第13話 退官式

 副島が内線電話で早苗を読んだ。嫌な予感がした。所長室に入っていくと、彼の手には「訴状」がにぎられていた。日酸レジストの件だ。高橋弁護士が知財高裁に提出を済ませたのである。訴状自体は形式的なもので、詳しい主張は、追って補充という形になる。だから、二枚の薄いものだ。

「あの、冒認出願の件。あれはどうなっている。進めているんだろうね。当然」

「えっ?」早苗は困惑した。

「あ、はい。日酸レジストの件ですね。はい。高橋先生の方から訴状が提出されているはずです」

「知っているよ。ここにあるから」

「日レジの知財担当者との打ち合わせですか。それは日程を調整中ですが……」

「それで?」

「それでと、おっしゃいますと」

「おい、おい、おい、とぼけてるのかよ」出た。嫌味の始まりだ。

「土井大先生どの。前回の会議で何のアドバイスをしたんだよ、君は」『大先生』とは彼の嫌味の定番だ。

「高橋弁護士さまかよ。いいところを、全部あの若造にもっていかれたんだよ。おたくのせいで」

「…………」早苗の口の中はまた乾いてきた。

「君、入所して何年目」

「はっ?」

「何年目だと聞いているだよ」語気があらくなった。

「五年目です」小さく答えた。

「聞こえないよ。何年目」

「五年目です」声に、ひっくという息をすう音が混じってしまった。

「五年間、何をしていたの。ここで」

「…………」

「もしかしたら、まだ学生気分が抜けてないのかよ」ぺん先を机にトントンとたたきつけた。

「ここに金を稼ぎに来てるんだよな。それともお勉強にでも来ているの」

「仲良しサークルじゃないんだよ。お嬢さん」。

「俺が指示しなきゃ何もできないのか。うん?」

「何もしなくていいと思うのかよ。おたくは?」

「競争してるんだよな。俺たちは。分かる」

「おたくと違ってな、所員かかえて、戦争してるんだよ。こっちは」副島はひとつ鼻で息を吸って吐いた。

「いまどき、弁護士も弁理士も大量生産で、うじゃうじゃいるんだよ。虎ノ門で石を投げれば、当たるのは弁護士か弁理士だよ。違うか」確かにそのとおりだ。弁理士はこの十年で五千人から一万人以上に増殖している。一方、出願件数は四十万件から三十万件に激減した。飢えた野獣が残り物をあさりあっているといってもよい。弁護士も似たようなものだ。いまや、警察官の方が安定しているとも揶揄されている。

 早苗は何を言われているのかが分からなかった。というより、この件で、彼女が何をすべきなのかが分からなかったのだ。高橋がいうこと以上のことが思い浮かばなかった。頭の中は真っ白だった。先日の拒絶査定といい、今回の件といい、事務所生活も長くないかな、などと思っていた。

* * *

 早苗は必死に特許文献に目を通していた。

 このままでは、手柄をすべて高橋弁護士にもっていかれてしまう。何か一矢報いることはできないのか。説得力のある証拠をだすことはできないのか。そんな思いで朝からコーヒーも入れずに集中していた。もちろん副島からの指示でもあるが、早苗も少なからず面白くなかった。「よく降ろされなかったね。女性弁理士の役得かな」などとも揶揄やゆされた。確かに、あんな敗け方をしたら、普通なら降ろされてもおかしくない。

 EUV露光に関する学術文献が目に止まった。今回のフォトレジストの発明に関連はするが、直接その特徴につながる文献ではない。ほぼ関係がないといってもよい。しかし、その執筆者の欄に目が止まったのである。

『土井隆宏』

 早苗の父である。父は、当時、帝明大学の助教授であった。レンズ光学の研究を進めていた。そこに記載された発明は、半導体の製造におけるEUV露光の際に、その光を効果的に照射するレンズに関するもののようである。この露光装置はステッパーと呼ばれる。この装置に備えられたEUV光源から光を照射する。それを、父たちが発明した光学系に通す。これを通過した光は絞り込まれ、ナノメートルオーダーの微細な描画を可能とするのだ。父たちの開発した光学系は、EUVの波長に適合し、光の干渉の少ない照射を可能とするのである。つまり、光にムラがないのである。これを父たちが発明したのか。

 だからといって、この技術の価値とは別に、早苗はどうしても父を好きになれなかった。というより、父が早苗を認めていないのである。

 隆宏は帝明大学から千葉産業科学大学に移って、変わってしまった。早苗が高校生のときである。帝明大学は国立大学でしかもトップクラス。一方、千葉産業科学大学は私立で、偏差値はお世辞にも高いとは言えない。それが面白くなったのかもしれない。一方で、その転属により、父は助教授から教授に昇格している。悪くない人事ともいえる。好きな研究ができるのでせいせいしたとも、よく言っていた。しかし、このときから父は明らかに変わった。

 それまでサイエンスについて語り合うことがよくあった。ウイルスとはなにか、LEDはなぜ光るのか、三原色がまざるとなぜ光は白くなるのか、携帯電話はなぜ一度にたくさん通話しても混線しないのか。夕食のときにそんな話で盛り上がった。父は夏休みの自由研究にも熱心であった。中学生のとき、女の子なのに、かならず提出するように言われていた。クラスでは早苗だけだった。もちろん、いっしょに手伝ってくれもした。記憶にあるもので言えば、野菜からのDNAの抽出をテーマにした研究である。

 しかし、高校二年のとき、あの転籍で、すっかり変わってしまったのである。

 早苗が理系クラスを専攻したときにも、面白くないようであった。大学は短大に行けとうるさかった。その頃には父との会話はほとんどなくなっていたが、それは成長にそった、自然なながれでもある。だからといえ、進路を妨害しなくてもよい。早苗は父を意図的に無視するようになっていった。

 大学は地方の国立大学を選んだ。専攻は応用化学。理由は単純である。父と離れたかったからだ。それだけである。化学を選んだのは、物理がついていけなくったから。

 大学四年生になると、父は家に帰るようにうるさかった。家から通えるところに勤めるように、うるさく言ってきたのだ。直接ではなく、母を介して。早苗はこれに従わずに大学院に進学した。というより、あえて逆らいたかったのだ。自分は女だ。だから馬鹿にされている。それを見返してやりたかったのだ。仕送りは打ち切られたが、それまでにバイトでためたお金と、奨学金でどうにか賄った。ただし、本音をいうと、母から、都度、まとまった金が送られてきていたのだ。それで、洋服を買い、はやりバンドのライブに行ったりしていた。

* * *

 品川 東洋ホテルの十五階、パーティー会場……

「レンズ光学も、今、まさに変革のときを迎えております」

「ガリレオは天体望遠鏡を作り出し、月の満ち欠けを観測しました。その倍率はわずか三倍です。その後、人類は、反射型望遠鏡を発明します。倍率五十倍を達成しました……」

 瀬奈人は立ったまま、松宮の演説を訊いていた。早く喉をうるおしたいのをどうにか堪えていた。注がれたグラスのシャンパンはすでに泡が立たなくなっている。

「1980年代。日本の技術者が大きな変革をもたらします。ステッパーの開発です……。そして、日本の技術者たちは、写真を、アナログからデジタルへ移行させました。あのとき、それを誰が本気で信じたでしょうか。たった二十五年前のことです。スマートホン向けのデジタルカメラは、小指ほどのサイズしかありません。それでも十分な解像度を発揮します」

「ガリレオが三倍の望遠鏡で月を観測して四百年。いまや逆に、宇宙から地球を観測しています。しかも、人ひとりの表情までくっきりととらえることができるのです」

 この話はどこまでつづくのだろう、聴衆の頭の動きが大きくなりはじめた。

「今、われわれ日本の技術者に課されたのは何でしょうか。ここにいる一人ひとりが考えてください。十年後、二十年後、百年後。そのときに人類はレンズを通して、何を見て、何を造るのか。ここにご参集いただいた学者諸兄がくしゃしょけい。今は、諸姉しょしとも言わなければなりませんね」

 確かに集まった学者の約三割は女性だ。

「皆にエールを送って、私のあいさつに代えさせていただきます」

 松宮は一礼をして壇を降りた。皆、ほっとして拍手を送った。

* * *

 瀬奈人は、帝明大学の松宮慎太郎まつみやしんたろう教授の退官記念パーティーに出席していた。彼は、松宮研究室の卒業生である。出席するか否か、最後まで悩んだが、出席することにした。瀬奈人の新しい職務である捜査二課の仕事で、大学のお世話になるかもしれない。また、卒業して約十年。同級生も各企業や研究機関で、それなりの地位になっているはずである。名刺交換をしていて損はないと考えたのだ。その目論見もくろみは的中した。大学に残ったものは助教になっていた。富国ふこく写真工機に入社した者は、開発主任となっている。先日打ち上げられた、日本製人工衛星に搭載する撮像装置のレンズの開発を担当したそうだ。彼らから刺激を受け、瀬奈人も職務にまい進しようとファイトが沸いた。

 立食形式のパーティー。瀬奈人のテーブルには八人ほどの来客が取り囲んでいた。そこに、瀬奈人も見覚えのある男がいた。悠々とワインを楽しみながら、談笑している。その会話が一段落するところを見計らって、近づいた。ワインなので右手のビールを注ぐ訳にもいかず、その瓶をテーブルにおいた。

「土井先生、お久しぶりです」

「君は確か……」

「藤木です。藤木瀬奈人」

 胸のプレートを見せた。卒業年次と名前が書かれている。

「ああ、たしか……幾何光学きかこうがくの研究をしていた、ユークリッド幾何学を基礎とした反射系の研究だったかな」

 その内容について訊かれたら、瀬奈人に答えることは難しい。

「ええ、そうです」

「今、何をしているの。研究を続けているのかな」

「いえ、残念ながら。こういうところで、働いています」

 瀬奈人は名刺容れをふところから出し、名刺を一枚取り出した。

 土井は少し怪訝けげんな顔をして、眼鏡を上にすこしずらした。その下から、名刺をもう一度凝視した。

「警視庁?」

「ええ、そうなんです。いろいろありまして、そうなってます」

「ほーっ」

 土井は驚嘆と微笑とが入り混じった表情を向けた。

「捜査第二課……っていうところはどんなことをするんだ」

 瀬奈人は手際よく捜査二課の職務の内容を説明した。皆に訊かれるので、すでに要領を得ていた。

「ところで、土井先生。土井先生の娘さんは弁理士をなさっていますか」

 土井はピクリと眉根を上げた。

「お会いしたんです」

「学生時代に先生のお宅にお伺いしたときの、笑いえくぼが可愛らしいお嬢さん。少し、ほっそりされてましたけど、苗字も同じですし。たぶん、先生のお嬢さんかと……」

 隆宏はそれを認めた。瀬奈人は早苗と先日会ったこと、彼女と担当している案件の話を差しさわりのない程度で説明した。

 隆宏は早苗が担当している冒認出願の事件について詳しく承知していた。EUV露光は彼の専門であることもある。土井は改めて瀬奈人の方に向き直り、少し調べてほしいことがあるのだが、と切り出してきた。

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