第6話 生分解性プラスチック
案内されたのは第一会議室と書かれていたが、応接室というべきである。壁には景色とも動物ともとれる抽象的な図形が描かれた絵画が飾られている。その横には何を容れるのか不明な大きな壺。一通り室内を見回して、瀬奈人はその窓側にある革張りの椅子に腰を掛けた。その椅子には大きなひじ掛けがある。格好があまりにも偉そうになるので、肘を載せていいものか思案した。
彼はノックもなくドアを開け、足早に部屋に入ってきた。恰幅が良く、右手を顔の横に持ち上げて、手刀を切るように前後に動かした。お待たせしたというものの、悪びれた感じはない。瀬奈人の右手を力強く握ってきた。瀬奈人とは反対側の椅子に座った。油をたっぷりつけてオールバックにしている。街ではあまり見かけないダブルのスーツ。大東亜油脂の社長、笹川誠一である。。
笹川との名刺交換を終わると、うしろからがっちりとした中年の男と、若いが細身の男が現れた。いずれも作業着を着ており、胸には大東亜油脂のロゴが入っている。デニムに近い色のブルーの上下である。この手の作業着にしては品が良い。本件の担当者と思われた。瀬奈人は細身の男の顔にくぎ付けになった。目の下には、これこそが目のくまだ、という黒い斑紋が浮かんでいたからだ。まるでレッサーパンダのようだった。失礼だが目が離せなかった。二人の名刺には、『研究所長
「今日はご苦労だね。
「ええ、職務にまい進しております」伊丹とは瀬奈人の上司で、捜査第二課の課長だ。警視正である。瀬奈人にしてみれば雲の上の存在だ。どんな風に毎日を過ごしているのかは、実のところは知らない。笹川の大学の後輩だそうだ。今回の話しは彼を経由して、瀬奈人の特命係に降りてきた。
「本来はこちらからそっちに出向かなければならないのだけどね。若い警部補がいるから、工場見学も含めて出向かせるというので、甘えたよ」本音は、伊丹が来ず、瀬奈人だけをよこしたことに対する嫌味である。警視正である伊丹が特定の企業に出向くのは周りの目もありむずかしい。そのことは、笹川も承知しているであろう。
「相談したい件は二つある」笹川が「大野君」といって説明しろという意味をこめて彼を見た。
「えーっと、一件目はですね」蚊の鳴くような声だ。瀬奈人は耳を澄ませた。
「弊社の開発したダイシングテープに酷似する製品が、港で発見されました」大野は、二十センチメートル角ほどに切断した薄茶色のフィルムを瀬奈人に差し出した。これは、自社製品だという。
瀬奈人はこの技術を予習しておくために教栄特許綜合事務所に寄ってきたのである。当事者は往々にして隠し事をするので、このように外堀を埋めるのは捜査の基本である。
「発見したのは、四ツ
「四ツ橋電機さんでは、ゲーム機を主に生産しているのですが、同社の偽物が出回ってないか、定期的に港で輸入品を検査しているらしいんです。税関の協力を得て。そのときに、四ツ橋さん向けの積み荷に、ダイシングフィルムのロールで、片面に微粒子がちりばめられた製品があったらしんです」
そういって大野は一枚の書面を瀬奈人の前にすべらせた。そこには、『
「四ツ橋さんには、二カ月前に当社のダイシングテープをご紹介したばかりです。なので、その特徴を担当者が覚えていらしたらしいんです。それで、当社に連絡があったんです」
「その、偽物と思われる製品はここにはないんですか」
「ええ。所定の手続きをしないと、税関から外に出せないらしいんですよ。それで、どうしたらよいかと思いまして……」大野は話し終えると、疲れたように、肩で息をした。
「それですと、やはり所定の手続きをして、税関に水際での差止請求をしないとなりませんね。細かいことは、教栄特許綜合事務所が対応してくれると思いますよ。お願いするといいと思います」
「教栄さんはご存知ですよね」ええ、とつまらなそうに大野が答える。
「具体的には、まずこの発明の出願を特許にしなければなりませんよね。それが、第一です」
「その上で、協栄さんの担当者に税関に行ってもらって、検品をしてもらうことになると思います。それを経て、協栄さんに鑑定書を書いてもらうと良いのではないでしょうか。その偽物が本件の特許を侵害していると」
「それを添付して、輸入差止の申し立てを、横浜税関の税関長あてにすることになると思います」
既に大野は興味を失っているようである。焦点があっていない。この手の話しに興味がないことは明らかだ。上司の椎名は分かったのかという顔で大野をにらんでいる。
笹川も少しいらついて見えた。椎名は少し狼狽しながら大野をみて、次の議題に入るように促した。
* * *
「で、二件目なんですが」大野が話しはじめた。瀬奈人はこちらが本命だと伊丹から訊かされていた。
「わが社では、今般、生分解性のプラスチックを開発しました。これは、つまり、微生物により分解する樹脂です」大野はすこし元気をとりもどし、説明をつづけた。
「これはポリエステルなんです。PETボトルってありますよね。あれと同じ種類のプラスチックです。当社では、とりあえず、この生分解性プラスチックをダイシングテープの基材に利用することを考えてます」
「ただし、用途はそれに限られません。先ほども申しましたように、飲料ボトルへの利用も考えられます。というのも、この生分解性プラスチックは、ヘーズが低く、靭性(じんせい)があるんです」
「ヘーズ?」 「靭性?」瀬奈人が顔をしかめた。
「ああ、ヘーズが樹脂の濁りです。それが低いということは、透明ということです」
「靭性というのはそうですね、衝撃に強いんですよ。だから、ボトルにして運搬する際などに割れにくいんです」
「ですから、飲料のボトルに適しているんです」
これが、いかに良い技術かは、瀬奈人にもなんとなく想像がついた。わざわざ笹川が来ているのもそうだが、技術の付加価値のようなものを感じた。昨今、環境への配慮は日本社会の至上命題だ。国民全員が必死にPETボトルを回収して再利用している。それが、生分解性という環境に優しい素材になるのである。土に埋めてしまえば自然界にもどるのだ。大きな需要が見込めるはずである。
「コストはどうなんですか」瀬奈人はあえて厳しい質問をぶつけてみた。
「問題はそこなんです」大野はやっぱりその質問かというように嘆息した。
「現段階で詳しいコスト試算は難しいです。大量生産になれば、それなりに許容できる範囲にはなるのではないかと思いますが。少なくともこれまでの生分解性プラスチックなどよりは、ずっと安価にできるはずです」大野は、手元の水色のファイルをめくり、数値の羅列されているページを出し、上へ下へと視線を忙しく送りながらつづけた。
「この樹脂の原料は
「松脂って、あの、松の樹液?」
「松脂の構成成分はロジンという化合物なんです。正確には
「天然の材料である松脂を使用するので、原料コストも相応に抑えることができると考えています」大野は、これで良いですか、という表情で椎名と笹川をみた。
* * *
笹川が秘書の煎れたコーヒーに口をつけて、得意げな顔でいう。
「松脂はね、同社が起業以来扱ってるものなんだよ。コンニャク糊なんかと併せてね。この種の天然素材が、この時代になって改めて求められているんだよ」
「当社は原産者や輸入ルートも確保している。自社農園も世界各地に有している。だから、この松脂も安価かつ大量に安定して入手することができるんだよ」
「この生分解性プラスチックはね、わが社の未来の柱になると考えているだよ。だから、特許出願もぬかりなく進めるよう指示を出している」笹川は椎名と大野をみてさらに続ける。ただし、その眼光は鋭くなった。
「だがね、中国の企業が、このプラスチックを製造したという」
「そうだな」といって椎名をみた。
「先ほどの偽者の輸出会社、『永旺塑料公司』です」椎名が遅れないように急いで答えた。
「これは当社のほこる最先端技術の結集だよ。どんな企業かは知らないが、独自に開発したとは到底思えない。まして『外地』のやつらにできるはずもない」笹川が声を荒げる。『外地』とは中国のことだ。戦時中に日本の占領下にあった国をさす。今は訊くこともない、さげすんだ言い回しである。
「どうっやて、御社は、彼らがその技術を開発中だと知ったんですか。出所は」刑事らしい質問である。笹川は少し眉根を動かした。
「あまり詳しいことは言えないがね」といって椎名をみた。
椎名は、「先日、永旺塑料公司から、当社の中国支社に転職してきた技術者がいるんです。彼が持ってきた資料に、それを推認させる記載があったんです」と説明した。
「これは、ここだけの話でたのむよ。わかるよな」笹川が瀬奈人をにらむ。彼が釘を刺すのはその情報入手も不正の疑いが否めないからだ。
「御社の技術が永旺…公司ですか、そこに抜けたことに、何か心当たりはありますか」
笹川が横を向き、椎名と大野を見る。これを受け大野がぼそぼそと口を開く。
「弊社におりました技術者なのですが、
「彼は、微粒子を付したダイシングテープについても知ってます。まあ、あっちの方はローテクですから、誰でも見れば分かるようなものですけど」大野はさらにつづける。
「松脂由来の生分解性プラスチックについてはですね、彼は、詳細は知らないはずです。簡単な合成反応ではないので、彼に考案することは無理だと思います。ですが……」大野は眠いのか、疲れたように両目を右手でこすった。
「データベースにアクセスした形跡があるんですよ」
椎名が話を受け継いだ。こちらは、はきはきとした説明だ。「弊社ではですね、開発に関する重要度の高い営業秘密については、アクセスコードの認証を設けています。各社員に各ナンバーが割り当てられている。限られた人間が、限られた情報にのみアクセスできるようにされてるんです」笹川が話を引きついだ。
「源田があのデータにアクセスしたんだよ。間違いない」苦々しく言い捨てた。
椎名が恐縮そうにしてさらにつづけた。「源田の方は、三年前に関連子会社に転籍されています。だから、開発情報はもう彼には必要ないはずなんです。一方で、アクセス制限の変更の方は管理部門で遅れていて、彼に対する制限がなされていなかったみたいなんです」
「これは産業スパイになるんだろ。犯罪だろ。刑事さん」笹川は瀬奈人に向かって怒鳴った。
* * *
産業スパイなどというほどの大げさな話しかは別にして、確かに
瀬奈人は、警察が捜査に乗り出すには、何らかの信頼にたる証拠と、それに基づいて源田を告訴する必要があることを笹川に伝えた。情報漏洩は
* * *
早苗は瀬奈人に付き合ったため早く着きすぎていた。横浜事業所のロビーで、座って時間をつぶした。愛読している作者の推理小説を読んでいた。予定の時間である二時半になったので、ロビーの奥にある外来者用会議室に入った。、無機質な大広間がパーティションによって切り分けられ、小分けの空間が多数できている。早苗が案内された部屋には、タイヤのあるパイプ椅子が四脚ほどあった。会議室には、すでに大野真が座っていた。水色のファイルを見ながらページをゆっくりめくっていた。
「ああ、お久しぶりです」大野が起立せずに早苗に向かっていった。
「お久しぶりです。お仕事の方はいかがですか」目にくまのある彼の顔をみて、早苗は思わず彼の体の心配をしてあげたくなった。
「今日は、新規の発明の相談があります。プラスチックに関するものなんですが、弊社が新規に開発したものです」大野は続ける。できれば早く終わりたいという雰囲気だ。
「生分解性を有するものです。それを、松脂を原料に合成したんです」
松脂を構成するロジンの構造を早苗に見せた。早苗にはその意味するところが分かった。
「本題に入る前にお断りなのですが……」大野が申し訳なさそうだが、絶対に譲歩しないという語調で続けた。
「一週間後、来週に出願したいんですよ。しかも、国際特許出願」
これほどまでに短納期の出願は初めてである。大東亜油脂は通常一カ月くらいの検討および作業の期間を許容してくれる。それが一週間。尋常ではない。しかも、国際特許出願。これは、PCT《ピーシーティー》出願などと呼ばれる。この出願をすることで、全世界に出願したとみなされるのである。二年半後に必要な国にだけ翻訳文を提出することで、その国の手続きを進めることができるのである。通常は日本出願をして、これをもとにして国際特許出願をする。それを、すっとばしてのっけから国際特許出願をする。相当、重要であり、緊急の案件なのであろう。大野の目の下のくまもそのためだろうと想像した。
「それでは、発明のより詳細な説明をお伺いしてよろしいでしょうか……」
大野は瀬奈人にした説明を早苗にもう一度した。より、化学的に詳細な資料とともに。
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