第三章 反撃

第16話 審査官面接

 早苗はタクシーに乗った。後部座席には、副島と、大東亜油脂の知財部員・佐々木敬哉ささきけいや、発明者の大野真おおのまことが乗り合わせていた。虎ノ門の交差点で車は止まった。

 特許庁 庁舎。二十階立てのビルは科学技術の総本山にふさわしい近代的な意匠をほこる。背後に霞がかすみがせきビルと新霞が関ビルを従え、首相官邸しゅしょうかんていを見下ろすように立っていた。まるで、特許制度、百余年の歴史と威厳いげん鼓舞こぶするかのごとく人々を見下ろしていた。早苗たちと審査官は十二階の1204会議室に入った。審査官は挨拶もせず席に座ると、どうぞという意味で右手をさしのべた。早苗たちが着席した。審査官は名刺を無造作むぞうさにさしだした。名刺には、経済産業省 特許庁 審査第三部 高分子 審査官 井藤祐介いとうゆうすけ とあった。井藤審査官は右手をもみあげの上のほうにあて、人差し指、中指、薬指をそろえて、ゆっくりと何度もその髪の毛を上から下にこすりながら話し始めた。

「それで、本日はどのような趣旨でしょうか」いかにも面倒という感じである。

 副島が早苗を一瞥いちべつした。早苗は、今朝、クローゼットの前で膝上の丈の短めのタイトスカートを選んだ。といっても膝上すぐくらいの長さだから、さほど短いともいえない。ちょっとしたサービスだ。この程度なら気にするほどでもない。ストッキングには濃すぎない黒をえらんだ。肌色は避けた。脱がした時の肌色を想像させて、よりなまめかしいだろう。そこまで考えて、くだらないと思いかぶりを振った。早苗は、審査官に正対し、この発明の要点について説明した。ダイシングテープの用途、特徴、粘接着剤の意味、物性、微粒子の役割、半導体製造における歩留まりのよさ。井藤審査官は、そんなことは分かっているとう顔で、表情も変えずに聞いていた。十五分が経過した。

 この手の面接は一時間以内には終わらせるのが常識だ。長引けば審査官の心証をかえって害するからだ。審査官は審査をした件数で給与が変わる。米国ではそれを徹底している。日本ではさほどでもないが、やはり出来高払いの側面があることに変わりはない。面接で時間を取られてはかなわない。

「ご説明の趣旨は理解しました。そういった点も考慮して拒絶査定を打たせていただいてます。やはり、当業者にとって容易な変更と言わざるを得ない。それが目下の心証です」当業者とは、この分野の平均的な技術者を意味する。

* * *

 早苗は大野に目配せをした。早苗はひとつ策を講じたのである。電話でそれを大野につたえ、しっかりと準備してもらった。ここからが勝負だ。

 スーツを着た大野を見るのは初めてである。いかにも身体になじんでおらず、まるで新入社員のようだ。鞄もビジネスバックではなく、学生がもつショルダーバッグ。大野は、鞄のなかから、二つのフィルムを取り出した。いずれも二十センチメートル角くらいの半透明の茶色のものである。さらに鞄からランプとサングラスを五個とりだした。全員にそれを掛けるようにうながした。

 次に、鞄から四つのチップをとりだした。白い四角形の板片で厚さは二ミリメートルくらいだろうか。二つの茶色のフィルの粘着面を覆う白い保護フィルムを剥がした。粘接着剤が姿を現した。四つのチップのうちの二つを左のフィルムの上に貼りつけた。残りの二つを右のフィルムに貼りつけた。

 大野は審査官をみた。大野と井藤審査官はなにか気が合いそうだ。鉄道写真を趣味とする人たちのような、二人だけが分かり合える波長があるようだ。井藤審査官の表情は先ほどまでと明らかに違う。

 大野は審査官に両方のフィルムから一つずつチップを剥がすように示唆した。審査官はつまらないものでも見るようにして、手を伸ばした。まず右のフィルムの一つのチップをはがしてみた。するとチップはパリッと音をたてて割れた。審査官は何か悪いことをしたかのような、困惑した目をむけた。大野は、いえ、そうなりますといった。接着状態です。もう一つ左のフィルムのチップも剥がした。同じくチップは割れた。

 次に大野は左のフィルムを裏返してランプを点灯させた。紫外線ランプである。ランプの電源は特許庁のコンセントを拝借した。数分照射すると、次に右のフィルムを裏返して同様に数分照射した。

 大野は井藤審査官に、左のチップを剥がすように示唆した。チップはやはり先ほどと同じく音を立てて割れた。次に右のフィルム。チップの両辺に人差し指の爪と、親指の爪をかけた。それを引き上げると、チップは、割れずに、すんなりと上に持ち上がった。完全に剥がれてしまっていたわけではない。程よい粘着性がありながら、力を入れれば抵抗なく剥がれる。絶妙なバランスである。井藤審査官の目はそれまでの懐疑的なものではなく、大きく見開かれていた。新しいおもちゃを与えられた少年のようだった。

 そのあとは、井藤審査官から大野への質問攻めとなった。フィルムの見た目はあまり変わらない。よく見るとたしかに右のフィルムには微粒子がうっすらと浮いて見えた。しかし、大きな凹凸おうとつとはいえない。なのに、剥離性がまるで違う。なぜなのか。ここからは大野の真骨頂しんこっちょうである。接着の機構は、機械的結合、物理的相互作用、化学的相互作用の三つにより説明される。そのバランスだという。そして微粒子の役割は、接触面積を減らして、単に機械的結合点を減らすだけではない。そう推定しているという。むしろ接着する段階で物理的・化学的に作用しているそうだ。もはや、二人の世界である。早苗が敢えて入りこむ必要はない。

 面接はきっちり一時間で終わった。終了時には、井藤審査官により、議事録に以下の一文が加えらえた。


『審査官は本件発明に係るダイシングテープの格別かくべつの効果を理解した』


* * *

 特許庁を出ると、副島とは別れた。早苗は大野と新橋に向かっていた。大野はJRが都合がよいので新橋駅まで歩くという。特許庁からは十五分くらいである。少し話したあと、神妙な面持ちで大野が早苗に話し始めた。社長、笹川誠一と会ってほしいという。ただ事ではない。近くの茶店に入って話を訊くこととした。

* * *

 一方、副島の方は弁理士会館に向かった。

 日本弁理士会館は、特許庁の日陰に隠れるように立っている四階建ての古く小さなビルである。都内でこれほどレトロなビルを見つける方がむずかしいかもしれない。早苗も初めてそれを見たとき思わず失笑した。その二回の会議室には二十人ほどの弁理士が集まっていた。弁理士法改正委員会 第二部会の会合が行われていた。

 今後の弁理士法の改正についての話し合いだ。議論の中心はもっぱら弁理士試験の改定について。増えすぎた弁理士。仕事の取り合い。減少する出願件数。こうした背景を受け、弁理士試験をまた難しくしようというのだ。場当たり的と言われても仕方がないかもしれない。弁解するとすれば、資格業務というのはそうい側面を不可避的にはらんでいるということだろうか。記憶に新しいところでは、公認会計士試験がある。2003年の改正により簡易化された。弁理士試験と同様だ。しかし、これにより、増えすぎた公認会計士が、仕事ににあぶれ出したのだ。状況は深刻で試験に合格しても、まったく実務に関与できないという者が続出したのだ。事態を重くみた金融庁は2011年から再度試験を困難化し、合格者の絞り込みを行ったのである。もはや弁理士も例外ではないという訳だ。

 会議室には副島が良く知る顔がいた。布藤だ。布藤もこの委員会に所属する。もちろん申し合わせたわけではない。副島は村からの依頼でこの委員会に所属した。

 村とは派閥のことである。弁理士は現在、一万人を超える。これらの者が一枚岩かというと、そうではない。どんな組織でもそうであるが、人が集まれば、徒党をくむ。自分たちの居心地のよいように綱引きが始まる。派閥が誕生する。正確なところは不明だが、大きなもので、四つから五つの派閥が存在する。副島はその中でも中規模の派閥に所属していた。どちらかというと遊びを好む、異端児いたんじが多いことが特徴の派閥である。

 布藤がなぜこの委員会にいるのかは不明だ。彼は、学術派といわれる最大派閥に所属していた。副島の事務所にいたころは無派閥であったが、独立後にそこに入会したのであろう。おそらく、その派閥の要請で彼もここにいるのだろう。副島は委員会の副委員長を務めていた。布藤は第二部会の部会長。二人とも、政治的な活動にも、なかなか精力的という訳だ。

 打ち合わせはいつものように大きな進展もなくお開きとなった。

* * *

 夕刻、六時半から慰労会が開かれた。新霞が関ビルの地下に最近できた和風居酒屋だ。掘りごたつの席であった。副島はその中では最も地位が高い。長テーブルの短い辺の席に着座した。布藤は、隣のテーブルにいた。宴会は副島の乾杯で始まった。

 ひとしきり料理が運ばれ、腹が満たされると、若手が席を移動し始めた。挨拶回りである。副島のところにも、かわるがわる酒を注ぎにきた。話題はもちろん弁理士制度の話が中心だが、最近出された話題の最高裁判決や、新たに任官した特許庁長官のこと、イギリスのEU離脱による知財業界への波紋などに及んだ。やがて副島の席のとなりが開いた。すると、布藤がやってきた。

「先生、ご無沙汰しております」二年前に退所してからの時間の経過を考慮したのだろう。実際はつい先日、審判廷しんぱんていで顔を合わせている。

「事務所経営は大変だろう。やってみると。思ったより」

「いや、まったくです。所員の業務管理、資金調達、新規クライアントの開拓なんかで、まったく仕事らしい仕事をできませんよ。それくらいならまだしも、やれこっちの席はクラーが効きすげて寒いだの、隣の人間のワキガが臭いだの、まったく幼稚園の小守みたいなもんですよ」布藤が作り笑いをしながらいった。

「でも、すごいじゃないか。事務所を移して。大安生命ビルの十五階に移ったんだってな。高いんだろ、あそこは」大安生命ビルは虎ノ門の高層ビルである。法律事務所も多数入っているが、いずれもビッグネームと言われる有名事務所ばかりだ。一方、副島の教栄特許綜合事務所は七階建ての雑居ビルの五階である。一階はラーメン屋だ。

「お蔭さまでなんとか、やらさせていただいてます。でも、内情は火の車でして。自転車操業ですよ」謙遜けんそんだろう。

「ところで、早苗ちゃんどうですか。元気にやってますか。この前、審判廷で見ましたけど」布藤にしてみれば、早苗は一周り以上歳の違う後輩である。『ちゃん』付け読んでもおかしくない。本人の前ではそんな呼び方はしないが。

「早苗ちゃんは、筋はいいと思うんですけどね。頭もいいし。ただ、線が細いっていうか、お嬢様っていうか……」肝の据わった布藤にしてみれば、早苗は行儀良すぎるのだろう。それは否定できない。この前の審判でも、手玉に取られた。プレゼンテーション力の差も歴然であった。

「ああ。そうだな。君の心臓の強さの少しでもあればね。見倣ってほしいよ」副島が日本酒のお猪口ちょこを口にしながらいう。

 副島は布藤に酒をついだ。徳利とっくりからこぼれないように、小さなお猪口に丁寧に添えてそそいでった。深くしわが刻まれた手元は小刻みに震えていた。「次の裁判も彼女で行くよ。お手柔らかにな」きっぱりと断言した。その眼光は鋭く、布藤の瞳の奥を抉るように凝視していた。布藤はお猪口の酒を一口であおるると、こちらこそと、そっと言って席を立った。


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