第15話 観覧車
土曜日の午後。
男性とデートするのは何年振りだろうか。果たしてデートかはわからないが、瀬奈人の方から誘ってきたことには違いはない。二人は
早苗は黒のタンクトップに白のシースルーのTシャツを合わせていた。黒のタンクトップには白抜きで、『STEP UP DANCING』と書かれている。意味は分からない。その下は、裾をまくったデニムのスリムパンツ。色あせた感じが古着のような落ち着いた印象をあたえていた。足元は素足で、つやを抑えた黄色のパンプスを選んだ。早苗は正直に言うとバストには自信がない。それでも、ヒップから脚のラインにはそれなりに自信があった。細すぎず、太すぎもしない。何をしたという訳でもないけど、ショーウインドーに映る姿を街で見たりするときに、悪くないなと思っていた。もとより自分でそう思っているだけだから、男の人から見て魅力的なのかはわからない。
瀬奈人は細めの紺のラインが入ったボーダーシャツを着ていた。上には、七部だけのサマーカーデガンを羽織っていた。下は七分だけの白のショートパンツを組み合わせていた。靴はライトブルーのデッキシューズをはいていた。
公園の噴水が初夏の日差しに舞って涼しさを演出していた。
葛西臨海公園は水族館が有名だが二人はそこには入らなかった。理由はないが、あえて挙げれば、そこで人気の大型魚が最近連続して死んでしまい、ほとんど水槽にいなかったからだ。水族館の横には芝生のきれいな公園が広がっている。家族連れがボール遊びをし、カップルが肩を寄せ合って談笑していた。そのにぎやかな声を聴いているだけで、心が弾んだ。大道芸が行われている道のわきを、おばあさんが息子さんに車いすで引かれてゆっくりと通り過ぎていく。久しぶりの日光を緩やかに受け、目を細めていた。二人は公園を抜けて桟橋を渡った。展望台をかねた回廊を越えて、砂浜へと出た。瀬奈人は靴を脱いで、くるぶしくらいまでの深さのところまで海に入った。早苗も少し戸惑ったがそれにつづいた。ところが、そのとたん、突然予想外に大きな波が来て、二人のパンツの裾を濡らした。「きゃあ」と早苗は叫んで海から砂浜に飛んで出た。瀬奈人は少し意地悪くそれを楽しそうに見ていた。
裾を乾かすのを兼ねて砂浜に手をついて座り、空から降る日光を浴びた。そのあと、二人は芝生が広がる公園に戻り、家族連れなどをまねてバトミントンをした。準備してきたものではなかったので、瀬奈人が売店で買った。千五百円は高すぎる気がしたが、場所代を含むのだろう。そのあとは、屋台のソフトクリームを
* * *
観覧車はすこしずつ海の方に回転しながら高度を上げていった。先ほどまでいた砂浜が窓の外に広がってきた。浜辺にいる人たちの姿がだんだんと小さくなっていく。
瀬奈人が口を開いた。「あのさあ、日酸レジストとの案件。冒認出願の件だけど。すこし話していい?」
早苗の眉根が鋭く上がり、一気に現実世界に引き戻された。やっぱりデートではなかったのか。温かな胸のなかの温度が急激に降下していった。
少しして、不思議に思った。
「なんで。そんなこと知っているの。調べたの」
「……そうじゃないよ」瀬奈人は急いで両手を肩くらいまであげて、大きく左右に振った。
「めずらしい件だよね。本格的な冒認出願」
「まあね」
「それで、警視庁内で勉強会があったんだよ。ほんと」苦し紛れの嘘だ。
「それで、そのときにさ……」
「ある人間から意見が出たんだけど。あれは、やっぱり冒認だと。盗まれたに違いないって」
「どうして」
「うん。俺にはよくわからないのだけど、専門外だから。ただ彼の話だと、EUV、超紫外線ね。その光の波長は、十三~十四ナノメートル。それを吸収する振動を有する物質がレジストのなかに入っていないって。そういうんだ。分かる?」
「ちょっと、そこまで私も詳しくないから」早苗は考えてみた。
「でも……、確かに光は波よね。その波と同じ振動をする物質でないと励起しないことは確かよ。電子レンジがそうよね」早苗がつづける。
「電子レンジはマイクロ波を出すの。これが、水の振動数と一致している。だから、水分を含む食品が温まるのよね。そのことかな」早苗が訊きかえした。
「うん。それは俺にも分かるけど。だから、その振動が一致する、共鳴っていうのかな、そうい物質が、明細書には記載されていないっていうんだ」
早苗は頭の中で思いを巡らせた。明細書をみないと、すぐには結論が出せそうにない。少なくとも日酸レジストの技術者に問うてみる価値はありそうである。早苗は瀬奈人にありがとうといった。何か少し光が差したような気がしたが、一方でせっかくの土曜日の日差しも雲に隠れてきて寂しさが胸をもたげた。
* * *
観覧車は頂上をすぎ、その高さを少しずつ下げていった。早苗はスカイツリーの方を背中にして黙って座っていた。瀬奈人がそれを見ているのか、自分をみているのか、分からなかったが、こちらの方に視線を固定していた。落ち着かなかったが、あえて無表情を装って気づかないふりをしておいた。観覧車を降りると、下りの階段の踊り場にいくつもの写真が飾られていた。乗車するときに、観覧車のスタッフが撮影したものだ。記念にといって、一枚八百円で販売しているのである。そこには、瀬奈人のとなりで微笑む早苗がいた。その早苗は、自分も知らないほど優しい瞳をして微笑んでいた。瀬奈人はこれを購入した。
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