第5話 警部補

 副島と早苗は、教栄特許綜合事務所の狭い会議室で、一人の男と名刺を交換していた。

 初夏だというのに、濃紺の地味なスーツ、グレーのネクタイを律儀りちぎに着用していた。ワイシャツはストライプのない無垢むくの白。名刺をみると、『警視庁 刑事局 捜査第二課 警部補 藤木瀬奈人ふじきせなと』と書かれている。刑事。二人が初めて出会う人種である。しかし、警部補の下には、『弁理士』と記載されている。弁理士?

「お忙しいところ、恐縮いたします」瀬奈人は促されて、パイプ椅子を引いて着席した。濃紺のスラックスは、今どきのシルエットでスリム。裾丈は短めで、座る動作で白いソックスが大きく現れた。

「早速ですが、要件に入りますと、大東亜油脂だいとうあゆしの件で少しお伺いたいことがありまして、参りました。お時間はかからないようにいたします」そういいながら、かばんから茶色い紙ファイルを取り出した。背は高いが、刑事というよりは、法律家という風貌ふうぼうだ。年齢は早苗より上であろうか。

「どのような件でしょうか。あまり警察の方が来られることはないもので……」副島は多少困惑した表情で答えた。

「御所でご担当されている出願案件で、ダイシングテープの件がありますよね。出願番号が、えーっと、特願P2013-015846です」紙ファイルをめくって願書のページに目をやり読み上げた。見覚えのある願書である。あの件だ。先日拒絶理由通知が来た件。ダイシングテープの表面の粘接着剤に微粒子を含ませた件である。

* * *

 このダイシングテープの件の中間処理を、早苗はすでに終えていた。補正書と意見書を提出した。補正の内容は二点である。クレームの末尾を『プラスチックテープ』から、『ダイシングテープ』に変更した。用途が明確になり、発明の効果との関係が密接になることを狙ったものである。もう一つは、粘接着剤に混ぜる微粒子の粒径を規定した。10μm~100μmとした。この数値範囲の記載は、しっかりと明細書に仕込んでいたものである。この辺に抜かりはない。

 さらに意見書で発明の効果を強調した。大東亜油脂の発明者から出願時に訊いていた内容である。つまり、このダイシングテープによる半導体チップの歩留まりの改善と、それによる生産性の向上である。補正書および意見書の案文については、クライアントの了承をとり、特許庁へと提出したのである。

* * *

「その件は、いま特許庁で審査中でして、結果を待っているところです」早苗が瀬奈人に答えた。

「そうですか。いつごろ結果が出そうですか」

「正確に予想することは難しいのですが、半年から一年くらいでしょうか。もちろん、そこでまた拒絶理由通知が出れば、さらに時間がかかります」拒絶理由通知は何度も来ることがある。多くの場合は二度で、一度目のものを『最初の拒絶理由』、二度目のものを『最後の拒絶理由』とよぶ。最後の拒絶理由になると補正できる内容が大幅に制限されるのである。出願人がのらりくらりして、審査がいつまでつづくことを防ぐ目的である。

 瀬奈人が難しい顔をして「もっと早く結論を出すことはできないのですか」と問う。

 早苗は、気分を害され、眉間みけんにしわを寄せた。

「出願時であれば、早期審査制度というのがあって、早く審査してもらえます。しかし出願人はそれを希望しませんでした。この段階では難しいです」早苗はきっぱりと答えた。

「そうですか」無表情に瀬奈人が答えた。

「それでは、この発明の位置づけを、事務所さんではどう、お考えですか」

「……どう、というと、どういうことですか。弊所は出願人ではないので、彼らの技術開発における位置づけというのは、ちょっと……」副島は早苗をみながらゆっくりと答えた。

「いや、そういう意味ではなくて」瀬奈人はすこし白い歯をみせて右手を左右に振った。「特許性が高いというか、進歩性が高いというか、そういう観点で」

 早苗が副島の方を見る。副島は発言しなさいという意味を含めて顎を突き出した。

「そうですね、シンプルな構造の発明で、そういう意味では特許にするのが難しい件ではあります。ただ、半導体製造では高い利益をもたらす可能性を秘めていますので、そこが理解されれば、十部に特許になるチャンスはあると思います」早苗は自信をこめて言い終わると、逆に聞いてみた。「藤木さんも弁理士でいらっしゃいますよね。であれば、そのあたりは、お詳しいかと……」

「いや、そうなんですが、私は出願手続きはしておりませんので。そのあたりの相場観は持ち合わせていないんですよ」瀬奈人は腕組みをしながら明細書を見下ろして続ける。「ただ、たしかにシンプルな発明ですよね。私でも、一応理解できました。セロハンテープみたいなもんですよね」

 早苗は気に障った。そこまでチープなものではないと反論したかったが、軽くうなずくだけにした。

「あの……、それと、大東亜油脂で生分解性のプラスチックを開発しているという話は、ご存知ですか」瀬奈人が訊く。

「それは、ちょっと」早苗は首を傾げた。副島もそれに従った。

「そうですか。では、私はこれで。お手間を取らせました」そういって瀬奈人がファイルと早苗たちの名刺を鞄にしまい、席を立とうとした。

 そのとき、副島があせったように手を伸ばして質問した。

「あの……、捜査二課というと知能犯罪なんかを扱う部門ですよね。それが、どうして弊所なんかに……」

「……」瀬奈人は一瞬躊躇した。

「大東亜油脂さんからもお話が来ると思いますので、お話ししますが。いや、実はですね、このプラスチックフィルムの侵害品が輸入されたらしいんですよ。中国から。それを、大東亜油脂の方が発見されて、税関で差し止めたいと言ってらっしゃるんです」

「ああ、関税法で定められている手続きですね」早苗が答えた。「水際みずぎわで差し止めるという。でも、それは特許権にならないとできないのでは……」

「そうなんですよ。ですから、早く特許にしたいようです。だから、それは、別途先方の担当者からお話しがあると思うのですよ」瀬奈人は子供のお使いほど簡単なことのように言う。この男は、その難しさを知らないのか、無神経なのか。

「それから、生分解性プラスチックの方は……」とまでいって瀬奈人は言葉を切った。

「これは、ちょっとここではお話しできないので、ご勘弁ください」

 瀬奈人はファイルを閉じて鞄にしまった。席を立ちながら、副島たちに礼を述べた。

「あの……、私はこれから大東亜油脂の横浜事業所に行くんですが。ここからだと、何線が速いですか。地下鉄ですか」すこし緩んだ表情になり瀬奈人が尋ねた。

 ここで地下鉄に乗るのではなく、新橋まで出てJRで横浜まで行く。そこから地下鉄を乗り継ぐのが速い。横浜駅で地下鉄のホームまではかなりの距離があり分かりにくい。説明しようとしたが、面倒になり、早苗が答えた。「一緒に行きますか」

「新規の発明相談なんですが、私もこれから横浜事業所に行くんですけど……」早苗は副島の方を見て、それでよいかという感じでうかがった。副島は、いいのではないか、という意味を込めて軽くうなづいた。

「それは助かるなあ。スマートホンがあってもビルに囲まれると道が分からないんですよね。場所を知らないので、ちょっと心配していたんです」瀬奈人は笑いながら答えた。

 早苗は黒の地味なパンツスーツで来たことを少し後悔した。今年流行している、大きなひだのあるスカートを買ったばかりであったからだ。今日、おろせばよかった。

* * *

 瀬奈人は『牛丼・並み』と書いたチケットをカウンターに二枚置いた。日本語ができるとは見えない店員が、無言でそのチケットを奪い去っていった。

 早苗と瀬奈人は新橋駅に向かって歩いていた。昼食を取ってから向かおうという話しになったのだが、瀬奈人のアポイントは一時半であった。あと、一時間ちょっとしかない。しかも、大東亜油脂の社長との面談だという。遅れる訳にはいかない。そこで、ちょうど目に入った牛丼屋に入ったというわけである。

 早苗は椅子に腰をかけて鞄を足元に置いた。彼女は牛丼屋に椅子があることを初めて知った。立ち食いだと思っていたからだ。早苗はこの鞄も気にいらなかった。書類とノートパソコンを持ち歩く必要のある彼女のバッグは、男性用のショルダーバッグである。できるだけ、女性用に見える丸みのあるデザインのものを選んだが、それでもこんな大きなバッグを持ち歩いている女性を街でみかけたことがない。小さなハンドバッグを小脇にかかえて通うOLがうらやましくてならなかった。

 牛丼屋の椅子は固定された丸椅子である。パンツスーツで良かったと思いなおした。早苗は、食事を待つ間の場つなぎに何か話題を切り出さなくては、と思いあれこれ思案していた。すると、「はい、並盛」と言って二杯の牛丼が無造作むぞうさに置かれた。その後、間髪を入れずに、味噌汁が出された。動きは早いが雑で、味噌汁は少しこぼれていた。店員はそれを気にするそぶりもなく去っていった。ここまで、注文してから二分と経っていない。場つなぎの話題など必要なかった。

 瀬奈人は牛丼を勢いよく掻き込んだ。まるで、飲んでいるようだった。噛む動作をしているのか疑わしい。

「どうしたんです。食べないんですか」

 早苗はあっけに取られていた。瀬奈人に遅れないように牛丼を食べ始める。人生でこれほど速くものを飲み込んだことはなかった。むせかえる速さで肉と米を喉の奥に流し込んだ。それでも、瀬奈人の三倍以上は時間を要してしまった。店を出た二人は新橋駅へと急いだ。烏森からすもり神社の方からは鳥居をくぐりぬけて深緑の香りが流れてきた。夏の訪れを感じさせた。

 京浜東北線は昼間でも座席が埋まっており座ることはできなかった。早苗と瀬奈人は吊革につかまって電車に揺られていた。瀬奈人は無口だった。

「あの……」早苗が切り出した。瀬奈人が早苗を見下ろした。

「弁理士さんなんですよね」早苗が質問した。

「あっ、ええ。まだ、三年目なんですけど」瀬奈人が答えた。少しはにかんだ。

「なんで、資格を取ったのかってことですよね。よく聞かれます」

「もとは、捜査一課の科学捜査係にいたんですよ。俗にいう科捜研。あの、指紋とか血液、DNAなんかを鑑定するところ。人気アイドルのドラマで有名になったんで、ご存知じゃないですか」

「ええ。あのドラマの。なんとなくは知ってます」

「うん。でも、実際は、あんなに綺麗ではないんですよ。死体はほとんどが腐乱がひどくて、悪臭がすごいんです。その日は食事が喉を通らないんですよ」

「それに……。仕事が地味なんですよ。暗い分析室にこもって試験ばかりをしていました。たまに外へ出れても、徹夜でどぶさらいをさせられたりとか。ちょっと耐えられなくなっちゃって」

「それで弁理士……」

「ええ。なんとか、もう少し事件に直接かかわりたくて。捜査らしいことをしたかったんですよ。手ごたえがあるっていうか、やりがいがあるっていうか」

「それで二課への転籍を希望したんですよ」

「二課?」

「ああ、刑事部の捜査第二課のことです。所長さんが言っていたとおり、一課が殺人事件で、二課が知能犯などを扱うんですよ。メインはIT犯罪なんかですけど。僕はその特命事項係。通称『特命係』です。どこにも属さない特殊な事件を扱います。なかには産業スパイなんかもあります」

「へえ、確かに刺激的でやりがいがありそうですね」早苗は好奇の目を向けた。

「うん。そのはずだったんですけど……。実際配属されてみると、鞄なんかの偽ブランドとか、ゲーム機やスマホなんかの粗悪品の摘発ばかりなんですよね。被疑者は、チンピラや、外国人ブローカーなんかなんですよね。とても知能的とはいえなくて……」

 現実はそんなもんなのだろうと早苗も思った。

「なので、今回、本格的な技術案件は初めてなんですよ」

「ただ、対象の技術が化学でしょ」

「僕は、幾何光学が専攻だったんですよ。ヒカリガクの光学ね」

「へえ、すごいですね。物理のなかでも、特に難しい分野ですよね。微分・偏微分とか。∇(ナブラ)でしたっけ。なんか呪文みたいですよね。ああいうのが理解できるのは、ほんとにすごいと思います。尊敬しちゃいますよ」早苗が吐息しながら答えた。

「いやあ、僕にしてみれば、亀の甲。ああいう化学式が読めるほうがずっとすごいと思いますよ」

 二人は話しながらも目は合わさず流れる車窓の外を眺めていた。電車は川崎を発車していた。

* * *

「土井さんはどうして弁理士になられたんですか」瀬奈人が逆に問いかけた。

「どうして……」

「どうしてと言われると困ってしまうけど、父は、女が働くこと自体、気に入らないんです。今でもそう。それで、大学は出たんですが就職しづらくて。大学院に進んだんです」早苗は、髪の先端をくるくると回した。

「父は、大学院に進学することさえ反対だったんですけど」

「それで、そのあと博士課程にも進みたかったんだけど、さすがにそれはハードルが高くて。博士論文を仕上げる自信がなかったんです」

「仕送りも打ち切られてるし。実家から遠い大学に居たもんで、それ以上、つづけられなくて……」

「企業に入って研究に従事することも考えたんですけど……。大学のときに特許明細書を作成する機会をがあったんです。それが思いのほか、楽しかったんですね。そのあとも、教授から論文の作成をまかされるようになって。自分は、試験管を振るより、物書きに向いているのかなと思って。よく考えたら、都合よく使われてただけなんでしょうけど」

「ふーん。なんかわかる気がするな。僕なんか、文書を書くのはあまりすきじゃなくてさ。庁内の報告書もうっとうしくて仕方がない。きっと、事務所仕事は耐えられそうにないな。法律はきらいじゃないんですよ、それでも。だから、刑事になったんだけどね」

 瀬奈人は早苗を見てさらにつづけた。「すごいよね、尊敬するよ。あんな難しい日本語の文書を作って。あの、クレームってやつ。あれなんて、ほとんど外国の言葉みたいだよ」

 早苗は半分以上、嫌味だと受け取った。手あかのべっとりついた特許書面の難解さ。早苗自身、いまだに抵抗感がある。

「確かにね。実務家の慣習の積み重ねと、裁判の歴史を経て、いろんな言葉や表現の縛りができてしまってるんですよ。でも、最近では、できるだけ平易に書こうという人も出てきてます。今後は、もっと身近になるかもしれません」早苗は、本当にそうかな、と自問しながらいった。

 そのあとは、話題のドラマの話で時間をつないだ。京浜東北線は、次の駅が横浜であることを告げていた。

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