信じて

 毎日、よく晴れていた。空は誰の気持ちも代弁せず、ただあの日と同じように吸いこまれそうな水色をしていた。

 レイジの処刑から一週間がたとうとしていた。日常はあっけない程変わらずやってきて、時間は元の通りに進んでいく。誰も、何も口にしない。

 事実、食堂などで感じる空気はもう処刑の前と同じように戻っている。私も少しずつシディと元のように食事をとりながら笑い合っている。けれど時々思い出しては胸を突き刺すような痛みに一人で泣いている。

 私の心はまだあの日に残っている。心の中身が抜け落ちたように、どこか空虚な感覚が常につきまとう。

 そしてギルともあの日から一言も言葉を交わしていない。


 午後のブリューテ・ドウタ全員での合同訓練を終えると、ガゼルが私の方にやってきた。

「アリア、夕食が終わったら陛下が執務室に来るようにとのことだ」

 ガゼルは私が所属している部隊とは違う部隊の隊長である。わざわざガゼルにことづけたのは陛下の配慮なのだろうか。処刑が終わった途端面会とは理不尽な憤りを感じずにはいられなかったが、陛下は正しいのだった。分かっている。ただどんなに分かっていても、駄目なのだった。今もしばらく先も会いたくなかった。けれど命令に逆らう訳にもいかない。

「ちゃんと食べてるか?」

 不意に声をかけられて思考から戻ってくると、ガゼルが真剣な顔で私を見つめていた。頷いて返事をすると、ガゼルはわずかに微笑んだ。

「それならいい」

「お腹をいっぱいにした方が、気持ちが楽になるってギルが言ってました」

「そうだな。私がそう教えた」

 気丈そうに見えるガゼルもやはりレイジのことを思って泣いたのだろうかと、ふと思った。

「もう少し落ち着いたらギルと話してやってくれないか。多分お前の前が一番素直に話せると思う。ただのおせっかいだが」

 私は少しためらって、頷いた。ガゼルは「じゃあよろしく頼む」と言って私の側を離れていった。

 私も、ガゼルも、シディも、少なからずあの日に心が残っている。けれどギルの心は誰よりもあの日に止まったままなのだと思った。


 夕食を終えて陛下の執務室へ向かうと、待ちかねていたとばかりにすぐに部屋に通された。あまりのあっけなさにまた怒りに似た感情が沸き上がってくるが、考えないようにして押し留めた。

 部屋に入っても私は陛下の目を見られなかった。

「座りなさい」

 陛下はいつもと同じ声音で言って応接セットのソファに座った。私が向かいに座ると、前と同じように金色のベルを振ってお茶を運ばせた。

 側仕えの男性が去って、陛下は何も入れない紅茶を一口飲んだ。

「早速だが用件のみ話す。近々異形との会談が行われる。それに出席して欲しい」

 一度に言われた情報が多すぎて、頭がついていかなかった。

「異形との、会談?」

 陛下は特に反応も見せずカップを置いた。

「ルリオスティーゴとの会談だ。お前の出席が条件になっている」

 問いたいことは次から次へと出てくるのに、言葉が追いつかない。

「会談って、何の」

「親書には休戦交渉とあった」

 休戦交渉。私の頭の中で言葉が反復される。ルリオスティーゴは確かに戦争を終わらせると言っていた。けれどその瞬間に私の頭の中に思い出したくない事実が走り抜ける。

「検査する前に、レイジが異形だって知ってたの?」

 話がそれると分かっていても、止められなかった。はぐらかされると思ったら、陛下は悪びれる様子もなく私の目を見つめる。

「知っていた」

「ルリに言われたから?」

 陛下は何か考えるように一瞬間を開けた。

「レイジが言ったのか」

「そうよ、自分はルリに売られたって。向こうにも戻れない、ここから逃げたらギルを一生幽閉するって言われたから、だから逃げないって」

 私は叫んでいた。今更言っても何も変わらない。私はレイジを助けられなかった。陛下は正しい。けれど、止まらない。

「どうして、どうしてレイジを殺したの、どうして」

 私は金切り声に近い叫びを上げていた。

「どうして、答えて父様、答えてよ」

 私はこみ上げてきたものをこらえるように息を止めて顔を伏せた。腿の上で手を思い切り握りしめる。

「真実を言う」

 陛下の声はあくまでも淡々としていた。

「検査の前、ルリオスティーゴから交渉があった。裏切り者を一人さし出すかわりに今回の会談を受けて欲しいと。利点を考えて私は交渉に応じた」

 本当に、それだけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。けれどもう、聞きたくない。

 私は席を立って扉へ走った。けれどノブにかけた手を追いかけてきた陛下に止められる。

「会談はお前の出席が条件だ。出席はしてもらう」

「いい加減にして」

 私は陛下の手を払いのけて叫んだ。

「もう放っておいて、近付かないで」

 感情の全てを声に乗せて叫んで、部屋を飛び出した。

 私は自分の部屋へ走った。廊下で何人かとぶつかりそうになるが、気に留めている余裕はなかった。部屋に入って扉を閉めて、私は息を吐き出しながら扉にそって崩れ落ちた。

 もう何も考えたくない。ただ子供のように声を上げて、泣いた。


 翌日、私は体調不良を理由に訓練を休んだ。自分を甘やかしたと言われればそれまでだが、事実張りつめていた糸が切れたように体がぬけがらのようになって動かなかった。何を考えたらいいのか分からない。何も考えたくない。本当に疲れていたのか一日の大部分を寝てすごし、夕方、軽い空腹感を覚えたところでシディがサンドイッチを持ってきてくれた。シディと二言三言交わし、私はサンドイッチを食べてまた眠った。

 欠勤の時は点呼には行かない。だから控え目なノックの音で目が覚めた時には何だろうと思った。部屋はまだ暗く、引き寄せて見た懐中時計は二十二時半だった。点呼は二十二時だからもう終わっている。シディが何か伝えることでもあったのかもしれないと思って、私は重い体でベッドを出て扉を開けた。

 扉の向こうに立っていたのはシディより背格好の高い誰か、ギルだった。私は数秒何も考えられず、気付いて慌ててギルを部屋に入れて扉を閉めた。

「ごめん、来ない方がいいと思ったんだけど、何か来なきゃいけないような気がして」

 ギルは恥ずかしがっている訳でなく言い辛そうに呟いた。

「寝てた?」

 私が頷くとギルは重ねて「ごめん」と言った。目が合うとギルは淡く微笑んで私の頭に手を置いた。その微笑みはどこか自嘲に似ていて、何となくギルがこのまま消えてしまうのではないかという錯覚に陥った。

「顔見られたからよかった。戻るよ」

「待って」

 私の頭からギルの手が離れて、私はギルの腕をつかんでいた。ああ、違う。これでは逆だ。ガゼルから落ち着いたらギルと話してやって欲しいと頼まれたのに。けれど私はギルの腕を強く握りしめた。

「昨日、陛下に会って、異形との会談に出て欲しいって言われました」

 ギルは戸惑った顔をしながらも私を支えるように私の腕に触れる。

「少し前にそこで交渉があったって。ルリが裏切り者を一人教えるかわりに会談を受けろって。父様はそれを受けて、だからレイジは」

 いつの間にか叫んでいた。ギルに話しては駄目だ。けれどそれすらももう私は止められなかった。

「もう嫌です、全部嫌、嫌だ」

 自分でも耳障りな高い叫び声だった。反射のように涙がこみ上げてきて、遅れてやってきた嗚咽を喉で噛み殺す。ギルに背中を抱かれて、私はやっと気付いてギルの胸を押し返した。

「ごめんなさい、ごめん、なさい」

 ギルの方が悲しいのに。私は馬鹿だ。何でこんなに気持ちが荒んでいるのか自分でも分からない。顔を伏せたままギルから離れようとしたら先程より強く抱きしめられた。鼓動と同じくらいの速さで背中を軽く叩かれる。

「いいよ、泣いて」

 ああ、どうして。言葉にならなかった。考えるより先に声が溢れてきて、私はギルの胸を握りしめて泣き出した。

 いつの間にか、背中を叩いていたギルの手は背中を優しくさすっていてくれた。涙も息も落ち着いてきて、私は鼻をすすった。身じろぎすると体が少し離れてギルがこちらを見たのが分かったが、顔を合わせられなかった。ギルはもう一度私を抱きしめてくれて、私は甘えていると知りながらも体を預けた。

「何か飲む?」

 声をかけられて、ようやく私は少し冷静になった。

「ごめんなさい」

「いいよ」

 ギルは真面目な声で言って私の髪を撫でた。

「ギルの方が、悲しいのに」

 ギルは少し体を離して私の目を見た。酷い顔をしているのを見られたくなかったが、目をそらせなかった。

「悲しいのに優劣なんてないだろ。謝る必要もない」

 そうかもしれない、けれど。

「ギルは大丈夫なんですか」

 嫌味ではなかったが、そう聞こえてしまったかもしれない。ギルは薄く苦い笑みを浮かべる。

「大丈夫じゃないよ。たくさん泣いてる」

 本当は私がギルの話を聞いてあげなければいけなかったのだ。ギルはもう一度私の背中を抱きしめて首元に顔をうずめた。

「アリア、外行こう」

 よく分からなくて私は尋ね返していた。

「どういうことですか?」

「前約束してただろ。休みとって外行こうって」

 確かに思い返してみれば約束していた。けれど色々なことがありすぎて忘れていたし、返す言葉をためらった。

「少し休んだ方がいい。アリアも、俺も」

 外に行くというのがどういうことになるのか、よく分からなかった、けれど。

「ギルが行くなら、行きます」

 ギルは小さく返事をして私の背中をさすった。

「会談、いつからだって言ってた?」

 具体的な話を聞く前に飛び出してきてしまったから、実質私は何も知らなかった。感情的な自分の対応をギルに話したくないと思うのと同時に、会談には出たくないという気持ちが混じり合う。

「ごめんなさい、具体的なことは全然聞かなかったので、分からないです」

 ギルはさほど驚きもせず小さく返事をした。

「日にちだけ聞いといて。出るか出ないかは別として休みの予定決めるから」

 それはもう一度陛下に会わなければいけないということだ。ギルは何か察してくれたのか背中を撫でてくれた。

「大丈夫だから」

 その言葉を聞いたら、勝手に涙が溢れてきた。私は顔を見られたくなくてうつむいて顔をそむけた。

 会談には出なければいけない。命令は命令で、何より会談に出なければレイジの犠牲は何だったのか。けれど考えるとただ泣き叫びたかった。それは数年前までそうだった、どうにもならない現実に泣きわめく子供の頃の自分に似ていた。


 翌日、訓練を終えた夕食後、私はもう一度陛下の執務室を訪れて会談の日程と概要を聞いた。陛下は一昨日取り乱した私を見たからなのか出席については話を出さず、私は早々に執務室を後にした。

 そのまま共有スペースである談話室に向かって、待っていたギルに日程を告げた。会議は二週間後、ルリオスティーゴの一行がこちらを訪れ、皇舎で行われるとのことだった。ギルはソファから立ち上がって頭を撫でてくれたが、人もたくさんいたので恥ずかしさが勝って何も言えなかった。

 それから三日後、私とギルは二連休をとって外に出かけた。


 待ち合わせは皇舎の前だった。誰かに見咎められてあらぬ噂が立つかもしれないが、私が外で迷子になるよりはましと言われたのだった。

 考え及んでいなかったのだが実質外泊で小旅行ということで一番困ったのが服装だった。さすがに軍服を着ていく訳にもいかないし、ワイシャツも仕事着だ。おそらく街着程度のドレスがいいのだろうがあいにく一着も持っていない。今から作るのも間に合わないし、結局言い辛いながらもシディに相談して借りることにした。シディは文句も言わずドレスを貸してくれ、「まあゆっくり休んできなよ」とからかうこともなく言った。ついでに髪の結い方も教えてもらい、私は一泊分の荷物をつめた革のトランクを持って皇舎の前に向かった。

 外は透き通った空に風がそよいで、まだ朝だというのに暖かく、昼には暑いくらいになるかもしれなかった。慣れないかかとの高い靴で石畳を鳴らして歩いていくと、正門の前に箱馬車が止まっているのが見えた。足早に近付いていくとギルが門のところで手を振っていた。

 ギルは白いワイシャツに細いストライプの織模様の入った黒いベスト、黒のスラックス、やはり首元は開いていていつもの黒いチョーカーをしていた。赤い髪もちゃんとセットされている。走ろうとした私にギルは手の平を向けて制す。

「転ぶぞ」

 少しだけ笑って、ギルは手を下ろす。私は熱くなった首筋を感じながらそれでも早足で門の前へ急いだ。

「すみません、お待たせしました」

「待ってないよ。ぴったり」

 ギルの視線が私をとらえる。私が着ているのは薄ピンク色の、絹ではなく綿のドレスだ。裾は足首まであり、袖はひじ下まで、首元と背中は夜用のドレス程ではないが開いている。綿だが薄い綿を何枚も重ねてあって、シディから借りる時花びらのようだと思った。シディにはもう小さいそうで、おかげで私でも何とか着られる丈だった。

「へ、変ですか」

 耐えられなくなって私は視線をそらす。街着だからスカートもそこまで広げていないのだが、やはり普段着慣れていない分不恰好なのかもしれない。髪もまとめて上げてあるし、首元が心もとなくて恥ずかしい。

「ううん。綺麗」

 ギルは言いよどむこともなく、微笑んでかがみこむように私と目線の高さを合わせてくる。首筋が熱くなって、慌てて誰かに見られていないか視線をめぐらせるが誰もいなかった。訓練中の時刻なので当たり前といえば当たり前だ。ひとまず安心して、合わせ辛いながらもギルと目を合わせる。

「ありがとう、ございます」

「似合ってる」

 こちらが恥ずかしくなるくらい褒められて言葉を返せなくなる。ギルは私の手からトランクを取って、反対側の手で踊る時のように私の手を取って持ち上げた。

「じゃあ行こうか」

 エスコート、というものなのかもしれない。礼儀作法で教わったが初めてなのでよく分からない。けれど気付けばずっと私の中に沈んでいた重い気持ちは溶けて薄くなっていた。外に行くのは楽しいことだったのだ。約束した時の嬉しさも忘れていた。今は理不尽な悲しみも、ぶつける先のない怒りも忘れて、ただ幸せな気持ちだけを感じていたかった。

 門の前に止まっていた箱馬車に乗りこんで、ギルは馬丁に地名だろう単語を告げる。今更気付くが今回私はどこに行くのかまったく知らないのだった。馬車が静かに動き出して、横の窓から景色が流れていく。

「あの、ごめんなさいギル、どこに行くんですか?」

 前もってちゃんと聞いておけばよかったと思うが、正直心にそんな余裕がなかった。外に行くのは楽しいことだったと先程思い出したばかりなのだ。

 ギルは気にするそぶりもなく、軽い様子で声を上げた。

「海行ったことある?」

 海とは湖より大きい、水が集まっている場所だったと記憶しているが、実際に見たことはない。

「ないです」

「あ、そっか外出るの初めてなんだっけ」

 ギルは呟いて微笑んだ。

「海の近くでお店見て回ろうと思って。国境から離れるからそんなに荒れてないと思うよ」

 国境は現在の防衛線のことで、まだ森を抜けた先から変わっていない。国境から離れるということは森からも皇舎からも離れるということで、国の端の方へ向かうのかもしれない。何もかもギルに任せきりにしていたから、ふと連休がすんなりとれたのもギルが無理を通してくれたのかもしれないと思った。

「ありがとうございます」

 私は呟いていた。ギルは不思議そうに私を見たが、微笑んで手を握ってくれた。私は胸の中の淀んだ気持ちが少しずつ溶けていくのを感じながら手を握り返した。


 馬車の中ではギルと他愛もない話をして、出発から三時間程たったあたりでギルが窓の外を指差した。

「アリア、海」

 私は自分の隣にある窓を振り向いた。

 まず、何よりも青かった。上が空、下が海だと思うがこんなに青だけの景色を初めて見る。街道の向こうに横線を引いたような水面があり、昼の陽差しを細かく散らしていた。窓からなので全体が見えないが、ずっと同じような景色が流れていく。

「海って広いんですね」

「広いな。どこまで続いてるのか知らないけど」

 ほどなくして馬車はどこかの門をくぐって敷地内に入り、止まった。

「着いた。今日泊まるところ」

 ギルにそう言われて降り立つと、見事な薔薇が植えられた庭園と煉瓦造りの洋館がそびえていた。さほど高さはなく、三階建てくらいだろうか。茶色い外壁と白い窓枠がどこか可愛らしい印象だった。

 降りてすぐに、洋館からフロックコートを着た男性が出てきて挨拶と共に荷物を運んでいく。やはりどうしていいのか分からずギルを見ると、ギルは笑って行きのように私の手を取った。

 ドアマンのいる大きな両開きの扉をくぐって中に入ると、ワイン色の絨毯がひかれたホールが広がっていた。何脚も置かれたソファにドレス姿の女性やスーツ姿の男性が座り、お茶を飲んでいた。

「こちらになります」

 フロックコートの男性が歩いていく先にはカウンターがあり、受付のようだった。数人の男性が手元に何か書きこんでいるのが遠目から見える。立ち止まって見上げれば硝子細工のシャンデリアが光の粒を降らせていた。コンソールテーブルの上には淡いピンク色の薔薇がいけてあり、薔薇が有名な洋館なのかもしれないと思った。

「アリア」

 ギルに呼ばれて私は慌てて受付へ向かう。思い切り走らないように注意しながら、礼儀作法の復習をしておくんだったと少し後悔した。

 ギルは浮かない顔で私を見た。やはり内装を見回してしまったのがよくなかったのだろうか。

「ご、ごめんなさい」

「や、ちょっと手違いで一部屋しか取れてなくて満室ってことなんだけど、どうする?」

 ギルはものすごく言い辛そうに言って、私は首をかしげた。別に怒っている訳ではないらしい。そこで私はようやく気付く。我ながら全然考えていなかったことに驚くが、確かに泊まるなら部屋が必要で、普通なら一人一部屋が当たり前だろう。

「え、と、だ、大丈夫です」

 一部屋ということは同じ部屋で寝泊まりすることになる訳だが、多分大丈夫、だと思う。というかそれ以外の選択肢があるのだろうか。

 ギルは苦悩しているのか小さな声でうめく。

「や、そう言ってもらえるのは助かるんだけど、いいの? 本当に」

「いいです、けど」

 ふと疑問が沸いて私は続ける。

「嫌だって言ったらどうするんですか?」

 ギルは更にうなって額に手を当てる。

「別のとこ探す」

「嫌じゃないです、大丈夫です」

 私は慌てて言って、ギルはうなりながらもようやく受付の羽ペンを取った。

 受付を終えるとやはりフロックコートの男性が部屋まで荷物を運んでくれた。

 案内された部屋は入って正面にドレープしたカーテンのかかった窓があり、淡いピンク色の絨毯に焦げ茶色の調度品、小さな薔薇模様がストライプになった壁紙で可愛らしい内装だった。チェストの上には薄ピンクと黄色の薔薇がいけてある。案内されて気付くが一人部屋なので当然ベッドが一つしかなかった。二人でも寝られる大きさだが、ギルはソファで寝ると言いそうだった。

 フロックコートの男性が説明を終えて出ていくと、ギルは息をついた。

「ごめん」

 口調ははっきりしているがギルはばつが悪そうな顔で私の目を見ない。

「何がですか?」

「部屋取りそこねたの」

「大丈夫なのでギルも気にしないで下さい」

 言うと、ギルは自分の赤い髪をかき混ぜた。

「いや、別に俺はいいんだけど。ってアリアにはよくないけど、何ていうかその、いいとこ見せたかったんだよ。けどやっぱ慣れないことするもんじゃないな」

 ギルは恥ずかしいのかまくし立てるように言って部屋の奥へ歩いて窓を開けた。ふわりと外の花の香りが風に乗って入ってくる。

 何だか、ギルはこういうことに慣れているのだと思っていた。エスコートもそうだし旅行自体にもだ。

「旅行あんまりしたことないんですか?」

 私は窓の外を見ているギルの隣へ歩む。ギルは私を見て、恥ずかしいのかすぐにまた窓の外を見た。

「ほとんどない。というかブリューテ・ドウタに入ってからは初めて。相手もいなかったし」

 確かに軍人という職業柄旅行に行くことはまれだろうし、情勢を考えれば今も旅行に行っている場合ではないかもしれない。けれどそれよりも相手という単語の方が気になった。一瞬シディはと言いそうになったが、本人が違うと言っていたから聞いたら怒られると思った。けれどギルは私よりずっと長く生きているから、今までに好きになった人が他にいても不思議ではない。聞きたかったが何と聞けばいいのか分からなかった。それに少し胸にもやがかかったようになる。

「よし」

 ギルは吹っ切れたのか強いまなざしを私に向ける。

「海行こう海」

 私は勢いに押されて頷いていた。昔好きな人がいたのか、聞くタイミングを逃してしまったがどちらにしろ勇気がなくて聞けなかったから変わらない。私は疑問を胸にしまいこんで、窓から離れていくギルを見つめていた。


 海は洋館から歩いて十分程で、防波堤という石壁のようなものを下ると見えてきた。

 海へ行く、と言われたが海とは眺めるだけのもののようで特別な準備は必要なかった。最近は泳ぐという遊びもあるらしいが、はしたないという理由で上流階級の人々は実践せず、泳いでいるのは新しいもの好きか漁師くらいだとギルに説明された。

 やはり昼になって空に雲はあるものの太陽が出ていてかなり暖かくなってきていた。海の手前には白い砂地が広がっていて、足をとられて転びそうになるとギルが腕をつかんでくれた。慣れていないかかとの高い靴なので歩き辛く、何より靴の中に砂が入る。

 立ち止まると、誰もいない砂の向こうはただ海が広がっていて海面は確かに絶え間なく動いていた。透明な水が打ち寄せる音と共にこちらへ来ては向こうへ戻っていく。海は遠くの方は青色なのに手前になるにつれてどんどん透明になっていた。不思議な光景だった。

「すごいですね」

 隣のギルを見上げると、満足そうな顔で微笑んでいた。

「そうだな」

「何でずっと動いてるんでしょうか」

 私が海面を指差すとギルは小さな声でうなる。その合間にも海がたてる音が規則的に続いている。

「風が吹いてるからとかじゃなかったっけ」

「でも今吹いてないです」

「向こうの方では吹いてるんじゃないか? ってごめんよく分かんない」

 ギルは海の彼方をさしてから頭をかいた。

「あ、でも舐めるとしょっぱいよ、水」

 思い出したように付け加えられて、私は首をかしげた。

「しょっぱい、ですか?」

「舐めてみたら分かるよ」

 私が海とギルを交互に見ると、ギルは私の手から鞄を取ってくれた。行っていいということだろう。私は恐々海の側まで近付いていった。

 海面に触れるには水がこちらに来ている時でないといけないが、水がやってくる距離は一定ではない。ここまでは来ないだろうというところにいたら突然水が迫ってきて慌てて後ろに下がる。逆にここなら来るだろうと思ったところに手を伸ばすと、全く届かないで引いていってしまう時もある。

 しばらくして吹き出す声が聞こえてきて、振り返るとギルが笑っていた。

「笑わないで下さい」

 恥ずかしさから言い放つとギルは笑いながらごめんと言った。

「や、可愛いなと思って」

 本気で言っているのか冗談なのか分からない。けれど顔が熱くなる。

 ギルは私に手招きして鞄を渡すと、靴下を脱いでスラックスの裾をまくり始めた。そのまま海の方へ歩いていくと、水が来るのも構わずに進んでいき、右手を海の中につけた。

 戻ってきたギルはすぼめた手の平を私にさし出した。

「はい」

 右手の平に透明な海の水が少しだけすくわれている。これは飲んでいいということなのか、舐めていいということなのか。でもどちらにしろ恥ずかしくないか。そこまで考えて、別にギルの手から直接飲んだり舐めたりしなくていいと思い至った。何を考えているのか、私の頭の中の方が恥ずかしい。

 私は赤くなっているだろう頬を悟られないように祈りながらギルの手の中に指をつけて海の水を舐めた。

「しょっぱいです」

「だろ?」

 嬉しそうに言うギルが子供のようで少しおかしい。

「何でしょっぱいんですか?」

 途端にギルは嬉しそうな表情を消して小さくうなり始める。

「底の方から何か溶け出してるんじゃ。って、いや、よく分かんない」

 ギルは腕組みをしたが、すぐに諦めたのか脱いだ靴の側で足の裏をはたき始めた。ああそうか、濡れたから白い砂がくっつくのだ。私は鞄からハンカチを出してギルにさし出した。ハンカチもいつもの訓練用の白無地ではなくて、ちゃんとレースの縁取りで花の刺繍が入っている。これは借り物ではなくて私の数少ないよそゆき用の品だった。

 ギルはハンカチを見て微笑んで、自分のスラックスのポケットから白い四角い布、ハンカチを出した。

「あるから大丈夫。それにはたけば落ちるし」

 考えてみればハンカチは携行品だから持っているのが普通だ。私は頷いてハンカチをしまった。慣れないことをしたのと、普段なら気付きそうなことに気付かないくらい舞い上がっているのかと思って、また顔が熱くなる。うずくまってしまいたいがそんなことをしたらドレスが汚れるのでできない。私が心の中でうめいている間にギルは靴をはき終わってスラックスも元の通りに直していた。

 しばらく私は寄せて返す水と追いかけっこをしてから、ギルに「そろそろ行く?」と尋ねられた。私は海を振り返って目に焼きつけるようにしてから頷いて返事をした。街道の方へ歩き出すギルに追いつくと、ギルは言い辛そうに何度か短く声をあげる。

「あの、さ、楽しい?」

 海は新鮮で、もちろん楽しかったのだが私は考えて数秒黙りこむ。

「楽しくないって言ったらどうするんですか?」

 ギルの表情が目に見えて動揺して、更にそれを隠すように苦い顔になる。

「えと、うん、そしたらもう少し考える」

「嘘です。海も楽しかったしギルと一緒にいたら楽しいです」

 思ったより深刻に捉えられてしまって私は慌てて言葉を重ねる。ギルは驚いたように表情を固めて私から顔をそらした。その頬から耳までが赤く染まっていったのは多分気のせいではない。ギルはしばらく無言で歩いていたが、何か吹っ切れたような声をあげて私の頭に手を置いた。

「そういうこと言うな。可愛いから」

 恥ずかしかったのか早口で言って、私は頭を抱き寄せられた。一瞬何が起こったのか分からず、理解してすぐに体から顔まで熱が上ってきた。

「え、う、あの、ギル、人が」

「いや、人いないし」

 確かに見渡しても白い砂浜には誰もいない。街道は海より高い位置にあって防波堤で囲まれているので向こうに人がいたとしても分からない。

 どうしていいのか分からずじっとしていると余計に頭に熱が上ってくる。仮にも外なのだから離れた方がいいのではないか。そう思ったら髪を撫でたギルの指が耳に触れて体が勝手に跳ねた。ギルも驚いたのか手を離して私を見ると、吹き出して困ったように微笑んだ。

「ごめん」

 私は曖昧に頷いて不自然にならない程度にギルから離れた。

 ギルが歩き出して私は熱を持った体のまま、そういえば昔好きな人がいたのか聞いてみればよかったと思った。


 海に行った後は街に出てお店を見て回った。外に出るのが初めてだから比較はできないのだが、石畳の通りに立ち並ぶ背の高い建物の間をたくさんの人が行き交っていたから、栄えている街なのだと思う。戦争中という雰囲気もあまり感じられず、ドレスの婦人やスーツの紳士が談笑しながら歩いていた。

 私とギルも既製服の店や硝子細工の小物が置いてある店を回った。主に私が夢中になり、ギルをほったらかしにしてしまって何度も謝ったが「女の子の買い物ってこういうもんだろ」と笑われた。女の子扱いされたのが気恥ずかしくて頬が熱くなると同時に、やはりギルは昔好きな人がいたのだろうという思いが強くなる。けれど何も聞けないまま、街を散策し終えた頃には夕方になっていて、洋館に戻って夕食をとった。

 程よく照明が落とされた室内で私とギルは丸テーブルに向かい合わせに座る。ワインが出たが私はすぐジュースに変えてもらってしまった。

 テーブルマナーはいつも通りで正しかったと思うが、緊張していたのが伝わったのだろう、ギルと目が合うと笑われた。

「別にここそんなに堅苦しいとこじゃないよ。皇舎の晩餐会の方がよっぽど、って俺出たことないけど。ある?」

 私は首を振った。今なら何となく分かるが、やはり陛下は私という存在を秘匿しておきたかったのだろう。公の行事に出たことは一度もなく、私の世界は皇舎の離宮が全てだった。

「泊まってる人に執事とか女中ついてないだろ? だからちょっとお金に余裕のある人が来て、貴族とかは来ないよ」

 貴族は皇舎にも住んでいるはずだが、居住空間が分かれているので会ったことがない。

「もうちょい堅苦しいとこの方がよかった?」

 ギルが笑いながら言うので私は首を振った。

「ここがいいです。薔薇がとても綺麗なので」

 私はテーブルの端に目をやる。今も橙色の照明の元、真紅の薔薇が一輪挿しに飾られている。

「ああ、うん。好きかなと思って。先輩とかの評判も」

 言いかけてギルは気付いたように言葉を止める。

「や、今のなし」

 私は首を傾げる。

「何ですか? 評判も?」

「いやいやいや、何でもない」

 あまりにもギルが拒絶するので私は食事の手を止めた。ふと私の中に嫌な予感が繋がる。もしかして、昔来たことがあるのだろうか。誰か、好きな人と。

 そう思った途端、喉がつかえたようになって料理の味が分からなくなった。鮮やかに見えた薔薇でさえも色あせたようになっていく。この気持ちは何なのだろう。ギルに昔好きな人がいたからといってどうなるのだ。今は関係ないと思っても心に刺さったものは簡単に取れそうになかった。

 食事の間私はギルの話に曖昧な返事しかできず、早々に二人で部屋に戻ることになった。けれどそういえば、同じ部屋なのだった。少し一人になりたかったが、文句も言えないし言える立場でもない。

「疲れた?」

 部屋に入るとギルは心配そうな顔をしていた。「少しだけ」と答えて私はダイニングテーブルの椅子に座る。

「あの、さ、シャワー先使っていいよ」

 ギルが意を決した様子で言ったので、何かと思ったが恥ずかしかったのだろう。私もつられて少し恥ずかしくなるが、別に変なことをしようという訳でもない。

「ギル、先使っていいです。後に人が待ってると気になるので」

「え、あ、うん。じゃあそれなら先使うけど」

 ギルはやり辛そうに部屋の中を歩いて、荷物から着替えを出し始める。やがて着替えを持って私の前を通っていった。

「じゃあ、お先に」

 私は返事をして、洗面所に入っていくギルを見送った。

 私は息を吐き出して、机に視線を落とした。こんなことでギルを不快にさせてしまうのはよくない。けれど、心に引っかかったものが取れない。自分でもどうすればいいのか分からない。

 とりあえず落ち着いた方がいい、何か違うことをしようと思って、席を立つ。持ってきた小説でも読んでいればいいだろうかと思って、部屋のすみに置いた自分の荷物の方へ歩いていったら、ギルのトランクの口から何かはみ出していることに気が付いた。着替えの出し忘れだろうか。何気なく視線を向けると、どうやら革張りの本のようだった。小説だろうか。

 私はトランクの側にしゃがみこんで黒い革張りの背表紙をのぞきこんでみる。表紙からはタイトルが見えなかったからだ。金色の文字で書かれた題名を見た時、私は息が止まったようになった。

『黒の鳥』

 背表紙にはそれだけ書かれていた。

 私は黒い革張りの本を見つめたまま、立ち上がれなかった。別にギルがどんな本を読んでいようと、それはギルの自由だ。けれど、忘れていた。私は黒の鳥なのだ。噂の広まった皇舎で受けた視線を思い出す。好奇心、蔑み、恐れ、様々なものが混じっていた。まわりがいくら普通に接してくれていても、私は世界にとってはただ脅威である存在なのだ。

 どれくらいそうしていたのか、洗面所の扉が開く音で私は驚いて振り返った。お風呂上がりでワイシャツにスラックス姿のギルが不思議そうな顔でこちらを見つめていた。

 私はゆっくりと立ち上がった。脚が痺れている気がした。多分、何も見なかったことにした方がいい。けれど。私の中に生まれた言葉はもう消すことができなかった。

「ギル、私が怖いですか」

 小さな声で尋ねると、ギルは怪訝な顔をして私の側へやって来た。立ち止まり、トランクに視線を落として、私を見つめた。

「本、見たの?」

 責めるような顔付きではなく、怪訝そうな顔のままだった。それでも私は怖くなってギルから目をそらした。

「タイトル、だけ」

 沈黙が続いて、ギルが呟く。

「怖くないよ」

「けど、私のこと調べようとしてたんじゃないんですか」

 叫ぶような口調になっていた。ああ、違う。こんなことを言っても何の解決にもならないのに。

「調べようとはしてたよ。アリアを少しでも楽にする方法がないかどうか」

「ギル、本当に私のことが好きなんですか」

 ずっと抑えていたものが溢れ出してくる。これ以上は言ってはいけないと思っていても、止まらない。

「昔好きになったのは普通の人だったでしょう? だから本当は今も、私じゃなくて普通の人を好きになりたかったんじゃないんですか」

 叫んでいた。治まっていたと思っていた感情が吹き出して涙が溢れてくる。なんてみっともない。

 私は嫌なのだ。過去ギルが誰かを好きになったことが、今ギルが離れていってしまうのが。これが好きではなくて何なのだろう。やっと自覚できた感情は恋愛小説のように綺麗なものではなかった。私の好きは歪んでいる。

 ギルが動いて、私は身構える。見上げると、涙の中でギルは明らかに冷たい目で私を見下ろしていた。少しだけ、戦闘中の容赦ない表情を彷彿とさせた。

「あのさ、好きって、人を選んでから好きになれるって思ってんの?」

 言い返せなかった。少なくとも私は違った。

「アリア全然俺のこと信用してない」

「だってギルが隠しごとするから」

 叫んだ。私が悪いのも分かっていた。けれど言われっぱなしでは気が済まない。

「いつ?」

「夕食の時何か言いかけてやめたし、本当はここにだって前誰かと一緒に来たことあるんじゃないですか」

 言っている内に感情が昂ぶってきて、語尾が涙声になって消える。私はしゃくり上げて目元から落ちていく涙を拭った。

 ギルは思い出したのか小さな声を漏らして、続けてため息をついた。

「そういうことか。ああもう何でだよ、馬鹿」

「馬鹿じゃないです、ふざけないで」

 叫んで私はまた泣き出した。頭の上にギルの手が置かれたが思い切り振り払った。私の泣く声が耳に響いて、ギルの衣擦れの音が聞こえた。

「ごめん」

 その声からもう険しさは感じられなくなっていた。

「じゃあまず一つ目、ここ来たのは初めて。ていうか旅行はブリューテ・ドウタに入ってから初めてだって言っただろ。ちなみに誰かと付き合ったこともない」

 私はゆっくりとギルの言葉を頭の中で反芻する。確かに旅行はブリューテ・ドウタに入ってから初めてだと言われたのを思い出した。どうしてそんな思い違いをしたのだろうか。

「で、二つ目。旅行なんて初めてだったから先輩とかに泊まるとことか見るものとか色々聞いたんだよ。アリアの前でいいとこ見せたかったって言っただろ? だからそういうの言いたくなかったんだよ」

 まあ結局部屋取れてなかったりした訳だけど、とギルはふれくされた顔で独り言のように言う。

 もしかして私は一人でものすごく勘違いをしていたのだろうか?

「あの、付き合ったこと、ないって」

「ていうかブリューテ・ドウタ女性三人だろ。しかも最近までガゼルしかいなかったし。一般兵にしても女性率低いし接点もないし。たまに言い寄られることはあったけど」

 最後の方は言い辛そうにギルは目をそらす。

「とにかく。アリアが思ってるようなことは何もないよ。分かった?」

 言い聞かせているのにわずかに不安そうな顔をしているギルを見たら、涙が溢れてきて私は下を向いた。

「何で泣くんだよ」

 珍しくギルの声は狼狽していた。

「何でもないです、ほっといて下さい」

 素直にごめんなさいと言えない。こんなの全然可愛いげがない。

 ギルの足が一歩近付いてきたのが分かって、両頬を包まれると顔を引き上げられた。目の前にギルの顔がある。

「やです、見ないで、離して」

 私はギルの手首をつかむがギルは力を入れているのだろう、まったく動かせない。

「好きだよ」

 突然言われて私は頭が真っ白になる。

「アリアが好きだ。だからそれだけは信じて」

 ああ、どうしてだろう。それだけでかたくなだった心が溶けていく。それだけ、で充分だった。私は泣き声を上げて自分からギルの胸にすがりついていた。

「ごめんなさい、勘違いして、怒鳴ってごめんなさい」

 ほとんど言葉になっていなかったから伝わったかどうかは分からない。ただギルは嫌がりもせず背中を抱きしめてくれた。

「ああもう、泣くな、可愛いから」

 背中を叩かれて余計に涙がこみ上げてきて私はギルのワイシャツを握りしめた。

「あんまり泣いてると襲うぞ」

 ギルの呟きは多分私を泣き止ませるための冗談だったのだろうが、私の鼓動は速まった。

「襲われてもいいです」

 言ってから、自分でも顔が熱くなる。ギルは驚いたのか少しの間の後、居心地の悪そうなうなり声を上げた。

「や、冗談だから、さすがに」

 雰囲気に流されているだけかもしれない、頭に血が上っているだけかもしれない。けれど違うのだ、私は、きっと。

「ギルのことが好きです。もう分からなくない、本当に好きです」

 ギルが私にとって特別になったように、私はギルにとって特別になりたいのだ。好きだとちゃんと分かった。この温かい気持ちも、ギルを誰かに取られたくないという気持ちも同じなのだ。

 ギルは私の片頬を包みこんで目を合わせた。若干ためらうようなそぶりを見せてから口を開く。

「明日も休みだし邪魔も入らないだろうから嫌だって言ってもやめないぞ?」

 私は少々ためらってから頷いた。ギルはおかしそうに笑って私の頭を撫でた。

「嘘だよ。いいよ嫌だって言っても。俺が残念がるだけだから」

 そのままキスをされて、ギルは本当に温かく微笑んで髪を撫でてくれた。

「好きだよ。好きだ、アリア」

 ずっと、ギルは呪文のように何度も私の耳元で繰り返した。だから、耳の奥にその言葉が残っている。


「アリア」

 呼ばれて私は目を開けた。同じベッドの中、近くで見るギルの金色の目は薄闇の中でも金粉を散らしたように美しい金色だった。いつかも同じように思ったなと眠りに落ちつつある頭でぼんやりと思い出した。

「もしこれから先、何があっても俺がアリアを好きなのは本当だから。絶対に」

 私は頷いて、飲まれていく意識に逆らえずに目を閉じた。ギルが頭を撫でたのを遠くの方に感じていた。

「信じて」

 どうしてギルはそんなに念を押すのだろう。私もギルのことが大好きなのに。答えは出ないまま、尋ね返すこともないまま、私は意識を手放した。


 その翌日、私とギルは皇舎に戻った。何だか全てが夢だったようで、私はふわふわした気持ちのまま数日をすごした。

 けれど全て、現実だった。

 ギルが異形として投獄されたと発表されたのは、その日の朝礼でのことだった。

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