一番最初に会える(1)
風が頬を撫でていくのを感じて俺は目を開けた。首をめぐらせてみると、いつかも見た重傷者が収容される部屋で、白い室内は光が入って明るくなっていた。ほんの少し開いた窓から入る暖かい風が、レースのカーテンを揺らしている。起き上がろうとしたら左手首が添え木と包帯に固定されていることに気付いて、息が止まった。
あれから、どうなった。俺は自分に銃を向け、アリアは突然意識を失い、俺はアリアもろとも地面へ落ちた。そこからの記憶がない。アリアは無事なのか。
ベッドの上で上体を起こすとめまいがした。言うことをきかない自分の体に苛立ちながらベッドを下りて部屋を出る。目の端で見た壁掛け時計は八時をさしていた。
あの時と同じだ。何もできなかった自分と、またアリアを失うのではないかという不安に奥歯をきつく噛みしめる。どこへ向かおうか迷い、廊下を見渡したら、自分が処刑される身だったということを思い出した。
処刑の時、声しか聞こえていなかったが陛下が合図を出し、ガゼルがアリアを人質に止めようとした。その後アリアが処刑台まで来たが、陛下は何をしていたのだろうか。
「くそ」
俺は吐き捨てて壁にこぶしを打ちつけた。知らないことが多すぎる。誰が味方で誰が敵なのかも分からない。けれど牢ではなく病室に寝かされていたということは罪人扱いではなくなったのかもしれない。見張りもいないし少なくとも今すぐ処刑されるということはないだろう。
何よりもアリアに会いたかった。会って無事を確かめたかった。おそらく面会謝絶でどこにいるのかも分からない。そもそも皇舎内にいるのかも怪しい。やはり誰かつかまえて聞くべきだ。誰がいい? ガゼルか、トリニア大将か。
俺は壁に打ちつけたこぶしを握りしめた。牢に入れられていない時点でおそらく大丈夫だ。そう思って行動するしかない。
ひとまず会議室へ向かおうと足を踏み出した時、背後から靴音が聞こえてきた。反射的に体が固まる。部屋に戻るべきかと思い振り返ると、近付いてくる人影は見知った顔をしていた。
「もう起きられるのか」
今まさに探しに行こうと思っていたガゼルの姿が俺の前にあった。ガゼルはどこか影のある微笑を浮かべて言った。
「酷い顔だな」
「そっちこそ」
ガゼルからはいつもの覇気が感じられなかった。一目見て分かる程、顔色もよくない。
「思ってても言うな。女性に対して失礼だぞ」
俺はいつものように軽口で応戦できず、うつむいた。
「ギル、少し話そう」
俺が頷くとガゼルは病室に入っていった。
「怪我人は寝てろ」
ガゼルは折りたたみの椅子を持ってきてベッドの側に座った。俺は先程まで寝ていたベッドに腰かける。
「アリアは無事なのか? どこにいる?」
ガゼルの話を待たず俺は口を開いていた。ガゼルは一瞬視線を流してすぐに俺に戻した。
「ひとまず無事だ」
「会わせてくれ」
俺はガゼルの言葉にかぶせていた。ガゼルは唇を引き結んで複雑な表情になる。
「分かった。後で詳しく話す。先に今の状況を説明させてくれ」
俺は頷いた。
「お前がアリアと一緒に気絶したのが三日前。目下一番の問題は陛下が行方不明ということだ」
脳裏に黒い魔力を操っていたアリアの姿が浮かんだ。
「まさか」
ガゼルは疲労の濃い顔で瞳を細める。
「おそらくアリアが攻撃した。黒い魔力に飲まれたのを見た。お前が処刑されそうになった直前だ」
俺は手で顔を覆っていた。
「トリニア大将は陛下が行おうとしていたことを全て知っていた。お前が金色の鳥で、お前を殺してアリアの中にある黒の鳥を消そうとしていたそうだな」
俺は頷いた。
アリアがブリューテ・ドウタに入る少し前、俺は陛下に呼び出され、極秘任務を命じられた。内容は『これからブリューテ・ドウタに入ってくる女性に好意を抱き、体を繋ぐこと』。言葉通りの意味なのか、それとも何かの冗談なのか、言葉を失っていた俺に陛下は続ける。
「お前が任務を果たした場合、彼女は救われる。逆にそれ以外、彼女を救う方法はない」
「救われる、とは何からですか」
やっと言葉をしぼり出した俺に、陛下は冗談の欠片もないまなざしを向ける。
「呪縛のようなものだ。詳しくは機密事項にあたるので話せない。けれど彼女は生まれた時から呪縛に捕らわれていて、この先も死ぬまでずっと捕らわれ続ける」
頭の中で言葉が巡る。けれど、まったく知らない女性を好きになって体を繋げとは、正気の命令の範疇を超えている。
「なぜ私を? 他の者では」
「他の者では意味がない。お前でなければできない」
陛下の異様な気迫におされ、声が出なくなる。陛下は気付いたようにふと顔を歪めた。
「無茶苦茶なことを言っているのは分かっている。けれど私は彼女を救いたい。絶対にだ」
そうして俺は半ば強引に押し切られる形で陛下と『約束』を交わした。アリアと出会い、アリアを救うためなのだと迷いながらも自分に言い聞かせ、好意を抱こうと努力した。いつしかそれは本物に変わり、俺は身を切られるような深い罪悪感に捕らわれながらもアリアと体を繋いで陛下に報告した。
『約束』は果たされた。そこで、陛下は俺の体がなくなれば、すなわち俺が死ねばアリアが救われること、犠牲になって欲しいと告げて、俺を牢へ入れた。
「今陛下の代理としてトリニア大将が全権を持っているが、兵力も非戦闘員も大多数が失われた。問題は山積みだが、直近の大問題として異形との会談が控えている」
俺は顔を上げた。確かに旅行に行く前アリアが言っていた。
「日程を遅らせて誰かを即位させるのか、何にせよ戦力が激減したことが知られれば確実に攻め入られるだろう」
ガゼルは顔を伏せて息を吐き出した。
「お前の処刑については今現在、証拠不十分としてトリニア大将が取り下げた。大将が皇帝の座を奪うために今回の事件を画策したんじゃないかとの声もあるが、正直そいつらも私達も今はそれどころじゃない」
ガゼルの疲労がたまるはずだった。すぐにでも補佐につきたいところだが。
「手の具合はどうだ」
ガゼルは思い出したように顔を上げて尋ねた。俺は添え木に包帯でぐるぐる巻きに固定された左手を持ち上げる。指を動かしてみると引きつるように痛い。
「ちょっと痛いかな」
「そうか。今回復を使える医者が少なくてな」
ガゼルは独り言のように言って俺の左手を取った。
『世界の続き 白に包まれ この身の先を回復する ノゼリオ』
淡い光がわずかな熱と共に左手に吸いこまれていく。
「私も隙を見てかけてやる。何もしないよりはましだろ」
ガゼルの顔を見れば疲労しているのは一目で分かる。けれど断ればガゼルは馬鹿にするなと怒るだろう。
「無理すんなよ?」
思わず言うと、ガゼルは乾いた笑い声をもらした。
「お前に心配されるなんて私も相当まいってるな」
俺はそれ以上言葉が見つからず、包帯の巻かれた左手に視線を落とした。
「折れてるのか?」
「折れていた。今は多少くっついてるかもしれないが」
アリアに手首をつかまれて引き回されていたからだろう。あの時のアリアは力も魔力も人間ではなかった。
「アリアは今どこにいるんだ?」
俺を見たガゼルの目がためらうように揺れた。
「離宮にいる。表向きは行方不明の扱いだ。またいつ翼が現れるか分からないから今はシディが監視も兼ねて側についてる」
「今から行ってくる。部屋を教えてくれ」
立ち上がった俺に合わせてガゼルが立ち上がる。
「ギル、落ち着いて聞いて欲しい。アリアは体は無事だ。外傷はない」
先程から感じていた不穏な空気が俺の前に広がっていく。
「何だよ、それ」
「意識もある。ただ、自我がないというのか、うまく説明できないが、抜け殻のようになっている。朝起きて夜は眠る。食事も与えれば食べる。けど話しかけても反応しない。自分からベッドを出ることもない」
理解できなかった。それがどういう状態なのか分からなかった。
「喋れない、のか?」
けれど鼓動は速まっていく。体から急に熱が引いていく。
「医者は精神がなくなったと言っている。体だけが生きている状態だそうだ。魔力もほぼないそうだがもっと詳しい検査も行う予定だ」
無事なのでは、ないのか。けれど、生きている。生きてさえいてくれれば。
「会ったら、喋れるかもしれない」
呟くと、ガゼルは苦しげに瞳を細めた。
「そうだな。一緒に行こう。顔くらい洗ってこい」
俺は洗面所へ向かった。鏡に映った自分は顔全体に影が落ち、無精ひげが目立っていた。確かに酷い顔と言われても仕方がなかった。
俺はガゼルに付き添われて離宮へ向かった。
言葉少なに一時間程歩くと、離宮の外観が見えてきた。外にも門番はおらず、中に入ると自分達の靴音と衣擦れの音しか聞こえなくなる。廊下の片側から窓ごしに入る外の光だけが嘘のように明るい。
階段を登った最上階の一室の前でガゼルが立ち止まった。ガゼルはためらうように一拍おいてから規則性のあるリズムで、一回、三回、一回と扉をノックした。
開いた扉の向こうに立っていたのはシディで、ガゼルと俺を見ると室内へ入れてくれた。シディの顔も暗い影を落としており疲労が色濃く見えた。
部屋の中は皇舎の自室とほぼ変わらない造りで、大きな窓から陽の光が射しこんでいた。ベッドに横になっている人物を見留めて、俺は吸い寄せられるように近付いていく。窓の方を向いているので顔は見えなかった。シーツに散った金髪が陽の光を受けて角度によってきらめきを変える。
「アリア」
俺は呟いていた。更にベッドの側まで近付いてアリアの顔をのぞきこんだ。
窓の方を向いた緑と青の目は開いていた。白い肌も、唇にも濁りはなく澄んでいる。
「アリア」
俺は毛布から出ているアリアの肩を軽く叩いた。ガゼルの話は嘘なのではないかと思った。だってこんなにも変わらないではないか。
アリアは窓の方を向いたまま反応しなかった。俺は毛布の中からアリアの手を引いて握った。ほら、だって、こんなにも温かい。だから嘘だ。それかまだ俺は目覚めていないのだ。夢の中にいるだけだ。
力の抜けた俺の手の中からアリアの手が滑り落ちていく。シーツの上に落ちたアリアの手を見て、俺は自分の指先が酷く冷たくなっているのを感じた。
どうしてだ。こんなに温かいのに、こんなに生きているのに、アリアは俺の手を握り返さない。
俺は身を乗り出してアリアの顔をのぞきこんだ。
「アリア、笑ってくれよ」
力が入らないのかと思ったのだ。少しずつ、少しずつ冷たい感覚が体の中に広がっていく。飲まれたくない、そんなのは嘘だ。
アリアは窓の外を見ていた。緑と青の瞳をまばたかせたまま。
俺はアリアのあごを取って自分の方へ向かせていた。震える指がアリアの白い肌に食いこんだのを見て、力を入れすぎたことを知る。けれどアリアは何も言わなかった。
「嘘、だろ?」
頭の冷静な部分が本当だと諦めかける。認めない。こんなのは現実ではない。
「アリア。なあ」
俺はアリアのあごから手を離して、毛布の上に落ちていた手を握りしめた。痛い程握りしめても、震えが止まらなかった。
どうして。生きているのに。アリアは喋らない。手を握り返さない。何も見ていない。笑うこともない。
「なあアリア、嘘だろ? からかってるだけだろ?」
俺は握ったアリアの手を揺さぶった。アリアの瞳が俺を見たまま、まばたきだけを繰り返す。
「もういいから、お願いだから」
笑ってくれと。言えないまま肩をつかまれた。振り返るとガゼルが痛みをこらえるような表情で立っていた。壁際に立つシディは今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。
「ギル。お前が見たものが、全てだ」
ガゼルが押し殺した声で言った。
心の中の火が消える。体中の熱が静かに引いていく。たとえそれが本当でも、認めたくなかった。認めてしまえば戻れない。けれど本当だと、頭も、心も、分かっている。
それでも諦めたくなかった。俺が呼べば、触れればアリアは戻ってきてくれると信じていたから。
アリアの方を振り返って、握った手を緩めると、アリアの手は音もなく俺の手の中から落ちていった。同時に俺は膝から力が抜けて床に崩れ落ちた。床の絨毯の上で、先程までアリアの手を握っていた手を握りしめた。握った手は、力を入れすぎて震えていた。
生きているだけでいいと人は言う。けれど、これでは、死んでいるのと変わらない。
どうして。やり直すから。お願いだから。
行かないでくれ。
俺は握ったこぶしを思い切り床に叩きつけた。
「畜生」
叫んで歯を食いしばった。どうして、どうして、どうして。胸が張り裂けそうだった。何もできない自分と、体の中がごっそりなくなったような欠落感に息がつまった。
まだ謝っていない。こんなにも、好きなのに。
「アリア」
俺は床に這うようにして顔を伏せた。こみ上げてきた嗚咽を必死に噛み殺した。抑えきれなかった涙だけが、毛足の長い絨毯に落ちて、消えていった。
目を覚ました翌日から、俺は仕事に復帰した。所属していた部隊の隊長は行方不明となっており、俺はガゼルの配下に入っていた。通常訓練はあったが、一般兵、ブリューテ・ドウタ合わせて数は三分の一以下までに減っているそうで、俺は混乱をまねくという理由で一人別訓練となっていた。陛下が不在となった幹部勢はトリニア大将を筆頭に、ガゼルを含む生き残った数人のブリューテ・ドウタの部隊長、以来からの一般兵幹部数人で成り立たせているらしい。
訓練中はまだ何も考えずにいられた。けれど食事をとっている時、部屋に戻り一人になった時、眠る前、必ず大きな焦燥感と体中が空っぽになる感覚がやってきて、そのたびに息をつめた。眠れず、左手首の治療を受ける時、医師に『訓練を休んだ方がいい』と言われる程、俺は自分が弱っているのを知った。
俺はガゼルの元に行き、訓練を休むかわりにアリアの監視をしたいと申し出た。アリアが気を失ってから約六日、シディと交代に、俺は離宮でアリアとすごすことになった。淡い希望はまだどこかにあった。けれどアリアの部屋へ行きアリアの前に立つと、希望はかき消され、胸をかきむしりたい程重く苦しい痛みへと変わった。
俺はアリアと同じ部屋に泊まりこみ、次の日も、その次の日もアリアの側にいた。食事も、体を拭くのも、下の世話もした。アリアは何もできないかわりに何も言わず、何も反応しなかった。ただベッドの上で目を覚まして、眠った。
今日は喋ってくれるのではないか、今日こそは。そう思って接して、何度も胸がえぐられるような痛みを感じた。
俺は窓から陽差しが降り注ぐ静かな午後に、ベッドのはしに座ってアリアの手を握っていた。力のない手は温かかった。鼓動している。緑と青の瞳はまばたいている。毛布の下の胸がゆっくりと上下している。
どうして、こうなってしまったのだろう。あの時、アリアが気絶する前、何が起こったのだろう。精神が死んだが体は死ななかった? けれどずっとこのままでいればアリアの足も手も萎えて、どんどん弱っていくだけだ。アリアはこうなることを望んでいたのだろうか。これはアリアにとって幸せなのだろうか。いっそアリアを殺して俺も死ねばいいのではないか。
俺は気付いて、自分を殴りたくなった。生きている、それが何よりも大切なことなのに。けれど今の状況は辛すぎる。
俺は薄く涙のにじんだ目を閉じてうつむいた。
限界かもしれない。ここにいたら俺はアリアを殺してしまうかもしれない。
俺は目を開けてアリアの顔を見た。アリアは窓の方を向いていた。俺はベッドの上でアリアに近付いて、顔の横に手をついた。
離れてしまうのなら、触れたかった。けれど、それ以上体が動かなかった。
まだ、アリアに謝っていない。何も伝えられていない。今のまま触れる資格なんて、ない。
俺は、俺を映さないアリアの瞳を見つめて、体を離した。ベッドのふちに腰かけ直して、アリアに背を向けて、目をきつく閉じた。
その日の夜、俺は電信機ごしの報告と共にガゼルに監視を一時離れたい旨を伝えた。ある程度予想されていたのか、明後日の朝からシディと交代することで話が通った。ただシディも精神的にまいってきているようで、交代の間隔が短くなることは覚悟して欲しいと言われた。
当分は俺とシディで監視を続け、このままの状態が続くようなら皇舎外の田舎町へアリアを輸送する予定だという。鳥という真実を知っている、アリアと親しかった者にしか監視を頼めない、無理をさせているのは分かっているがよろしく頼むと言われた時、俺は何を思えばいいのか分からなくなっていた。
返事だけをして電信機を切り、部屋のすみにある簡易ベッドに横になった。天井に吊された橙色のランプの光だけが眩しかった。俺も、いっそのことアリアのように何も感じなくなれば楽なのかもしれない。
自分の思考を咎める気にもなれなかった。ただ、体が重く、そのくせ目はさえていた。
着替えもせず風呂にも入らず、俺は天井のランプを消してベッドに横になった。寝付けず、浅い夢の中をたゆたったのを、暗い部屋の中で目が覚めるたびに知った。
鳴り響く電信機の音で目を覚ましたのは、カーテンの向こうが明るく、部屋もぼんやりと明るい時間のことだった。
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