愛してる(2)

 久しぶりに全身を撫でた外の空気はすっかり夜のものになっていた。淡い紺色に塗られたような空には星がこぼれ始めていた。

 コートナーの後について家の前の通りを抜けると、大通りに面した道に小型の箱馬車が停めてあった。これで皇舎まで戻るのだと言われ、私とコートナーは馬車に乗った。

 私とコートナーが横に並んで座ると、馬車は静かに動き出した。左隣の窓には目隠し用なのかカーテンが引かれていて外の様子は見ることができない。

 私は何も喋らなかったし、コートナーも喋らなかった。ただ馬車の車輪が石畳の道を走る音と、軽い振動の音が聞こえているだけだった。

 ギルに何を言えばいいのか分からなかった。会ったら何を言えばいいのか、そればかり考えていた。

 だから車輪の音が変わっていたことに気付いたのは実際音が変わってから大分後だったのかもしれない。

 その時になってようやく私は思考から現実に戻ってきた。あの家から皇舎までなら十分もかからないはずだ。今、何分たっている? ようやく私の中に不吉な予感めいたものが染み出し始める。

 私は隣にいるコートナーの方を振り向いた。コートナーは私の視線に気付いたように微笑みを顔に戻した。

「今、どこに向かってるんですか?」

 にじみ出した予感は止められなかった。けれど私を利用する価値など、自分ではもう思い当たらない。

「随分深くお考えになっておられましたね。今は皇都を出て十五分といったところでしょうか」

 あまりにも自然に言われたものだから、聞き間違えているのかと思った。けれど、確かに『皇都を出た』と言われた。

「どうして」

 呟きに近かった。色々なことに頭が追いついていなかった。

「説明が必要ですか、我が君」

 コートナーはまるで忠実な召使いのようだった。顔色一つ変えない。動揺している私の方がおかしいとでもいうように。

「説明して下さい。どこに向かってるんですか?」

 コートナーは胸に手をあて、うやうやしく私に一礼した。

「かしこまりました。その前に一つ。私はあなたに絶対的な敬意を払っています。あなたを傷付けるつもりはありません。零間の王妃、いえ、黒の鳥」

 私の肌は瞬間的に粟立った。

「異形のスパイなの?」

 コートナーはあっさりと首を横に振った。

「半分当たりで半分外れです。残念ながら人間です。けれど便宜上、零間の立場についています。現王ではなく先王のスパイです。人間でも零間の立場につく者もいるのです。零間で人間の立場につく者もいるように」

 先王のスパイという存在を始めて知った。先王ということはルリオスティーゴではなく、ルリオスティーゴの伯父おじだったか。

「先王は黒の鳥の力を断片的に使い、戦争を終わらせる、つまり先々王、ルリオスティーゴの父親と同じ思想を持っています。私も基本的には先王に賛同していますが、私が真に忠誠を誓うのは黒の鳥、あなただけです」

「待って」

 ようやく声を絞り出すと、コートナーは素直に口をつぐんだ。私が伝えるべき言葉を練っていると、コートナーは私をのぞきこむようにして微笑んだ。

「ずっとお話できることを夢見ていました、我が君」

 その瞳は素直すぎて、狂気なのかどうかも判断できなかった。

「違います、私はもう鳥じゃなくなったんです」

 コートナーの頭に言葉の意味が染みこむまで時間がかかったようだ。コートナーは微笑みを消し、意外そうな顔をして首をひねった。

「どういうことでしょうか」

 私はある可能性に思い至った。ここで私が鳥の力を持っていないと分かれば、用のないものとして殺されるかもしれない。迂闊だった。私は言葉を止めたまま宙を見つめ続けた。背中に伝った汗でようやく私は全身に汗をかいていることを意識した。

「力が使えないのですか?」

 コートナーの声はあくまでも柔らかかった。けれど私は目を合わせられなかった。いや、合わせない方が不自然だ。けれど体が固まったように動かない。

 コートナーの手が伸びてきて、私は悲鳴を噛んで飛び退いていた。馬車の扉に背がぶつかる。コートナーはやはり微笑んでいて、伸ばした手を所在なさげに引いた。

「落ち着いて下さい、我が君。最初に申し上げました。私は絶対にあなたを傷付けたりしないと。たとえあなたがどんな状態であってもそれは同じです」

 私の鼓動は自分で聞こえる程速まっていた。汗が更にふき出し、体が冷たくなっていくのを感じた。

 コートナーは眉を下げて仕方がなさそうに微笑んだ。

「黒の鳥と金色の鳥の起源をご存知ですか?」

 何を言っているのだろうと思った。

「黒の鳥が世界を壊し、金色の鳥が世界を創る」

 私は断片的に創生神話を呟いていた。

「そうです。けれどそれよりももっと手前の話です」

 もっと手前の話? 私はコートナーの瞳を見つめる。コートナーはものを教える人のように早々に口を開く。

「黒の鳥の源は人々の絶望です。人々の絶望がつもりつもると黒の鳥となるのです。金色の鳥の源は希望です。人々は絶望と同時に希望を託したのでしょうね。ですからもしあなたが今黒の鳥がいないとおっしゃっても、それはいつかまた現れます。人々の絶望がつもったその時に」

 そんな話は聞いたことがなかった。本当だろうか。私の腕に黒の鳥が繋がっている時もそんなことを感じ取ることはできなかったのに? けれど黒の鳥と私は会話できた訳ではない。感じていたのはただ『消す』という思いだけだ。それは限りなく純化されていて、それ以外の意思はまったくなかった。

「と、そういう説を唱えている学者もおります」

 コートナーは種明かしをするように微笑んだ。

「黒の鳥の生態、といいますか生態というのも違うでしょう。あえて仕組みと言うのなら、その仕組みなど本当のことは誰にも分かりません。けれど私はその説も信じています。人があるところに絶望があり、絶望がある限り黒の鳥は失われることはない」

 コートナーは私の顔をじっと見つめた。

「あるいはあなたになら分かるのでしょうか? 黒の鳥の仕組みが」

 私は扉に背をつけたままコートナーを見つめていた。コートナーが何を考えているのか、その瞳から読みとることはできない。

「分かりません。黒の鳥と意思を疎通することはできません」

 本当は黒の鳥は『消え』て、創造の理は終わったと私は思っていた。けれど今正直に説明する必要はない。

 コートナーは変わらず微笑んでいた。普段の顔が微笑みだとでもいうように。

「もし今何らかの理由であなたが力を使えなくなっていたとしても、重ねて申し上げますが私はあなたを傷付けません。黒の鳥はあなたと共にあると信じているからです」

「どうしてですか」

 尋ねる必要はなかったが、尋ねてしまっていた。本当に黒の鳥はどこかに潜んでいて、まだ消えていないのではないかと思ってしまったからだ。

 コートナーは考えるように目を泳がせ、私に視線を戻した。

「信仰に近いでしょうね。私は人間ですが」

 コートナーは言いかけて言葉を切った。

「つまらない身の上話になってしまいますが、お聞きになりますか?」

 聞くべきではない。私は今どこに向かっているかも、コートナーの目的が何なのかも知らないのだ。一刻も早くこの状況を打破する方法を考えなくてはいけない。けれどコートナーの話は私の中で無視できない程引っかかり始めていた。

「聞いても、いいですか。でもその前にどこに向かってるか教えて下さい」

 コートナーは思い出したように頭を下げた。

「失礼しました。我々は国境へ向かっています。零間の領地に入り、先王の元へ向かいます」

 私が黙っていると、コートナーはのぞきこむようにして私を見つめた。

「ルリオスティーゴが休戦協定を結んだことはご存じですか?」

 私は頷いた。詳しいことは聞いていないが、事実としてギルに伝えられた。

「休戦すれば次に起こるのは内戦、というか権力争いですね。不幸にも現王ルリオスティーゴには敵が多い。私は先王に仕える身ですから、当然先王へつき従います。黒の鳥、あなたが治める世界を現実のものとするために」

 私はコートナーの言わんとしていることをよく飲みこんだつもりで首を横に振った。

「私は、そんなこと」

「あるいはあなたはそうかもしれません。けれど私はあなたが治める世界を夢見ています。言ってしまえば先王につくのはその第一歩です。謀反しているととっていただいても構いません。私が真に仕えるのはあなただけなのですから」

 私は言葉を失っていた。これはおそらく狂気と呼べるものなのではないかと思い始めた。

「私は人間ですが、零間の領土で生まれ、育ちました。そこには零間と人間の混血の子供もいました。あなたと同じように」

 コートナーは悪意なく、どこか悲しげに私の目をのぞきこんだ。

 私は外の世界を知らない。自分の他に混血の子供がいるというのは考えてみれば普通の話かもしれないが、耳にするのは初めてだった。

「私達は別に人間だから虐殺されるとか、そういうことはありませんでした。もっと有用な使い方があるからです。それがスパイです。零間は私達に洗脳教育を施し、スパイとして人間側に送りこみました。けれど差別がなかったかといえば、そんな訳はなく当たり前にありました。なにしろ種族が違うのですから、混血の子供も人間も死なない程度に暴力を振るわれて、死なない程度に傷んだ食事を与えられ、泥水を飲んで生きていました。当たり前に死ぬ者もいました。スパイの必要数より圧倒的に人間や混血の子供は多かった。だから成長できた子供がスパイになる位で丁度よかったんです。

 私は生き延びてしまいました。生き延びても特にいいことなどありません。死んでしまった方がいっそ楽だったでしょう。けれど生き延びてしまった私は黒の鳥と出会いました。誰かが語って聞かせてくれたのです。この世界を壊す黒の鳥の神話を。私はすぐに黒の鳥がでてきてくれたらいいのにと思い始めました。黒の鳥は分け隔てなく何者をも平等に消し去る、純粋な力でした。私も、混血の子供達も、黒の鳥がこの絶望しかない世界を消してくれればいいのにと思っていました。あるいは黒の鳥は何でこんな世界を野放しにしているんだという憤りもありましたが、どちらにしろそれは一種の救いでした。

 だから私はスパイとしてあなたの存在を知った時、うち震えました。だってあんなに待ち焦がれていた存在が目の前にいるのです。ずっとお声をかけたかった。けれど私はスパイです。その時は思いとどまりました。けれど休戦が結ばれた今、あなたは皇舎から外に出されました。まるで扱いに困る貴賓のように。先王が黒の鳥を欲しているということもありましたが、そうでなくても私はあなたを零間の側へ連れていこうと思っていました。私は零間も人間も大嫌いですが、人間側よりは零間の方があなたの存在を認めるだろうと思ったからです」

 そこでコートナーは何か思い出したように言葉を切り、顔を伏せた。

「申し訳ありません。気味が悪いとお思いでしょう。自分でも分かっているつもりです。あなたに向ける思いが普通ではないということが。けれど私はあなた以外に救いを知らない。あなたが死ねというのなら喜んで死にます。あなたが世界を壊すまで、私の身は全てあなたに捧げます」

 私は自分の胸元を握りしめたまま、頭をたれたコートナーを見つめていた。

 コートナーの思いは狂気と呼んで間違いないものだった。現に私の体は震えをおさえこもうとして失敗し、震えていた。けれど、信じたくはないけれど、コートナーの絶望にとって、黒の鳥は『救い』になっていた。忌み嫌うもの全てが等しく終わる、それを終わらせることができる『私』はコートナーにとって絶対的な存在になっていた。

「私が」

 声が引っかかって私は軽く咳をした。コートナーが顔を上げた。

「今ここから逃げたいって言ったら?」

 コートナーは目を開き、とても悲しそうな目をして、微笑した。

 馬車が揺れ、私はバランスを崩して扉に背を打った。揺れも音もおさまって、どうやら馬車が止まったらしいと分かる。目的地に着いたのだろうか? コートナーは私がいる方と反対側の扉を振り返り、手を伸ばす。

 コートナーの手が扉にかかる前に、外側から扉が開かれた。帽子を目深にかぶった馬丁らしい服装の男性が立っていた。

「何が」

 コートナーの言葉が終わる前に馬丁は馬車内に踏み入り、座っているコートナーの顔の前に銀色の銃をつきつけた。無駄のない動作で、あっという間のことだった。馬車につけられたランプの光が銀色の銃身をきらめかせた。確かに『銀色の』銃だった。

「動けば殺す」

 地を這うような低い声がした。私は震えをおさえるように胸元を強く握りしめた。コートナーの顔はこちらからよく見えない。けれど、向かい合った馬丁の帽子の下からは黒い眼帯と金色の目が燃えるように光っているのが見えた。

「穏やかではありませんね。ギル様」

 コートナーが呟いた。声は震えてもいないし、こわばっている様子もなかった。

「何のご用ですか? と言いたいところですが、今更取り繕っても無駄でしょうね」

 ギルは答えず、激しい感情を含んでぎらついた目をコートナーからそらさなかった。私を異形の王城から助け出した時ルリオスティーゴに向けた目と同じだ。戦闘中の容赦ない冷たい目と似た、けれど決定的に違う、憎悪のような感情を溢れさせた目だった。

「降りろ。それ以外のことをしたら殺す」

 ギルの口調はあらゆる言葉を封じこむ程重かった。けれどコートナーは口を開いた。

「その格好ということは最初から私を泳がせていたのですか? それとも途中で入れ替わった?」

「次に喋ったら殺す」

 会話にもなっていなかった。ギルは銃の位置をまったく動かさなかった。

 けれどコートナーが小さく笑ったのが聞こえた。

「どうぞご自由に。死ぬことなど今更怖くもない。けれど私が荒っぽいことをしない限り殺せないはずです。聞きたいことが色々あるでしょうからね」

 コートナーの声音は落ち着いていたが、どこか嘲るような響きを含んでいた。ギルは銃口をコートナーの顔から外し、反対側の手を思い切り振りかぶり、コートナーの頬を殴った。

 私は上げそうになった声を噛み殺した。狭い馬車の中でコートナーの体が壁にぶつかり音を立てた。

 ギルはコートナーを殴った手を握りしめて、もう一度コートナーの顔の前に銃口をつきつけた。その片目は先程から幾分も変わらず、いや、更に言葉を失う程の異様な光を発してコートナーを見据えていた。

 コートナーはゆっくりと体を立て直して具合を確かめるように首をめぐらせた。わずかに見えた横顔は、殴られたというのに挑発的に微笑んでいた。

「いいのですか? 好きな女性の前で暴力をふるって」

 コートナーの声は殴られた時に口の中を切ったのか、くぐもっていた。

 ギルは銃をつき出した。コートナーの額と銃がぶつかる鈍い音がはっきりと聞こえた。

「まあ余裕もなくなるでしょうね。仕事とはいえ好きな女性が疑わしい男に誘拐されれば、いてもたってもいられなくなるでしょう。怒るのは至極当然です。ですが怒りは判断力を鈍らせます」

 ギルは銃をつきつけたままコートナーの腕をつかんだ。力を入れているのだろう、ギルの腕は震えていたが、コートナーはこらえるように動かなかった。

「我が君を自分の側に留めておきたいのでしょう? けれどそれは間違っています。あなたは始まりの鳥だ。相容あいいれない、不幸な結末にしかならない。現にあなたは報いを受けている。その見えない片目が何よりの証拠だ」

 コートナーは叫んだ。ギルの眼帯に覆われていない方の金色の片目が、激しい光を残したまま見開いた。

 見えない、と言った。やはり。見えていなかったのだ。

 私がギルの片目を奪ったのだ。

 頭が真っ白になったのもほんの一瞬だった。手違いのような一瞬の中でコートナーの手の中にとても小さな銃が現れた。袖から出てきたのだと気付いたのと、ギルがその手を押さえつけようとするのは同時だった。

 けれど、コートナーは振り向いた。腫れ上がった顔で私を見つめて、これまでで一番悲しそうに微笑んだ。ギルの手はそれより遅く届かず、コートナーは口の中に銃を飲みこんで、引き金を引いた。

 血は見慣れている方だと思っていた。動かなくなった体も、衝撃をもたらすことはあっても実戦では恐怖を感じたことはなかった。けれど私は目が壊れてしまったように、座席から滑り落ちていくコートナーを見つめていた。頭は見たくないと言っているのに目が閉じられなかった。

 歯が震えていることに気付いた。白いネグリジェに散った赤い何かのように、鼓動と同じ速度で目の前が赤く染まっていって、焼き切れるように真っ黒になった。


 体が揺れたのを感じて目を開いた。ぼやけた薄暗い視界の中で金色の目に焦点が合った。私はギルを見上げていて、どうやら歩いているギルに抱きかかえられているらしいということが、背中と脚にある腕の感触で分かった。驚いたからすぐに目は覚めたが、声は出なかった。黒い眼帯をしていない方の金色の目は、戦いの続きのようにどこまでも人をつき放す冷たさに満ちていたからだ。

 やがて規則的な揺れが止まって、下ろされた先はベッドだった。体を起こして見回してみると、見覚えのないごくありふれた部屋のように見えた。カーテンが引かれ、薄暗い室内にはテーブルの上で燃えるランタンの火しか照明がなかった。

 ギルを見上げると、ギルはベッドの側に立ったまま私を見下ろしていた。眼帯をしているからだろうか、私の知っているギルとは別人のようだった。

 ああ、けれどその目は私が奪ったのだ。思い出すと記憶が水のように一気に押し寄せてきて、私は体が浮かぶような嫌な感覚に襲われ、ベッドに横になった。

 コートナーは自分を撃った。その赤色がまぶたの裏にまで飛び散ったように蘇った。あれからどれくらいたったのだろう。私は気を失っていたのだろうか?

 少し落ち着いてきて、私は半身を起こしてベッドのふちに座り、ギルを見上げた。

「何があったか聞いてもいいですか」

 正直、ギルに話しかけるのが怖かった。何も喋らず、知らない人のようだったからだ。ギルはベッドの上、私から少し離れた右隣のところに腰を下ろし、コートナーが自害した後、私を皇都の宿屋に運んできたのだと、淡々と語った。

 コートナーは数週間前から不穏な動きを見せていて、皇舎内でマークされていた。私を連れ出した時、馬丁をつとめるはずだったコートナーの仲間は既に隔離されていて、最初から馬丁はギルに入れ替わっていた。そのまま皇舎を出て、馬車を包囲したタイミングでギルが馬車に踏みこんだ。

 コートナーが自害したのは包囲されていた外の様子が見えたからだろうとギルは言った。私は見えていなかったが、あの時馬車のまわりには軍人達が武装して待機していたそうだ。コートナーは逃げられないと悟ったのだろう。私とコートナーの会話は録音されていて、先王派スパイという存在の証拠になったという。

 ギルは本当に出来事を簡潔に話した。抑揚がなさすぎて聞いているこちらが酷く不安になった。

 言葉が途切れると静かになって、ギルはベッドに座ってから初めて私の方を向いた。薄暗い部屋の中で、左目を覆う黒い眼帯は更に黒く、金色の右目は遠くにあるように見えた。

「どうしてあいつに着いていったの」

 ギルの声はとても低く、押し殺すようだった。予想していなかった質問に私は喉がつまった。どうして着いていったのかと言われれば、『ギルが呼んでいる』とコートナーに言われたからだ。

「ギルの使いで皇舎に来てほしいと言われたので」

「外に出るなって言った」

 怒鳴られた訳ではない。けれどその口調は反論を許さない命令のようだった。

 その時初めて私は、ギルが怒っていることを知った。取り返しのつかないことをしてしまった気になり、急速に鼓動が速まっていく。ごめんなさいと言い終わる前にギルの手が伸びてきて、腕をつかまれた。私は反射的に体を引いてしまった。それがいけなかったのか反対側の肩をつかまれ、思い切り押し倒された。

 私は声を噛んでいた。眼帯をしたギルは片方になった金色の目で私を見ていた。私の知っているギルの面影は幻のように薄れていた。知らない人なのだろうか。私が目を奪ってしまったから、ギルは別人になってしまったのだろうか。それとも私の記憶が作り物なのだろうか。だって私は以前の私を知らない。

 それでも私の記憶が本物であって欲しかった。私を見下ろす金色の目は、私の知っているギルの目と同じものだと思いたくなかった。

「あいつの言うことは聞けるのに俺の言うことは聞けないの」

 抑揚を殺した声が降ってくる。そういうことではない。けれど変に否定しても今のギルとまともに話ができると思えない。でも違うのだ。そんなことは思っていない、伝えないと。

「違い、ます。ギルに会えるって聞いて、すごく、会いたかったから」

 そうだ、私はただ会いたかった。だからコートナーに着いていった。ギルが私のところに来なくなったから。でも呼ばれていると聞いて、嫌われているのではないのかもしれないと思えたから。

「ギルに、会えると思ったから」

 言葉の途中で涙がこみ上げてきて声がつまった。泣きたくなかった。けれど一度こみ上げてきた涙は止められなかった。

 どうしてだろう。ただギルに会いたかっただけなのに、どうして伝わらないのだろう。私とギルの気持ちはばらばらだ。ただ私はギルのことが好きで、ギルにも私のことを好きでいて欲しいだけなのに。

「約束を破ったことは謝ります」

 私は震える声を隠したくて腹に力を入れた。

「任務の邪魔をしたことも謝ります。でもどうして何も言ってくれないんですか」

 一度口を開くと心の中で言葉が一気に溢れた。もちろん私がコートナーに着いていったのが悪い。けれどギルの態度は私の中の許容範囲を超えてしまった。

「どうしてちゃんと話してくれないんですか、私が迷惑だったんならちゃんと言って下さい、怒鳴られた方がずっとましです」

 叫ぶと感情がふり切れて嗚咽がこみ上げてくるのが分かった。こんなことを言っても自分も相手も傷付くだけだ。けれどもう止められなかった。

「元はといえばギルが帰ってこなかったから、私はずっと会いたかったのに」

 言っていることが無茶苦茶なのは分かっている。私だって仕事を放り出してまで会いに来て欲しいとは思わない。けれどそれは理性的な部分だ。感情は違う。もう制御できない。心の奥底のどろどろしたものを全て吐き出さないと、止まれない。

「私のことが好きじゃないんでしょう? 仕方なく一緒にいるだけなんでしょう? だって父様に命令されて私を好きになったんだから」

 金切り声に近い叫びは自分の胸を深くえぐっていった。分かっているのに。自分の言葉で一番傷付くのは自分自身なのに。

「ギルの馬鹿、馬鹿、馬鹿」

 もうはばからずに声を上げて泣き叫んだ。

 目が覚めたとき、怒られてもよかった。けれど背中を叩かれて、もう大丈夫だと言って欲しかった。ギルの腕の中で安心したかった。会えなかった時間を埋めるように話をしたかった。

 けれどギルは私を拒絶した。とりつく島もなく。私は私の理想をギルに押しつけている。けれど好きが一方通行は嫌だ。私はギルに私を好きでいて欲しい。たとえそれが命令だったとしても、本当は。

 泣き続ける私の体の上からギルがどいたのが分かった。涙ににじんだ視界の隙間から、ギルがベッドのふちに移動するのが見えた。私は反射的に起き上がって、ギルに体当りしていた。ギルが驚く声と共に、私はベッドに仰向けに倒れたギルの胸に一緒に倒れこんだ。

「ギルの馬鹿」

 私は泣き声と一緒にギルの胸を叩いた。余計に悲しくなって涙がこみ上げてきた。

 ややあって小さな声が聞こえた。

「もっと怒れよ」

 私は喉で泣き声を押し殺した。伏せていた顔を上げてギルを見る。視界は涙で歪んでいたが、ギルが目をそらし、傷付いたような顔をしているように見えた。

 私はまたしゃくり上げてギルから目をそらす。

「嫌です」

「何で」

「怒れって言ってる人に怒ってなんかあげません」

 私はギルの胸に頬を押しつけた。ギルはまだ馬丁の格好をしていたが、シャツが私の涙でびしゃびしゃになってしまえばいいと思った。

 ああ、でもこんなに近くにいるのに、心は違っているかもしれないのだ。私は好きで、ギルは好きじゃない。そう思うと自然と泣き声がもれていた。

「泣くなよ」

 戸惑いを押し隠したような声が聞こえた。

「嫌です」

 私はしゃくり上げながら思い切り叫んだ。何でギルのために泣き止まなければいけないのだ。ギルのせいで泣いているのに。

「じゃあもっと怒れよ」

 私は今度こそ自分でも分かるくらいに腹が立って、ギルの胸を殴りつけた。

「何で怒られたいんですか、変態になったんですか、馬鹿なんですか」

 ギルは私の両肩をつかんだ。金色の片目は感情を隠すことなく、燃えるように私を睨みつけていた。

「怒れよ、俺はお前を騙してたんだぞ」

 ギルの怒声が腹に響いた。けれど怒声の後、ギルの顔は悲痛そうに歪んだ。

 ああ、どうしてだろう。

 私は振りかぶってギルの頬を打った。よく響く大きな音がして、ギルは驚いたように目をむいた。

「ギルの馬鹿。言って欲しいのはそんなことじゃ、なくて」

 言葉の途中で声が震えた。肉体強化を使えなくなった生身の手の平が痛い。

 ギルも同じように、痛みを感じてくれるだろうか?

「もう、いいんです。騙されてたって、好きでいてもらえれば」

 私は泣いていた。次の言葉を必死で絞り出す。

「だから、お願い、好きって」

 言って。そう言う前に私はギルの胸から転げ落ちて、ギルに覆いかぶさられていた。状況を理解する前に、唇にギルの唇が重なって、数秒後に自分が何をされているか分かった。急激に体と、泣いた目元が熱くなっていく。

 唇が離れても、ただの息継ぎだとでもいうように、またすぐに塞がれた。頭も体ものぼせたように熱くなって、何だかよく分からなくなり始める。ギルの手が脇腹から胸に上がってきて、私は反射でギルの頬をひっぱたいていた。

 ようやく顔が離れる。ひっぱたいてしまったギルの顔を見ると、怒った様子ではなくふてくされたような顔をしていた。金色の片目がこちらを向いて、思わず体がすくむ。

「好きだ。好きだよ。大好きだ」

 噛みつくように言われて、私は驚きで忘れていた涙がまたこみ上げてきてくるのを感じた。

「どうせ嘘なんでしょう?」

 嘘でも本当でもいい、好きでいて欲しい、そう思ったはずなのに、受け入れられなかった。好きと言って欲しいと言ったのは自分なのに。ああ、何て私はわがままで素直じゃないんだろう。引っこみがつかない。もう、謝る程素直になれない。

 ギルは金色の片目を開いて、痛みに耐えるように細めた。傷付けたと、胸の奥の方が崩れ落ちていくように痛んで、涙がこみ上げてきた。私が謝ればいい。そうしたら全部収まる。けれどこじれた気持ちをどうやってほどいて言葉にすればいいのか分からない。

「ずっと謝れなかったから、今謝る」

 独り言のような声が落ちてきた。けれど金色の目は痛みを残したまま私を見つめていた。

「黙ってたこと、傷付けて本当にごめん」

 視界の中でギルの姿が揺れた。私がしゃくり上げるのを抑える声だけが聞こえていた。

「本当はもうアリアを好きになる資格もないし、好きでいてもらう資格もないと思う」

 ギルは言葉を選び取るようにゆっくりと、間をあけて喋った。

「けど」

 ギルの言葉は続かなかった。私の涙が頬から耳に流れ落ちて、ギルの顔が少し鮮明に見えるようになった。

 ギルは口を開き、閉じた。何度か繰り返し、口が言葉をかたどった。

「好きなんだ。本当に、どうしようもなく」

 噛みしめるような、押さえつけるような、けれど痛みのある叫びだった。金色の目は泣いてしまいそうに見えた。本当に泣いてはいなかっただろうけれど。

 きっと、本当は分かっていた。だって私はギルが私を好きでいてくれたらいいと思っていた。ギルの仕草の、優しい顔の端々に、私を想う気持ちがあったことを感じ取っていた。私は駄々をこねたかっただけだ。答えが欲しかった。それでもギルが、私を変わらず好きでいてくれるのかどうか。

 私はギルの首に腕を回して抱きしめた。ギルの顔が私の肩に落ちる。私はしゃくり上げて喋れない体を深呼吸でどうにか押しこめて、かたわらにいるギルに向かって口を開いた。

「好きです。だから、もう一回」

 声が涙で震えて高くなった。けれど喉から言葉を押し出した。

「信じます」

 言葉と泣き声が混ざり合って消えた。ちゃんと届いたかどうか分からない。私が泣くのを止められないでいると、ギルが身じろぎして私の方を向いた。鼻先がくっつきそうな程、顔が近かった。ギルの指が頬に触れて、私は小さく震えていた。指先が頬の涙のあとを拭っていく。

 ギルの表情がほんの少しだけ変わった。やがて私にも分かる程、泣きそうな瞳をして微笑した。

「ありがとう」

 その声に含まれた想いは、ちゃんと分かった。ずっと私は分からないふりをしてきただけだ。

 私はしゃくり上げて、ギルの肩へ顔を伏せた。ギルの指が私のあごをとらえて、唇で唇をふさがれた。

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