第14話 ジャバラ管
『和解調書
原告 有限会社 三精商事
被告 有限会社 白鳳ゴム工業
一 被告は,被告製品が原告の別紙原告特許権を侵害していることを認める。
二 被告は,平成三十年一月一日以降,被告製品を製造,販売しない。
三 被告は,原告に対し,和解金として金一千万円の支払義務のあることを認める。
……
平成二十九年四月二十四日
東京地方裁判所 民事第十四部
裁判官
「
和解調書は裁判所でつくられる書面である。簡単に言えば、仲直りの書面。通常、裁判の途中で裁判官から打診がある。そのとき一応の心証が開示される。どちらが勝ちそうか、どちらが敗けそうかだ。
書面に書かれた『被告』こと白鳳ゴム工業は練馬区にある中小企業である。朝倉電線株式会社の下請け企業。朝倉電線は電線製造の最大手である。教栄事務所はこの朝倉電線とつきあいがある。
この書面は朝倉電線の知財部員、山本から送られてきた。彼の説明によると、白鳳ゴムが、『原告』三精商事に、特許権侵害で訴えられたそうである。両者は知らない仲ではないらしい。というより、白鳳ゴムが造る『ジャバラ管』という製品を、三精商事が買い付け、朝倉電線に納入する。そういう取引関係にあるそうだ。その三精商事が今般、このジャバラ管の製造方法に関する特許権を取得し、白鳳ゴムを訴えたというのだ。昨年末のことだそうである。訴訟は進行しお互いに主張をぶつけあったのであるが、その途中で裁判官からの心証開示があった。白鳳ゴムの敗け、ということである。
「賠償額が、一千万円ですか」
「来年初から、その製品を作っちゃいけないと……」早苗がつぶやいた。
* * *
「君にこの件を任せたいのだが」副島がいう。
「と言いますと……」早苗が訊く。
「うん、詳しいことは分からないんだが、白鳳ゴムがかなり困っているらしんだよ。このままだと、倒産するかもしれない、といっているらしい」
「朝倉電線と白鳳ゴムは、先代から付き合いがあるらしいんだよ。朝倉電線としては、なんとかしてあげたいらしいんだ。でもいかんせん特許があるからね。まあ、なるようにしか、ならないのだけど」
「白鳳ゴムに知財部はない。もとより、特許のことをわかる人間も一人もいないらしいよ」
「まあね、一般的な中小企業はおよそそんなもんだよ」
「『下町ジェット』とかいう小説が話題になったけど、
* * *
白鳳ゴム工業 会議室……
会議室といっても、工場の端に設けられた小部屋である。職員の控室にもなり、会議室にもなり、応接室にもなるのであろう。工場の中はゴムが焼ける独特の臭いが立ち込めていた。最寄りの駅からすでに臭っていた。この工場が発生源であった。
会議室の机の上には、二の腕ほどの太さの筒状のものが置かれていた。長さは三十センチメートルくらい。ゴム製なのだろう。黒い色をしていた。その周囲には、環状のひだが先端から末端まで二十本ほど形成されている。蛇腹のようになっているのである。
油まみれの作業着を着た小柄な男が入ってきた。早苗をみると明らかに落胆が表情に浮かんだ。帽子もとらず、お辞儀もない。無造作にパイプ椅子に座った。事務所は所長が来ずに若造を送ってきやがった。しかも女だ。舐められたと思ったのだろう。
「あの、朝倉電線の山本さんはまだでしょうか」早苗が控えめに訊いた。
「ああ、彼は来ないよ。連絡があった」
やられた。すっぽかしたのである。確信犯であろう。
「これは、どのような製品でしょうか」早苗が名刺をさしだしながら恐る恐る口をひらいた。
「電線を被覆するんだよ」白井も胸のポケットから無造作に名刺を出した。『代表取締役 社長
「電車のパンタグラフとか。電車が上下するだろ。電線と接触して伸縮する。それを覆う
この説明ではよくわからなかったが、そういえば電車の屋根の上にこんな形の黒いものがあったかもしれないな、などと記憶を探った。
「売り上げは、どの程度で」
白井が明らかに不機嫌な顔をした。
「年間に十億円くらいかな。すべて朝倉向けだよ」
その金額には関心した。それなら、都内でこの規模の工場でも十分にやっていける。
ただし、侵害により払わなければならない額、つまり損害賠償額もそれだけ大きくなる。
売り上げが年間、十億円。特許権の登録から約一年だから、そのまま十億円。利益率は分からないけど、この種の加工製品はおよそ三十%。だから約三億円。特許権の
白井は横を向いている。
「弁護士と裁判官で勝手につくったんだよ。知るか……」和解調書のことだろう。
「金額は値切った。しかも判決が出ればイメージもダウンになる。だからサインしろと」
「うちは赤字なんだよ。去年、裏の駐車場も売った。儲けた分を出せったって、ゼロ円なのによ。むしろ、もらいたいくらいだよ」
確かに弁護士のいうとおりだ。
「一千万だって、それだけ利益を出すのに、どれだけ商品を作ればいいと思ってるんだよ」白井は語気を荒げた。黒ずんだ下唇が小刻みに震えていた。早苗は彼の目をみることができなかった。
* * *
「それと、来年の一月からこの製品を作れないということですが」早苗がいった。
「うちはよ、これしかないんだよ。これを失えば、会社をたたむしかない」早苗にはかける言葉がなかった。白井の目は充血していた。
しばらくの沈黙の後、白井が吐き捨てるようにいった。「三精はきたねえ。きたなすぎる。うちの技術なのによ」早苗は首を
「朝倉の話じゃ、一月からこの製品をやつらが納入する。台湾のメーカーに作らせるらしいよ」
なんと卑劣な話だ。製品の売買を仲介している卸業者が、その供給元であるメーカーの技術をこっそり特許にしたのだ。どこで調べたかは分からないが、白井もまさかそんなことになるとは思ってもいなかったのだろう。いろいろと作り方を教えたり、図面などを開示していたのかもしれない。でも、どうしたらよいのか。早苗には、何も思い浮かばなかった
「この特許技術なんですが、どういったものなのでしょうか」早苗は視点を変えることにした。三精の特許公報をみて白井に質問した。
「ふん、大した技術じゃないよ。そんなの」
「電線被覆管、うちはジャバラ管、と呼んでいる。これを製造する方法だよ。うちの技術だ」
「と言いますと……」
白井は面倒そうに説明した。
「まず円柱形のゴム管を造る。それにモールドでひだをつけるんだよ」モールドとは金型のことである。簡単にいえば、金型を合わせて鯛焼きを焼くようなものである。
「ゴムの円柱管をあらかじめ加熱しておく。予備加熱だよ。そのあとで、モールドで挟む」分かるかと言って白井はつづけた。技術の説明はつまらなくはないらしい。
「内モールドと外モールドを使う」
「内モールドは円柱形。その周りにはひだが形成されている。ゴムの円柱管は、これより内径が大きくしてある。このゴムの円柱管を内モールドにかぶせるように配置する」
「外モールドは、縦に半分に分かれている。その内側にはひだが形成されている」
「その二つの外モールドを、ゴムの円柱管の両側から挟み込む」
白井は、机の上にジャバラ管を立てて、その両側から左右の掌をそえるようにして動かした。外モールドの動きであろう。
* * *
「ところで、
「なんだよ、それは」
「あの……、先に技術を実施していれば、他人に特許を取られても、その実施を継続することができるんですよ。先駆者の利を保護しているわけですね」
「ああ、抗弁とかいうやつか」
「そうです。先使用の抗弁といいます」
「それも弁護士に答えたけどな……」白井はさも面倒という感じで右手で頭をかいた。
「去年、予備加熱の温度を下げたんだよ。朝倉からの指定でゴムが変わったんだよ。その加硫温度が低いんだよ」加硫とは加熱によりゴムを固めることをいう。最終的には固めるのだが、成形の途中で固めては何にもならない。したがって、予備加熱も温度を下げたのだろう。
「多少、加工性は下がるがな、低い温度で予備加熱してるんだよ」
「それが、昨年のことですか」
「そうだよ」
「この出願が2015年の3月ですから、それよりも後ですね」
「そうだよ。去年だから2016年だよ」白井の語気が荒くなってきた。
「その新しい温度が、この特許のクレームの予備加熱温度ということですか」
「そうだよ。三精はそれを知って、たくらんだんだよ。弁護士もそういってたよ」
三精商事はどこまで狡猾なのか。
* * *
「なにかこの技術を書いたもので示したものはありませんか。説明書とか、パンフレットとか」
「工程の作業手順書ならある。それから設計指示書、モールドの図面。それがどうした」
「それらは、御社の社内文書ですよね。社外秘。それでは……」
早苗は新規性でつぶすことを考えていた。そのためには、この技術が広く公開されていなければならない。社外秘ではだめだ。
「これまでに、特許出願したことはないのですか」
「そんなもん、ないよ」にべもない。
「盗まれたんだよ。三精に。発明を。あいつらは商社だ。ゴムなんて触ったことさえない」
「この書類。ここに書いていることも現実的じゃない。こんなので作れるはずがない」
白井は三精の特許公報を顔のあたりまで持ち上げて振りながらいった。
「この明細書に不備があるっていうことですか。ジャバラ管をつくれないとか」
「不備ってほどではないけどな。基本的にはあってる」
「では、なぜ」
「ここに書いているとおりに造ったら、バリが出るだんだよ」
「バリとは?」
そんなことも知らないのか、という顔で煙たそうに説明する。「モールドの割れ目で、薄いゴムの縁が残るんだよ。鯛焼きの周りに薄い縁が残るだろ。あんなもんだ」
「ジャバラ管にな、そのバリがでると大変なんだよ。ひだに合わせて切り取らないとならない。溝にははさみは入らない」
「御社ではどうやって対応しているのですか」
「モールドに穴をあけるんだよ。余ったゴムが抜ける穴」
特許法には
* * *
「なんだよ。なんか手があるのかよ」早苗が思案した顔をして黙っていると、白井が特許公報を放り出していう。
「いえ、参考までに……」
「ひとつの可能性として申し上げておきますと、無効になる理由があります。『冒認』です」
白井の目が変わった。「それはなんだよ」
「冒認とは発明を盗むという意味です。盗まれた発明は無効になるんです。つまりつぶせる」
「ただですね」早苗がいらぬ期待を抱かせぬよう、急いでつづける。「法律上、むずかしいところがありまして……」白井が
「こちらが盗まれたことを証明しなければならないんです。どうして盗まれたと言えるのか。真の発明者に出てきてもらって証言してもらうとか、三精の社員を証言台に立たせて問い詰めるとか」
早苗が日酸レジストの件で悩んでることである。あれは大企業だからまだいいが、中小企業でそんな調査や、訴訟対応ができるとは到底思えない。弁護士費用も払えるかどうかあやしい。
「できるなら、やってくれよ」
「それはこちらが伺いたいのですが。なにか盗まれた痕跡とか……」
「そんなもん、あるかよ」
早苗は話を変えることにした。
「あの……、三精に対抗する手段として、この特許を回避することが、挙げられます。ご承知のことかもしれませんが……」語尾が弱まった。
「例えばですね、予備加熱をしない、ということはいかがですか。この特許はそれが必須の要件です」
白井はジャバラ管を手で動かしながらいう。「無理だな。ひだがつぶれる」
「そうですか、それでは……例えばですね、外モールドを割らずに作るとか」
ジャバラ管をドンとおいて吐き捨てる。「モールド加工ってのをわかってるのか」
白井はもう訊きたくないという顔していた。女なんか送ってくんなよ。そんな感じで早苗の髪に上から下へと視線を送った。会議室の外からは、金属のぶつかる音が繰り返し響いている。早苗はゴムの焼ける臭いが髪にしみついてないか、そればかりが気になった。
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