愛してる(1)

 私は離宮の一室を歩いていた。私がずっと寝泊まりしている部屋だ。歩くといっても部屋の中を回るように動くだけで、端的に言ってしまえばリハビリだった。

 風の流れを感じて振り向くと、開け放たれた窓から草の匂いを含んだ青い風が入ってきて、ネグリジェを通り抜けた。風が通り抜けた体は少しひんやりした。ネグリジェが風に膨らんでしぼむのと同じように、窓辺の白いレースのカーテンが膨らんで、しぼんで、踊った。

 まだ部屋に陽光は射しこんでいないが、空は澄んで、ちぎれた雲が浮かんでいた。昼になればこの部屋も陽の光でいっぱいになる。私は静かに息を吐き出して、窓辺のベッドに腰かけた。


 私が目覚めてから、三日がたった。あの日、ギルが朝陽の中で私を迎えてくれた日、お互い涙が落ち着いてから、ギルは全てを私に語った。

 私が黒の鳥に飲まれたこと、抜け殻のようになったこと、そして夢で会ったこと。ギルは空っぽになった私に、金色の鳥が記憶していた私の全てを注ぎこんだと言った。だからギルに名前を呼ばれた時、私は私を私と認めることができた。ギルに呼ばれた時、私がギルを呼んだ時、本当に、本当に嬉しかった。

 過去の記憶には穴のあいたように思い出せない部分もあったが、普通に生きていて全ての出来事を覚えている人間などいない。それが普通なのだろうと、その時は思った。

 そこで私は凍りついた。目の前を何の濁りもなく照らしていた朝陽が、急速に鮮やかさを失っていく。思い出したくないことを思い出してしまった時のように、胸の中に毒のような何かが広がっていく。私は震えだしていた指先で自分のネグリジェの胸元を握った。ベッドの上で向かい合ったギルの目を見ることができなくなり、そらした。

「父様、は」

 私は馬鹿だ。あえて遠回しに口にした。顔が見られず、ギルが押し黙った雰囲気を肌で感じた。

「アリア」

 ギルは何か決意したような重い声を出した。

「アリアが、消したよ」

 その瞬間、私は体中の熱が引くのを感じた。危機感、焦燥感、けれど決定的に違う何か得体の知れないものがこみ上げてくる。口の中で歯が震えていた。こみ上げてくる得体の知れないものを押しこめるように胸元の布地を握りしめる。

 開いた口から、言葉が出てこなかった。思い出してしまった。覚えていた。ただ、この覚えていることが嘘だと信じたかった。違うと言ってくれたら、どれだけ、どんなに。

 覚えていた。私が父様を消したこと。黒の鳥と混ざり合い、罪もない人々を消したこと。

 私は、そのまま、こみ上げてくるものに震えていた。向かいの、ギルが動いた衣擦れの音がして、私は弾かれるように体を引いていた。

 ああ、これは、恐怖だ。どうしてこんなことをしてしまったのかと悲しむ前に押しつぶされる。

 ギルの手が伸びてきたのを目の端で捉えて、私はとっさにベッドの上で後ずさっていた。ギルの顔を、見ることができない。手が下ろされたのが衣擦れの音で分かった。嘘のように明るい陽光に照らされているのに、体が作り物のように冷たい。目覚めた先は、おとぎ話のように楽園では、ない。

 衣擦れの音が迫ってきて、私は驚いて顔を上げた。ギルが私の前までやって来ていて、私は反射的にベッドを下りる。けれど扉のノブに手をかける前に背中から抱きすくめられた。息が止まった。ギルが何か言いかけて、ためらったのが分かった。

「逃げないで。一緒にいるから」

 ギルの腕はきつく私を包みこんだ。それだけなのに、本当はそれではいけないのに、こみ上げていたものが薄れて涙が溢れてくる。許されている気になる。違う、けれど許されてなんかいない。それでも、涙が止まらず、腕が振りほどけない。

 私は陽が傾くまでずっと泣いていた。泣いて、ギルの腕に包まれていることに激しい罪悪感を覚え、また泣くことを繰り返した。泣いて、泣き疲れて空っぽになった頃、部屋の中は薄暗くなっていた。

 私は泣き疲れてぼんやりした頭でギルに左目のことを尋ねた。ギルの左目は私が目覚めた時から白く濁っていた。ギルは少し怪我をしただけだと曖昧に答えた。もしかして酷い怪我なのかと尋ねると、そうではないと言われた。私が何かしてしまったのだと思ったが、記憶から何も引き出せない。

 そこで、私はまた崩れ落ちていくような感覚にとらわれる。私は私だと思っていた。けれど何がそれを証明できる? 事実、私は黒の鳥と混ざり合った自分を『消した』ことによって精神を失った。ギルが注ぎこんだという私の記憶は私であるかもしれないが、精神を失う前の私と同じだとどうして言えるのだろう。失ったものを創り出しても、前とまったく同じになるなんて、誰が分かるのだ? 私は私にしか分からない。けれど私は前の私が分からない。

 私は、私という存在が希薄になっていくのを感じた。自分が認めなければ、自分は存在できない。けれど私は誰なのだ? 私はより一層、恐怖の塊がこみ上げてくるのを感じた。どうすればいいのか分からず、うつむいてから顔を上げることができなかった。

 ギルは言った。

「絶対に死ぬな。時間が解決してくれることはたくさんあるし、何よりアリアが死んだら俺は生きていけない」

「寝たきりになってたから、まず歩く練習からしてみて。とりあえず部屋の中から」

 私は頷いた。私もギルと離れたいと思っていた訳ではない。ここにいられてこれ以上望むものはない。ギルとの再会を喜び、心をそれだけでいっぱいにしたい。けれど私は罪人だった。幸せなことだけを望むのは許されなかった。

 恐怖と悲しみと後悔と自責が混ざり合って、私は日に泣いている時間の方が多いのではないかと思う程だった。そうして泣いて、泣き尽くした後、決まって巨大な無力感がやってきた。

 これからどうすればいいのか、何をすればいいのか、もはや私は分からなくなっていた。


 ノックの音で私は顔を上げた。ベッドに座りこんだままぼんやりしていたらしい。珍しく泣いていなかったので、頬の側を吹き抜ける草の匂いがする風も、冷たく感じなかった。ぼんやりしていたら泣いていたということもよくあった。

 ノックは決められたリズムではないと扉を開けてはいけないことになっている。音を確かめてから、私はベッドを下りて扉を開いた。

 黒いスーツに白いワイシャツのボタンを開けて、首元に黒いチョーカーをつけた赤い髪の、ギルは私を見て微笑んだ。

「おはよう」

 ギルは変わらず微笑みかけてくれた。私は自然と視線を落としてから、消え入りそうな声で挨拶を返した。私が目覚めてから医師が数度この部屋に来たが、それ以外に訪れてくるのはギルだけだ。

 私はギルの目をまっすぐに見ることができなくなっていた。ギルに甘えてはいけないという思いからと、白く濁ってしまった左目を見ることに耐えられなかったからだ。左目についてギルは私のせいだと言った訳ではない。けれど私はそうだと思っていた。私が意識を失う前、ギルの目は何ともなかった。それに私のせいではないならギルはもっと強く否定しているはずだ。

 私はそれでもギルを見つめようとした。ギルを見つめて、それがギルだと分かるように。私の中の記憶が変わっていないのを確かめるように。だからギルがギルだと分かると安堵した。ある日突然分からなくなってしまったらと思うと、また胸の奥から感情がこみ上げてくる。

「眼帯した方がいい?」

 ギルの瞳が優しく、けれどどこか淋しそうに私を見つめていた。

「目、合わせてくれなくなった」

 私は目をそらしそうになるのをこらえて、ギルの目を見つめたままでいた。だって、その目は私が奪ったのだ。

 震える唇をきつく閉じると、ギルは真剣な表情になった。

「アリアがこれからどうするか話してきた」

 私は処刑されるのだろうか。そうなってもおかしくない。どこか他人事のような感覚だった。

「しばらく皇都に移ってもらうことになった」

 一瞬、ためらったようにギルが言葉を切る。

「アリアは亡くなったことになってるから。そろそろ皇舎から出た方がいいって」

 ギルはあまり抑揚のない声で言った。もしかして納得していないのかもしれない。

 私は亡くなったことになっている。そして皇舎から出る。もうここには二度と戻ってこられない。そういうことだ。涙は出なかった。頭の中に薄い膜が張っているように、感情が動かなかった。

「俺が監視につく。夜、訓練が終わってからそっちに行くよ」

 皇都に移り、昼間は一人ですごし、夜にギルがやってくる。私という存在の脅威はもうなくなっているのだろう。監視がつけられるのは保険のようなものだと思う。

 そしてやはり最後は、処刑されるのだろうか。

「会ってもらいたい人がいるんだけど」

 ギルは私の顔をのぞきこんだ。金色の目と、白く濁った左目に目をそらしてしまいそうになるがこらえた。

「誰、ですか?」

 トリニア大将、父様だろうか。シディだろうか。私に知り合いは多くない。

「ルリオスティーゴ」

 予想していなかった名前が出て、空っぽだった体が少しだけ緊張した。ギルは慌てたように、会議で休戦協定が結ばれ、今も滞在中だと話してくれた。

「アリアに直接聞きたいことがあるって。呼んでくるから待ってて」

 ギルは振り返る形でノブに手をかけて、思い出したように私に微笑みを向けてから部屋を出ていった。私は重い体を感じながら部屋の奥に戻り、ベッドに腰かけた。

 そういえば会談が行われる予定になっていたことを思い出した。あの時からすっかり状況は変わってしまったけれど。

 一分もたたない内にノックが聞こえた。内側から鍵をかけていないので、そのまま扉が開かれる。入ってきたのはギルと、ゆったりとした白い布を使った服に金色の装飾具をつけた、ルリオスティーゴだった。気だるそうに伏せられていた若葉色の目がこちらを向く。

 私は体を引いていたことに気付いて、ベッドに座り直した。休戦協定が結ばれたのなら今は敵ではない。最後に会ったのが異形の王城でのことだから、数ヶ月ぶりか。

 ルリオスティーゴはベッドの前で立ち止まって私を見下ろした。害意や威圧感はない。

「休戦の会談を行う予定だったことを覚えているか?」

 予想していなかった切り出しに私は一瞬考えたが、頷いた。それは覚えている。

「お前が体だけの状態になった後、皇帝もお前も不在のまま行われた。そこで休戦協定を結び、俺は黒の鳥がどうなったかを探るために、こいつとこいつの夢を通じてお前の夢の中に入った」

 ルリオスティーゴは斜め後ろで硬い顔をしているギルに目を向けた。

「俺は途中で弾き出されたがな。夢の中で行われた内容は聞いたかもしれないが、実際にそれを覚えているか?」

 夢の中でギルは空っぽの私に金色の鳥の記憶を注いだ。その時、ギルと私のまわりには金色の雪が降ったと言っていた。けれどそれは私の記憶の中にはない。

 私は首を横に振る。ルリオスティーゴは特に落胆した様子もなく「それならそれでいい」と言った。

「俺が今一番知りたいのは一つだけだ。お前に繋がっていた鳥はどうなっている?」

 言われて、私は医師に同じことを尋ねられたのを思い出した。

 今、私の中には魔力がほぼない。あるのは一般人が無意識に持っているレベルの、魔法が使えない程度の微弱なものだ。つまり今の私は一般人だった。生まれた時から常につきまとっていた左腕を媒介にした魔力はなくなっていた。感じ取れなくなっただけかもしれないが、きっと違う。私は、ギルが自分に銃を向けた時、黒の鳥と混じり合ったわたしを『消した』のだから。

「多分、いないです。黒の鳥という存在そのものが。私は黒の鳥と意識が混ざり合って、私はわたしに『消す』力を使いました。だから多分、創造の根本はなくなりました」

 道筋は違っていたが、父様の望んだ通りに。思い出してしまい、私は息をつめた。

 ルリオスティーゴがやがて声を発した。

「分かった。黒の鳥がいないとなれば俺も戦争は望むところじゃない。次は医師団を連れてくる。本当に黒の鳥が消えたのか正式に結果が出るまで声明を出すことはできないが、今回はこれで充分だ」

 私はうつむき加減に頷いて、こみ上げてきそうになる涙を抑えた。

「お前はもう自由だ」

 頭の上から降ってきた言葉に、目を見開いた。それは冷たくも優しくもない、ただ純粋な事実を告げていた。

 私の視線からルリオスティーゴが去っていく。ギルが私をのぞきこんで肩に手を置き、「また後で来る」と言って離れていく。

 扉が閉まる音がして、静けさから私は一人になったことを知った。

『お前はもう自由だ』

 そこにどんな意味がこめられていたのか分からない。けれど確かに黒の鳥はもういない。私はあれほど望んでいた普通の存在になったのだ。

 けれど。私はうつむいて歯を噛みしめていた。頬が濡れて、そのまま拭いもせず瞳を閉じた。

 これが私の望んだ自由の結末なら、自由になどならない方がよかった。けれどもうそんなことも許されない。やり直すすべはない。

 私は声を噛み殺して、膝の上の手を握りしめた。屈折した視界から生暖かい涙が落ちていって、手の甲を濡らした。


 数日後、私は陽が昇らない内に皇都の新しい住居へ移動した。つきそいはギルだけで、私は目覚めてからまだトリニアの父様やシディやガゼルに会っていなかった。ただ、会わない方がよかったのかもしれない。会ったら体がすくむだろう。罵倒されても、許されても、言葉が見つからないだろう。

 新しい住居は皇舎から歩いて三十分程のところにあった。ギルいわく商店街から近くて便利らしい。建物は二階建てで、道にそって同じような形の家が連なっていた。

 中に入ると一階部分が居間で、二階が寝室になっていた。食事の準備や掃除、洗濯などは家政婦が来てやってくれるので、特にすることはないらしい。

 ただ、外に出てはいけない。それは離宮の生活の延長だった。つまり私は緩慢に監視されているのだ。

 夜は家政婦と入れ替わりにギルが来るとのことだった。そして朝になるとまた家政婦がやって来て、ギルは皇舎に戻る。そんな生活をしていたらギルが体を壊すのではないかと思ったが、来なくていいとは言えなかった。

「私のことは心配しなくていい」と言えず、私はまた深い泥のような気持ちの中へ沈んでいった。幸せであればある程、嬉しさを感じる程、お前はそこへ行ってはいけないと誰かが引きずり下ろしにくるように、気持ちがこぼれ落ちていった。

 新しい住居での暮らしに不便はなかった。家政婦は中年の女性で、昔私の世話をしてくれたメアリーにどこか似ていた。

 私は食事もとれていたし、体調にも問題はなかった。けれどベッドの上で起きて、少し部屋を歩き回ったり本を読んだりするだけの生活が二週間程続くと、同じことの繰り返しが苦痛になってきた。

 私はベッドに座ってぼんやりしていることが多くなった。昼寝をすることも多くなった。けれど時間の流れはとても遅く感じた。

 夜にはギルがやって来て私と話してくれたが、私は段々、自分がちゃんと笑えているか分からなくなってきた。

 夜はギルと体を寄せて眠った。安らかな気持ちに包まれることに罪悪感を覚えながらも、私はギルと一緒に眠るのをやめなかった。ギルはベッドに入って体をくっつけるとすぐ眠ってしまい、私は寝顔を見つめていることが多かった。昼間の訓練とここに来ることで疲れているのだろう。私が昼寝をして眠れないせいもあった。

 私はギルの頬に触れて、自然と涙を流していた。声は出なかった。ただ涙だけがこみ上げて流れた。そのまま、毛布の中の温かさに混ざり合って、眠りに落ちた。

 この緩慢な生活はいつまで続くのだろう。もう慣れをこえて、私は何もする気がなくなっていた。時々激しい罪悪感に襲われた。けれどその後は自分自身を遠くから見ているように、何もかもが薄れていった。何をしているのか分からなかった。何もしたくなかった。時が解決してくれることもあるとギルは言っていたけれど、これがそうなのだろうか? 今夜覚えていたらギルに聞いてみようと思った。

 けれど、ギルはこの日帰ってこなかった。家政婦が寝室までやって来て、少し申し訳なさそうに告げた。

「お嬢様、今晩ギル様はお戻りにならないそうです」

 家政婦が戻っていった後、理由を聞いてみればよかったと思ったが、追いかけてまで聞く程ではなかった。きっと忙しいのだろう。本来なら軍人は皇舎で寝泊まりするのが普通なのだ。

 家政婦には私とギルをどういう関係だと説明してあるのだろう。彼女は今晩どこで寝るのだろう。居間にベッドはなかったはずだけれど。

 私はとりとめもないことを考えながら、眠くもないのにベッドに横になり、眠っては何度も目を覚ましてということを繰り返し、朝を待った。

 けれどその日もギルは帰ってこなかった。家政婦に理由を訪ねると、「詳しい理由はお伺いしていなくて」と困った顔をされた。家政婦は電信機を持っていて、ギルにかけ直してくれたが、繋がらなかった。

 その次の日も、ギルは帰ってこなかった。この日はギルが私にかわって欲しいということで、家政婦から電信機を渡された。

「ごめん、昨日もちょっともめてて。明日は帰れるようにするから」

 電信機ごしの少しこもった声を聞いたら、涙が溢れてきた。しゃくり上げないように歯を噛んだが、声が出せなかった。こんなことでいちいち泣かれるなんてギルも嫌だろう。どうにか一言でも絞り出そうとしていたら、囁くような声が聞こえた。

「泣いてるの?」

 押しとどめていたものが決壊して、私はしゃくり上げて泣き出してしまった。申し訳なくて、声にならない声で謝った。

「泣いてくれて嬉しい。俺も帰りたいよ。帰れるように頑張るから」

 笑いながら、とても温かい声で言われると、反射のように私の目から涙が溢れて落ちていった。

「もっと話してたいけど、そろそろ切らないと。じゃあおやすみ」

 ギルが電信機を切る瞬間まで、私は急き立てられるような感覚があった。もっと話していたかった。やはり私はギルが必要なのだ。

 けれどその次の日もギルは帰ってこなかった。私がぼんやりベッドに座っている内に連絡が入ったらしい。家政婦は「少しでもいいのでお嬢様とお話されては」と言ったが、申し訳ないが時間がないと言われてしまったということだった。

 昨日あんなに心が震えたのに、今日は逆だった。あれは別れの挨拶だったのだろうか。ギルも私の面倒をみるのに疲れて離れたくなったのではないだろうか。そうして、ようやく、思い出した。今まで忘れていたのが不思議な程、重要なことだった。

 ギルは父様の命令で私を好きになったのだ。そのことをずっと私に黙っていた。だから私は黒の鳥と混ざり合った時、憎しみすら覚えていたではないか。どうして忘れていたんだろう。ギルが私を好きだなどとどうして信じていられたのだろう。ギルは私のことが好きではないのかもしれない。はっきり思うと、急に胸をえぐられたように息がつまり、叫び出したくなった。

 怖かった。あんなに何もする気が起きなかったのに、ギルがいなくなってしまうと考えただけで冷たい汗がふき出した。ギルがいなくなったら、私はここにいる意味がなくなる。生きている意味さえも。

 どうすればいいのか考えられなかった。汗で体にはりついたネグリジェを気持ち悪く感じながら、私は自分の速い鼓動を聞いていた。

 引き裂くようなノックの音が聞こえて、私は飛び上がった。実際にはノックは穏やかだったはずだ。変に神経が高ぶっているだけだ、落ち着かないと。

 私はゆっくり息を吐き出してから、ベッドを下りて扉を開けた。

 開いた扉の向こうには家政婦と、その後ろに嫌でも目を引く長身の男性が立っていた。その男性の顔をどこかで見たことがあるような気がした。思い返すと、わりかしすぐに記憶は繋がった。父様の側仕えだった男性だ。執務室に行けばよく顔を合わせていた。

「こんばんは」

 男性は微笑んだ。誰にでも好かれそうな人のいい笑みだ。

「ギル様のお使いだそうです。お嬢様にお会いすればお分かりになるとのことでしたけど」

 家政婦は戸惑いぎみに男性を振り返り、私に視線を移した。

 確かに男性と私は顔見知り程度ではある。けれどギルの使いとはどういうことだろう。

 男性はあくまでも丁寧に、静かに家政婦の隣に並んだ。

「コートナーと申します。名乗るのは初めてかもしれません。陛下の側仕えをしていました。覚えていらっしゃいますか?」

 私が頷くと、コートナーは表情を微笑みから笑みに変えた。

「それはよかった。早速で申し訳ありませんが、ギル様からの伝言で、私と一緒に皇舎に来ていただきたいとのことです」

「どうして、ですか?」

 私は相当混乱していたが、まだ質問できるだけの落ち着きはあった。

 コートナーは微笑んだまま、器用に眉を下げた。

「私も理由は聞いていません。ただお連れするようにとのことです」

 どうして父様の側仕えがギルの使いで来るのだろう。確かに体制は変わったと聞いてはいたけれど。

「今はギルの補佐なんですか?」

 コートナーは言葉を選んでいるように少し黙ってから口を開いた。

「特に誰の補佐と決まっている訳ではありませんが、アリア様をお連れするのに私が一番目立たないだろうという理由です。私は軍人ではありませんし、一番手が空いているということもありました」

 私が一つ一つ言葉を消化している間に、コートナーは言葉を重ねてくる。

「買い出しの名目で出てきたのであまり時間がありません。さあ参りましょう」

 私の体はこわばった。ギルが私を呼んでいるとして、私はギルに会ってどうしたらいいのだろう。ギルは私を好きではないかもしれない。そうして会って、何を話せばいいというのだろう。

「ギルは、私に会いたくないんでしょう?」

 口をついて出ていた。私の声はかすかに震えていた。

 コートナーが驚いたように微笑をとく。けれどここでコートナーに言ったところで、コートナーにしてみればどうしようもない。

 答えなどない。分かっていて、私は空気中に散らばってしまった自分の言葉をかき集めて消したくなった。

「会いたがっていますよ」

 コートナーが静かな声を発した。コートナーはいつの間にか微笑していた。

「とても」

 後押しするような言葉に私は気持ちが揺らぐのを感じた。

 どうしてだろう、私は結局求めているのだ。認めてくれる何かを。会ってもいいと許してくれる言葉を。

「参りましょうか。申し訳ありませんが時間がないのでそのままの格好で結構です」

 私は自然と歩き出していた。家政婦に『行ってきます』と告げてから、私は惰性と停滞した時間の染みこんだその部屋を出た。

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