俺が押されて知ったもの

 俺がエミを怒鳴った次の日から、エミは俺より早く家を出るようになった。部活で帰りの時間が同じになっても、寄り道をして俺と同じ電車に乗ることはなくなった。

 親父は明らかに口をきかなくなった俺達に色々つっこんできたが、良子さんは「ケンカ中なんだからほっといてあげなさい」と第三の子供に言い聞かせるように親父を諭してくれた。

 正直、エミが俺を避けているのにほっとしている部分もあった。どう接していいのか分からなかったからだ。けれどやっぱり気持ちの半分は別で、避けられているという事実は俺に深く突き刺さっていた。

 怒鳴った直後は頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられなかった。けれど少し時間がたつと冷静になってきて、色々な考えが頭の中を回っていっぱいになった。

 言うべきじゃなかった。けれど、止められなかった。分かっていたことだ。エミにとって俺はただの弟でしかない。

 それよりも何でこんなに苛立ったのかと考えたら、翼のことがあったからだった。エミが無防備すぎるのにも腹が立ったが、診断書が出ているとはいえ男が女として学校生活を送っているのは法律的にアウトじゃないのかと思った。あまつさえエミに告白までした。そこまで考えて、認めたくないが俺は翼に嫌悪と嫉妬を抱いていることに気付いた。

 翼のことは部活仲間で、友達だと思っていた。けれど今はそんな風に考えられない。

 そう思っていたら、エミが俺を避け始めてから四日後くらいの部活終わりに翼から呼び出された。

「ちょっといいかな」

 翼は俺が真実を知る前と何も変わらない様子で、俺を別搭の階段まで連れていった。

「絵美から聞いたと思うけど」

 階段の踊り場に上がった翼は段の下にいる俺を見下ろした。窓からいっぱいに射しこむ西陽が、翼の輪郭を溶かして眩しかった。

 こうしていると、背は高いが、声も低くないし、緩く結われた茶色い髪も、女物の制服に包まれた体つきも男には見えない。エミより高くて俺より低いから多分百七十センチくらいか。

「何を」

 自然と声が尖ってしまうが、翼はなぜか小さく笑った。

「僕が絵美に告白して、男だってこと」

 そういえばこいつは自分のことを僕と呼ぶんだった。初めて聞いた時にはそういう女子が世の中に実在するのか、と思ったが、本物の男だった。

「知ってるけどお前と話すことなんてねえよ」

「あ、そう? 本当にないなら帰るけど」

 翼は階段の踊り場からジャンプした。二段下へ着地して、俺との距離が少し縮まる。

 自分から呼び出しておいてそれか? 前から人を食った物言いをする奴だとは思っていたが今はかんに障る。

「てめえが呼んだんだろうが」

「いいの? そんな言葉遣いして。誰かに聞かれたらびっくりされるよ」

「知るかよ気持ちわりい!」

 つい口から出てしまった言葉に言いすぎたとはっとする。

 翼は目を丸くして俺を見つめたかと思うと、急に吹き出した。

「いいね。調子出てきたじゃない。そっちの方が君らしいよ」

 笑う翼に俺は呆気にとられたが、すぐに意味の分からない怒りがこみ上げてきた。

「馬鹿にしてんのか」

「馬鹿になんかしてないよ。最近落ちこんでるみたいだったから、そっちの方が君らしいよって思っただけ」

 何で原因であるこいつにそんなことを言われなきゃならないのか。俺は拳を握りしめて、翼に背を向けて階段を下り始めた。

「あ、待って。一個だけ」

 背後から翼の声が飛んでくる。

「絵美はもらうね」

 聞く必要などないのに、足が勝手に止まっていた。無視すればいいのに、体が反応していた。

「あいつは物じゃねえ!」

 振り返った先では夕陽のオレンジ色の中、翼が冗談の欠片もない顔で佇んでいた。

「そうだね。でも君には言っておこうと思って。絵美の弟だから」

 わざとなのか、翼の放った「弟」という言葉に苛立ちが増す。

「必要ねえ。それにあいつがてめえを好きになるとも思えねえ」

「どうかな。絵美はあんなだから、僕が好きって言ってたら好きになってくれると思うよ。僕が男だって言った時もびっくりはしてたけど拒否しなかったし。普通は拒絶するけどね。君みたいに」

 翼の言い方がいちいち神経を逆撫でしていく。

「男のくせに女として学校にいんのは犯罪じゃねえのかよ」

 言ったら翼との関係はもう修復できないだろうと思ったが、黙っていられなかった。

 翼は真剣な表情のまま俺を見下ろしていた。

「そう思われても仕方がないとは思うけど、例えば公言してないレズビアンの女子が女子と一緒に着替えてても、トイレに行っても誰も何も言わないよね? 性別が女だから。僕の場合は性別が男だったっていうことなんだけど、まあ話しても長くなるし理解してもらいたい訳じゃないからいいや。僕の親が教育委員会にいるから、それで認められやすかったっていうのはあるかもしれないね」

 まるでできの悪い生徒に分かりやすく説明してあげている、とでも言いたげな口調だった。

「絵美は子供並みに真っ直ぐだから、僕のことも受け入れてくれると思ったし、やっぱり拒絶しなかった。だから好きなんだ」

 翼はゆっくりと階段を下ってくる。俺と同じ段まで来て、隣に立ち止まった。

「だから、ずっと同じ家にいて自分の気持ちすら伝えられない君なんかに絶対渡さない」

 翼の目は見たこともない程真っ直ぐで、同時に俺を拒絶するように冷たかった。

 翼が俺の横を抜けて、足音が遠ざかっていく。

「ああ、でも」

 振り向けないまま、背後から声が聞こえてきた。

「僕が男だって言いふらさないでくれたのには感謝してるよ。言ってもあんまり広まらないと思うけど」

 そう言って翼は小さく笑った。

「君は優しいから」

 今度こそ本当に足音が消えていく。俺は窓からオレンジ色の光が射しこまなくなるまで、そこに立ち尽くしていた。

 薄暗くなり始めた階段で、俺は壁に拳を叩きつけた。渦巻く思いの捌け口がなくて、握った手をそのまま下ろした。

 確かに俺はエミに自分の気持ちを伝えなかった。気付いてからもう半年以上たつのに、想いを抱えたまま黙っていた。ずっと一緒にいられるのだからそれでいいと、伝えてしまって関係が壊れるくらいならこのままでと思っていた。

 翼に言われて、腹立たしいながらも分かった。逆に腹立たしいと思ったのは、自分でもそれが逃げだと分かっていたからだ。

 俺は、エミに拒絶されるのが怖かったんだ。

 エミとずっとこのままでいられるなんて幻想だ。現に俺達はもう前のままではいられなくなっている。

 翼の言葉が脳裏をよぎる。一緒にいた時間が長い俺より、あいつの方がエミのことを分かっていたのはしゃくだが、その通りだった。

 エミは拒絶なんかしない。断るにしても、今のように俺を避けたりはしない。

 だからもう、言うべきだ。


 俺は最寄駅に着いて電車から降りると、家までの帰り道を全速力で駆け出した。息を切らせて家に着くと、鞄も置かずそのままエミの部屋のドアをノックした。

 ややあって恐る恐るといった様子でエミが顔をのぞかせ、俺の姿を見て明らかに身構えた。

「話がある。すごく、大事な」

 まだ息が整わなくて上手く言葉が繋げない。エミは困ったような、泣き出しそうな顔をして視線をさまよわせている。

 ああ、ごめんな。今お前にそういう顔させてるのは俺なんだよな。

「ごめん、この間のこと、謝りたい。あともう一個大事な話が」

「入っていいよ」

 エミはうつむきがちに言って俺を部屋に入れてくれた。

 あまり入ることのない、こまごましたものが置かれたパステルカラーの部屋を眺める。こいつはしょっちゅう俺の部屋に入ってくるが、俺がこの部屋に入ったのっていつだったっけなと思っていたら、エミが床に敷かれたミントグリーン色のラグの上に座った。俺も黙って向かいに腰を下ろす。

 エミはうつむいていて俺の方を見なかった。けれど、言うべきことは変わらない。何度も何度も心の中で繰り返していた言葉を口にする。

「ごめん。この間はかっとなった。でも俺がお前の弟なのは変わんねえし、俺はお前のこと家族だと思ってる」

 エミは顔を上げなかった。別にそれでよかった。

「翼のこと聞いて腹立った。男なのにお前と一緒に生活してたっていうのもあるけど、何つうか……」

 言葉がつまった。言いたいことは一つだけなのに。どう繋げていけばいいか分からなくて、考えてこんがらがって、結局やめた。

「あーもういい。何でもねえ。その……つまり」

 たった一言だ。一言だけでいいのに胸に引っかかったように口から出てこない。

 言え、言えよ! と心の中で葛藤している内に、エミが顔を上げてこちらを見ているのに気付いた。しかも、今にも涙をこぼしそうな顔で。実際、瞳がかすかにうるんでいた。

「ちょっ、おま、何泣いてんだよ!」

 動揺で一気に緊張が吹き飛んだ。エミは瞬きで目をうるうるさせながら首を横に振った。

「ごめんなさい。あたしも、謝んなくちゃって思ってて、イルキはあたしと家族なの迷惑だったのかなって思って、でもずっとこんな状態なのはヤで」

 言っている内にエミの瞳に涙がたまっていって、とうとう目からこぼれ落ちた。

 息がつまった。だから、何でこんな状態で泣くんだよ。馬鹿か。涙は女の武器っていうけど、別にエミはそんなことまったく意識してないだろう。ほんと、マジで勘弁してくれ。

 抱きしめたくなるから。

 衝動に理性が勝てず、俺はエミに近付いて、背中に手を回して抱きしめた。エミは泣いているからなのか普段からなのか、子供のように温かかった。

「アホか。好きだよ。家族としても、恋愛的にも」

 半ばヤケのように言い捨てたら言葉がするりと出てきた。

 やっと言えた。言ったら案外あっけないものだった。けれど自分の言葉を思い出してしまい、じわじわと体が熱くなってくる。

 別に意味的には変なこと言ってねーよな? 大丈夫だよな? 顔に火がついてるくらい恥ずかしいのに変わりはないが。

 宣告を待つような、心の中で叫び出したいような気持ちで自分の心臓の音を聞いていると、エミが身じろぎして俺の方を見た。ものすごく今更ながら顔が近くて、心臓が跳ねて体が固まった。

 エミは瞳を濡らしたまま、けれど涙は止まったのか目を見開いて俺を見つめていた。完全に勢いで行動したのでこの後どうすればいいのか分からない。とりあえず心臓の音が自分の耳の中から聞こえる程うるさい。

 エミが何か言おうとしたのか薄く唇を開きかけて、無意識なのか確信犯なのか俺のワイシャツの脇腹のところをつかんだ。

 俺は反射的にエミの体を離していた。心臓的にも、その他諸々の事情的にもこれ以上ここにいたらまずい。

「や、その……そっそれだけだから! じゃあな!」

 俺は自分でも意味が分からないと思いながら、立ち上がって部屋のドアまでダッシュした。

「あ、待って!」

 背中からエミの声が聞こえて、腕から思い切り体が後ろに引っ張られた。バランスを崩しながら振り返ったら、エミが悲鳴を上げるのとラグに滑って背中から転ぼうとしているのが同時で、とっさに体が動いていた。

 派手な物音と共に背中に痛みがきて、軽くうめいた。痛い。けど、俺が痛いということはエミはかばえたということだろう、多分。

 胸の上に重みを感じて首を動かすと、完全に不意打ちで目の前にエミの顔が飛びこんできた。純粋な驚きと、今の状況を認識して、すぐに耳元で心臓が鳴り始める。大丈夫かと言おうとした言葉も、鼓動にかき消されて出てこない。

 エミは床に仰向けに倒れた俺の胸に乗り上げていて、目を見開いて俺を見つめていた。近くで見ると瞳が茶色いのがよく分かる。ミルクティー色の髪の毛も、「お前は色素薄いから黒髪よりそっちの方がいい」と言おうと思っていて結局言えずじまいだったなんてことをこのタイミングで思い出した。

 それより、見開いた茶色い目の下の、頬が赤く染まっているのを見て、俺の心臓は壊れるんじゃないかというくらい鼓動を増した。

 こいつが恥ずかしがっているところを、今の今まで一度も見たことがない。だから、もしかして俺にも少し可能性があるんじゃないのかというのと、普通に可愛いと思ってしまったのと両方だった。少し手を伸ばせば、抱きしめることだってできる。

 こんなに純情中学生並みに心臓が口から出そうになっているのに、どこに潜んでいたのかちょっと大人な俺がいけ、いっちゃえよ! と謎のエールを送ってくる。

 いや、言うだけなら簡単だけどな? 現実はそう甘くはないぞ? でもここで諦めるのか? こんなにエミが近くにいるのに? さっき勢いで抱きしめたから、もう一回でも二回でも変わんないんじゃねーの? ……っていや待て待て待て。落ち着け、落ち着け俺!

 そんな一人脳内劇場を繰り広げていたら、エミがわずかに身じろぎした。俺の上からどこうとしているのか、指が俺のワイシャツの胸元をきゅっとつかむ。まだ見つめ合ったまま、温かい重みが俺の上で動いて、肩から滑り落ちたミルクティー色の髪が俺のものではない匂いをふわりと広げていった。

 初めて意識したエミの香りにくらりとした。同時に、今更感満載だがどうして気付かなかったのか、エミの柔らかい重みも急に生々しく感じられた。

 離したくない。

 分かった。もう抵抗するのはやめよう。最後の良心だった理性に別れを告げ、俺はとうとうエミの背に手を伸ばしてしまった。

 部屋のドアが開いたのと、俺がエミを抱きしめて、エミが本当に小さな悲鳴を上げたのは同時だった。

「ちょっと何かものすごい音したんだけど大丈夫? ……って」

 エプロン姿の良子さんがドアの向こうに立っていて、俺と目が合って動きを止めた。

 あ、今頭真っ白になってた。と気付いたのは少なくとも数秒後だったと思う。人間、こういう時本当に頭が真っ白になるんだなと思った。

 俺の頭の中にじわじわと冷たい水がしみこんでくる。

 これ……まずいだろ。完全に地獄行きコースだろ。いやでもまだ俺が下でエミを押し倒してないだけマシなんじゃね? と思った時点で俺は人として駄目だと思う。今からエミを抱きしめている手を離したらどうかなと思ったが、もはや動くことさえできない。ていうか何やっても無駄だよな、うん。

 そんな地獄のように長い数秒間の後、エミが俺の肩をものすごい力で押し返した。突然すぎて一瞬何だか分からなかった。

 俺の腕から抜け出したエミは俺の方を一切見ないで、立ち上がって駆け出した。

「あ、ちょっと絵美」

 良子さんの横をすり抜けてエミは廊下へ走り去っていった。続いて玄関から外へ出ていく騒々しい音が聞こえて、静かになった。

 俺は起き上がることもできず床に倒れたまま呆然としていた。良子さんと目が合い、ようやく反射的に飛び起きて居住まいを正した。

「あ、そ、そのっ、ご、ごめんなさい!」

 激怒されるのを覚悟して俺は身を縮めた。元は事故だったのだから言い訳すればよかったのだが、エミに対してよこしまな気持ちを抱いてしまったのは事実だ。罪悪感から言い訳を考える余裕すらなかった。

 けれど良子さんは少し困ったような顔をして天井を見上げた後、そのままの顔で俺を見つめた。

「別にあんた達が付き合うのに反対するつもりはないけど。万が一にもあるかな? とは思ってたしね?」

 そこで良子さんの顔付きが厳しくなる。

「でも一希かずき、付き合いは健全にね。そこは頼むわよ。ほんとに」

 俺は頷くと同時に耳の痛い思いで返事をした。良子さんはそれ以上追求せず戻っていった。

 俺は誰もいなくなったエミの部屋を出て、向かいの自分の部屋に戻った。ベッドに座って大きく息を吐き出して、うつむいた。

 エミに嫌われたかもしれない。俺を押し返して無理矢理腕の中から抜け出たエミは、真っ赤な顔をしていた。あんな顔をしているエミを今まで見たことがない。自分の欲望だけでエミに手を出してしまったことに、ものすごく苦い感情が胸の中に広がった。

 怖がらせたよな。最低だな俺。でもしてしまったことは巻き戻せないので、とりあえず明日謝ろうと思った。せっかく謝ったのに、また謝ることができてしまった。

 でも気持ちは伝えた。あとはどうなっても受け入れるしかない。今のように避けられるのは辛いから、エミの返事がどうであれせめて元の関係には戻りたいと願うのは、俺のわがままだろうか。

 俺はベッドに倒れこんだ。付き合いは健全に、その言葉が蘇ってベッドの上でのたうち回った。

 分かってる。俺はエミが大切で、ちゃんと好きだ。

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