないけど、研究のこととかは流れてくるし、いろいろ質問したりして教えてももらったから。とても、面倒見のいい先生だったよ。いつも、煙たがらずに教えてくれたよ」

「どういう研究をしてたの」

「俺?」瀬奈人が困惑して答えた。

「あ、うん。ごめん。そうじゃなくて、うちのお父さん」早苗が手櫛てぐしで髪をなでてそっけなくいう。

「あ、土井助教授ね。よかったよ、俺の研究を、俺が一番説明できないんでね」

「うん、土井助教授はコンデンサレンズの研究をしていたんだよ」

「コンデンサレンズ?」早苗がきょとんとして訊く。

「あっ、そこからか……。そうだな、普通のレンズは光を拡大したり縮小したりする。そうじゃないんだ。コンデンサレンズは、簡単に言えば、光を均一にするレンズなんだよ。それで、開口数をかせぐんだよ」

「開口数?」

「えーっと……、専門外の人に説明するのって難しいね……、開口数は入射最大角のサインと屈折率の積なんだけど、それじゃだめだよね」早苗が口をとがらせている。

「そうだな、誤解を恐れずに大胆にいっちゃうと、開口数が大きいと、より鮮明になるんだよ。光のぞうが」

「ステッパって知ってるでしょう。半導体の製造で使う装置。あれは、光をマスクにあてて、影絵みたいにして回路配線を描くんだけど……、それはいい?」

「それは、なんとなく」早苗が答える。

「あの装置はね、超単純に言うと、コンデンサレンズを通った光がマスクに当たって、陰影ができる。そのあとにプロジェクションレンズっていうのがあって、像をぐっと絞り込むんだよ。だから、最初に大きめの影絵を作っておいて、レンズで小さくするの」瀬奈人はうかがうように早苗をみる。

「そこまでは、なんとか」早苗が若干不満げに答える。

「それでね、君のお父さんは、そのコンデンサレンズの方を研究をしていたんだ。当時では珍しかったよ。どちらかというと、像を絞り込むプロジェクションレンズの研究に注目が集まっていたからね」

「コンデンサレンズはいくつかのレンズの組み合わせで作るんだよ。それでね、君のお父さんが作ったコンデンサレンズの光学系は高い開口数で高解像度を実現したんだ」

「……」早苗はついてきていない。

「簡単に言えばだよ、輪郭がくっきりした影絵を可能にしたんだ」早苗の顔が晴れた。

「そのあと、その技術はステッパに標準装備された。それを改良した技術もどんどん生まれたんだ。回路配線がどんどん細くなっていったからね。この解像度、いや、えーっと、くっきりさ、が大事だったんだね」

「そうなんだ。お父さん、自分の技術は全然話してくれないから」早苗が不満げにいう。

 瀬奈人は少しうつむいて思案した後に口を開いた。

「……君のお父さんはね、そのコンデンサレンズに関する技術を、独占してはいけないと考えたんだよ。広く、みなが使う。これを踏み台に研究を重ねる。それこそが大切だと考えた」瀬奈人はあえて早苗の目を見ずにつづける。

「だから、特許の申請に反対したんだ」瀬奈人は少し寂しげにゆっくりと告げた。

「それでね、大学ともめてしまった。大学側は当たり前だけど特許の活用を推進していた。これと真っ向から対立してしまったわけだ」

 早苗は黙っていた。

「まあ、それだけが原因じゃないんだけど。帝明大学には医学部がない。それで医学部のある大学と合併することを推進していたんだ。君のお父さんはどちらかと言えば推進派だったんだ。一方、覚えていると思うけど、大学病院の不祥事が続いただろ。あれだよ。内視鏡手術のミスで人が多数亡くなったり、情報を隠蔽いんぺいしたり。それで、雲行きが悪くなってね」

「でも残ろうと思えば残れたはずだよ。帝明大学に。やはり、本当のところは、あの技術の特許化を阻止したかったんじゃないかな。教授は特許化をしたがっていた。あの頃の大学は縦割り社会だ。教授の言うことは絶対だからね。大学を去ることで片を付ける。それを選択したんじゃないかな」

「僕には、君のお父さんのことは分からない。先日もその話しはしなかった。ただ、思うんだけどね、きっと、きみのお父さんは、技術は金儲けの道具であってはいけない。そう思っているんじゃないかな。もっと純粋に取り組むべきものだ。でも、現実はそうなっていない。そのギャップに苦しんだんじゃないかな」

* * *

 しばらく沈黙がつづいた。早苗には背中に重い物を感じた。

 父の冷たい態度。特に、帝明大学を追われて以降の変化は、何か想像がついた気がする。不純な世界に娘をやりたくない。そんな気持ちだったのだろうか。

 日本の特許制度はしっかりしてる。それは世界でもトップクラスである。しかし、制度なんてものはどこまでいっても所詮は人が造ったもの。完全ではない。それは結局、使う人による。正義のために使うか、不正のために使うか。公益のために使うか、私利私欲のために使うか。

 お父さんが間違っていなかったかは、早苗には断言できない。難しすぎる。ただ、そのころ半導体産業で、日本は欧米に大きく水を空けられていたはずだ。日本は大急ぎでそのあとを追いかけなければならなかった。そんな中、大学がその技術を囲い込んだらどうだっただろうか。世界でもフロントランナーを行く、山中先生のiPS細胞とは状況が違う。お父さんの技術はオープンソースであったからこそ、日本の技術が追いつくドライビングフォースになったんじゃないか。そんな風に思案していた。

 物思いにふけっていると、料理はラストオーダーだとういう。二人は追加を頼むことなくその店を出ることにした。最期にそっと、瀬奈人が付け加えた。

「それと、君のお父さんからの言伝なんだけど、『あのEUV露光レジストの発明は巧妙な偽者だ。絶対に許しちゃいけない』と君に伝えてほしいと」

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