第3話 無効審判

 ゴールデンウイークが明けて間もなく、まだ休暇の余韻が残るなか、早苗と三枝さえぐさは副島の所長室に呼ばれた。三枝俊介は入所して二年目の新人である。目下、弁理士試験の勉強中である。大卒で大学院は出ていない。つまり、技術科目の免除がないので、もう少し時間がかかるように思われた。

 所長室では、副島が難しい顔をしてA4の書面に目を向けていた。副島は早苗を見て、少し躊躇ちゅうちょするように話し始めた。

「君達に担当してもらいたい件があるのだが……」と言って、三枚つづりのe-メールのプリントアウトを早苗に手渡した。早苗がそれを胸の前に留めると、三枝がそばに来てそれをのぞき込む。口臭が漂ってくる気がして、少し顔をよけた。

 そのメールは、当事務所のクライアントである『日酸にっさんレジスト株式会社』からのものである。この会社は『ニチレジ』などと社内でも社外でも略称で呼ばれている。そこには、次のような記載があった。


『無効審判請求のお願い

 背景 時下、ますますご清栄のこと、およろこび申し上げます。

 さて、当社、知的財産部では日頃より当社の技術開発に支障のある技術が特許となっていないかを調査しております。その調査を通じ、今般、当社の技術と抵触する可能性のある特許が発見されました。特許番号P2639846号です。本件の特許請求の範囲の記載は別紙のとおりです。

 要約しますと、本件発明は、『EUVイーユーブイ用のポジ型のレジスト』を発明の対象としております。このレジストの物性を規定しています。具体的には、レジスト樹脂の硬化前の『粘度』と、『ガラス転移点』を規定したものです。

 本件発明は、同社が独自に開発を進めている最新技術に極めて酷似しております。同技術は一切社外には開示しておらず、冒認ぼうにん出願である可能性が高いものと考えております。

 つきましては、冒認出願を根拠として無効審判の請求のご請求をお願い申し上げます。                              敬具』


 早苗達が読み終わるのを待って、副島が口を開いた。

「無効審判はわかるよね。特許をつぶす手続きね」副島は三枝さえぐさを意識してか、基本的なことを含めて、簡単な言葉で説明した。

「発明が盗まれた。そう言ってるよな。これを、『冒認ぼうにん』と呼ぶのは知っているか」

 三枝がうなずく。

「私もなぜ、冒認と呼ぶのかは知らない。昔、戦国時代とかだな。そんな時代に、姓を偽って、主君に取り入ろうとした。そんな行為を冒姓ぼうせいとか冒名ぼうめいとかいったらしい。「冒」はオカスと読む。犯すと同じような意味と思うけど、知ってるのにあえて暴挙に出る、みたいな意味らしい。危険をオカスとかだな。それが、なぜ『冒認』になったのか、それで、なぜ発明を盗むことを意味するのかは、ちょっと知らないが……」早苗は副島が豆知識をひけらかしたいのだと思ってややあきれたが、黙って訊いていた。

「私もね、冒認出願を扱うのは、長年この仕事をしてるけど初めてだよ。相談は時折あるけどな。まあ、そういう訳でかなり難しい対応になると思う。だから、私も、監督という形で検討に加えてもらうから、よろしく」副島が入ってくると、何かと反対の意見を言ってくるので、早苗としては少し嫌気いやけがした。

「主担当は、土井どい君に頼むけどいいかな」

「土井君は、レジストは得意だよね。昔、やってたから。入所したころ」

「ええ。日レジさんの技術は一応把握しています。今も中間はやってますので」

 中間とは、拒絶理由通知への対応のことである。

「それじゃ、三枝君は土井君からよく説明を聞いて、バックアップしてくれるかな。君にとっても、きっと代えがたい経験になるはずだから。一世一代の大チャンスかもしれないよ」少々大げさすぎると苦笑しそうだったが、早苗は口元が動かないように気を付けて訊いているだけにした。

* * *

「すんません。それじゃ、ちょっと、説明、もらってもいいっすか」三枝の言葉遣い。学生気分がまだ抜けていないのだろう。三枝は早苗と同じくらいの背丈。小柄でやや小太り。誰に似ているというのも難しい無個性な顔だが、すこし脂ぎっている。中年になったときのギラギラした感じが既に想像できる。背広も心なしかいつもくたびれていた。ただし、黒縁メガネの奥の、くっきりとした二重だけは早苗も羨んでいる。副島にはうまくびていて、嫌われてはいないようである。六人も入ればいっぱいの会議室では、二人でいるだけで息が詰まる。

「うん、じゃあ、簡単に概要だけ説明するから、詳しくは明細書を読んでね。私も、明細書を読んでるわけじゃないから、違うところがあるかもしれないけど、それはその前提で聞いてね」

「えーと、まず、フォトレジストって知ってるかな」

「あれですよね。あれ。樹脂。半導体素子を作るときに、ウエハの上に塗るやつ。それで、光を当てて固める。そのあと、現像液をかけて溶かす」三枝がつまりながらでも、なんとか答える。

「うんそう」早苗が答える。「だいたい、そんなもん。そのときにね、マスクを使って、そこを通して光を当てるのよ。そのマスクには、回路に対応した溝が切り抜かれている。だから、切り抜かれたところだけ、レジストに光が当たるの。まあ、簡単に言えば、影絵よね。わかる?」

「問題ないっす」三枝が軽く答える。

「それでね、ポジ型のレジストは、光が当たったところだけ溶けるの」

「一応付け加えておくとね、「ポジ型」が光が当たって溶ける。「ネガ型」が光が当たって固まるの。昔の写真でネガ・ポジってあったでしょ。そこからきているらしいの。どちらが難しいと思う。ポジとネガ?」

「そうっすね……、ポジの方が難しいかな。光で溶けやすくするんでしょ。光で硬化するのは自然な気がすんですけど」

「そう。ポジの方が難しいの。だけど、その方が細かい描写が可能なのよ。だから、日レジさんは、その難しい技術に強いのよ」

「OKっす」

「レジストの一部を溶かした後は、イオンプラズマなんかを当てるのよ。そうすると、溶けたところだけ、ウエハの表面が露出してるでしょ。そこが削れるの。そんな風にして、ウエハの上に回路を形成していくのよ。版画で絵を描くみたいな感じね」

「俺、化学は化学なんすけど、分析化学を専攻したんすよ。あの、ほら、水質汚染とか、食品の不純物なんかを検出するやつ。高分子とかレジストとかはちょっと……」少々、三枝には難しくなってきたようである。

「ごめんね。説明がうまくなくて。詳しくは専門書をみてほしいんだけど……。うちの事務所の書棚にもいくつかあるから」

* * *

「それで、当てる光なんだけど。『EUV』っていうのを使うのよ」

「…………」三枝はすでに降参ぎみである。事務所では、分析化学の発明を担当している。分析装置や、シリンジ、つまり小さな注射器など、機械的な発明が主体である。この手の技術に疎いのも無理はない。副島は、三枝が弁理士試験に合格すれば、このあたりの大口化学メーカーの発明を任せようと考えているのかもしれない。この件がその手始めということだろう。

「EUVっていうのは、Extreme UltraVioletの略。極端・紫外線とでも訳すべきかな。紫外線でも波長の短い光のこと」

「この光を使うと、普通の紫外線より、細かい描画ができるのよ。光が波で説明されることは知ってるでしょ。その波長が短いほど、細かい線が書けるってこと」

「その理由は……あとは、本を読んでおいて」早苗もこのあたりまで来ると知識がかなりあやしくなる。

 早苗は、肩の凝りをほぐすように首を一回りさせて、一拍置いた。

「この発明は、その用途に特に適したポジレジストってこと」。

「ここからが、この発明の肝よ。レジストは通常、高分子化合物、ポリマーで構成されているのね。それと、いろんな化合物や溶剤を適宜混ぜて作るのよ。この発明はその成分を規定しているのではないの」

「レジストはネトネトした樹脂だけど、その物性で規定しているのよ。粘度は樹脂のやわらかさ。ガラス転移点は融ける温度」

「たまにありますよね。そういうの。数値で規定した発明でしょ。パラメータ発明っていいますよね」三枝がやや得意げにいった。

「そうね。いろいろ理由はあるけど、それ以外に規定のしようがないとか、内容成分はばらしたくないとか」

「場合によっては、内容成分はすでに特許になってるけど、さらにこうした物性で特許にしちゃうとか。特許の存続期間は出願から二十年だから、こうして後で違う形で出願して特許になれば、特許の延命になるわよね。少しずるいけど」早苗が終わりにしようという意思をこめて、語尾をゆっくりと強調した。

「了解っす」三枝が敬礼をするように左手を額に当てた。「あとは、明細書を読んで学んでみます。でも、今回は冒認ですよね。発明泥棒。どう攻めたらいいんすかね」三枝が少し挑戦的な目で、黒縁の眼鏡越しに早苗を見る。

 早苗は質問を無視して書類をまとめた。

「ふーっ」と、二人同時に溜息をもらして、会議室を出た。

* * *

 早苗はデスクに戻って、願書の全文を打ち出した。

 この発明が日レジから盗まれたのか……。

 盗んだのはと……発明者が『木邑耕四郎きむらこうしろう』。その文字を指でなぞった。何者だろうか。確かに、こんな発明を個人で発明できるかは怪しい。EUV露光装置。数百万円から下手をすれば数千万円の単位でコストがかかる。そんな設備をそろえた実験を個人でできるはずがない。出願人の『株式会社 木邑きむらアラムナイ』も木邑氏の個人経営であろう。日酸レジストがいぶかしがるのも無理からぬことである。

 早苗の胸では、なかなか経験できない貴重な案件を担当できるという期待と、どうしてよいか途方に暮れる困惑とが入り混じっていた。

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