「冒認」…発明どろぼう…

久留栖 乃碧《くるすのあ》

第一章 敗退

第1話 特許査定

 その瞬間、布藤博通ふどうひろみちはまんまと盗むことに成功した。

 盗んだ品は……発明である。

 布藤は、マイティ国際特許事務所の所長である。所長秘書、藤澤めぐみが所長室のデスクのトレーに書類を置いた。特許庁から送られてきたA4一枚の書面、『特許査定』である。そこには、次のような記載があった。


『特許査定

   この出願については、拒絶の理由を発見しないから、特許査定する。

     特許庁 審査官 加藤 春秀』


 発明が完成するとその発明を説明した書面を作成して特許庁に提出する。この行為を出願とよぶ。出願された書面は、特許庁の『審査官』と呼ばれる国家公務員により審査される。彼がその発明が所定の要件を満たすと判断したとき、この『特許査定』が発せされる。その後、出願人が所定の料金を支払いさえすれば、その発明は特許権になる。特許権は独占権である。それ以降、その者以外、何人たりともその特許発明を実施することは許されない。強大な権利の誕生である。

 布藤にとっては、日常業務の一環でしかない。いつものとおり、いつもの書面が届いたに過ぎない。しかし、この件は特別であった。所長室を出ていくめぐみの腰の動きをタイトスカート越しに追いながら、もういちど特許査定に目をやった。

* * *

二田水にたみずさん。お久しぶり。商売の方はどう」布藤が二田水巧に電話越しにいう。

「ああ、景気はよくないね。そちらさんみたいには繁盛していないよ。ところで、例の件はどうなってるの。俺が依頼した特許出願の件」二田水がく。

「うん。それで電話したんだけどね、特許になったよ。今日、特許査定が届いた。あとで、送付するよ」

「ああ、そう。そりゃ良かった。まあ、なって当然だけどね。最先端の半導体製造材料だからね」

「おいおい、簡単に言うなよ。これでも、『拒絶理由通知』をうけて、対応したんだからな。審査官に電話もして、説得するのに結構苦労したんだぜ」

 審査官は出願された発明が特許に値しないと判断したとき、『拒絶理由通知』を発する。それにより、出願人に反論の機会を与えるのである。布藤は、この機会を利用し、審査官に電話までして説得を図ったというわけである。

「ああ、布藤先生の腕はよくしっているよ。感謝してるさ。それじゃ、あとは、計画どおりに『警告書』を送り付けるんだな」二田水が訊く。

「ああ、主要な企業にはね、全部。その上で、日酸レジストさんにもコンタクトすることになるかな」

「で、どれくらいの上がりになるとみてるのよ、実際のところ」二田水がさも意地悪そうに訊く。

「そうだな、この発明なら、三億くらいはぶつけてもいいんじゃないか。すべての電子メーカーさんに影響が及ぶんだからね。落としどころは、譲歩してもその半分くらいかな」布藤がゆっくりと、少しにやけた感じの声をまじえてを答えた。二田水は、「ひゅー」と軽く答えて、「ここからは、あんたの腕次第だぜ、布藤」とやや嫌味くさくいった。

* * *

 発明には形がない。

 これが特許権を、『無体財産権』などと呼ぶ所以ゆえんである。まさに、『体』がないのだ。であるがゆえに、たとえそれが盗まれても、その痕跡こんせきは残らない。盗人ぬすっとが、窓を割って室内に侵入したなら、割れた窓や、絨毯の上の足跡が残る。指紋や毛髪が残るかもしれない。そうすればDNA鑑定もできる。しかし、発明が盗まれても、そこには、何も残らない。盗まれる前と何ら変わりのない空間と時間が存在するだけである。

 エジソンが発明した白熱電球。あの発明にはどれほどの価値があるのであろうか。おそらく、国家予算並みの財産的価値があるであろう。そんな高価なものが、路傍ろぼうの石ほどの重さもないのである。

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