俺とあたしと緩やかな変化

 エミと花火を観に行った次の週、俺は部活のない日に翼を呼び出した。

「で、アイスで詫びようって訳?」

 放課後、学校から程近い商店街沿いのアイスクリーム店に入ると、翼はそう言った。まだ何で呼んだか言っていないのに、既に用件を読まれている。

 テストも返ってきて、今週が終われば夏休みに入る七月の半ば。暑さにやられた体に店の冷房が染み入る。

「や……そうだな。おごる」

 別に最初からそのつもりだったから、分かってるんなら話が早くて助かる。

「そう。じゃあ遠慮なく」

 翼は本当に遠慮なくカップにトリプルを頼みやがった。太って女物の制服が入らなくなれと、俺は千円札をレジに叩きつけながら思った。

 俺は頼んだシングルのチョコレートアイスのカップを受け取って店内を見渡した。

 ここは近隣の学校、というかうちの学生御用達ごようたしの店なので、同じ制服の生徒がそこかしこに座っている。

 あーそういやあいつはいっつもチョコミント頼んでたなと部活仲間で寄り道していた時のエミを思い出して、我に返る。いや、今はそれどころじゃねえ。早く目的を果たさないと。代償も支払ったことだしな。

 俺と翼は外が見えるカウンター席に並んで座った。まわりから見たら付き合ってるっぽく見えんのかなと思って、ちょっとげんなりする。だって見た目が完全に女でも中身は男だ。あいにくそういう趣味はない。

「その……ごめん」

 翼はアイスをすくう手を止めて俺を見た。何も言わずに俺を見ている。

「気持ちわりいとか言ったの、謝る。ごめん」

 いくらこいつが憎たらしくても、これだけは謝っておきたかった。あの時は頭に血が上っていて、売り言葉に買い言葉だった。

「あれ、何だ。そっち?」

 けれど翼は肩すかしを食らったと言わんばかりの顔をした。

 いや、そっちって何だよ? 俺はあの時の暴言を謝るために呼び出したんであって、そんなにいくつも謝ることねーぞ?

「他に何があんだよ」

 でも聞かずにはいられない。心当たりがなくてもだ。

「絵美を取っちゃってごめん、かと思った」

 俺が固まっている間、翼はトリプルの一番上のアイスをすくって食べていた。

 いや、待て、落ち着いて状況を整理していこう。いや、何で? っていうか何で? いやもう何でしか浮かんでこねーよと諦めたら、翼が爽やかな朝の風のように微笑んだ。

「相変わらず面白いね。真っ赤だよ」

「いや待て、待て、つーか待て!」

「落ち着きなよ。別に逃げないよ。食べ終わるまでは」

 やっぱりこいつとはアイスでしか繋がっていなかった脆い関係なんだなと思ったが、今はそんなことどうでもいい。

「ちょ、待て。俺お前になんも言ってねえよな?」

「別に見てれば分かるよ、それくらい。君の幸せオーラが鬱陶うっとうしくて」

 いや、そんなもん出てねーよと反論したいが、反論材料が思い付かない。

「結果なってみたら目障りだったけど、そう仕向けたのはこっちだから仕方ないよね。とりあえずおめでとう」

 トゲしかない言葉を聞きながら、俺は机に伏せたい衝動にかられた。修行したらオーラって消せんのかな。どこに弟子入りしたらいいんだろ、とか思っていたから、翼の言葉に反応するのが少し遅れた。

 仕向けたって何だよ。

 翼は何だか混じり合って色が虹みたいになっている二個目のアイスを食べながら、隙のない完璧な笑顔を見せた。

「白状するとね、部活のみんなで『絵美と君って両想いっぽいのにどうしてくっつかないんだろう。やっぱり姉弟だから?』っていう話になってね。賛否両論あったんだけど、とりあえずふっかけてみようってことになって、僕はその案に乗った訳。絵美に告白して、女じゃ多分考えてもらえないから、ちゃんと男だって言って」

 怒濤の展開すぎて頭がついていかなかった。けれど翼はそんな俺にはまったく構わず、話を続けていく。

「でも絵美から君に伝わったと思ったらいきなりお互い避け始めるから何かと思ったよ。予定じゃ君が僕に対抗して告白するはずだったんだけど。おかげで僕は君をけしかけなきゃいけなくなって、無駄に暴言吐かれて、で、今に至ると」

 ああこいつ根に持ってやがる……。トリプルアイスじゃやっぱり代償としては安すぎたのか……。やっぱ高校生には敷居が高いあのチョコレート店のチョコレートドリンクにするべきだったか……。

 とりあえず落ち着こうと思って、俺は手をつけるタイミングを失っていたチョコレートアイスを一口食べた。かなり溶け始めていた。

 アイスの甘さに癒され、少し考える余裕が生まれてくる。

「じゃあお前があいつを好きだったのは嘘ってことか?」

「ううん」

 翼はアイスを食べながら首を横に振る。

「本当に好きだったよ。だから告白する役を買って出た」

 でもそれだと矛盾しねーか? 俺とエミをくっつけるのが目的だった訳だから、喜んで協力するのもおかしくねーか?

 翼はできの悪い犬を見るようなあわれみを含んだ目で俺を見た。同じ目線なのにまるで段差があるような錯覚が俺の目の前に広がる。こいつはこういう目をするのが本当に上手いなと思った。

「好きな人が明らかに他の人を好きなのに奪える程、僕は愚かじゃないんだ。十中八九、絵美は君のことが好きだと思ってた。君は言わずもがなだけどね。でも告白して絵美が僕を選んでくれたら、全力で付き合おうと思ってた。君のことなんか一切気にせずに。でも絵美は君を選んだんだから仕方がないよ」

 だから内心はすごく嫌だ、と翼は思い出したように付け加えた。でも絵美が幸せならそれで少し救われる、とも。

「別に罵倒してもいいんだよ。意気地なしって」

 翼は笑わずに窓の外を見ていた。初めて見るかもしれない、嘘や冗談で塗り固められていない姿だった。

「言わねーよ」

 仕向けられたこととはいえ、俺を駆り立てたのは間違いなく翼だ。

「悪かったな」

 言おうか少し迷ってお礼の言葉を口にすると、翼は嫌味も言わず、ただ小さく返事をした。俺と翼はカップが空になるまでそれ以上口を開かなかった。

「じゃあ帰ろうか。ごちそうさま」

 翼がカップを持って何事もなかったかのように立ち上がる。俺も席を立ってカップをゴミ箱に入れた時、ふと翼は部活仲間には男だって言ったんだろうかと思った。あ、いやでもわざわざ話さなくても男のふりして告白するって言えばいいのか。

 そこで何となく俺は頭がこんがらがって、店を出ていく翼の隣に走った。

「お前もしかしてほんとは女なのか?」

 翼は不意をつかれたように目を丸くした。

 部活仲間で俺とエミを付き合うよう仕向けたんなら、翼が本当は男という話も作り話かもしれない。そうしたら男に見えないのも納得がいく。同性が好きということにはなるが。

 翼は俺を見つめて、思い切り吹き出した。

「変なとこ鋭くつっこんでくるね、イルキ。それはご想像にお任せするよ。答えてあげる義理がないから」

 あ、何かすげえ嫌な予感がする。

 翼は邪気を隠した完璧な微笑みで、自身のワイシャツの上から胸に手を置いた。

「何なら触って確かめてみる?」

 いや、ねーよ! 何考えてんだアホか! いやまあ男だったらいいかもしれないが、今本当は最初から最後まで女だったかもしれないという疑惑が浮上した以上、やったら犯罪じゃねーかよ! そんなにまでして俺を排除したいのかよ!

 まあ見た感じ普通にあるっぽいが……。って完全にこいつの罠にはまっている。戻ってこい、戻ってこい俺!

「あ、何なら下の方がいい?」

「やるか馬鹿! 自重しろ!」

 思い切り叫んでしまい、通行人達のいぶかしげな視線が全身に刺さる。

 畜生。これもあいつの計算の内なんだろう。所詮俺はしがない思春期の高一男子だ。でもそれでお前の気が済むんだったら、いくらでも手の上で踊ってやるよ。

 翼が仕方ないといった様子で笑った。

「本っ当、馬鹿だよね。君。真っ赤だよ」

 言われなくても知ってるよ。あいにくそういう冗談には慣れてないんだよ。

「でも面白いけどね。絵美のことがなければもっといい友達になれたと思うよ」

 いや、それは嘘だろ。エミと何ともなってなくても、悲しいことにお前にいたぶられる自分の姿がありありと想像できる。

「別に。やりたきゃいくらでもやれよ。それでお前が満足するんだったらな」

 翼は呆気に取られたように目を見開いて、困ったような微笑みを見せた。

「あと本っ当にお人よし。ちょっとイライラするけど、絵美はそういうところが好きなんだろうね。まあいいや。帰ろう」

 翼は駅の方に歩き出した。俺も電車は逆方向だが、駅は一緒なので隣についていく。

 お人よしなとこあいつが好きって何だと思ったが、それ以上聞いたりはしなかった。

 俺と翼はホームに下りる階段のところで別れた。俺は階段を下っていく翼の後ろ姿に、心の中でお礼を言った。さすがに面と向かっては言えなかったが。

 あ、そういえば性別はぐらかされたと思いながら俺は階段を下っていった。


 家のドアを開けると、靴を脱ぐ暇もなく台風のような奴が玄関まで出迎えに来てくれた。

「おかえりイルキ! 突然だけど花火行かない?」

 いや、つっこむところが多すぎてもう訳分かんねーよ。とりあえず、あー家涼しいなと俺をほっとさせてくれ。翼とやり合ってまだダメージ残ってんだからよ。

 俺はつっこみを諦めて、なぜかいきいきと目を輝かせているエミを見る。

「土曜行ったばっかだろーが」

 地元の花火大会からまだ数日しかたっていない。忘れてしまったのなら、さすがに俺でも手に負えない。病院行け。

 一応そんなことはなかったようで、エミは「違うよ!」と首を横に振った。

「川原で花火しようよ! 浴衣着て」

 川原で花火しようよ、まではまあ分かる。でも何だ、浴衣着てって。

 どうやってエミがそこに行き着いたのか分からなかったので、俺は早々に答えを聞いた。

「いや、何で?」

「イルキこの間浴衣着てくれなかったでしょ? そうすると来年まで見られないから、それなら浴衣で花火すればいいかなって」

 理由は分かったが、そうすると別の疑問が浮かび上がる。

 さて、ここで問題です。エミはなぜそんなに俺に浴衣を着せたいのでしょうか。

 浴衣女子に期待する男子じゃあるまいし。お前一応女子だろ。

「いや別に普通に花火すればよくね?」

「駄目! それじゃ花火の意味ないよ!」

 ああ、やっぱりな。薄々分かってはいたけどな。つまりエミは俺にどうしても浴衣を着せて花火をしたいらしい。

 ていうか何でそんなに見てーんだよ。浴衣フェチか? フェチだったら別に水着フェチとかでもよくね? 俺も水着だったら見たい……と目の前のTシャツ&ショートパンツから出ている白くて眩しい腕と脚に思考が横滑りしたところで我に返る。

 エミの何も考えていなさそうな瞳が俺の良心を突き刺していく。ごめんなさい。いや、別に浴衣も嫌いじゃないけどよ、うん。

「何で浴衣なんだよ?」

 低俗な考えを取ってつけたような質問でごまかすと、エミは小さくうなって胸の前で手を組み合わせる。

「えっとね、前の花火の時から思ってたんだけど、浴衣着て二人で遊んだら楽しそうだなって」

 まあつまり、あれか? 思いついたものの恥ずかしくて口には出せないが、『浴衣デート』したいってやつか? 恥ずかしくて「あー!」とか叫びそうになってくるが。

 エミは『好き』がよく分からないと言っていたが、十中八九こいつは俺のことが『好き』だと思う。本人がよく分かってないだけで。

 多分、こいつの性格上、俺のことを何とも思っていなければ悩んでも告白を断ったと思う。同情で付き合ったりするような奴じゃない。

 それに、何か言われたしな。抱きしめてもその他のことしても大丈夫とかな。

 だからもうちょっと自信を持ってもいいんだろう、多分。姉弟の関係からは少し変わったが、変化は緩やかなものだった。きっと俺達にはこれくらいで丁度いいんだと思う。

 で、「浴衣デートしたいってことか?」と爽やかに聞ければ話は早いんだが、あいにくそんなスキルはない。もしかしたら「違うよ」って切られるかもしれないしな。

「分かったよ。着ればいいんだろ、着れば」

「ほんと? ありがとう!」

 エミが飛びかかってきそうな勢いで身を乗り出して顔を近付けてくる。驚いたのと何か甘い匂いがしたのと普通に距離が近かったので、俺の心臓は一気に倍速になった。

「明日帰りに花火買いに行こう!」

 遠足のおやつを買いに行く小学生のようなテンションで叫ぶエミに適当に頷いておきつつ、俺浴衣なんて持ってたっけなと思った。多分最後に着たのがいつだか思い出せないので、持ってないんだろう。万が一出てきても残念なサイズだろうしな。明日花火と一緒に買うかと思いつつ、俺は犬のようにつきまとってくるエミを避けて家に上がった。

 一瞬、Tシャツからのぞいた夏だというのに白い胸元に目が留まって、「プール」とか口走りそうになったが、先程の反省をいかして抑えこんだ。やっぱり犬のように疑いの欠片もない目で頭に疑問符を浮かべて見つめられたので、言わなくてよかったと思った。まなざしが綺麗すぎて心が痛い。

 でもまあ浴衣もいいよな。うん。

 下心なのか何なのか分からない甘酸っぱいむずがゆい気持ちを感じながら、俺はエミから視線を外して廊下を歩き出した。

 まあつまり、こいつが嬉しいと少なからず俺も嬉しいってことだ。言わないけどな。


 花火大会から一週間後、夏休み初日の土曜日、俺は家で初めて一人で浴衣を着た。一応『浴衣 着付 男性』とかでネット検索して着てみたのだが、リビングに行った瞬間、良子さんに「脱ぎなさい。やってあげるから」と言われてしまい、丁重にお断りした。さすがにそれはちょっと……。良子さんがよくても高一男子はまだそこまで恥を捨てられない生き物だ。一応口頭で指導が入り、何とか形にすることはできたが。

 エミはこの前と同じく良子さんに着付けてもらっていて、終わるなりリビングに駆けこんできた。

「あ、やっぱりイルキ似合ってる!」

 あまりにも嬉しそうな顔で駆け寄られたものだから、何だか恥ずかしくなって目をそらした。

「ねえねえ、どうかな? 似合う?」

 エミは風でも起こすのかという程、浴衣の袖をばさばさと振る。この前と同じ白地に薄紫のスズランの柄だったが、そういえばこの前は聞かれなかった。

 大人しくしてれば普通に可愛いんだけどな、まあでもぶっ飛んでるところも何だかんだで結局好きになってるしな、と考えたところで気付いて穴に入りたくなった。何青春してんだ俺。

「いいんじゃねえの」

 いつもと同じようにさらりと流す。恥ずかしがらずに褒めるという能力はまだ俺の中にない。

 てっきり「ありがとう!」とか飛びつかれそうになるのかと思ったが、エミは花が咲くようにふんわりと微笑んだ。

「よかった。嬉しい」

 内側から殴られたように心臓が爆発した。

 いや、ほんとやめてくんねーかなマジで。確信犯なの? 素なの? これ以上俺の純情をもてあそばないでくれ……。

 変な方向にそれてしまったが、普通にちょっとだけ抱きしめたくなってしまった。ちょっとだけな。しないけどな。

 無事浴衣を着ることができた俺とエミは花火とライターを空のバケツにつっこんで川原へと出発した。

 今日は夕飯を食べてから出てきたのであたりはすっかり夜の空気に包まれていた。昼間よりは少しましになった、けど生ぬるい風が浴衣の中を通り抜けていく。

 浴衣は結局花火と一緒に買った。濃灰色で、何となく選んだが、エミは「似合うと思う! 試着しないの?」と自分が着るかのように目を輝かせていた。

 別に花火大会でも何でもない普通の日なので、当たり前だが屋台も何も出ていない。いつものように静かで暗い川原の、夏くさい草と水の匂いをかぎながら土手を下りた。下りる時、やっぱりいつの間にかエミが俺の腕をつかんでいたことに気付いた。何で手じゃなくて腕なんだろうな。

 川原の人気ひとけのないところで適当に止まって、バケツに川の水をくむ。花火の中に入っていたローソクを立てて、ライターで火をつけた。風もないので消えることもなさそうだ。袋の中から棒状の花火を取り出して、お互いに一本ずつ持つ。

「じゃあやろうか!」

 エミがローソクに花火をかざして少し待つと、音と共に花火の先から光が溢れ出た。

「はい! イルキ」

 エミが花火の先を俺の花火の先に向ける。別にローソク使えばいいんじゃねえのと思ったが、まあいいかと流して言わないでおいた。俺の花火からも光の帯が溢れる。

「綺麗だね」

 色を変えていく花火の光がエミの顔を照らしていて、割と素直に「そうだな」と言えた。

 最初は一本ずつ持っていた花火も、消化しきれないということで二本、三本持ちになり、ねずみ花火も入ってたのでやってみた。エミがやる気満々で俺の方に放り投げてくるので、俺も応戦して放り投げたら、なぜか俺だけ追いかけられた。

 最後はエミが「絶対やりたい!」と買った線香花火で、お決まりのようにしゃがみこんで、弾ける光を眺めた。

「やっぱり最後は線香花火だよね」

 ねずみ花火の時とは大違いの落ち着いた雰囲気で、エミは大切なものを愛でるように弾ける光を見つめていた。光が落ちて、俺もエミも新しい線香花火に火を灯す。

「ねえ、また二人で遊びに行こうね!」

 エミの顔は線香花火の淡い光に照らされて輝いていた。真っ直ぐ目を見られないが、「そうだな」と頷いておく。

「次はプールとか行くか?」

 下心からではなく、純粋にそう思えた。エミと一緒に何かするのがこんなに楽しくて、心が躍るものだとは思わなかった。

「あ、プール行きたい! 楽しそう!」

 線香花火の光は弱々しいのに、エミの笑顔は眩しくて、胸が熱くなって目をそらしていた。

 線香花火には人の感情を揺さぶる変な力があるんだと思う。だから、気の迷いで口を開いていた。

「なあ、こういうのデートって言うのか?」

 言ってから、タイミングよく線香花火が落ちて、我に返った。

 ちょ、待て。待て待て待て。いや何言ってんだ、何言ってんだよ俺! ポエマーか! 今すぐに穴を掘って埋まりたい。誰か俺にもういいよよく頑張ったねと言ってくれ。

 一人錯乱状態に陥っていたら、エミとばっちり目が合ってしまった。

 こんなに俺が一人パニックでも、てっきりエミのことだから「そうだね!」と明るく返されるか、「あれ、そうだったの?」とあっさり言われるかどちらかだと思っていた。思っていたのに、弾ける淡い光に照らされたエミは目を見開いて、何か言いかけるように薄く唇を開いていた。

 エミの線香花火も落ちて、明かりが土手の上に等間隔で立つ街灯の遠い光だけになる。

「え、あっ、落ちちゃった」

 エミは薄暗くなった空間で線香花火の残骸に目を向ける。

「あ……えっと、その、そ、そうだよね! デ、デートだよね」

 妙に慌てたように返されたので、一気に不安が押し寄せてくる。

「や、やだったか?」

「や、やじゃないよ!」

 エミは勢いよく首を横に振った。

「ちょ、ちょっとびっくりしただけで! 何か、ああ、そうだよねって」

 薄暗かったが、何となくエミの頬が赤いのに気が付いた。あれ、何か照れてんのか? と思った瞬間、心臓が跳ねた。多分、今までで一番強く。

 だから、どうしてここぞって時にこいつは俺のど真ん中をついてくるんだろうな。ああ、今ばっかりは認めてやるよ。可愛いし、触れたくて仕方がない。

 俺はエミの腕を引っ張り上げて立ち上がらせると、片手で背中を抱き寄せた。エミが悲鳴を噛み殺したような小さな声を上げて、心臓が一際強く鼓動した。ああそういう声ももっと聞きてーなと思ったが、それじゃただの変態だし、エミを怖がらせる訳にはいかない。もう逃げられるのは嫌だ。

 俺は体を離してエミの手から線香花火の残骸を取ると、自分の線香花火と一緒にかたわらのバケツに放った。自由になった両手で、あまり強くしないようにエミの体を抱きしめた。

 エミの体はこわばっていた。多分俺も同じだった。浴衣の首筋から真新しい生地の匂いと何だか甘い匂いがして、あー理性ってどういう字書くんだったかなと思いつつ、耳元で恐ろしく速い自分の鼓動を聞いていた。

 急にエミが身じろぎして、顔を上げて俺の目を見つめてきた。

「イ、イルキ、はっ恥ずかしいよ!」

 俺の方が目をそらす暇もなく、エミは頬を赤くして困ったような顔をしていた。

「え、や、やなのか?」

 またチキンハートが蘇って不安が波のように戻ってくるが、エミはちぎれそうな程、首を横に振った。

「や、やじゃない! 違うの! 恥ずかしくて!」

 エミは何だかよく分からないうめき声のようなものを上げながら、また俺の胸に頭をつけた。

 や、どうしろと。俺も相当恥ずかしいんだけど。とりあえず背中でも叩いとけばいいか?

「だってイルキの匂いがする……」

 顔を押しつけられているのでくぐもっているが、何だか泣き出しそうな声で呟かれた。でも嫌じゃないと言っていたからなのか、なぜか脇腹あたりの布をきゅっとつかまれた。

 あーもう。言ってることとやってることを統一しろよ。匂いで恥ずかしいとか訳分かんねーが、俺もさっき同じこと思ってたよ。奇遇だな。もういいかな? いいよな? もう割と前から俺の『触れたいメーター』は振り切れていて、エミの確信犯なんだか無意識なんだか分からない一押しで完全に壊れた。

 抱きしめていた背中から手を動かすと、エミは風切り音がしそうなくらいのスピードで顔を上げた。

 滅茶苦茶困ったような瞳が俺を見つめてくる。暗がりだというのに、分かるくらい顔が真っ赤だ。

 ちょ、そんな目で見んな。決心が鈍るから! ていうかやじゃないって言ってたくせにどっちなんだよ!

 俺はあくまでも自分の意思を尊重して、エミの頬から耳のあたりに手を伸ばす。

「っえ、や、なっ何? 何?」

 エミがまな板の上で暴れる活きのいい魚みたいにもがき出したので、いい加減我慢できなくなって首筋から後ろ頭に手を当てて顔を固定した。

「あーもう暴れんな! じっとしてろ!」

 あ、何か悪役っぽいなと思った。ていうかどうしてこんなこと言わなくちゃならないんだろうか。エミに『察する』という基本的な能力はないらしい。いや、まあ分かってたことか。今更だな。

 悔しいが、そんなとこも含めて、全部好きなんだろうな。

 俺はエミが泣きそうな顔をしつつもきつく目を閉じたのを見た。ああ可愛いなと思いながら顔を近付けて、目を閉じた。


 あたしはどうしていいか分からずにイルキの目を見つめてから、目を閉じた。

 さすがにここまで来ると、いくら日頃みんなに「絵美の彼氏になる人って絶対下僕体質だよね」と言われているあたしでも分かる。

 一応少女漫画は人並みに好きだし、そういうシーンもあるし、でもいざ自分がそうなってみるとこんなに訳が分からなくなるとは思わなくて――と頭の中がぐるぐるしていたら鼻に何か触れて、びっくりして目を開けた。声は上げないようにしたつもりだったんだけど少しもれてしまって、そしたらイルキの顔が目の前にあって、変な声で叫んで顔を引いてしまった。

 え、えっと。ちょっと待って。鼻と鼻当たってたから、鼻ちゅー? なの?

 答えが出る前に、突然イルキが崩れ落ちるようにその場にしゃがみこんでしまった。

「あ、え? イ、イルキ? どうしたの?」

 あたしの頭の中も結構しっちゃかめっちゃかだったけど、急にどうしたんだろうと心配になる。しゃがみこんで顔を伏せてしまったイルキの前にしゃがんで、イルキの顔をのぞきこむ。

「え、えっと、た、体調悪い?」

「や……」

 地底から這い上がってくるような弱々しい声を出してイルキは首を横に振った。

「あ、えと……じゃあ鼻当たって痛かった?」

 イルキは答えてくれなかった。あれ、あたし何か間違えたかな? どうしようと不安になっているところでイルキが思い切り顔を上げる。

「言うな! ていうか謝るから! マジで!」

 何だかイルキは泣きそうな顔をしていた。薄暗いのに、顔も真っ赤な気がする。

「え、な、何で謝るの?」

「いや言わせんなよ! せめてそこは察してくれお願いだから!」

「あ、えっと、ほんとは口にしたかったの?」

 イルキはあたしを見つめて、明らかに視線を下へ外した。

 えっと、そういうことなのかな? 確かに普通に考えたらそうだよね? 漫画で鼻ちゅーしてないもんね?

 あたしはうつむいてしまったイルキの顔をのぞきこむ。

「じゃ、じゃあもう一回する?」

 一瞬目が合ったけど、イルキは思い切り逆方向に顔をそむけてしまった。恥ずかしいのかなあ。あたしも恥ずかしいんだけどな。

 逆方向にそらされた顔をのぞきこんだら、また逆方向にそらされてしまった。延々続けられそうだなあと思ったけど、そんなことをしている場合じゃないので、あたしは思いついたことを尋ねてみる。

「イルキ、初めてなの?」

 イルキの横顔は赤くて、少しだけ見えた目はものすごく嫌そうに伏せられていた。イルキは黙っていたけど、やがて投げやりな様子で口を開く。

「そうだよ。悪かったな」

「別に悪くないよ? あたしも初めてだし」

 顔をのぞきこんだら、今度はそらされなかった。イルキの恥ずかしさを含んだ目と目が合って、嬉しくなって、思わず笑ってしまう。

 普通のキスってそんなに難しいのかな、ちゃんと漫画とかドラマとか見とけばよかったなーと思っていたら、イルキの顔が近付いた。見つめていた目が閉じて、唇が唇に触れた。

 多分、一瞬だったと思う。一秒にも満たないくらいで。

 イルキは顔をそらして、立ち上がった。

 えっと。今、された、よね?

 沸騰するように頬が熱くなって、あたしは立ち上がってイルキに思い切りタックルしていた。イルキがよろけて転びそうになったので、あたしも一緒に転びそうになる。

「ちょ、危ねーな! 何だよ!」

「だ、だ、だって! イルキだけ目つぶってるのずるいよ! 何で言ってくれなかったの?」

 あたしは恥ずかしくて穴に埋まりたい気持ちで、正面からイルキの両腕をつかんでがくがく揺さぶった。

 だってイルキは目閉じてたのに! あたしは不意打ちすぎてそれどころじゃなかった。

「いや言うかよ! 言わねーよ!」

「確かにそうだと思うけど、でも!」

 すごく恥ずかしくて、あたしはイルキを揺さぶりながら顔を伏せて、変なうめき声を上げていた。

 でもさすがにもう一回っていうのも違う気がするし、それにもう、初めてはちゃんとしたんだ、イルキと。

 あたしに揺さぶられながら、イルキが切れ切れに声を発する。

「その……ほ、ほんとにやだったんなら……悪かった」

 あたしはイルキを揺さぶる手を止めてイルキを見上げた。イルキが身構えたようにあたしを見て、あたしも恥ずかしくて身構えてしまった。

「や、やじゃないよ!」

「そ、それならいいけどよ」

 イルキは顔をそらしてしまった。あ、いつものイルキだと思って少し安心して、その顔が恥ずかしさをこらえるようにふてくされているのを見て、おかしくなって思わず笑ってしまった。

 恥ずかしいのあたしだけじゃないんだね。何だかくすぐったいような嬉しいような気持ちを感じていたら、恥ずかしさも段々薄れてきた。

 イルキはいつだって優しくて、あたしのことを考えてくれてる。

 とっても温かい、ふわふわしたものが胸の中に溢れてきて、何だろう? と思った。イルキと一緒にいると、いつもあたしはこの気持ちでいっぱいになる。

 すごく大切で、すごく。

 先週の花火の時のように頭の中で何かが弾けて、あたしは思わずイルキに飛びついていた。

「ちょ、な、何だよ!」

 早く言いたかったけど、慌てるイルキも可愛くて、もう少し見ていたくなった。

 でも、きっとこれからもうちょっと慌ててくれるよね。

「あのね! イルキ」

 あたしは。

 『好き』が少しだけ分かったような気がした。


 あたしにとってイルキは大切な弟で、特別な存在で、大好きな男の子だった。


 俺にとってエミは不本意だが姉で、大切な家族で、そして、愛おしい女の子だった。

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