第9話 審決
『審決
……
以上のとおり、請求人の主張する理由及び提出した証拠方法によっては、本件発明についての特許を無効とすることはできない。』
請求人とは早苗たちのことである。彼女たちは敗けた。日酸レジストの
審決にはさらに詳細な説明があり、それは十二ページにもおよんでいた。早苗は、これほどまでにくどくどと述べる必要があるのだろうとかと、腹立たしささえ覚えた。そこに記載された理由は、要するに、口頭審理のときに布藤が述べていたことである。その理屈が、もっともらしく、難しい言い回しを交えて書き直されていた。
「審判がこういう結果になったのは、もう仕方がありません。過ぎたことですから。反省すべき点を洗い出して次に備えたいと思います。事務所のほうでも、次にむけて、早速、準備を進めてください」日酸レジストの知財部員、
無効審判は敗けても、次に、『
「次回は、裁判所ですし、敗けるわけにはいきません。ですので、弁護士の先生にもお入りいただきたいと思います。
高橋、副島、四宮、早苗の四人が会議室で顔を合わせた。高橋は、KHI《ケイエイチアイ》総合法律事務所に在籍する弁護士である。そこは特許業界最大手の法律事務所である。弁護士だけで数十人は居る。弁理士にいたっては百人を超えている。高橋は、KHI事務所の若手のエースである。早苗も名前をよく知っている。論文に、書籍、それらを矢継ぎ早に発表している。その中身もさることながら、そこで引用し分析されている判決の数が尋常ではない。彼の力量は明白である。高橋は
* * *
「本審決の中で重要なのはですね、次のくだりなんですよ」高橋はさらりという。
①『冒認出願を理由として請求された特許無効審判において、その理由についての主張立証責任は、特許権者が負担すると解すべきである。』
②『もっとも、先に出願したという事実は、出願人が発明者であるとの事実を推認する重要な間接事実となる。特許権者の行うべき主張、立証の内容、程度は、冒認出願を疑わせる具体的な事情の内容及び無効審判請求人の主張立証活動の内容、程度がどのようなものかによって大きく左右される。』
早苗には難解だが、さも分かっているかのような顔をしておいた。ただし質問が来ないように、目を合わさないようにして黙っておいた。
四宮はそうはいかない。食らいついた。「といいますと、高橋先生どういことでしょうか」
弁護士は時間で料金をチャージする。この会議も例外ではない。すこしでも短時間で結論に近づけるよう、四宮も必至だ。
「裁判というのは天秤なんですよ。どちらが重いか」
「これは、特許庁の無効審判も同じです。天秤なんです」高橋は両手を交互に上げ下げして天秤の格好して見せた。
「ただ、ときにして、天秤が釣り合ってしまう、つまりどちらにも下がらないことがあるんです。それでも裁判官は、どちらかを勝たせなければならないんです」
「その勝敗を決めるために、どちらが敗けるかを決めてるんです。どちらが勝つかではなくて、どちらが敗けるか。なんだかネガティブなはなしですけどね。所詮、口喧嘩ですから。それをうまく終わらせたいということなんです」
早苗も四宮も、一応、分かった顔をつづけておいた。高橋はつづける。
「それで、今回は、特許出願人、つまり発明を盗んで出願した側が、確信の程度まで説明できないと敗け、といってます。確信というのは、疑いがはさめないほど、信ぴょう性があるということですね」
早苗が思わず口を開いた。
「ちょっと待ってください。とすると、今回は、布藤の方が証拠を出して、『確信』というやつを勝ち取らなければならなかったんですよね。でも布藤はなにも証拠なんてだしてないんですよ。というより、屁理屈といういか、こちらのいうことに難癖をつけてるだけで……」
ちょっと待って、という格好で高橋は右手の掌を早苗の鼻先のほうに向けた。
「そこからなんです。この判決の肝は。その理解のために、手書きで、①と②と、書いたんです」
「ここまでは、①」
「②では、そうは言えども、といって、切り返しているんです」
「結論からいうと、そうは言えども、やっぱり、審判請求人、つまり日酸レジストさんが立証責任を負う、といっているんです。厳しい言い方ですけど。御社の説明では『確信』が持てなかった。だから敗けにした、というわけです」
「どうして、そんことになるんですか」四宮が口をとがらせて質問する。
「うん、それがここに書いてあって、ちょっと難しいんですけど……」
「要するに、先方は明細書を書いて特許庁に出願したでしょって。そんな手間をかけたんだから、その人が真の発明者だって推定しますよ、っていってるんです。労をねぎらって、そっちの肩をまずは持ちますよ、というわけです。分かりますか?」
「えっ、発明を作った人ではなく、書いた人の肩を持つってことですか?」
「そうですね。それが推定する、ということです。それを覆すには、書いてない人、つまり日酸レジストさんが、証拠をそろえて、論理的な説明をして、裁判官にうまく説明してみせてよ、っていうんです」
「『確信』に至るような説得をしなさいよ。できなきゃ、敗けよ、っていうことです」
四宮はふう、といって凝りをほぐすように肩をすくめて、首を回した。
早苗は副島の視線が気になっていた。そんなことも知らなかったのか、という目で早苗をにらんでいたからだ。自分も知らなかったに違いがないのに。敗けは敗け。その責任は、無知な担当者、早苗にあるということだ。
* * *
「で、我々はどのようなことをすればよいのでしょうか」四宮が切れ長の目を大きく見開き高橋をみた。
「ええ、そこなんですけど、それはですね、これから相談していきましょう。御社がどのような情報をお持ちなのか。どの程度の調査をされるるおつもりがあるのか。技術内容をどのように把握されているのか。この点は、より詳しい技術者のご意見もお窺いしたいところです」
「この段階で何か言えることはないですか。具体的に」四宮があきらめずに食らいつく。
「そうですね。実を言いますと、冒認出願の裁判例は多くないんです。しかも、このように本格的なものとなると、今回がはじめてと言ってもいいです」
「と言いますと?」四宮が訊く。
「これまでに裁判所で争われた冒認出願は、だいたい身内同士のうちわ喧嘩なんです。例えば、長男がした発明を、次男が盗んだとか。発明をした二人が企業を立ち上げて、そのあと仲間割れしちゃったとか」
「参考になる先例がないということですか」四宮が落胆していう。
「そうですね」高橋が答える。
高橋は、両手の指を交互に差し込むように組み合わせて机に肘をついた。少し間をおいてつづける。
「そうではありますが、例えばですね、真の発明者を法廷に呼ぶことは考えられます。それは、いらっしゃるんですよね。御社の発明を盗まれたと言っているのですから」
「それは……、可能だと思います。完全に同じ発明とはいかないかもしれませんが、これに関連する技術を開発した技術者は弊社の者であることは、間違いありません」
「そうですか」高橋がさらに続ける。
「それとですね、先方の発明者を法廷に引きずり出すんですよ」
なるほど弁護士らしい発想である。吊るしあげるのである。
「証人尋問の請求です。私は専門でないのではっきりとは言えませんが、この発明はかなり高度な化学や半導体製造の知識を要するものだと思うんです。裁判官の前で、その内容をひとつひとつ証言させるんです。自分で開発したものでなければ、必ずぼろがでると思うんですが。このあたりはいかがですか。副島先生」高橋が副島と早苗の方を見る。
「うーん、そうですね。検討を要するところですね」
副島は短く言葉を切った。早苗の方は見なかったが、奥歯をかみしめているのか、こめかみのあたりの血管が浮き出ている。若い高橋にイニシアチブをとられているのが面白くないらしい。早苗は、何も言わず黙っていた。
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