第二章 進展

第11話 誘引

 源田と大東亜油脂の大野は横浜駅近くのファミリーレストランにいた。

「久しぶりだね。最近はどう。研究のほうは」源田が訊いた。

「相変わらずです」大野は源田の方をみることなく、ぼそぼそと答えた。

「そうだよな。ひどい会社だからな。あそこほど、人をこき使う会社も少ないよ」大野の疲れた顔をみてそういった。

「知ってるか、大東亜・特攻隊なんて言われてるんだよ。君たちのこと。給料もそこそこに、寝ないで闘って、玉砕ぎょくすいせよっていう嫌味らしい」

 源田が手を挙げてウエートレスを呼んだん。源田がめずらしくおごるという。源田が和定食を、大野がハンバーグ定食を注文した。

「寝てないみたいだね。クマができているよ。目の下」源田が自分の目の下を指しながらいった。

「ええ。ここのところ忙しくて。あの、生分解性のプラスチック。国際特許出願がやっと終わったんです」

「そう。もう出願を終えたんだ……」あえて、興味がないように答えておいた。

 しまった。先を越された。源田はそう強く思って奥歯をかみしめた。源田も発明が完成すれば中国で、大東亜油脂に先んじて、特許出願をすることを目論んでいた。遅れをとった。顔には出さなかったが、難儀なんぎなことになった。大野を引き抜くだけでなく、この国際特許出願の対抗策を講じなければならない。一気に頭の中をフル回転させた。もう出されたものは仕方がない。基本的な技術は大東亜油脂に押さえられた。こうなったら、その先の改良技術を取っていくしかない。大野を引き抜いて、大野とともに改良技術をつぎつぎに出願する。そうすることで、大東亜油脂の行く手を阻もうというのだ。うまくすれば、大東亜油脂の特許を回避しながら望みの技術を展開できる。最悪でも大東亜油脂とクロスライセンスを結ぶのだ。クロスライセンスとはお互いの特許を無償で交換することだ。大東亜油脂もその発明を実施できることになるが、その他の第三者は排除できる。刺し違えようということだ。詳しいところは二田水と相談しなければならない。彼なら、妙案を出してくるはずだ。

* * *

「展開の方はどうなの」展開とは、量産展開のことだ。工場で製品として大量生産することをいう。

「これからDRディーアールです。試作だけでも早く出してくれといわれてまして……」

 DRとはデザインレビュー(Design Review)の略語。量産展開する前に、技術的な不具合がないか、各関連部門と確認する会議をいう。大野のような設計者だけでなく、製造技術部門、品質保証部門、工場管理部門、営業部門等から担当者が集まって、製品の生産を開始する際の課題を洗い出す会議だ。商品を世に出す前の、最後の難関である。

「なにか出そうなの」何か問題点はないかという意味だ。源田が訊いた。

「ドープが少し硬いんですよ。それで、押し出せるか、そのあたりがネックです」

 ドープとは、フィルムにする前の原液のこと。どろどろのペーストである。これを、押し出し機で押し出してフィルムにする。これが硬いとは粘度が高いこと。だから、押し出し機から出にくいらしい。歯磨き粉が固まって、出にくいようなイメージだ。大東亜油脂はこのレジストをまずフィルムで出荷しようというのだ。これは、納入先の電子メーカーの要望で変わってくる。ドープ(ペースト)のままで欲しいということもあれば、フィルムで欲しいという場合もある。おそらく、ダイシングテープようの基材フィルムであろう。

「そうか。なんとかなりそうなの」

「ええ。溶剤を変えればなんとかなると思うんですが、今、試験中で……」大野は仕事を思い出したらしく、苦しそうな顔になった。

 大東亜油脂の工場は三交替で二十四時間止まらずに操業している。だから、試作となると、昼も夜もなく立ち会わされるのだ。研究者は三交替という訳にはいかない。『研究』などというと、あたかも知能的な労働に思えるが、その内実は過酷な体力勝負なのである。

* * *

 二人の前に食事が運ばれてきた。源田の前には茶碗のごはんと味噌汁。焼き魚におしんこが並べられた。大野の前には、ハンバーグとニンジン、ポテトが載せられた大皿。皿にもられたごはん。小皿のサラダ。ミネストローネスープが並べられた。

「ところでさ、電話で少しした話し。考えてくれた?」源田が焼き魚を崩しながら訊く。

「ええ。でも。中国なんて」

「説明したけど、報酬は申し分ないよな。移動に際してまとまった一時金。その後も年俸制で、いまの二倍にはなるよな」源田は魚に次いで、ご飯を口にはこんだ。

「研究体制も整ってるよ。その点は心配ない。最新の設備が入っている。NMRエヌエムアールFTIRエフティーアイアールESCAエスカはもちろんだけど、EXAFSエグザフスなんかもそろってる」最新の分析機器である。

 確かに中国をはじめとした新興国の設備はどれも最新鋭のものばかりだ。しかも手あかのついていない新品である。それに対し、日本の設備はお世辞にも新しいとは言えない。先に産業が発展した分、時間が経つにつれ、設備や機器は時代に取り残されていった。研究所はそれでもまだ良いほうだ。工場の生産現場となると、それはどこもひどいものだった。バブル崩壊後、設備投資が止まってしまったからだ。中国の工場内の方が数段きれいで、先端の設備がそろっている。衛生面、環境面、操作性、コンピュータ制御、品質管理機器のどれをとっても日本を大きく上回っていた。日本が抜かれるのも時間の問題だろうと、源田は思っていた。

 研究者もしかりだ。積極的に海外留学に出て、アメリカ、イギリスなどの一流の大学に進学する。そこで、最先端の質の高い技術を習得して、続々と中国本土に戻ってきている。そうした帰国組に多額のボーナスを与え優遇するのだ。中国ではこれを『ウミガメ政策』と呼んでいる。世界の大学ランキングをみても、一位から十位をほぼアメリカとイギリスが独占している。アジアではシンガポールが十二位でトップだ。中国が二十四位。日本の東京大学は三十四位なのである。すでに学術分野では大きく抜かれてしまっている。優秀なウミガメたちが大海を旅して故郷に戻り、その地位をぐんぐんと引き上げているのだ。

* * *

「発明報奨も充実してるよ。実際、今回俺も、会社の利益の一%で同意したんだよ」源田は身を乗り出してきた。大野はハンバーグを丁寧に口にはこんでいた。

「俺の昔の話し。この会社でのことは知ってるよな。以前、話したから」源田は眼鏡をはずした。

「1980年代だよ。今から三十年くらい前かな。俺と社長で開発したんだよ。最初のダイシングテープ。それは知っているよな」源田が苦々しくいう。

「基本特許ですよね」

「俺と社長とは同期だったんだよ。社長は創業者の息子だから、すぐに製造課長になったけどな。俺は、いつまでもヒラの工員だった」ふん、と鼻をならした。

「俺も、彼も、若かったな。貼って剥がせるプラスチックフィルムか。俺は、何度も何度も実験を繰り返したんだよ。来る日も来る日も。あいつの道楽に付き合わされて」源田は箸をおいた。

「笹川はむしろ非協力的だったんだよ。予算も足りないって何度も言ってるのに、つけないし。研究室も群馬の本社から、横浜においやって。俺の成果なんか見向きもせずに」

「それがだよ。それが。売り手がついたら、それみたことかって感じだよ。手柄を会社で独り占めにしやがって」

 大野はハンバーグを切り分けながら訊いていた。それを、ゆっくりと口にはこんで、何回も何回も口の中で咀嚼していた。

「今ならなあ、大東亜でも発明報奨なんてのもあるから、多少のお金で納得したのかもしれないけど。そんな時代じゃなかったしな。社員が上に文句を言えるような世界じゃなかったんだよ。本当に軍隊だな」源田は言い切ると、眼鏡をかけなおして、食事を再開した。

「発明の対価を、請求すればいいじゃないですか。青色レーザーの中居さんみたいに」大野が小さな声で、ぼそぼそっとつぶやいた。

「ああ。実は、昔、やったんだよ。知財部なんてないから、自分でね。会社を相手に。弁護士を探して準備を進めた」これは大野には初耳だ。

「それで、どうなったんですか」

「どうなったと思う」大野は食事の手を止めて、天井を見てから、分かりませんといって訊いた。

「つぶしたんだよ。会社は自分の手で。自分の特許を」大野には何を言っているのか分からなかった。怪訝な顔をして訊く。

「放棄したんですか。年金を払わずに」特許は維持するために、毎年、特許庁にお金を支払う。その支払いをやめれば、自動的に特許はつぶれるという訳だ。これを放棄という。

「違うよ。それじゃだめだ。それで、つぶれたって、会社にはこの技術で利益が出る。そうすれば、あの発明には価値があって、俺の取り分はあるってことになるだろう」源田が嫌味っぽくいう。

「初めから無価値だっていうんだよ。あの発明が」大野にはまだ分からなかった。

「進歩性って分かるかだろ。発明が簡単であってはいけないっていうやつ」大野はそれは知っている。

「あの、ダイシングテープの基本発明は簡単だっていうんだよ」源田の目は怒りに満ちてきた。

「笹川の差し金で、研究所のやつらが、寄ってたかって、文献を探しまわりやがった。そしたら、ロシアの古い文献、1950年くらいだったかな、にあったんだよ。日光を当てると、水分が飛んで、はがれるフィルムが。開示されていたんだよ。食品の包装かなんかにつかうやつらしいよ。ロシア語だから読めもしないけどな」苦々しく吐き捨てた。

「その文献をもとに、匿名とくめいで無効審判を請求したんだ。会社の名前を出さずに、どこの誰だか知らない弁理士の名前でね」

「匿名ですか。きたない」大野がつぶやく。

「ふん、だいたい誰がこそこそやっているかは分かってたけどな」源田がいう。

「でも当てる光も違うし、粘着剤の配合が違うでしょ。まるで」大野が少し声を張り上げた。

「紫外線は日光に含まれているっていうんだよ。粘着剤の配合は確かに違う。でも、そんな変更はこの分野の技術者にとって難しくないだろう。そういうわけだよ」源田が両手の掌を上にむけておどけた格好をする。

「大企業が総力を挙げてつぶしにかかるんだから、つぶれちまうよ。俺も精一杯反論したけど。お金もそうだが、発明は、なんだかんだいっても、自分が生み出した子供みたいなもんだからな。頑張ったよ。でも押し切られた」

「結局、あの発明は無価値、ゼロ円、てことだよ。ふん、ばからしい。あれで、さんざん儲けたくせに」

 そのあとも、源田は笹川について、技術を軽視する卑劣なやつだとひとしきりののしった。

* * *

 源田と大野は、セルフサービスのコーヒーを注ぎに席を立った。そして、注ぎ終わったコーヒーとミルク、砂糖、小さなプラスチック製のマドラーを皿に載せて席に戻った。

「それで、今回の生分解性プラスチックの発明でいくらくらいもらえるの。大野君は」源田がコーヒーにミルクと砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜながら訊いてきた。

「出願が完了したので十万円くらいは出るみたいです。これから、各国で特許になるごとに、最大で数十万円から百万円くらいは出ると思いますけど」大野はようやく食事を終えた。

「おいおい、それだけかよ」源田は鼻の前に手をやり、ないないという風に左右に揺らした。「この生分解性プレスチックは大化けするぞ。そうなったら、一千億くらいは優に売り上げるぜ」

「二田水さん、あ、知り合いの知財マンね、に訊いたら、発明の対価はだいたい売り上げの0.1%くらいらしいんだよ。裁判所の判断の積み重ねで。だから千分の一。とすると……一千億の線分の一だから一億円」

「君の取り分は一億円というわけだよ」大野はさすがに、目を大きく見開いた。

「でも、真正面から戦ったら勝てないよ。なんせ百戦錬磨ひゃくせんれんまの大企業だから。どんな手を使っても握りつぶしてくる。笹川はそういう男だ」源田は右手のこぶしを握り締める動作をして強調した。

「ただ、まだ当の生分解性プラスチックが売れてないからな。売れるまで待たないといけない。二十年後かな。もらえたとしても。大野君が、そう、五十五歳くらいか」

 源田がコーヒーをすすりながらいう。

「こっちに来れば、それを今、手にすることができる。君の実力次第で、一億円も夢じゃないよ。今、中国はそういうところなんだよ」

 大野の気持ちは大いに揺れていた。

 自分の仕事が金銭で正当に評価される。それが面白くない訳がない。それに加え、大野には、もうひとつ、このことを後押しする理由があった。子供のことである。むしろこちらが真の理由だ。

 大野には、四歳になる長男と、二歳になる次男がいた。かわいい盛りである。しかし、その長男に、発達障害の疑いがあるらしいのである。まだ、確定はしていない。もう少し年齢が上がってみないと診断がつかないらしいのだ。小学校に上がるくらいになって、周りの子と、学力や行動に差が出てくる。そんな形で判断ができるらしい。残酷な話である。しかし、大野にはそれを疑う理由が十分にあった。彼が長男と公園などで遊んでいると、その奇行が目立つのである。突然叫んだり、他の子に砂をなげたり。癇癪かんしゃくも日に日に目立ってきている。目をぱちぱちとしばたたかせたり、首をあの漫才師のように横にピクッと動かしたりする。

 さらに心に重くのしかかるのは、発達障害には遺伝的要因が多分にあるということである。大野に問題があるのか、妻の幸恵の方か、それともその組合せなのかは分からない。いずれにせよ、次男の方も発症してもおかしくないという。まだ、立ったばかりの幼児で何とも言えないが、ひどい夜泣きや、おもらしなど、妻の幸恵は周りの子との差に過度に敏感になっている。幸恵のことも心配でならない。先日も、次男が夜泣きした際に、大きく身体を上下に振り回して、床に打ち付け、大野があわてて止めにはいったのだ。そのときの妻の瞳は明らかに通常人のものではなかった。妻や息子達の将来を考えると少しでもお金を残しておきたいのである。

 場所は蘇州そしゅうだという。上海しゃんはいからほど近い近代的な工業地帯だと聞いている。大野の大学の同期も何人か赴任している。中国のなかでも、悪い場所ではない。最悪、妻が反対すれば、単身で行けばよい。どうせ今も研究室に缶詰で、ろくに彼らの住む社宅に帰れていない。似たようなものである。

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