金色の夢(1)

 目の前は真っ白だった。俺は思わず自分の手を見た。ちゃんと動くし、顔を触ってもちゃんとある。服装は平服のジャケットにスラックスだった。

 ふと目の前の白いもやの中から誰かやって来るのが見えた。もやと同じ白い服を着た、ルリオスティーゴだった。王城で戦った時と同じ、正装ではなく白く流れる布でできたタンクトップと白いズボンに、金の腕輪をたくさんつけていた。

「これ、俺の夢の中か?」

 目の前のルリオスティーゴに問いかけると、ルリオスティーゴは頷いた。

「そうだな。俺が入ると大抵こんな感じになる」

 ルリオスティーゴはただ白いだけの中空を手で払ってみせた。

「ここからアリアの夢に繋げるのか?」

「慌てるな、うるさい。今探している」

 そう言われては元も子もなく、俺は口を引き結んで黙りこむ。自分でも何か感じないだろうかと眉間にしわを寄せていると、ルリオスティーゴが小さく舌打ちした。

「何だよ」

 また何かかんに障ることをしたのかと思って聞いてみるが、ルリオスティーゴは険しい表情で下の方を睨んでいた。

「アリアの夢を見つけたが、微弱すぎる」

「入れないのか?」

「入れない可能性もある。まあ入れなくてもただ入れないで終わるだけだが。俺はな。お前に関しては保証できない」

「どういうことだ?」

「俺がお前を引っ張ってアリアの夢の中に入る。だが夢に入るのはお前の能力ではないから、失敗した場合どうなるか分からない」

 言うのが遅いのではないかと思ったが、どちらにしろ変わらない自分の気持ちに気が付いて、頷いた。

「可能性があるなら何でもやるって言っただろうが。やってくれ」

 ルリオスティーゴは少し考えるように視線を外して、目を伏せた。

「まあお前は鳥だ。万が一の時は自分で何とかしろ」

 陛下にも再三お前は金色の鳥だと言われたが、自覚もないし、何か特別な能力がある訳でもない。

「何とかするよ。本当に鳥なのか知らないけどな」

 ルリオスティーゴはこちらに歩んできて俺の前に立った。

「鳥だろう。皇帝が何の証拠もなしにお前を鳥扱いするとは思えない。それに、これはまあ偶然だろうが、お前の目は金色だ」

「目の色で鳥かどうか決まるなら世の中は鳥だらけだな」

 ルリオスティーゴは黙って俺の腕をつかんだ。俺が眉間にしわを寄せていたからだろう、ルリオスティーゴは「我慢しろ。放り出されたくなかったらな」と付け加える。

「金色の鳥は創り出す鳥だ。不満があるなら自分で創り変えられるだけの力がある。始めるぞ」

 ルリオスティーゴは俺の腕をつかんだまま、何もない白い空間に向き直った。そのまま手を伸ばすと、空間に吸いこまれるように指先から腕が消えていく。ルリオスティーゴの姿がほとんど消えると、つかまれていた自分の腕まで消え始める。やがて半身が白に塗りつぶされたように消えていき、急に視界が暗転した。

 唐突に体が一回転する感覚があって、思わず声を上げていた。そのまま腕と足が反対方向へねじれるような衝撃があり、体中があらぬ方向に引き絞られる。痛みで関節が音を立てた時、急に圧力から解放され、視界が真っ白になった。

 白いのではない、突然明るくなって見えなかったのだと分かったのは、目の前に広がる風景が見えた時だった。

 俺は言葉を失った。自分の状況がまったく理解できなかった。

 俺は空に浮いていた。スイル(飛行呪文)は使っていない。眼下に広がるのは皇都の街並みだった。かろうじて皇舎が見えたので上空からでも皇都だと分かったのだ。

 呆然とする俺の体を風が容赦なく叩きつけていく。上空だから風が強いのだろう。作り物ではない、あまりにも現実味を帯びていた。そこで俺はようやくルリオスティーゴの存在を思い出した。遮るものなどない空の上で見渡してみても、ルリオスティーゴの姿はない。俺はアリアの夢に入ったはずだ。ここが夢なのか? 失敗したのか?

 回らない頭で必死に考えていると、突然体が引っ張られるように急降下した。叫んで、意味が分からないまま地面に叩きつけられるのかと歯を食いしばったら、どうやら皇舎へ向かって落ちているらしい。どんどん大きくなってくる皇舎の建物の上空で、引っ張られるように体が止まった。

 俺は数秒固まって、また落ちないだろうかと警戒しながらも息を吐き出した。急に落ちて、止まって、意味が分からない。それにここが何なのかも分からない。見知った建物は確かに皇舎だったが、何の説明にもならない。

 先程より弱くなった風を感じながら皇舎の中庭を見下ろしていたら、ふと植えこみに隠れて、誰かうずくまっているのが見えた。もう少し近付ければと思ってスイル(飛行呪文)の時のように体を移動させようとするが、動かない。先程の落ちたり止まったりは俺の意思ではできないらしい。やはりここがアリアの夢なのか。考えていたらうずくまっている人影が植えこみからゆっくりと動いた。

 金色の長い髪に水色のドレス、どちらも泥や砂で薄汚れている。片腕は黒い翼、疲弊した表情にもまだ険しさを残すその顔は。

「アリア」

 叫んでいた。とっさに手足を振り回すが、体はその場から動かない。

「くそ、ふざけんな、動け」

 こんなに近くにいるのに。やっと会えたのに。

「アリア」

 動けないならと必死に叫ぶが、届かないのかアリアはまったくこちらを見ない。夢だから聞こえないのか。けれど叫び続けた。自分の声がかき消されるまでは。

「誰だ」

 よく通る声に俺は身を固くした。植えこみに身を潜めるようにしゃがんでいたアリアも表情をこわばらせている。

 その視線の先にいたのは、戦闘衣に身を包み、張りつめた雰囲気でアリアの方を睨む金髪の青年、陛下だった。

 俺はまたしても言葉を失っていた。陛下は目下生死不明のはずだ。それに、小さな違和感が生まれる。違和感の正体を探ろうとよく見ると、俺は重大な間違いに気付いた。

 アリアによく似ている女性は、アリアではない。本当によく似ているけれど、違う。そして陛下は今よりどことなく顔立ちが幼い。気付いたものが意味する先を理解しようとして、確信が持てずに思考が止まる。

 植えこみにうずくまっていたアリアに似た女性が、意を決したように立ち上がった。

「初めまして、私はジュリアータ。零間の王妃です。早速で申し訳ないのですけれど、取引しましょう。私は零間に関する重要な情報をお教えします。戦争が終わるくらいの重要な情報です。そのかわり私をかくまっていただきたいのです」

 声はアリアより少し低めだった。それより目を見張ったのが、毅然とした態度、というよりある意味図々しいまでの落ち着きようだった。陛下も同じことを思ったのか、腰にさした剣をいつ抜いてもおかしくない程、張りつめた表情でジュリアータを見つめる。

「何を言っている?」

「ええ、突然で申し訳ありません。けれど今申し上げたことは全て本当なのです」

 陛下の表情が険しくなっていく。

「お前が王妃だという証拠がない。もし本当だとしてもかくまう必要はない」

「そうですね。王妃だという証拠はあいにく持っておりません。けれどこれがなんだかお分かりになるでしょう?」

 ジュリアータは左腕の黒い翼を広げてみせた。アリアの翼は黒い魔力の塊が翼の形になっていたが、ジュリアータの翼は黒い鳥の羽そのものだった。

「黒の鳥です。数週間前に現れました」

 陛下は瞳を細めて剣の柄に手をかけた。

「では、なおのこと生かしてはおけない」

「ええ。ですから捕縛した時にお話を聞いていただければいいのです。何もお聞きにならないで殺すのはおやめになって下されば」

 陛下はわずかに眉をひそめた。

「何を言っている? 自分の立場を分かっているのか?」

「分かっております。ですからかくまっていただきたいというのは語弊がありましたね。まず私の話す情報を聞いてからお決めになっていただければいいのです。零間側は私を探しています。私の話が価値のないものだと判断したなら殺すなり何なりなさって下さい」

 陛下は剣の柄に手をかけて眉をひそめたまま考えあぐねている様子だった。無理もない、俺も部外者ながら反応に困る。

 その時、複数の足音が近付いてくるのが聞こえた。上空から見下ろしていると、建物の影から陛下の方へ兵士が三人駆けてきている。

「皇子、こちらですか」

 兵士の一人が叫ぶと、陛下は弾かれたように顔を上げて迷わず植えこみに飛びこみ、ジュリアータの体を押さえつけた。ジュリアータが小さな悲鳴を上げたが、陛下は身を伏せたまま口の前に人差し指を立てる。

 やがて兵士達がやって来て、あたりを見回しながら去っていくと、ジュリアータが怪訝な表情で顔を上げた。

「なぜ隠れていらっしゃるの? 私をつきださないのですか?」

 陛下はわずかに迷ったように目を泳がせた。

「まだ確認していないことがあったからだ」

「どのようなことですか?」

 陛下はジュリアータから目をそらして黙りこんだ。ようやく気付いたのか、ジュリアータの体を押さえつけていた手もさりげなく離す。

「一旦話を聞く。部屋を用意するから夜までそこに隠れていろ」

 陛下はあたりを見回しながら植えこみから立ち上がる。ジュリアータの方を見て、逡巡してから手をさしのべた。

「こちらへ」

 ジュリアータは地面にしゃがみこんだまま、呆然とした表情で陛下を見上げていた。

「早く。気付かれたら終わりだ」

「本当ですか?」

 陛下は苛立たしそうに眉を上げた。

「何がだ」

「お話を聞いて下さるのですか?」

 陛下は思いきり眉をひそめた。

「自分で言ったのだろう」

「ええ。そうなのですけれど」

 陛下はとうとう嫌気がさしてきたのか、うんざりした様子で頭を押さえ始めた。

「とにかく。話は聞く。早く」

 陛下がジュリアータの翼ではない方の手を取ると、ジュリアータは驚いたように体を震わせた。陛下はわずかにひるんだような顔をしたが、何かに気付いたように表情を変えていく。

「も、申し訳ありません。震えていて」

 ジュリアータは頬を紅潮させてうつむいていた。

「あんなにふてぶてしくしておいて何だとお思いになるでしょうけど、本当に聞いていただけるなんて思わなかった。殺されると、思っていました」

 ああ、だから、陛下が握った手は震えていたのだ。ここからではジュリアータが震えているのまでは分からない。けれどあんなにも毅然としていた態度の裏は、怖くて怖くて仕方がなかったのだ。

 陛下はうつむいているジュリアータをばつの悪そうな顔で見つめて、息を吐き出した。

「失礼」

 陛下は再びしゃがみこんで、ジュリアータの腰に手を回した。ジュリアータの小さな悲鳴が聞こえるのと同時に、腰を抱いて無理矢理立たせていた。

「後でいくらでも聞こう。とりあえず今は早く」

 ジュリアータは頬を紅潮させたまま、壊れた人形のように何度も頷いた。けれど思い出したように陛下を仰ぐ。

「皇子とお呼ばれになっておりましたね。第一皇子フィガロ様ですの?」

 陛下は初めて、薄く笑った。

「いや。第二皇子ラルゴ。気楽なものだ」

 陛下の言葉を最後に、突然目の前の風景がかき消えるように泡立ち始めた。風景が揺らめいて段々黒く消えていく様は明らかに現実的でないが、もうあまり驚かない。

 今見ていたもの、あれはまだ皇帝になる前の陛下と、おそらくアリアの母親だ。あの後当時の皇帝と第一皇子は戦死し、第二皇子だった陛下が即位している。つまり過去だ。

 そうするとここはアリアの夢ではない。あの時アリアはまだ生まれていないから、あんなに鮮明な記憶を持っているはずがない。するとここは何なのか? 俺は一体今どこにいるのか?

 風景の泡がおさまって、俺はあたりを見回した。太陽の浮かぶ青い空に、見覚えのある白い建物、離宮の上空に俺は浮かんでいた。暖かい、柔らかい風が体を撫でていき、春なのかとぼんやり思う。

 どこからか子供のかん高い声が聞こえてきて、俺は離宮の庭、というより手入れされていないので草の伸びた芝生、に目をやる。

 金色の髪の毛を揺らして水色のドレスを着た小さな女の子が、転がるように芝生に倒れこんだ。女の子はすぐに起き上がって、また草の上を走り出していく。

 俺は喉元まで沸き上がってくるものを感じながら女の子を目で追っていた。あれは、アリアだ。今度こそ間違いない。三、四歳くらいだろうか。

 芝生の上を転がるように走るアリアを見ていたら、離宮の建物から中年の女性が走り出てきて、すぐにアリアを捕まえた。

「アリア様、いけません」

 肩をつかまれ、走れなくなったアリアは手足をばたつかせる。

「やだ」

 よく響く声で叫ぶと、更に色々な金切り声を上げ始めた。女性は慣れているのか、少し眉を下げたもののアリアを抱き上げて建物の方へ戻っていく。

「いい子にしていたらきっとお父様もすぐに来てくださいますよ」

「うそつき、とうさまはこない」

 自分で言って悲しくなったのか、アリアは瞳を歪めて火がついたように泣き始めた。女性は仕方がなさそうに笑いながらアリアの背中をさすり、建物の中へ消えていった。

 俺は女性が消えていった先の建物をしばらく見つめていた。確かにアリアは昔、離宮にいたと言っていた。幼いアリアはここで育ったのだ。

 物思いにふけっていたら、また景色が泡立ち始めた。今度は空ではなく、俺はどこかの一室に立っていた。部屋の中には少し成長したアリアと、陛下、先程の中年の女性がいた。アリアは陛下の手を引っ張り、頬を紅潮させて興奮した様子で喋っている。陛下は目を細め、相づちを打ちながらも壁際に立っている女性に目をやった。

「いつもご苦労。メアリー。最近のアリアの様子は?」

 メアリーと呼ばれた女性は恐縮したように首をすくめたが、すぐに笑顔になった。

「私などにはもったいないお言葉です。最近のアリア様はご病気もされずお元気でいらっしゃいますよ。お歌がとってもお上手になられて」

 そこでメアリーは少し困ったように笑った。

「陛下がお帰りになられた後はしばらく泣いていらっしゃいます」

「ないてないもん」

 アリアが眉を上げて言葉を遮った。メアリーはアリアに微笑んで、「それでは私の見間違いでしたのでしょうね」と付け加えた。アリアは陛下を仰いで「ないてないよ」と強く繰り返す。陛下はとても優しい目でアリアを見て、小さな頭を撫でた。

「お歌が上手になったのだろう? 聴かせておくれ」

 アリアは喜びを顔いっぱいに広げて返事をした。

「うん。とうさま」

 また、風景が泡立った。風景の中で、俺は少しずつ成長していくアリアを見ていた。

 アリアは離宮に世話係の女性、メアリーと二人で住んでおり、時折陛下が離宮を訪れた。そのたびにアリアは喜び、陛下が帰ると隠れるように泣いていた。確か母親は亡くなったと言っていたから、この頃には既にいなかったのだろう。

 けれど、たまにしか会いに来ない父親を待つ生活でも、アリアは幸せそうに笑っていた。時折、陛下の代理でやってくるトリニア大将にもアリアはよく懐いていた。

 このままアリアが大人になるまでを見続けていくのかと思った矢先、変化が訪れた。

 何度目かの風景で、見知らぬ女性が二人、離宮の正門の前へ現れた。一人は黒い質素なワンピースを着たおそらく女中、もう一人は豪奢なドレスに身を包んだ女性だった。きつく巻かれた黒髪と派手な顔立ち、漂ってきた香水の香りから、皇舎に住む貴族だろうと思った。

 貴族は女中に正門のベルを鳴らさせた。反応はなく、何度か繰り返すうちに貴族の顔に苛立ちが広がっていく。ようやくメアリーが扉を開けて出てくると、貴族は顔いっぱいに嫌悪感を表した。

「こちらにお住まいの方にヴァネッサ・ヴァレンタイン様がお会いになりたいとおっしゃっておられます。お取り次ぎ願います」

 女中は言葉遣いこそ乱れていなかったが、高圧的な態度を取っていた。それより内容からして突然押しかけてきたのだろうに、説明もなしに取り次げとは何なのだろうかと俺は唖然としていた。

「申し訳ありませんがお約束されている方以外お通しできない決まりなのです」

 メアリーが戸惑いながら伝えると、女中は明らかに軽蔑をこめた視線を送った。

「無礼な。ヴァレンタイン家ご令嬢ヴァネッサ様の訪問を断るなど非常識もはなはだしい」

 俺は自然と顔を歪めていた。ヴァレンタイン家は財力もあり、比例して権力も強い。貴族事情に疎い俺でも知っている家柄だ。そこの当主は確か中将だった。

 ブリューテ・ドウタは先天的な魔力が必要なので家柄はあまり関係ないが、ブリューテ・ドウタ以外の兵は出世に関係することが大いにある。家の名前を振りかざし、中身は往々にして無能、だから貴族は嫌いだった。俺は傍観者ながら相当苦々しい顔で女中とヴァネッサという貴族を見ていたと思う。

 女中はしばらくメアリーと押し問答を続けていた。主に女中が文句を言っているだけだったが、諦めればいいものをその気配もない。そもそも一体何の目的でここに来たのだ?

 メアリーが疲弊した表情を見せ始めた頃、扉の向こうから高い小さな声がした。

「メアリー」

 メアリーが驚いたように振り返り、開いていた扉をせばめる。

「大丈夫です、何でもありませんよ」

 すると今までやりとりを面倒そうに眺めているだけだったヴァネッサが動いた。扉に歩み寄り、女中を押しのけてノブを思い切り引いた。

 無理矢理扉を開いたヴァネッサの行動に、誰もが唖然とした。けれどヴァネッサは気にする様子もなく、メアリーの後ろにいたアリアに目をつけた。メアリーはアリアをかばうように立ったが、ヴァネッサはアリアをのぞきこむように腰を折る。

「あなた、ここに住んでいるの? お母様は?」

 アリアは怯えたようにメアリーのドレスの裾を握っていた。

「私、陛下と仲良くさせていただいているの。あなたとも仲良くしたいわ」

 ヴァネッサは猫撫で声で微笑んだが、アリアは更に怯えたようにメアリーの後ろへ隠れてしまった。ヴァネッサは気に障ったのか一変して眉を寄せ、きびすを返すと扉から外へ出ていった。その直後、思い出したように絡みつくような笑みを浮かべる。

「また来るわ」

 歩き去っていくヴァネッサを女中が慌てて追いかける。二人が乗ってきた馬車に乗りこみ、見えなくなると、メアリーがしゃがみこんでアリアに目線の高さを合わせた。

「お茶にしましょう。アリア様」

 アリアは泣き出しそうに不安な表情でメアリーを見つめていたが、何も言わないメアリーに聞いてはいけないと思ったのか黙って頷いた。

 その後何度か泡立った景色の中で、メアリーは陛下へヴァネッサのことを報告したようだった。けれどヴァネッサはそれから度々離宮にやってくるようになった。仮にもヴァレンタイン家の令嬢を無下に扱う訳にもいかなかったらしい。ヴァネッサは主にアリアに取り入ろうとしていたが、アリアは怯えるばかりでほとんど口をきかなかった。

 いくつかの風景の話を合わせて分かってきたが、ヴァネッサは王妃の座を狙う、陛下の花嫁候補の一人だった。何とかして陛下を振り向かせようと苦心していたが、たまに陛下がどこかへ出かけていくのを知り、後をつけたらしい。たどりついた離宮に愛人がいるのかと敵がい心を燃やして来てみれば、いたのは中年の女性と子供だった。ヴァネッサは子供と、明らかに下働きの女性を見て、陛下の隠し子か何かだと考えたようだ。アリアを取りこめば他の花嫁候補より一歩有利、陛下もくみしやすいだろうと、ヴァネッサは女中に語った。

 対するメアリーの方はエスカレートするヴァネッサの訪問に精神的にまいっているようだった。そしてアリアも今では来訪者を告げるベルの音がすると体を震わせ、部屋へ逃げ隠れるまでになってしまった。

 けれどそれだけならまだよかった。ヴァネッサがいつものように女中ではなく、兵士にしか見えない男性を連れてきた時、俺は嫌に胸騒ぎを感じたのである。

 その日もヴァネッサは泥棒ではないかと思う程無遠慮に、メアリーを押しのけて離宮に入っていった。つられるように俺の体も勝手にヴァネッサの後をついていく。自分の意思で動けないのはもう確認済みだ。ここでは俺はただの傍観者でしかない。

 ヴァネッサはいくつもある部屋を開けていき、隠れていたアリアを見つけると強引に手を引いた。

「隠れんぼをしましょう」

 ヴァネッサと兵士の後ろから不安げについてきていたメアリーが声を上げる。

「お嬢様は体調がすぐれないのです。病気をうつしては大変ですから、また別の機会に」

「病気の子が寝もせずに隠れているだなんて、一体どういう教育をしているの?」

 メアリーは黙りこんでしまった。ヴァネッサはそれ以上話すことはないといった風にアリアの手を引いて歩き出す。アリアは嫌々引きずられるようにして連れていかれる。兵士らしき男性は止めもしない。

 ヴァネッサが向かった先は、離宮の一階、地下へ続く階段の、鉄柵の扉の前だった。

 俺は背筋が冷えるのを感じた。俺が来た時は扉などなかったが、この下はレイジが捕らえられていた地下牢だ。そしてアリアはあの時俺にすがる程気分が悪そうに階段を下っていた。

 まさか。俺は速くなっていく鼓動を感じながらヴァネッサを見る。

「開けて頂戴」

 ヴァネッサはメアリーを振り返る。

「こ、この先は立ち入り禁止でございます。私も開け方は存じません。一体何をなさるおつもりですか」

 メアリーは必死になって叫ぶも、ヴァネッサは嫌悪に満ちた目を向けただけで答えない。かわりに兵士を見上げ、鉄柵に視線を移した。

「壊して頂戴」

 兵士は短く返事をすると、腰に帯びていた剣を引き抜いて、鉄柵の鍵部分を切りつけ始めた。

「何をなさるのですか、おやめ下さい」

 メアリーが叫んで兵士の正面に回りこもうとするが、その前に兵士はメアリーの腹部を殴り、床に沈めていた。アリアが小さく息を飲んだ音がした。アリアの目は見開かれ、顔は血の気が引いて白くなっていた。

「待て、やめろ」

 俺は兵士に向かって叫んでいた。経験上、声も何もかも届かないことは分かっていた。それでも止めなければ、この先に穏便な出来事などあるはずがない。手足を振り回すが、その場から一歩も進まない。

 兵士は何事もなかったかのように鍵に剣を振るい続けた。朽ちかけた鉄柵の鍵が壊されるのにさほど時間はかからなかった。

 扉が開くと、ヴァネッサがアリアの手を引いて階段を下り始めた。アリアは顔を引きつらせ、声も上げずに引きずられていく。俺の叫びなど無視し、兵士は剣を収めるとメアリーをかついでそれに続いた。

「ふざけんな、離せ」

 動かない体では止めることもできない。けれど俺の意思とは関係なく、体が勝手に階段を下っていく。

 一番下まで下りきると、地上からのわずかな光の中で確かに見たことのある地下牢が広がっていた。湿った空気とかびのこもった臭いをかいで、背中に冷や汗が流れ落ちた。

 兵士はメアリーを鉄格子が向かい合う通路に下ろした。そしてヴァネッサの方を向いて頷かれると、剣を抜いた。地上からのわずかな光で刀身が鈍く光る。

「さあ隠れんぼを始めましょう」

「やめろ」

 俺は叫んでいた。けれど剣は横たわるメアリーに突き立てられた。メアリーの体が跳ね、目が見開かれる。兵士が剣を引き抜くと、血が弾けて、かび臭い空気が生臭いものに塗りつぶされた。濃灰色の石の床の上に黒い染みが広がっていく。更に兵士は二度、三度、メアリーの体に剣を突き立てた。絶対に、起き上がらないように。

 体中の血が頭に上っていくようで、頭痛がした。こいつらは、一体、何を。

 返り血を浴びて血まみれになった兵士がヴァネッサの方を振り向いた。ヴァネッサは暗がりの中で、笑っていた。その顔がアリアを見下ろすと、アリアは短い悲鳴を上げてヴァネッサにつかまれている手を振り回した。けれど子供の腕力では振りほどけない。

「大人しくなさい」

 ヴァネッサが手を振り上げて、アリアの頬を平手打ちした。アリアは何が起こったのか分からなかったのか呆然として静かになる。ヴァネッサは微笑んだまま、もう一度アリアの頬を手の平で打った。ヴァネッサはそのままアリアを床へ突き飛ばすと、小さな体を思い切り蹴りつけた。アリアが潰れた声を上げ咳きこむ。

 俺は叫んでいた。ヴァネッサを殴り倒そうと手を振り回すが、その場から動けない。ヴァネッサはアリアを踏みつけ、蹴り続けた。次第に笑い声をもらし始める。

「私、本当はあなたと仲良くしたかったの。けれどあなたがあんまりにも可愛くないものだから、気付いたの。あなたがいなくなれば陛下はもうここには来ない。私の方を向いて下さるって」

 もはやただの妄言だった。アリアの咳きこむ声が段々と小さくなっていく。

「あなた隠し子なんでしょう? 母親はどこの馬の骨ともしれない平民。あんたが産まれてきたから取り返しがつかなくなって自殺でもしたのかしら? ああ、違うわね。あんたが産まれてくる時に母親を殺してしまったんでしょう」

 ヴァネッサの叫び声が耳障りな高さで反響した。俺は叫びながら手足を振り回した。たとえこれが過去に起こってしまっていることだとしても、黙って見ていることなどできなかった。

 ヴァネッサは荒い息をつきながらようやくアリアから離れた。兵士に目配せすると、兵士は血まみれの剣を携えたままアリアの前に立った。

 わずかに開かれたアリアの目が、剣先を捉えて、見開いた。

 俺が叫んだのと同時に剣が振り下ろされた。

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