第2話 拒絶理由通知

 早苗さなえはデスクの前で小さくため息をついた。

 書類の山、散らばった文房具、眠けの残る目でそれらを見下ろした。

 五階にあるオフィスの窓からは、日比谷公園が一望できる。桜が満開を迎えている。その一面のピンクとは対象的に、机上には、白い紙に黒い文字が埋められた書面が殺伐として散らばっている。昨晩は、二十二時頃までここにいたはずだ。片付けもせずに帰宅したことを思いだしていた。

 もう一度ため息をつきそうになるのをこらえて、その脇のトレーに目をやる。その山の上には、特許庁から届いた『拒絶理由通知』が置かれていた。ありがたくない書面だ。しかし、こういった煩わしい書面に対応して手数料を稼ぐ。これが、弁理士である早苗の仕事である。

 かばんをデスクの脇のいつもの位置におく。椅子を引いて座る。いつものように、使い込んだ筆箱を出し、左手の親指と人差し指に指サックをつける。書類をめくりなが、気を取り直して内容を斜めに読む。そこには進歩性違反との記載がある。要するに、発明が簡単すぎて特許にできないというのである。最も頻繁にある拒絶理由である。

* * *

「ああ、それね。昨日届いていたんだよ」

 副島晴夫そえじまはるおがコーヒーを片手に近づいてきた。当事務所、『教栄特許綜合事務所きょうえいとっきょそうごうじむしょ』の所長である。

「クライアントには送付済みだから」

「熟読はしてないけど……結局さ、新しいんだとは思うんだよね。でも、発明の効果が大したもんじゃない。そう言ってるよね」ふんと、鼻で息を一息ついて続ける。

「フィルムの接着剤に微粒子を混ぜた……」

「……これ、どこが新しいんだっけ」老眼鏡の上の方から覗くように早苗を見る。

「どうしてこんな案件、受けちゃったんだっけ。覚えてないなあ……」

 こんな目新しくもない発明をなんで受けたんだ。仕事の仕方が悪いのではないか。そんな不満がありありと伝わる。

 副島は温厚ではあるが、なにかにつけ嫌味が混じる。この業界の人間に多い粘着質な性格だ。それでも、朝一番なので気を遣ったつもりなのだろう。いつもよりは嫌味が弱い。五十八歳のわりには若くみえる。ゴルフが趣味でほどよく日焼けしている。腕前はかなりのものらしい。髪は黒く、しっかりと全体にある。もみあげのあたりに不自然にまとまった白髪がまじるのは、毛染めの際に敢えて残しているのだろう。

* * *

「半導体製造工程で使用する粘着フィルムなんですよ」一拍おいて早苗が答えた。

「プラスチックフィルムに『粘接着剤ねんせっちゃくざい』を塗布したものです」

?」副島が訊く。

「えーっと、この分野では、『接着剤』がくっついたら剥がれないもの。『粘着剤』がくっついて剥がせるものと定義されてます」早苗が答える。

「で、『粘接着剤』は造語です。最初、接着剤みたいに強くくっつくんです。そのあと、紫外線をあてると、剥がれやすくなる。そういうものをそう呼ぶんです」

「その『粘接着剤』に微粒子をちりばめて、含有させたんです」

「ただ……、確かにほかの業界もみれば、似たようなフィルムはたくさんあるわけで……」

 早苗は肩まである髪の先を人差し指でくるくるっと巻きながら答える。あまり面白くないときにする癖だ。すみません、という言葉は呑み込んだ。

「これで、半導体チップが着いたフィルムの剥離性を高めたらしいんですよ」

「現場ではすごい歩留まりの改善ができたみたいで、かなり期待されているらしいんです」。歩留ぶどまりは不良率のこと。「ですが、たしかに単純というか、ローテクというか……」

 副島は訊いているのか、いないのか、右手で左肩を揉んで所長室に向かいながらいう。

「まあ、そういうのを特許にしてなんぼだからね。よく発明者の意見を聞いて、構造的な特徴を足すとか、物性で限定するとかさ、補正でも考えてよ」そういい捨てると、ばたんと音をたててドアを閉じ、所長室に消えた。

 補正とは、発明の内容を足したり、変更したりする手続きである。これは、明細書と呼ばれる出願書面に記載された範囲ですることができる。

* * *

 早苗は、発明者に聞いてもあまり期待できないと分かっていた。

 発明者は、出願の時にはかなり協力的である。自分が手塩にかけた発明が生まれる瞬間である。誰でも親身しんみになる。一方、その後の手続きにはあまり協力的ではない。理由は簡単である。発明者は、すでに次の開発に着手しているからである。ほとんどの件において何年もの時間が経過している。昔の話しで興味が薄れているということだ。多くの場合、早苗自身が補正の内容と、審査官の説得材料を探すしかない。軽いめまいを覚えながら、早苗は、コーヒーを注ぎに狭いデスクの間を縫って給湯室に向かった。

* * *

 早苗がこの出願を提出したのは、四年前の2013年、二十五歳のときである。弁理士試験に合格する前のことである。

 2002年に弁理士法が改正され、弁理士試験は大幅に簡易化された。それまでは、平均で五年から十年かかると言われていた、超難関試験であった。それが、今は、早い者では一年で合格するほどである。条約が論文試験からなくなった。さらに、大学院を出ていると技術科目が免除となる。技術科目は極めて難度が高く、国立大学の大学院の入試試験よりも難しいとされていた。この免除は試験のハードルを大いに下げていた。

 早苗も大学院を出ていたのでこの免除を受けることができた。卒業以来近寄ったこともない大学に足を運び、教授に頭を下げ免除申請書に署名をしてもらった。菓子折りひとつで済ませたのにはさすがに後ろめたさを感じている。それもあって、同窓会にはそれから毎年顔を出している。現金なものだと自分でも思う。

 本件の明細書を書いたのは特許事務所に入って間もなく。正直なところ、その記載ぶりはめられない。赤面するほどである。それでも、丁寧ていねいには書いている。内容に文句はない。不出来なところはクライアントに悟られてはならない。少々もたついても、しっかり特許にするしかない。

* * * *

 クライアントである『大東亜油脂だいとうあゆし』は、戦時中にコンニャク糊や松脂まつやにの製造、加工で財をなした一部上場企業である。

 大東亜油脂の前身は和紙の加工業である。コンニャク糊や松脂を使って和紙の表面の艶出しや耐水加工を行っていた。木彫りのニス塗りなどもしていた。いわゆる小さな町工場である。それが、戦時中、風船爆弾の表面加工を命じられる。特殊な紙の表面に、雨をはじき、気密性と強度を高めるための塗工を行った。大量の糊が消費された。その利益は小さくない。社名を変え上場企業とした。そんなご時世だったものだから、『大東亜だいとうあ』などという今ではややきな臭い社名がつけられた。

 戦後も紙製品の表面塗装や、家具の表面のニス塗装などで堅調けんちょうな受注を得た。経済成長の波に乗り、売り上げを伸ばしていった。

 しかし、石油を原料とする合成樹脂が開発されると、これにとって代わり、次第にその需要は細っていった。

 経営は創業者、笹川吉誠ささがわよしまさからその長男、笹川誠一ささがわせいいちへと移った。新社長の開拓意欲は旺盛で、それまでに培った樹脂の技術を応用し、合成樹脂を用いた新製品の開発に力を入れていた。新社長の発案で、貼って・剥がせるプラスチックフィルムを考案した。後日、雑誌のインタビューで答えた内容によると、ポストイットにヒントを得たらしい。具体的には、自社の合成ワニスをベースにした粘接着剤を各種のプラスチックフィルムに塗布した製品である。数センチメートルの幅の汎用的なものから、工業用途をめざした数メートル幅の大きな製品も用意した。しかし、貼ってから、時間がたって、わざわざ剥がす。そんな用途はプラスチックフィルムには求められることはなかった。その後もヒット商品を世に出すことができず、次第に大東亜油脂の経営は傾いていった。

* * * *

 そんな折、神風が吹いた。

 あの米国、アイテックス社からの問合せが舞い込んだ。アイテックス・インサイドの標語で広く知られ、世界中に流通するパソコンのほとんどに同社製のCPUが搭載されている。当時、大東亜油脂では、外国企業との取引はほとんどなかった。インターネットやe-メールもない時代である。たまたま取引のある商社の購買部長が、アイテックスの研究者と懇意であった。その酒の席で、あの貼ってはがせるプラスチックフィルムの話をしたそうである。先方はこれに興味があるという。それも、メートル幅の大型のもの。

 CPUを構成する半導体チップは、数十センチメートル径のウエハと言われるシリコン板から製造する。薄い円盤状の部材である。このウエハに所望の加工を施して、全体に回路配線を描画する。このウエハを数ミリメートルから数センチ―メートルに小さく切り分けて、半導体チップができる。このとき、加工のために、シリコンウエハを製造装置に固着する必要がある。そして、加工後には、切り分けた小さな半導体チップを剥がし、取り上げる。。まさにそのニーズに合致した。フィルムの上面にウエハを強く貼る。固定させて加工を行う。その後、紫外線をあてて粘着力を落とす。そしてフィルムからチップを剥がすのである。このフィルム製品はダイシングテープと呼ばれた。

 アイテックスへの納入が決まったあとは、とんとん拍子であった。日本の電子メーカーをはじめ、半導体製造の各メーカーから受注が殺到さっとうした。横浜にある本社工場では手狭になり、秋田、栃木、静岡、下関、熊本に工場を建設した。今では、アメリカ、ドイツ、中国、韓国、台湾にも工場を有する。現地の各電子メーカーに対応するためである。

 最近では、ダイシングテープについては、大手樹脂製造業者が次々に参入してきており、シェアは下がっている。それでも依然高い販売量を誇っている。スマートホン向けの旺盛おうせいな需要に追いつくのがやっとなほどである。

 近年、ますます半導体チップは小さく薄くなっている。安定して接着しながらも、すんなり剥がれるデリケートな加工が求められている。本発明の微粒子を配したダイシングテープは、こうしたニーズに適合したのである。

 しかし、表面に微粒子を配したフィルムは世の中にごまんとある。例えば、液晶表示装置の外層フィルムである。これは表面に微粒子が樹脂で固定され凹凸が付与されている。これにより、画面の反射を防ぎ、ぎらつきや、ライトの映り込みなどを防ぐことができる。フィルムの構造的に、まったく同じなのである。

* * *

 本発明で…クレーム…されているのは、プラスチックフィルムに微粒子を含む粘接着剤を塗布したことだけ。拒絶の理由は、そんなことは簡単なことである、というわけである。

 クレームとは日本語で「特許請求の範囲」とよばれる。

 特許出願の書類は、「願書」、「明細書」、「特許請求の範囲」、「要約書」の四つの書面で構成されている。「願書」には出願人や発明者の名前・住所などを記載する。「明細書」には、発明の詳しい説明を記載する。ときに百ページ以上にも及ぶことがある。実験の詳しい手順や、その結果などを記載している。一方、「特許請求の範囲」では、発明を端的に記載する。「要約書」は、発明の簡単な説明である。

 「特許請求の範囲」が出願書面の心臓部である。この記載で権利の範囲が決まる。そこで規定された技術を独占できるのである。ところが、この書き方が、なかなか技巧的なのだ。どんなに長くても、一文で書く。まるで、字数制限のない俳句のようなもの。そして体言止めとする。名詞で一文を終わるのである。今回の場合は、「……を特徴とするプラスチックテープ」である。少なくとも学校で習う文法形式とはいいがたい。場合により、敢えてわかりにくく書き、ごまかす。ライバル企業を欺くためである。それでいて隙のない記載とする。そんな独特な言葉のテクニックを弁理士は、日々、磨いている。早苗もそんな一人である。

* * *

 本件発明は、言ってみれば、コロンブスの玉子。

 もともとは、大東亜油脂がフィルムを納入している電子メーカー、アイケン電子工業の要望で開発に着手した。アイケン電子は愛知県にある中堅メーカーで、これまでにないチップの薄型化を目指していた。用途は聞かされていなかったが、およそスマートホン向けである。韓国の大手メーカーでは、二年間で機器本体の厚さを半分にすることを目論んでいる。そのしわ寄せが下請けメーカーであるアイケン電子に回ってきた形だ。今では、日本メーカーも韓国企業の下請けである。二十年前は、韓国は、日本の弟分と呼ばれていた。その年月で立場は大きく変わってしまった。

 チップが薄くなると、フィルムから剥離する際に、どうしても破損してしまうものが出てしまう。ひどいときには、半数以上が不良品になってしまっていた。そこで、紫外線照射後の粘着力を弱くしたのだが、それでは位置ずれがおきて、なおさら不具合が大きくなってしまった。

 そこで、大東亜油脂の若手研究員である大野真おおのまことは、フィルムの粘接着剤に微粒子を含有させることを考案した。大きさの異なる微粒子を用いたフィルムを多数試作し、アイケン電子に納入した。そうしたところ、粒子径が30μm~75μmの範囲で、高いものでは、歩留まり90%以上を達成したのである。

 この功績が評価され、大野の開発チームは報奨金を受け取っていた。大野に対しては、本件が特許になれば、さらに個人的な発明報奨金も考慮されていた。

* * *

 発明が特許になるためには、新規性と進歩性が必要である。これは、特許法という法律で定められている。新規性とは、新しいこと。つまり、これまでにない技術であることを要する。本件では一応クリアしている。

 進歩性とは、発明が容易ではないこと。

 簡単に誰でもできるような変更では、特許にするまでもないという趣旨である。そのような簡単な技術に特許という独占権を付与することで、かえって、さらなる開発や社会活動の阻害になることを防ぐものである。ここで問題なのは、『容易』とはなにかである。容易か・容易でないか。その評価は、当然、人によって違う。説明の仕方やとらえ方によっても、大きく異なってしまう。

 特許の審査は、審査官が行う。彼らもまた人である。その審査官が容易と思うか、容易と思わないか。いうまでもなく、人によってばらついてしまう。特許庁は審査基準などを公表して、審査官の訓練などを通じ、安定した判断ができるようにつとめている。しかし、それでも、どうしてもばらついてしまうのが実情である。特許は、どんな審査官にあたるか、そんな運にも左右されてしまう。

 また、出願人の説明の仕方によっても、当然、左右される。うまい弁者が、あたかも優れた技術として論じ上げる。すると、さほどでもないものでも、納得させられてしまうものである。ここに弁理士の能力の差が出る。とはいえ、あまり大げさにうたいすぎると、かえってうさんくさくなる。等身大でありながら、なるほど捨てがたいと思わせる。それが肝心かんじんなのである。

 早苗は、このともすればチープな発明に、そんな説得のためのストーリーを考え出さなければならないのである。それを、いくら発明者に迫ったところで出てきやしない。

 今はこれ以上見たくない。その拒絶理由通知を、トレーに積まれた書類の一番下に押し込んだ。

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