第7話 技術人材ブローカー
太湖を臨むテラスの席には、初夏の日差しが降り注いでいた。時折、湖面から流れてくる風が
* * *
「二田水さん話が違うじゃないですか」源田はテーブルに肘をついて身を乗り出し、二田水に迫った。
「半年ほどこちらに居て、技術を伝えたら帰れると約束してくれましたよね。もうすでに一年近くになります」口角からは白い唾が飛んでいる。「もう教えることは何もない。彼らはダイシングテープを作れます。出荷も済ませました。残りの分を支払ってもらえませんか」
「源田さん」二田水はパスタを食べる手を止めて、源田を見た。「源田さんもお分かりだと思うのですが、我々が依頼されているのは技術の供与です」
「いいですか、このパスタは売れば終わりです。それにお金を払います。我々がすべきなのはそれではない。このパスタを作れるようにする。誰でも、安定して、おいしく。それは時間がかかることでもあります」
「だから、彼らは、もう製品を作れるんです。私ももう歳だ。慣れない土地で、単身、これ以上、耐えられないというのが本音ですよ」源田は悲しそうな目を向けた。
「製品?。製品というのは、微粒子をちりばめたフィルムのことですか」
源田は、口先をとがらせてうなずく。
「なら、それは我々のゴールではない。それはお分かりですよね。彼らは、生分解性の樹脂、あちらの技術を望んでるんです。中国に豊富に産生している松の樹脂、松脂を使ったもの」二田水はパスタをホークとスプーンでくるくると回した。
「これ以上は、私には無理だ……。どうしてできないのか分からないんですよ。微量なら反応が進行すこともあるんですが、量が増えるとたちまち反応が止まってしまう。正直に言います。降参です」源田はパスタにほとんど手を付けていない。
「源田さん。なにも源田さんひとりでやることはないんじゃないですか。こういうものは、協力が必要なのでは」
源田には二田水が何を言っているのか分からなかった。現地のエンジニアと議論したところで答えが出るはずもない。
「誰なら、できますか。この生分解性プラスチックの製造を」二田水はパスタを食べ終えて、ひざ元のナプキンで口をぬぐった。白いナプキンが赤く汚れた。
* * *
二年前に二田水が源田に持ちかけてきた条件はこうだ。源田のもつ技術を中国の新興企業の技術者に指導して欲しいという。報酬は、大東亜油脂に在籍していたときの二倍だ。半分は前払いで、半分は成功報酬となる。六十歳を前にした彼は大東亜油脂の出資会社である、有限会社坂口ビニル工業に転籍していた。研究の一線をはなれてしまっている。会社への未練や愛着も失せていた。そんなときに、二田水からのオファーがきたのである。中国の若者に技術の指導をしてほしいと。源田はその指導は半年間みっちりしたつもりだ。
しかし、二田水のオファーした契約にはオプションがあった。むしろそれこそが、二田水の本当の狙いであり、実は、源田もその誘惑に負けたのだ。新開発の技術を先方に提供すれば、特別報酬を支払うというものだ。それは、優に家が一軒建つほどの額である。源田には心当たりがあった。生分解性のプラスチックのことであろう。二田水がなぜその存在を知っていたのかは分からないが、ああいう人種はさまざまなルートで企業の秘密を手に入れるのだろうと想像した。二田水の名刺には、『株式会社インフォパテント テクニカルリサーチャー 二田水巧』とあった。
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そのとき源田は金が欲しかった。源田はそもそも倹約家で、洋服などもほとんど買ったことがない。プライベートでは十年前のカーキ色のすすけたジャケットをいまだに着ている。ゴルフもしない。パチンコや競馬などはもってのほかだ。盆栽が唯一の趣味だ。妻は五歳ほど年下で専業主婦。社内結婚である。子供は二人いて、二人とも独立している。長男は二十七歳で二児の父だ。長女の方は二十二歳で銀行員と先日結婚したばかり。裕福ではないが、みな健康で、それなりに幸せを感じていた。
源田が大東亜油脂から転籍され坂口ビニルに移動したとき、銀行から勧誘の電話があった。源田は大東亜油脂を早期退職する形での転籍だったため、退職金が出ていたのである。通常の退職金にかさ上げされ、二千万円以上の金が口座に振り込まれたのである。この運用の誘いである。
源田はこの手の財テクにはまったく興味がなかった。しかし、銀行員の話術はそれ越えて巧みであった。いまの銀行の金利は0.001%で、ないも同然である。多額の投資は気が引けるだろうから一部を投資してはどうかと提案された。源田は長年半導体畑に身を置いたてきたから、その分野の企業の動向には一応の知見がある。二部上場の電子メーカーに二百万円だけ投資してみた。結果はもくろみ通りで、大儲けはできなかったが、約十万円の利益がでた。その後も、儲ける目的ではないが、数件の株式を購入し、いくらかの利益を出した。そんなことを一年半つづけていたある日、銀行員から、信用取引の誘いがあった。手元の二千万円の金も当面手を付ける予定はない。これを元手に、銀行が信用で貸し付け、一億円を運用するというものである。さすがにこのときは慎重になったが、これまでやってきた手堅い投資によるかぎり大丈夫だという、勝算があった。東零電機株式会社の株である。日本最大手の電機メーカー。最も固い銘柄といえる。大きな利ザヤは期待できないが、同社の技術力は世界をリードしている。間違いのない投資先である。銀行に預けるお金の、置き方を変える程度の認識で投資を了承した。
ところが、日本中を驚かせたあの事件が起きたのである。東零電機の米国子会社が原子力事業に失敗し、一兆円近くの負債を出したのである。併せて同社の粉飾決算も露呈した。ありえないことが起きた。東零電機の屋台骨は大きくゆらいだ。源田は株主総会というものに初めて出席した。会場は怒号の嵐となった。壇上の執行役員はまるでロボットのように無表情にお辞儀を繰り返している。社長以下、執行役員は全員退任することが決議された。さらに株主を失望させたのは、負債の補填案である。電子機器部門の売却を決めたのである。
銀行の担当者の態度は一転した。勧誘するときに聞いた猫なで声はもはやない。無機質で容赦のない取り立て屋に変貌したのである。東零の株は半値にまで暴落し、源田のもとには三千万円近い負債が残った。一言でいってしまえば、源田にはこの種のギャンブルの免疫がなかったのだ。
* * *
当然、家内には何もはなしていない。言葉には出さないが、彼女は老後の海外旅行を楽しみにしていた。それどころか、このままでは家屋敷も取られてしまう。そのとき、この窮状を免れるチャンスが訪れた。やってはならないと思いつつ、研究所に入り込んで、サーバーに不正にアクセスし、技術情報をダウンロードしたのである。不安であったが、彼の認証コードはまだ生きていた。あとは、以前、毎日やっていた作業である。彼にとって造作もないことであった。
* * *
二田水はコーヒーの香りをゆっくりと楽しんだ後に、カップの縁を唇に運んだ。源田の前にもコーヒーが置かれていた。その黒い液体に白い角砂糖をポツンと落とした。マドラーでかき混ぜながら、誘惑に負けた自分を悔やんでいた。それでも、他にやりようが無かったのも事実だ。もう引き返すことはできない。
「源田さん」二田水がコーヒーをすすりながらいう。源田は我に返って二田水を見返した。
「どなたなら、この生分解性プラスチックを完成させて、現地のエンジニアに教えることができるのですか。心当たりはあるのでしょ。アレンジは私の方でいかようにでもしますよ」
アレンジ。なにがアレンジだ。俺と同じように人さらいのことだろうと、源田は思った。一方で、彼の脳裏には細身で色白の若者の姿が浮かんでいた。源田は大きく息を吸って、二田水の背後にある窓の外に視線を送った。太湖の湖面には、その汚染で黄ばんだ水の色とは対照的に、ちりばめたガラスのような光が反射していた。
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