愛してる(3)

 自然と目が覚めると、部屋の中は明るかった。昨夜カーテンを閉めなかったからだろう。首をめぐらせて、そういえば宿屋の部屋なのだったと思い出すのと同時に、隣にギルの寝顔があって驚いて叫びそうになった。

 跳ね上がった自分の鼓動を聞きながら数秒待っても、ギルは目を開けなかった。呼吸も深くてよく眠っているようだ。眼帯をしていないから両方の目が閉じられているのが分かる。昨夜、私が取って欲しいと言ったのだ。

 毛布から出ているギルの肩や腕や胸は素肌そのもので、私も毛布の下は何も着ていなかった。私はギルがまだ目を覚まさないように祈りながら、ギルの閉じたまぶたや長いまつげや、呼吸で上下する肩を見つめていた。

 昨夜泣きすぎたから、まばたきするたびに自分のまぶたが重く感じた。昨夜のことを思い返すと鼓動が速くなって体が熱くなりもするけれど、今ギルの隣で寝顔を見つめていると、胸がしめつけられる感覚の方が強かった。幸せで、幸せで、泣きそうに胸が苦しくなる。ギルのまぶたに触れて、頬を撫でたかった。けれどそんなことをしたら起こしてしまう。

 私はひとしきりギルを見つめて、ギルは逃げないのだからと自分に言い聞かせ、顔を洗うためにベッドを出た。つもりだった。

 突然腕を引かれて私は叫んでいた。訳の分からないうちに腕を引っぱられ、腰に腕が回ってきて抱きすくめられる。背中が温かいのでようやく状況が頭の中に染みこんできた。毛布の中でギルに背中から抱きしめられている。肌を直に通じてくる熱が生々しく、とても温かい。

 というか、起きていたのだろうか? 寝たふり? いつから?

「おはよう」

 耳元に普段より低い声が落ちてきた。わざとだろうか。いや、でも単純に眠いだけかもしれない。

「お、おはようございます」

 何にせよ背中を向けているのはよかったかもしれない。多分、いや確実に私は酷く赤い顔をしているだろうから。

 ギルはしばらく何も言わず、規則的な呼吸の音だけが私の耳元で繰り返されていた。もしかして寝ぼけていただけで、また寝てしまったのだろうかと思った時、腰から腕が離れて、耳に何か触れて私は大声で叫んでいた。体をよじって振り返ると、ギルの手が私の耳の側にあった。肝心のギルを見ると、からかっている顔ではなく、むしろ眠そうな顔をしている。やはり寝ぼけているのだろうか?

「や、耳赤いなと思って」

 ギルの手がそのまま私の頬を包みこむ。

「ほっぺたもだけど」

 私は何と答えればいいのか分からずに小さく返事をした。わざとなのか、寝ぼけているのかいないのか、はっきりして欲しい。ギルは私の頬から手を離して、また腰に腕を回し、すり寄るように抱きついてきた。

「もうちょいこうしてていい?」

 拒否する理由もないので私は頷いて返事をした。私がとても緊張して鼓動が速くなっているのは悟られているかもしれないけれど。

 やがてギルは満足したのか私の体を腕の中で器用に回転させ、正面から抱きしめた。私は強く抱かれた後、少し体を離されて、額がつきそうな距離で顔をのぞきこまれる。

「ちょっと目、覚めた」

 ギルはまだどこか夢を見ているような顔で緩く微笑み、私の唇をついばんだ。あまりにも自然にされたものだから、理解してから頬に熱が集まってくるまで時間差があった。ギルの指がまるで猫を愛でるように私の頬から髪を撫でていく。このままだと何かされそうな気がしたので、私は心の中で小さくうめきながらもギルと目を合わせた。

「あの。ね、寝ぼけてるんですか」

 ギルは特に反応も見せず私の瞳を見つめ返す。髪を撫でていた指が、髪の隙間を通り抜けていく。

「寝ぼけてないけど、何で?」

 寝ぼけている訳ではないのか。何だか甘えられている気がしたのでそうかと思ったのだが。

「何で?」

 ギルと額がぶつかった。私は上げそうになった声を噛んだ。ここまで顔が近いともうよく見えないが、そういう問題ではない。頬からあごに指がかかって、私は悲鳴を上げそうになる前に口を開く。

「く、くっつかれるので、寝ぼけてるのかと、思って」

 ギルは少し黙った後、私の頬を撫でてまた体をきつく抱きしめた。

「何か、そういう気分」

 呟かれた後、小さなあくびが聞こえた。本当に起きているのだろうか。お酒を飲んでいる人が酔っていないと主張するのと同じではないか?

「アリアだってさっき俺のこと見てたくせに」

 言葉を理解して、私は一瞬引っかかった。さっき見ていた? 思い返したついさっきの出来事に一気に首筋が熱くなる。

「何で寝たふりしてたんですか」

 叫んでいた。私がギルの寝顔を見つめている時、起きていたのだ。あんまりにもあんまりで、ギルの肩を思い切り押すが、こんな時でもギルの腕は緩まない。

「別に完全に寝たふりしてた訳じゃなくて、うとうとしてて目開けたら、ああまだアリア見てるなって」

 冷静に言われると更にうずくまりたくなった。どうしてこんなに恥ずかしいのだろうと思う程恥ずかしい。

「あの時は寝ぼけてたよ。確かに」

 今そんな情報はいらなかった。私は小さくうめき声を上げながらギルの肩へ顔を伏せた。

 ギルの手が頭を撫でて髪をすいていく。少し落ち着いてきてから私は顔を上げた。ギルの金色の瞳と、濁ってしまった瞳と目が合って、微笑まれた。満ち足りているような、柔らかい表情だった。私がそう思っているからそう見えるのだろうか。

 私はずっと胸の奥底にとげのように引っかかっていた言葉を口にした。

「本当に、見えないんですか」

 思ったより自分の声は小さかった。確かめるのが怖かったのだ。コートナーは確かに「見えない」と言っていた。それを裏付けるようにギルは眼帯をしていた。つまり眼帯をしていてもしていなくても変わらない程の視力しかないということだ。

 ギルは笑みを消して、小さく首を傾けた。赤い前髪が額を滑る。

「目?」

 私は頷いた。目をそらしてしまいそうになるのをこらえて、ギルの目を見つめていた。

 ギルは私の髪に一度指を通して、瞳を細めた。

「見えない。ちゃんと言ってなくてごめん」

 もう知っていたはずなのに、やはりどこかで否定されたがっている自分がいた。高いところからつき落とされたように、全身に悲しみなのか絶望なのか分からない感覚が広がっていく。

 けれど、事実だ。本当にギルの左目は見えないのだ。

 私が口を開く前にギルは私を抱きしめた。ギルの肩口に頬が触れて、もう目が合わない。

「アリアのせいじゃないって言っても気にするだろうから、俺の予想言うけど、多分黒の鳥が持っていったんだと思うよ」

 よく分からないと言葉にする前にギルは話を続けた。

「アリアの夢に入った時、覚えてないかもしれないけど、綺麗だって言って欲しそうにしてたから。俺が金色の鳥としてアリアを『創った』代わりに、きっと黒の鳥が持ってったんだ。本当は世界を創るための力をアリア一人に使ったから」

 初めて聞くことだった。もちろん私は覚えていない。真実はそうかもしれないし、そうではないかもしれない。けれど、それよりも。

「どうしてそんなに落ち着いてるんですか? 見えなくなったのに。もう、見えない、のに」

 言葉にしたら喉がつまって涙がにじんだ。本当に嫌だった。私は一体いくら泣けば気が済むのだろう。泣きたいのは私ではなく、ギルの方なのに。

 多分悟られてしまったのだろう、私を抱いていたギルの手が背中を軽く叩いた。

 優しくされればされる程、条件反射のように涙が溢れてきた。優しくなどしないで欲しい、いっそなじってくれればいいのだ。昨夜、ギルが私に怒れと叫んだように。

「まったくショック受けてない訳じゃないよ」

 言葉の内容に反して、ギルの声はとても穏やかだった。

「でもアリアが戻ってきてくれて全部吹っ飛んだ。本当に、戻ってきてくれて、嬉しい」

 ギルは噛みしめるように、一言一言を大切そうに呟いた。

 ああ、違う。違うのだ。私はギルを傷つけると分かっていても言ってしまう。私はギルの片目を奪ってまで存在していい存在ではない。

「私は、前の私と違います。だって覚えてないことがたくさん、ある」

 声が震えていた。涙のせいなのか、何なのか分からない。ギルは体を離して私を見つめた。私の揺れる視界の中でも、はっきりと見つめられているのが分かった。

「何を覚えてないの、ってそれは聞いても分かんないか。俺と初めて会った時のこと覚えてる?」

 私は波立つ記憶の中から必死に糸をたぐり寄せた。

「皇舎で、ブリューテ・ドウタに入る時、挨拶しました」

 思い出してしゃくり上げそうになった。覚えていた。忘れていたら私はきっと打ちのめされていた。これ以上泣いているところを見られたくなくて顔を伏せたら、背中を抱きしめられた。ギルは私の髪を撫でて、私の耳元で静かに息をついた。

「覚えてるじゃん。でも、本当はその前に一回会ってる」

 ギルの声はいたずらを仕掛ける時の子供のようだった。私は重大な見落としをしてしまったのだと思って、伏せていた顔を上げてギルを見た。けれどすぐに視界が歪んで定まらなくなる。見えない代わりに、ギルが慌てたような声を上げたのが聞こえた。

「ごめん、その話は後で。それは忘れてていいやつだから。大きくなってから会ったのはそれが初めてだよ」

 よく意味が分からなかったが、これ以上泣かないように必死で、尋ねる余裕がない。ギルの指が頬に流れた涙をすくっていく。

「もし本当に忘れてたとしても、悲しいけど、俺もアリアの心を『創った』結果は分からない。けど、普通に生きてたって忘れることは忘れるし、アリアは俺の知ってるアリアだよ」

 けれど、それは誰にも分からない。やはり私は違う私かもしれない。涙で言葉にならないうちにギルは私の頬を撫でた。

「だからもっと信じてよ。俺と、自分」

 それを聞いて、涙が流れ落ちた。誰も分からないなら、信じなければいけないのだ。私が私であることを疑わなかった時のように。ギルが私を信じるように。

 ギルがわずかに微笑んだのが薄く膜のかかった視界で見えた。

「それにもう金色の鳥も、黒の鳥もいないよ」

「でも、コートナーは、黒の鳥はまた現れるって」

 私が泣いてつっかえながら言うと、ギルは表情をややこわばらせて、元のように微笑む。ただし今度は少し困ったように。

「少なくとも俺はもう金色の鳥とは繋がってない。というか、分かるんだ。いなくなったのが。金色の鳥はもういない。黒の鳥も、俺が夢の中でアリアの羽に触った時消えたのを感じた。だから、二つとももういない。感覚的に、もう創造の仕組みはなくなったんだ。陛下の望み通りに」

 体が震えた。

 父様。心がすれ違ったまま、私が『消して』しまった、私が大好きだったはずの人。悲しみと一緒にせり上がってくる。忘れるなと。私は肉親も、名前も知らない人達の命も、存在していた証すら残さず消してしまった罪人なのだ。

 抑えきれなかった嗚咽を噛み殺したら、ギルの手に頭を撫でられたのを感じた。ああ、一時忘れていたけれど、私は誰かに優しくしてもらえる資格などない存在だったのだ。ごめんなさいと口をついて出る前に、ギルは予期していたように言葉を放った。

「陛下がアリアに伝えて欲しいって」

 ギルは一拍置いて言葉を句切った。

「『愛している』」

 たった一言、後には何も続かなかった。

「陛下が『消えた』後、金色の鳥の記憶の中で聞いた。きっと陛下はこうなることも覚悟してた。それでも、その言葉は、本物だよ」

 頭で理解できなかった。けれども先に心が震えた。たとえ嘘だったとしても、いや、嘘では、ない。

 すれ違ってしまったけれど、私は取り返しのつかないことをしてしまったけれど、私は父様が大好きだった。父様もきっと、私のことを愛してくれていたのだと、思う。

 ギルはまた私の背中を撫でてくれた。止めようと思っても嗚咽が止まらなかった。

 落ち着くまで少し時間がかかって、私がしゃくり上げるのをやめると、ギルが私の背中を軽く叩いた。

「言いたいことがあってずっと考えてたんだけどさ、結局どう言っても説教っぽくなるから、俺がして欲しいこと言う」

 ギルは顔を合わせて私の目を見つめた。微笑はなく、まっすぐな目をしていた。

「俺はアリアに幸せでいて欲しい。でもきっとアリアは苦しいと思う。それはアリアが乗り越えていく問題で、俺が肩代わりすることはできないけど、一緒にいることはできる。分け合って、支えることはできる。だから」

 ギルはためらったように言葉を止めて、もう一度口を開いた。

「俺とずっと一緒にいて欲しい。結婚して、下さい」

 私は、ギルが唇を引き結んで硬い表情で私を見つめているのを、見つめていた。

 何を言われたのか、やはり分からなかった。私の頭は働かなくなっているのかもしれない。先程からそういうことばかりだ。

 けれど、言葉の意味は理解できた。どうして? と問いそうになってしまうのをすんでのところで抑える。そんなことを言ったらギルは傷付く。答えは『はい』か『いいえ』しかないのだ。ギルを一生私に縛りつけるのか、私は、どうしたらいいのか。そう考えて、ふと、体の力が抜けた。そういうことではない。私がどうしたいかだ。

 幸せを享受して、その分の罪をも償っていく覚悟があるのなら。

「あのさ」

 ギルは硬い表情のまま私より先に口を開いた。

「迷惑かけたら嫌だからとか、重荷になるから嫌だとか、そういう理由じゃ引き下がらないから。重くてもいいんだよ、一緒にいたいんだ。誰がアリアをなじっても、俺は絶対側にいるから」

 ギルの言葉はとても強かった。叫ぶ寸前の強さだった。

 やはり見抜かれていて、私は静かに息を吐き出した。

 私のしたことは許されることではない。けれど、罪は償える。逆に言えば償うしか方法はない。そうでなければ私が生きる意味はない。ギルは生きていて欲しいと言った。私も、生きていたいと思った。だから、罪も幸せも全部ひっくるめて、もう、いいだろうか。

 私は小さな声で返事をした。

「はい」

 今度は私が、目を見開いて固まっているギルを見る番だった。

「ギルと一緒にいたいです。一緒に、いてくれますか?」

 ギルは固まった表情のまま口を開いていき、徐々に口元を持ち上げ、あふれんばかりの笑顔を見せた。何度か何か言いかけて、改めて喜びを噛みしめるように微笑んだ。

「当たり前。こちらこそよろしく、お願いします」

 ギルは私を強く抱きしめた。耳元で深く息を吐き出す音が聞こえる。

「緊張しすぎて死ぬかと思った。でも、嬉しすぎて死にそう」

 思わず私は微笑んでいた。薄く涙がこみ上げてきて、目を閉じてギルの髪に指を通した。

 悲しいのではない。だからいいだろう。これから先、私はもっともっと苦しむかもしれない。けれどギルと一緒にいることを後悔しない。

 嬉しさで涙がこみ上げてくるような、高揚しているのに落ち着いている不思議な気分だった。ただ、心に降り積もっていたものがゆっくりと溶けていくように、私の心は白く、一点の曇りもなく洗われていった。


 数日後、私は皇都の中で住居を移した。前の住居が不穏分子に知られた可能性を考慮してとのことだった。

 相変わらず、それよりか以前よりも外に出ることは固く禁じられ、ギルを待つ生活がまた始まった、けれど今度は私は比較的穏やかな気持ちで毎日を迎えることができていた。ギルとの絆が深まったのも大きいが、私自身、罪とようやく向き合う覚悟ができたのだと思う。今まで私は罪を直視することができずに、その大きさ、はかりしれない深さに飲みこまれていた。見つめれば大きさも、深さも、全てとはいかないが分かる。目をそらしてはいけない。

 外に出られないかわりに、私はなまった体を少しずつでも元に戻そうと部屋でストレッチを始めた。さすがに訓練のような運動はできないが、外に出られるようになった時に足腰が弱っていては話にならない。

 もう一つ、家政婦に頼んで料理を教えてもらうことにした。これが中々難しく、あり余っている時間で料理の本を読んでは、家政婦に材料を買ってきてもらい試作するということを繰り返した。いつかギルにも食べてもらえればと思って意気ごんでいたが、まず私は包丁の使い方からして危なっかしく、簡単な料理なら味はそれなりにできたが、具材の形がいびつだった。

 ある晩、ギルに料理について聞いてみたら、軍人は新入りの頃、配膳係をやるそうで、料理は一通りできると言っていた。私が料理を出せる日はまだまだ遠そうだ。練習あるのみである。

 ギルは料理の話に続けるように言った。

「あのさ、もう少し落ち着いたら退役しようと思ってるんだ」

 眠る前、ランプの光しかない部屋の、ベッドに並んで座っている時だった。私の中に小さく戸惑いと不安が広がる。

「それは、目のせい、ですか」

 ギルは家にいる時は眼帯を外していたが、外ではつけているようだった。片目が見えないということは前線に立つ軍人としては致命的と言わざるを得ない。

 ギルは私の頭に手を置いて髪をかき回し、「違う」と微笑んだ。その表情にはいたずらを楽しむ子供のような色が少しだけ混じっている。

「前線じゃなくて後方支援とかで残れとは言われてる。今、割といい位置にいるんだ。休戦の交渉成功させた手柄とかも色々あって」

 私はギルに髪を撫でられるまま、頷いた。

「でも丁度いいかと思ってさ。退役して、遠くの海辺の町で一緒に暮らそう。そしたら外に出られる」

 私は驚いてギルの瞳を見つめた。金色の目と、白く膜がかかったような目がそこにあった。

「私は処罰されないんですか?」

「処罰は公にはされない。亡くなったことになってるから。ただし皇舎には二度と戻れないし、皇都にいる限り外には出られない。アリア自身、罰を受けなくても苦しんでるように見えるけど」

 ギルの表情は同情でも憐憫でもなく穏やかだった。頭に置かれていたギルの手が離れていく。

「だから、陛下の国葬が終わったら俺と一緒にここを出よう。遠くに行っても転々としないといけないかもしれないけど、ずっと一緒だから」

 私はまばたきをして、少しだけ視界がにじむのを感じた。そのまま涙を飲みこんでしまおうと何度もまばたきを繰り返す。

 ギルに小さく笑われて、抱きしめられた。

「いいのに、泣いても」

「泣いてません」

 私は首を横に振った。ギルは吹き出すように笑って、思い出したように小さなうなり声を上げ始めた。

「前、誕生日に欲しいものある? って聞いてたの、あれまだ有効?」

 一瞬、私の方が何だか分からなかった。誕生日に何か欲しいものはあるかと、ギルに聞いて欲しいと、そう言ったのは確かレイジだったか。

「欲しいもの、できたんですか?」

 私はギルの腕に抱かれたまま、体を離してギルの顔を見る。以前聞いた時は欲しいものはないと言っていたはずだ。

 ギルは明らかに視線をさまよわせて意味のないうなり声を上げていたが、私からずれたところに視線を止めて、声も止める。

「やっぱいいや、今度で」

 私はギルの背に回していた手でギルの背中の服を引っぱった。

「何でですか、そういうのはなしです」

「いや、今ここで言うと変態っぽいってことに気付いた」

「駄目です。変態っぽくっても何でもいいですから」

 ギルは視線をそらしたままうなっていたが、私に目線をよこして、居心地が悪そうにそらした。私が無理矢理ギルの顔をのぞきこむと、ギルは驚いたように目を開き、観念したのか納得のいかなさそうな顔をしながら息を吐き出した。

「子供欲しい」

 私がギルの目を見つめたまま言葉を噛み砕いていると、ギルはやけになったのか繰り返した。

「アリアとの子供が欲しい」

 別に私だって、言われたことの意味くらい分かる。ただ飲みこむのに時間がかかるだけで。

 そうして言葉を飲みこんだ時、私は何と言っていいのか分からなくなっていた。体から首筋へ熱が上がってくる。

「え、と、はい」

 とりあえず頷いておいた。別に嫌な訳ではない。確かに今まで二度そういう行為をしたが、ちゃんとギルは子供ができないように配慮してくれていたと思う。ああ、けれど、今度は本来の目的でそういう行為をする、ということになるのか。

「ちゃんと結婚式してからな」

 私の飛躍した思考にギルの叫びに近い言葉がかぶさってくる。私は頷いておいた。

「分かり、ました。でも、別に子供欲しいのは変態じゃないと思います」

「いや雰囲気が。何かもっとさわやかに言うべきだった」

 ギルは呪文のように口の中で反省の言葉を呟いていた。暗くて分かりにくいが、目元が赤くなっていた。

 海辺の町で私がいて、ギルがいて、ギルと私の子供がいる生活は、きっと眩しくて愛おしいだろう。罪はあっても、罰があっても、私はきっと生きていける。

 私は薄く涙がにじみ始めた瞳をまばたかせてギルに体を寄せた。涙は溢れてくるけれど、私は微笑んでいた。

 ああこれは、悲しいのではなく、嬉しいのだ。


 数ヶ月後、皇都で父様の国葬が正式に行われた。私は葬列を見ることは叶わず、寝室の窓から空を眺めて、皇都中に響く鐘の音を聞いていた。眺めていた正午の水色の空は、私の視界の中ですぐに歪んで濡れていった。

 新しい皇帝の座には父様の兄の息子、つまり父様の甥にあたる男の子がつくことになった。まだ四歳だそうだから、トリニアの父様がサポートしていくことになるのだろう。

 それから私の元に二ヶ月に一度、皇都の医師団とルリオスティーゴが派遣した医師団がやって来るようになった。

 私は一年にわたり魔力の検査を受け、今は魔力がほぼなく、黒の鳥が現れる可能性は極めて低いと判断を下された。ギルの証言もあり、創造の理は消えたという方向で今後話が進められていくこととなった。私とギルが皇都外へ出ることは許されたが、ギルは退役後も特別に定期的な報告を皇都へ送るよう義務付けられた。

 特別に外出許可をもらって、皇都に住むギルの家族にも、ギルと共に挨拶にいった。第一に受け入れられないことを覚悟していたが、ギルの両親はあらかじめギルの説明を聞いていて、『ギルが軍に入った時からどんな突拍子のないことも受け入れると決めていた』と話してくれた。私には恵まれすぎた処遇で、私は人前だというのにまた泣いてしまった。

 ただ九歳になるギルの妹だけは私と口をきいてくれなかった。

「お兄ちゃん子だからお兄ちゃんを取られるのが嫌なの」とギルの母親が笑顔で説明すると、ギルは困ったように頭をかいた。

 そうして私の魔力検査が終わるのと同時に、ギルは軍を退役した。

 私はギルと一緒に、生まれてからずっとすごしてきた皇都を出た。もうしばらく会っていないトリニアの父様やシディやガゼルに何も伝えられないまま皇都を去るのは悲しかった。不安も手伝って、案の定私は馬車の中で泣いてしまい、ギルはずっと私の手を握っていてくれた。

 たどり着いた海辺の町は、私が以前ギルと訪れた場所と近いそうだった。私とギルは歩いて十分程で海へ出られる家で生活を始めた。ギルは町の飲食店兼酒場で働き始め、私は家で掃除をしたり洗濯をしたり、材料を買ってきて料理を作ったり、海まで自由に散歩に出られるようになった。

 ギルはそのうち自分の店を持ちたいらしい。勤め出した飲食店兼酒場でノウハウを学び、町の人に顔を売っておくのだそうだ。本当は私も働きますと言ったのだが、当面暮らしていくのに困らない程度の貯金はあるし、もう少し落ち着いてからでいいと言われた。

「何だかんだでアリアはストレスに弱いから」と頭を撫でられた。確かに思うところはあったので素直に頷いておいた。それに、自分の好きなことをして穏やかにすごす時間は嫌いではない。散歩をしている時や洗濯物を干している時に感じる穏やかな空気は、私の心を丸く温かくしていった。

 そうして海辺の町に移り住んでから季節が一つめぐり、やって来た春のある日のこと。


 私は椅子に座って、鏡に映る自分を落ち着かない気持ちで眺めていた。隣には窓があり、正午前の柔らかい陽差しが部屋の中を淡く照らしている。

 鏡から現実の自分へ目を向けてみても、目に入ってくるのは白である。床に届く白いスカート、胸元の開いた白い上身頃、ふわりと膨らんだ短い袖が続き、肌を透かす薄い繊細なレースの手袋が、二の腕から指先までを覆う。

 鏡の中の自分へ視線を戻すと、普段しない化粧を施され、ダイヤモンドの小ぶりなネックレスをつけ、金色の髪を結い上げた姿が映っていた。頭にはティアラと背中へ落ちるヴェールがある。

 これ以上の正装はない。けれど私はどうすればいいのかよく分からなかった。いや、別にどうもしなくてよいのだが、とにかく落ち着かない。先程まで私の着替えや化粧を手伝ってくれていた女性は別の場所へ準備に行ってしまったので、私にはやることがなかった。なのですごく困っている。落ち着こうにも落ち着けないし、部屋の中には特に気を紛らわすものもない。

 いつまでこの落ち着かない状態のまま待っていればいいのだろうと思っていたら、扉がノックされた。条件反射で驚きと同時に返事をすると、扉が開いて人影が入ってきた。

 白い靴に白いスラックス、白いジャケットにグレーのストライプのベスト、同じ色のタイ、白い手袋を手に持って、赤い髪を普段より抑えめにセットしたギルが、私の方を見て立ち止まっていた。眼帯はしていない。金色の目ともう片方の目が私の方に留まったまま動かない。

 私は首筋から熱が上ってくるのを感じて、思わず目をそらした。

「へ、変ですか?」

 たとえこれで変だと言われても直しようがない気がするのだが、聞いてしまった。靴音が近付いてくるのが分かって、気付いたら同じ目線までひざまずかれていた。ギルが私の前ではにかむように微笑んで、私の手を取る。

「綺麗」

 そのまま手袋の上から手の甲に口付けられた。びっくりして払いのけてしまいそうになるのをとっさに押さえこんだ。そんなことをしたら失礼すぎる。けれど恥ずかしくてギルの顔を見られなかった。決して嫌な訳ではないのだ。恥ずかしいだけで。

「顔赤い」

 ギルのからかうような声がして、私は頷いた。

「触りたくなるけど後での楽しみに取っとく」

 何だか意味深なことをさらりと言われたが、あまり考えないことにする。私は目を合わせられないまま、ただ頷いた。

「アリア、手紙届いてたよ。後で一緒に見よう。あいつからも届いてたよ。ルリオスティーゴ」

 ギルが笑いながら言ったので私は意外な気持ちでギルの顔を見た。

「ルリから届いたんですか?」

「式に呼ぶって約束したから連絡はしておいた。さすがに呼ぶのは無理だっただろうけど」

 海辺の町に移り住んでから一年、私とギルは今日、結婚の日を迎えた。招待客は皇都からやって来るギルの家族だけで、身内のみの小さな式となっていた。本当は皇舎でお世話になった人達を招待したかったが、私の事情で叶うことはなかった。けれど私はそれでも充分だった。こうしてこの日を迎えられたことが嬉しかった。

「トリニア大将から伝えてくれって言われてたことがあるんだけど」

 ギルはひざまずいて私の手を握ったまま、柔らかい表情をした。

「そのドレス、陛下が仕立ててたんだって」

 すぐに言葉が飲みこめなかった。ドレスはネックレス、ティアラと共に皇舎のトリニアの父様から数ヶ月前送られてきたものだ。サイズもぴったりと合っていたし、トリニアの父様からのお祝いの品として受け取っていた。

「陛下、アリアのサイズが分かんなかったからトリニア大将に聞いたらしいよ。三年くらい前だったかな? 『今仕立てて早すぎないか、サイズ変わったらどうするんだ』ってトリニア大将が聞いたら、『変わったら仕立て直せばいい、けどアリアはもう成長しないから大丈夫だ』って」

 ギルは笑いながら、優しい目をして私を見つめた。

「だからこれは陛下からアリアへのプレゼントなんだよ」

 言葉が出てこなかった。三年前といえば私がブリューテ・ドウタに入る少し前だ。一体、どんな気持ちで父様はこのドレスを仕立てたのだろう。

 ギルと私を繋がせて、ギルを殺そうとした父様。けれどそれでも、私のためにこのドレスを仕立てたというならば。

 ああ、父様はきっと分かっていたのだ。自分がいつかいなくなることを。いついなくなってもいい覚悟をしていたのだ。

 やはり私はどんなことがあっても、どんなことをされても、父様が大好きだった。父様はかけがえのない、たった一人の大切な人だった。

 私はギルに取られている方の手を緩く握り返した。涙が流れ落ちて頬を伝っていった。涙を拭おうとして、レースの手袋をしていることに気付いて慌てて手を止めた。その代わりというようにギルが私の頬の涙を拭っていく。

「でも成長しないは失礼だよな。胸ちょっときつくなってたし」

 私は反射でギルの頭をはたいていた。ギルは笑って「冗談だよ」とおどける。

「トリニア大将からの手紙も来てたから、後で一緒に読もう」

 ギルは私の頬を撫でて、私は薄く膜のかかった視界をまばたかせながら頷いた。

「化粧落ちるよ」

 ギルの声は少し笑っていて、私は鏡を見て自分の目元が茶色くにじんでいるのを知った。

「ど、どうしましょう」

「直してもらえばいいよ」

 そう言われギルの顔が近付いてきて、唇が合わさった。私が固まっている間に唇が離れていって、また合わせられそうになる前に私は慌ててギルの肩をつかんだ。

「え、ちょ、ま、待って。何で急に」

「どうせ直すんだったら口紅落ちてもいいかなと思って」

 いや、それはそうかもしれないが、そういう問題ではない気がする。ゆだった頭でぐるぐる考えていたら、ギルの瞳がじっと私を見つめていることに気付いた。

「嫌?」

 そう言われると、困る。私は熱い頬を感じながら、目をそらして口の中で声にならない声を上げる。

「い、嫌では、ない、です、けど」

 言い終わるのとほぼ同時に唇を取られていた。

 唇を離したギルはいたずらが成功した時の子供のような笑顔で、それから幸せを体現したような、優しい柔らかい表情をした。私によく向けてくれる、愛おしくて胸がしめつけられるような表情だった。

「今日からまた、よろしく」

 私は顔が熱いのを感じながら頷いて、「よろしくお願いします」と返した。

「好きだよ」

 ギルは微笑んだまま、好きよりももっと強い言葉を続けた。改めて言われるとびっくりして、先ほどの感情の揺れも手伝ってか、涙がこみ上げてきた。ギルは小さく笑って私の頬を撫でた。私は涙で薄くにじむ視界を感じながら、微笑んだ。

「私も、好きです」

 好きよりもっと強い言葉を続けると、ギルは少し照れたように笑った。

「幸せになりにいこう。レイジも幸せになれって言ってたし」

 不意にノックの音が響いて、ギルは扉の方へ返事をして立ち上がった。私を振り向いて、私の目元を撫でる。

「直してもらってからな」

 私は茶色くなった目元のことを思い出して、恥ずかしくなりながら頷いた。

 ギルは笑って扉の方へ歩いていく。扉を開けて、歓喜の声を上げたかと思うと、振り返って私を呼んだ。

「アリア」

 扉の向こうに立って私を呼んだのは、シディだった。ドレスを着て、髪をアップにしている。けれど見間違えるはずもない。

 皇都を出てから、手紙でのやり取りは何度かしていた。けれど、もう会うことはできないだろうと思っていた。

 私は溢れてくる感情に震えて、立ち上がって扉の方へ駆け出した。勢いでドレスの裾につまずきそうになり、ギルとシディが慌てて声を上げる。

「ちょ、危な」

「走らなくていいから。逃げないから」

 私はギルとシディの前に立って、頷いた。涙が溢れてきて、ああまた目元が茶色くなってしまうなと思って、笑った。ギルとシディの笑顔がにじんで見えた。


 私は、今日を絶対忘れない。これからも、ずっと記憶を刻みつけて生きていきたい。

 生まれてきて、生きていて、今とてもとても、嬉しい。

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